Bad Apple   作:Marshal. K

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The Stamp-Ralley

 Oct. 25th, 1943, Amelia's Office, Midtown South, NYC

 

 その日はもう店仕舞いにしようとしていたところだった。電話はチンとも鳴らず、懸案の依頼などもなく、依頼人が来る約束もなく、オフィスで暇を潰しただけの一日を終え、まさに事務室から出ようとしたところで電話が鳴った。

 一瞬私は戸口で、このまま出て行くか電話を取るべきか悩んだ後、部屋に戻って受話器を取り上げた。

 

「はい、こちらワトソン探偵社(エージェンシー)です」

"こんばんは、アメ"

 

 電話の向こうから聞こえてきた声はまだ見ぬ依頼人ではなく、とても聞き覚えのある声だった。

 

「ハイ、アイリス。この時間は忙しいんじゃないの?」

 

 時計はもうすぐ六時を指そうとしている。ジャズ・クラブの支配人なら、どんどん忙しくなってくるはずの時間帯だ。

 

"いやあ、ちょっとアメに頼みたいことができちゃってね。これから会える?"

「いいわよ、ちょうどオフィスを閉めようとしてたところだったし。"ロスト・ヘブン"に行けばいいのね?」

"いや、私のアパートメントに来てほしいかな"

「私は構わないけれど。この時間帯にお店を空けて大丈夫なの?」

"この話をお店でする方が大丈夫じゃないから。私の家はわかる?"

「いいえ」

 

 アイリスが教えてくれたのは、レノックス・ヒルのパーク・アヴェニュー沿いの住所だった。ぐらのアパートメントの、一つ北の街区(ブロック)だ。

 

"どの建物かわかる?"

「わかるわ。あの辺りにはよく行くから」

"ああ、そう言えばあなたのガール・フレンドが72丁目の角に住んでるんだっけ。ごめんごめん"

 

 それは聞き流して、一言だけ言い置いて電話を切った。

 

「じゃあ、ニ十分くらいで行くから」

 

 

 

 6:15 PM, IRyS's Apartment, Upper East Side, NYC

 

 アイリスのアパートメントは、呆然とするほど広かった。この建物は元々、各アパートメント・ユニットがワンフロア丸ごと使っている造りだってことは知っていたけれど、アイリスのアパートメントはさらに上下の階を螺旋階段で繋いでワンユニットにしているらしい。

 私が通されたのは上階側の居間だった。アンティークの調度品に囲まれたその部屋は、いつか侵入したプラザ・ホテルの最高級スイートの応接室に勝るとも劣らない豪華さだ。なんなら単純な広さはこっちのほうが上かもしれない。

 

「ねえ、このアパートメントって何部屋あるの?」

 

 勧められた葉巻――リングにはオランダ東インド会社の紋章が描かれている――に火を着けてから、純粋な興味でそう訊いた。

 

「寝室は四部屋だよ。下に主寝室(マスター・ベッドルーム)客用寝室(ゲスト・ベッドルーム)が三つ。それからそこの厨房の奥に執事室(バトラー・ルーム)があるね」

「執事さんがいるの!?」

「今は外してもらってるけどね。ここはぐらのところと違って、ルーム・サービスが無いから」

 

 さらに説明してもらったところによれば、この階には居間の他に食事室(ダイニング・ルーム)と厨房、書斎、娯楽室(ゲーム・ルーム)映画室(ホーム・シアター)があるらしい。

 

「郊外の豪邸みたいなラインナップね......」

「これでも評議会(カウンシル)のメンバーとしては、一番狭いところに住んでるんだよ、私」

「はー......」

 

 天井から吊られている壮麗なシャンデリアを眺めながら、私は紫煙混じりのため息を吐いた。永遠に手が届かない世界だ。

 

「本題に入りたいんだけど、いい?」

「おっと、ごめんなさい」

 

 ふかふかのソファの上で座り直して、自分を仕事モードに切り替える。おうち探訪に来たわけではないんだった。

 

「あなたに頼みたいことがあるの、アメ......と、その前に一つ、正直に答えてほしいんだけど」

「なに?」

「あなた、ヤミの配給通帳(レーション・ブック)って買ったり使ったりしたことある?」

「イエス、って答えたら逮捕したりしない?」

「流石にしないよ」

 

 どことなく諦めを含んだ笑みを浮かべて、アイリスは続けた。

 

「ヤミの配給通帳とか、親戚知人から貰った配給切符(スタンプ)綴りとか、そういうのを使ったことがある人を片っ端から逮捕してたら、この街を刑務所に作り変えなきゃいけなくなっちゃう」

「ええ、あるわ」

 

 真珠湾攻撃と日本への宣戦布告を受けて、第50議会は1942年1月30日、1942年緊急物価統制法を制定。砂糖に始まって、農産品以外の様々な食料品や日用品に配給制が敷かれた。来月からは新たに食肉、獣脂、乳製品、加工食品、暖房用の薪と石炭などが統制対象になる布告が出ている。

 これらの品目を購入するには、統制価格分のお金と一緒に、必要点数分のスタンプがいる仕組みだ。スタンプの綴りは配給通帳として、月末に各家庭へ発行される。通帳一冊当たりの食品や衣類のスタンプの数は、その家庭の構成人数によって変わるけれど、燃料や機械類なんかは家庭単位で統一されている。自動車用のガソリンやタイヤのスタンプは、"自動車を使う正当な理由"が承認されなければ発行さえしてもらえない。

 

 そんな不自由な戦時経済の中では当然の結果として、違法に売却されたり偽造されたりした配給通帳が、ヤミ市によく出回っていた。そもそも配給通帳やそのスタンプは作りが粗雑で、ドル紙幣や郵便切手に比べて偽造しやすいらしい。

 他ならぬ私も去年、バワリーのヤミ市に何度か出向いて偽造スタンプを買ったことがある。余分なゴム長靴とナイロン・ストッキングを購入するためだった。どちらも物資不足で、その年の必要配給点数がとんでもなく高く設定されていて、通常の配給分ではとてもじゃないけど足りなかったんだ。

 

「まあ、あるよね......そのヤミ配給通帳だけど、誰が流通を仕切ってるか知ってる?」

「どうせクロニーでしょ」

「あたりー」

 

 それ以外には考え付かない。少なくともこの街において、他の人間がそんな美味しい商売をしようとしたら、クロニーから制裁を食らった上で横取りされるに決まっている。

 

「印刷してるのはムメイのところだけどね。ただ、誰もがヤミ配給通帳のお世話になっている以上、これでおおっぴらにクロニーを糾弾したって、国民の支持は得られない」

「それはそうでしょうね」

 

 戦時の経済統制が必要だって言うのはわかる。配給制になっていなかったら、今頃は必要配給点数じゃなくて物価そのものが、とんでもない値まで跳ね上がっていたことだろう。

 とはいえ、この寒い街ではナイロン・ストッキング、ゴム長靴、石油ストーブや灯油なんかは冬の必需品だ。買えなかった、で済ませられるものじゃない。みんな内心では、配給通帳を偽造してる人間にちょっとだけ感謝しているんだ。

 

「だから、クロニーにはもっと悪いことをしてもらう。具体的には、物価統制事務所から発送前の配給通帳を盗んでもらう。正規の通帳の発送が遅れれば、ヤミ通帳がよく売れるでしょ?」

「ええ......? そんなストレートに国民の反感を買いそうなこと、クロニーがするとは思えな......まさか」

 

 いやな可能性に思い当って、私は椅子の上で身を引いた。私を呼びつけてこんな話を聞かせる理由は、一つしか思いつかない。

 アイリスはにんまりと口の端を吊り上げて、蘭印葉巻の煙をぷかっと吐いた。

 

「そうだよ、アメ。あなたが盗むの。あなたが盗んで、クロニーに押し付けるんだよ」

「やっぱり......」

 

 私はがっくりとうなだれた。連邦施設に押し入り強盗に入る上に、それをこの街最大のマフィアのボスに擦り付けろなんて、二匹のガラガラヘビを同時に踏まされるようなものだ。

 

「泥棒の方については心配しないで。協力者を用意してあるし、あれこれ手引きしてあげるから」

「クロニーの方は?」

「それを考えるのも、あなたの仕事だよ、探偵さん」

 

 葉巻の煙とともに盛大な溜め息を吐く私を見て、アイリスは面白そうに笑い声をあげた。

 

 

 

 7:35 PM, Battery Park, Downtown Manhattan, NYC

 

 戦時中でなければライト・アップされているはずの自由の女神像は、灯火管制によってニューヨーク湾にそびえる大きな影となって、夜の闇の中に沈んでいた。湾内を行きかう船の明かりが、時折申し訳程度に彼女を照らしている。

 

「遅い......」

 

 十五分前には来ているはずの待ち人がなかなか現れず、私は思わず声に出してそう呟いた。

 夜のバッテリー公園には、デートの最初のセットとしてそぞろ歩きを楽しむカップルたちがいて、私が座っているベンチのある遊歩道を行き来していた。彼らの片割れはほとんどが帰休兵たちだ。先月イタリアが降伏したので、本国への帰休を許されたらしい軍人たちが増えていた。

 ちびたキャメルを地面に落とし、靴で踏んで揉み消しながら、彼らのどれくらいがこのまま幸せになれるんだろう、と考える。ドイツと日本は依然として戦争を続けているから、一か月もすれば彼らはヨーロッパか太平洋に送り帰されることになるだろう。次に帰って来れるのはいつだろうか。そもそも無事に帰ってくることができるのだろうか? 帰ってきた時に、彼女たちは彼らのことを忘れずにいるだろうか。

 頭を振って、軍服地のコートからキャメルのパックを取り出した。私には関係のない事だ。

 

「あ......」

 

 煙草を振り出すと、それが最後の一本だった。半分ほど残っていたはずだったけれど、この待ち時間の間に全部喫ってしまったらしい。

 

「ちぇっ、早く来てくれないと、本格的に手持ち無沙汰になっちゃいそう」

 

 パックを握り潰して放ると、くしゃくしゃになった紙の塊は放物線を描いて、夜の川へと消えていった。

 

 

 

 

 

 最後の煙草を喫い終わってすぐ、黒いコートに身を包んだ初老の男がやってきて、私の隣にどっかりと腰を下ろした。ヘリンボーンの大きくて暖かそうなコートだ。たぶんブルックス・ブラザーズあたりの品で、どう安く見積もっても80ドルはする。

 彼は懐からラッキー・ストライクのパックを取り出すと、ふと私の方に目を留めたって感じで言った。

 

「煙草を一本、いかがですか」

「いただくわ」

 

 やっとか、とは口に出さず、パックを受け取った。とんとん叩くと、紙巻煙草ではなく同じくらいの太さに巻かれた紙切れが出てくる。それを取ってポケットに突っ込むと、改めて一本取り出して銜えた。

 

「火をどうぞ」

「あら、ありがとう」

 

 差し出されたロンソンの火を煙草に移し、パックを返して一服する。

 

「......ボイラー係って連中は不真面目でしてな。何度注意しても、石炭シュートのハッチに鍵をかけ忘れるんです」

「それで、どうするの?」

「今晩8時に呼び出して、小一時間くらい説教をしますよ。そうでもしないと、怒られるのは私ですからな」

 

 愚痴を言うだけ言って男は立ち上がり、自らも煙草に火を着けながら、遊歩道を歩いて去って行った。

 私はその場に残って、紙切れをポケットから出すと、穴が開くほど見つめた。何度も何度も繰り返し読んで、間違いのないように暗記する。

 ラッキー・ストライクが短くなってくると、紙の端っこをその火口に押し付けた。ぱっと火が上がって燃えだした紙切れを片手の上に乗せて、もう片方の手で川の風から守ってやる。頃合いを見て地面に捨てると、灰と燃えかすは軽い風に巻き上げられて、公園のどこかへと飛んで行ってしまった。

 私はそれを見送ってからベンチから立ち上がり、遊歩道を横切って柵に歩み寄ると、真っ黒な女神像の方に向かって吸殻を投げ捨てた。

 

 

 

 8:03 PM, The United States Courthouse, Foley Square, NYC

 

 フォーリー広場から、新古典主義(ネオ・クラシック)高層建築の連邦裁判所庁舎とマンハッタン行政ビルに挟まれたセント・アンドリューズ広場を少し東に行き、聖アンデレ・ローマカトリック教会と連邦検事局庁舎に挟まれた狭い路地――カーディナル・ヘイズ(プレイス)なんて大層な名前が付いているらしい――を少し北に行けば、そこに連邦裁判所庁舎の裏門がある。

 この庁舎はニューヨーク南部連邦地裁や第2巡回区連邦控裁の他に、司法省の地方支部を初めとしていくつかの連邦政府の地方機関が入居していた。ニューヨーク州南部を担当する物価統制事務所もその内の一つだ。

 鉄格子の門扉の高さは大したことなく、カーディナル・ヘイズ街の人通りもほとんどなかったので、私は悠々と裏門を乗り越えて敷地内に侵入した。

 

「えーっと、あっちがトラック・ゲートで、拘置室があっちで......あった、石炭シュート」

 

 緑色のハッチはしっかり閉ざされていたけれど、取っ手をひっぱると簡単に開いた。果たして本当にボイラー係の不注意なのか、あの協力者――たぶん警備を担当する連邦保安官事務所の人間だろう――の仕業かはわからないけれど。

 中に入ってハッチを閉め、傾斜のきついシュートを降りると、むっとした熱気に包まれた。たまらずコートを脱いで腕にかけ、道を進む。

 山積みにされた石炭の山を下ると、そこはボイラー室だった。暖房用の蒸気を作るために、巨大なボイラーがごうごうものすごい音を立てていて、耳がおかしくなりそうだ。

 

「ボイラー係は......いないみたいね」

 

 夜通し石炭をボイラーの投げ込む係は見当たらなかった。今頃上の方の階で、長々としたお説教を受けているんだろう。

 ボイラー室を出て鉄製の階段を地下二階に上がると、タイル張りの廊下を抜けて階段室に入り、二階を目指す。アイリスによればそこに物価統制事務所の製冊室があり、印刷局から送られてきたスタンプ綴りと表紙裏表紙などをそこで通帳に製冊して、下のトラック・ゲートから各地の配給委員会に配送するらしい。

 そしてそこの金庫には、来月から発行される四号配給通帳の、製冊待ちのスタンプ綴りが保管されているそうだ。これの配送が滞れば、11月からお肉や脂や、薪や石炭に必要になる新しいスタンプが手元に届かないって事態になる。ヤミ市は潤うだろうし、"誰の仕業"か公表されれば、クロニーはニューヨーク市民の怒りの渦に巻き込まれることになるだろう。

 

「まったく、ひどいことを考えるものね......」

 

 クロニーに同情しているわけではない。この作戦の一番の被害者は、当局の策謀の巻き添えを食って配給通帳の配送が遅れる市民たちだろう。私もその手先を務める以上、あまりどうこう言える立場じゃないけれど。

 

 階段室のドアを細く開けて、廊下の様子を窺う。話し声一つ、物音一つしない。エレベーター・ホールに出ると、案内図を見上げた。

 

「製冊室......製冊室......あった。角を曲がって、右から三番目か」

 

 ちょうどトラック・ゲートがある搬出入室の真上に位置している。とすると、搬出入室への専用の階段とか通路がありそうだ。脱出路にちょうどいいかもしれない。

 私はリノリウム張りの廊下の上を、ゴム底の靴で足音を立てないようにゆっくりと歩いて、製冊室へと向かった。

 

 

 

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