Jul. 17th, 1939, Westchester County, New York.
一時間ほど前、チェルシーのハドソン川沿いにあるタクシー・ガレージから、小生意気な刑事は十年落ちのフォードB型を借りて来た。
今、私はおんぼろフォードのハンドルを握って、古めかしいV8エンジンをパタパタ言わせながら、昼下がりのハドソン川に沿ってニューヨーク市から北へと伸びる連邦国道9号線を走っていた。
この車は最近の車よりも速度が出ないので、時々路肩に寄って、ぴかぴかのクライスラーやビュイックを先に行かせてやる必要があった。この調子じゃ、往復に四時間以上はかかりそうだ。
「ね、あんたってこの街の出身じゃないでしょ?」
一時間以上の沈黙を挟んでから、助手席のちんちくりん刑事は唐突にそう言った。
「カンザスとかネブラスカとか、そのあたりの出身じゃない?」
「ネブラスカよ」
答えてから、ちらりと横目で刑事の様子を窺う。この質問の真意はなんだろう?
「ネブラスカか......なんでニューヨークに出てこようと思ったの?」
「なんでと言われてもね......田舎が嫌だったから。それだけよ」
そう答えつつ、私は相手の出自に思いを巡らしていた。
彼女のニューヨーク訛りは、いかにも地元っ子らしいけれど、生まれ育ちではなさそうだ。たぶんニュー・イングランドのどこか、ボストンとかコンコードとか、そのあたりの出だろう。
それを踏まえて、理由を補足する。
「田舎って言葉じゃ生温いわね......一面のトウモロコシ畑って、想像できる?」
「トウモロコシ畑?」
「そう。東西南北、どの方角を向いても、見えるのは地平線まで埋め尽くすトウモロコシ。平原地帯で山なんてないから、トウモロコシの上には空しかないの」
瞼を閉じれば――運転中だからそんなことしないけれど――簡単に思い浮かべることができる故郷の景色。懐かしくはあるけれど、帰りたいとは微塵も思わない、アメリカの辺境。
「あそこにはトウモロコシしかないの。車で二、三時間移動したら、今度は地平線まで続く麦畑。牛と豚の群れ。ビルと言えば四階建てがせいぜいで、車と言えば五年落ち、十年落ちのフォードT型と、シボレーのトラクターくらい。クラブなんて洒落たものはなくて、ボロいバーに集まるのは純朴を通り越して愚鈍な農夫たちと、野蛮がジーンズを穿いて歩いてるような
借り物のフォードが走るのは、彼の地とはかけ離れて起伏に富み、緑豊かなハドソン川沿いの渓谷だけれど、田舎の記憶を思い起こすのは忌々しいほど簡単だった。
「教養よりも家畜や作物の育て方を学んで、それ以外の事は知らないような男と結婚して、トウモロコシの皮を剥いたりニワトリの世話をしたりして、それに一生を費やすのは嫌だったの。田舎でも映画館はあったし、ジャーナル・アメリカンとかも届くのよ?」
映画や、グラビア印刷の雑誌に描かれる、輝ける大都会。ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルス。そこに住む人々。
「頭蓋骨の中がからっぽの男に頼らなくたって、女が自立できる仕事が、都会にはあったの。タイピストとか速記者とか、秘書とかね。私は興味なかったけれど、ブロードウェイやハリウッドで大成すれば、スター女優として上流階級の仲間入りだってできるわ。そのどれ一つあの町には無かった。だから全部捨てることにしたの」
「ふうん......」
ちんちくりん刑事は"ロスト・ヘブン"の紙マッチを擦り、チェスターフィールドに火を着けた。傍目には、カッコ付けようとしている不良少女、といった感じの見てくれだ。
「でも、都会への憧れは田舎の女の子なら、誰でも一度は持つもんでしょ? 大体は踏みだす前に諦めちゃうけど、あんたは諦めなかったわけだよね。そのきっかけは何だったの?」
「さあね」
私は大げさに肩をすくめて見せた。
「負けん気が強かったというべきか、思い込みが強かったというべきか......とにかく、諦めきれなかったの。だから、なるべくしてなったわけ。きっかけなんてのはたぶん、些細なものだったと思う。よく覚えてないし」
サメ刑事は吊り気味の目を、探るようにこちらに向けてきたけれど、これ以上話すつもりはなかった。
「......あなたはどうなの? あなたもあの街の出身じゃないみたいだけど」
「アタシ? アタシは......」
「あ、待って。ストップ」
自分から水を向けておいてなんだけれど、私は刑事の話を遮った。ハンドルを切り、道端のガソリン・スタンドに乗り入れる。
「ちょっと道を訊いてくるから。ついでに何か、買って来てほしいものとかある?」
まさにフォードから降りようとしていた刑事は、自分が銜えているものに目を留めて、その手を止めた。
「煙草があと一本しかないから、チェスターフィールドがあったらワンパックお願い」
「わかった」
「よろしくね......アメ」
車の外から、私は車内を見返した。
「......いいけれど。あなたがそう呼ぶなら、私もあなたのことをぐらって呼ぶわよ。刑事さんじゃなくて」
「いいよ、それで」
ドアを閉めて店舗の方に向かいながら、私はずっと首をかしげていた。一体いまのは、どういうことなんだろう?
4:10 PM, Callaway Residence, Westchester, New York.
マーク・キャラウェイの実家は、ウェストチェスター郡中部の小高い山の中腹に立つ、クロトン湾を見下ろす石造りの大邸宅だった。
屋敷自体はオランダ領ニュー・ネーデルラント時代に建てられたものらしいけれど、キャラウェイ一族が建てたわけではない。彼らはイギリス領ニュー・ヨークになってからここにやって来て、オランダ本国に戻る元の持ち主から、この
どちらにしても、この屋敷もキャラウェイ一族も、アメリカ合衆国より長い歴史を持っていることは変わらないけれど。
「......というわけで、息子さんが賃借されたアパートメントに向かったのですが、そこで男性の死体を発見したわけです」
その屋敷の
「なんてこと......」
「まだ息子さんだと決まったわけじゃないので」
ちんちくりん刑事改めぐらが小さく咳払いをして、そう口を挟んだ。
「確認を取るために、色々とお伺いしたいんですけど、いいですか」
「ええ......ええ、もちろんです」
夫人は割合早く最初のショックから立ち直った。死体の身許が確定していないという事実が、なんとか彼女の気丈さを支えているようだ。
「死体の損壊が進んでいても、骨とか歯とかはほとんどそのまま残るんです。ミスター・キャラウェイに骨折とか虫歯とか、そういったものの治療歴があるなら、治療を担当したお医者さんと併せて教えて頂きたいんですけど......」
「虫歯でしたら......マーティン先生に診ていただいておりました」
上院議員夫人の回答は、妙に歯切れが悪かった。ぐらもそれを感じ取ったらしく、ジョージ・マーティンとかいう歯科医の住所を書き留めてから、探るような視線を向けて言った。
「他に何か、ありませんか?」
「......ございません」
「ミセス・キャラウェイ、骨が折れたりとかひびが入ったりとか、そういう怪我を治療した痕は、骨に残るんです。一生ね。今回のように人相とか指紋とか、そういうのを判別できない死体の身許を調べる時には、骨とか歯の治療痕をとっかかりにするんです」
キャラウェイ夫人が呑み込むための間を置いてから、淡々とぐらは続けた。
「あなたがご存知でない怪我の治療痕とかがあったとしたら、私たちはそれが何時できたものなのか、特定できるまで調べます。身許確認にも事件捜査にも、重要なことですからね。ですので、」
短く息継ぎを挟んで、
「ご存知のことは全て教えていただきたいんです、マーム。それがミスター・キャラウェイを......発見する大きな助けになるかもしれません」
応接室に恐ろしい沈黙が降りた。
キャラウェイ夫人は鋭い視線でぐらを睨みつけ、一方ぐらの方は、その子供みたいな容貌からは想像できないほど穏やかな目つきで上院議員夫人を見返していた。
私はというと......その二人をテニスの審判よろしく交互に見ていた。口を挟めるような空気では全然なかったし。
「......このことは、一切公表してほしくありません」
耐えがたいほど長かった沈黙は、結局キャラウェイ夫人が自ら破った。
「我が一族だけでなく、他の家の名誉にも関することなのです」
「事件に関係のない事でしたら、もちろんです、マーム」
「あなたもです、探偵さん」
鋭い視線が私の方にも刺さった。
「ここであなたが耳にする事は、先に交わした契約における秘密保持条項によって、当然に保護されると考えます。よろしいですね?」
「結構です、ミセス・キャラウェイ」
決意を固めようとするように、一つ大きく深呼吸してから、キャラウェイ夫人は口を開いた。
6:50 PM, Inwood, Manhattan, NYC
「なんとまあ」
タクシー会社のフォードがハーレム川を渡ってインウッドに入ったところで、しばらく運転に集中していたぐらがぽつりとそう言った。
「
「活発どころか、スキャンダラスもいいとこね」
そう、疑いようもなくスキャンダラスだ。
マーク・キャラウェイはストーム・キング
学校にほど近い
「しかし、男色かあ......」
ブロードウェイと181丁目の交差点でフォードが停まると、私はそう呟いた。
「賭けてもいいけれど、依頼をたらい回しにした弁護士事務所はたぶん、このことを知ってるわね」
「だろうね。たぶん、ストーム・キングでの事件の揉み消しにも噛んでるだろうし」
弁護士事務所――少なくともその担当者――はマークが全然懲りずに、別宅をこっそり借りてまで男色に耽っていることを把握して、それどころか手助けしていたんだろう。
「でも上院議員夫妻は、絶対にそれを許容しないだろうからね。知らんぷりをして、しょぼい探偵に依頼を回したわけだ」
「しょぼいとはなによ」
夕暮れの街を南へと進むフォードの中で、私は不服を申し立てた。
「言っとくけど、あなたのところの失踪人課の人たちよりはマシだと思うわ」
「それはそう。上げ底も見つけられないんじゃね......」
ぐらは、本気でバカにするような口調でそう言ったので、自分で比較しといてなんだけど、失踪人課の人たちがちょっとかわいそうに思えてしまった。
「で、あなたはこの後どうするの、刑事さん?」
「剖検の結果は明日の昼まで出ないからね。今日は帰って、明日の朝に弁護士先生に話を聴きに行くよ。例の二人組が接触してる可能性も高いし」
不動産屋から気取り屋弁護士の話を聞き出した二人組の事だ。
ギルバートによると、彼らはキャラウェイの"
とはいえ......その辺は私の依頼に含まれてはいない。
「そう。頑張ってね」
「何言ってるの、あんたも来るんだよ、アメ」
「ええー?」
私は思いっきり顔をしかめて、ぐらの方を見やった。
「あのね、私が受けた依頼はミスター・キャラウェイを見つけることなの。あのぐずぐずの死体がマークなのかはまだわからないんだから、他の線を追っちゃダメなの?」
「他の線があるの?」
そんなものはない。ゆえに、私は黙り込んだ。
「あんたの家まで迎えに行くからね、アメ」
「わかったわかった、好きにして......」
自宅と事務所の住所はどちらも、私立探偵の営業免許を見せた時に割れている。
「じゃ、今日はこのまま送ってくよ。ビレッジだったよね?」
「......いえ、イースト・ビレッジの方にお願い。アルファベット・シティで」
7:15 PM, East Village Loan and Pawn Shop, Alphabet City, NYC
「男色家の
曇った真鍮の格子の向こうから、ポルカは眉根を寄せながら訊き返してきた。
ちょうど閉店するところだったので、カウンター・デスクの向こう側には、手回し式卓上計算機や質札の束や、分厚い帳簿が散らかっている。古めかしいレミントン・ランドのタイプライターは、脇の方に押しやられていた。
「名前が知りたいの」
「名前ねえ......そんな連中、ばっちい界隈に行けばごまんといるぞ。バード
悪い悪い、と全然悪いと思ってなさそうな顔と声で、ポルカは謝った。その仕草が妙にぐらを彷彿とさせて、私は一瞬戸惑う羽目になってしまった。なんで私、あんなやつのことを意識してるんだろう?
なんとか生意気な刑事の顔を頭から締め出して、意識を目の前の質屋に戻す。
「彼らはひょっとすると、上流階級の人と"関わり"があるかもしれないの。それならどう?」
「上流階級ねえ。具体的には?」
「......この州の、さる名家の長男、とだけ」
ポルカは何も言わず、格子の向こうから私の方をじっと見つめていた。
でも、私だってバカじゃない。それが人を不安にさせ、いたたまれなくして自らもっと喋るように仕向ける
結局ポルカは、私が口を開かないとみるや早々に諦めて、自分の椅子から立ち上がった。
「そこで待ってな」
そう言い残して、質蔵に続く金庫扉とは別のドアを開け、奥の事務室へと消えた。
Jul. 18th, 1939, Thomson Susdorf and Schyster, Upper East Side, NYC
「がうる・ぐら刑事、NYPD」
トムソン・サスドーフ・アンド・シャイスター法律事務所は、カーネギー・ヒルの少し南のマディソン・アヴェニュー沿いに建つ、
「こちらにお勤めのミスター・メルビンのことで......」
「ええ、伺っております」
眉間にしわを寄せて、ぐらがこちらを見た。困惑しているような表情だ。受付嬢はそんなぐらを意に介さないようで、淡々と続ける。
「そちらのエレベーターで四階へどうぞ。シャイスター先生の秘書が応対いたします」
「ど、どうも」
黒い小洒落た制服姿のリフトマンが運転するエレベーターで四階へと上がると、シャネル・スタイルのレディース・スーツに身を包んだ女性が、私たちを待っていた。
「警察の方ですね?」
「そうです」
「シャイスター先生にお伝えしてまいります。こちらでお待ちください」
ソファや肘掛椅子がいくつか置かれている、待合室らしい部屋に通されると、秘書はそう言い残してさっさと出て行ってしまった。
部屋には他に誰もいなかったので、私はぐらに、さっきの困惑顔の理由について訊いてみることにした。
「ねえ、ぐら、さっき困ったような顔してたでしょ」
「へ? ああ......アタシ、事前にアポとったりはしてないはずなんだけど」
「受付の人は、"伺っております"って言ってたわね」
明らかに、警察から事前に連絡があったって感じの応対だった。
「事前に連絡があったとしたら、それは......」
待合室のドアが勢いよく開いて、ぐらが言葉を切った。
「くそったれ、こりゃ一体どういうことなんだ」
部屋に入ってきたのは、グレーのくたびれ切った背広に身を包んだイタリア訛りの大男だった。見たところ五十代の後半くらいで、緑がかった安葉巻を銜えている。
ぐらがぱっと肘掛椅子から立ち上がって、そのおっさんの方に歩み寄って言った。
「カッソ刑事」
「あ? お前、第7分署風紀課のサメガキか。こんなところで何してやがる」
「もう金バッジだよ。第14分署刑事課。ここに勤めてるトム・メルビンに、話を聞きに来たんだけど」
「ああ。それならお前さん、ベルビューに行くべきだな。もっとも、行ったところで何も喋っちゃくれんだろうが」
「そいつなら昨日、水死体で見つかったよ」