Dec. 28th, 1942, Krono Tower, Financial District, NYC
「おはよう、アメ。ずいぶんひどくやられたね?」
応接室――私にとっての悪夢だった部屋とは違う、大きなフランス窓が三つもある部屋だった――のドアを開けて入ってきたのは、ぐらが手配してくれた馴染みの医者だった。借り物のバスローブに身を包んだ私は、青い革張りのソファの上から弱々しく手を上げて返した。
「おはよう、イナ。一晩中嬲り者にされたわ」
応接室の窓からは、眩しい朝日が射し込んでいた。ほとんど一晩中あの拷問を受けていたらしい。
「みたいね。じゃあ早速触診させて」
イナはそう言って抱えていたイーゼルを床に下ろすと、絵具や絵筆が入ってそうなボロボロの革の鞄から鉗子やら鋏やらの道具を出して、コーヒー・テーブルの上に並べ始めた。鞄の中身に目をつぶれば、写生に行く画家としか見えない――ベレー帽まで被ってるし――出で立ちだ。
私はバスローブの前をはだけて、痣だらけの体をイナに晒した。イナはいかにも医者らしい超然とした無表情で、私の体をぺたぺた触ったりぎゅっと押し込んだり、打診器で肋骨をコツコツ叩いたりしながら、私の反応を伺っていた。
「ここ、押されても痛くない?」
「ちょっとずきっとするけど、ひどくは痛まないわ」
「こっちは?」
「同じような感じ」
「ふむ......診たところ、折れたり破れたり破裂したり、っていうのはなさそう」
イナはテーブルの上に置いたバットにアヘンチンキをひくと、ガーゼをそれに浸して、鉗子を何種類か並べながら続けた。
「鞭で殴られたりした?」
「した」
「じゃ、背中の擦り傷はそれか。数はそれなりだけどさして大きくないから、縫わずに後で膏薬塗るけど、それでいい?」
「それでいい」
「オーケイ。じゃあ、鼻の方をやっちゃおうか」
アヘンが沁み込んだガーゼを鼻の中に詰め込まれて、麻酔が効いてくるのを待ってる間に、紙袋を抱えたぐらが戻ってきた。
「着替え買ってきたよ、アメ」
「
鼻の中のガーゼのせいで不明瞭な発音だったけれど、私はお礼を言ってから続けた。
「
「お代は気にしないで。人違い料としてクロニーに請求するから」
それにしても、まだ信じられない気分だ。あのオーロ・クロニーがマフィアのボスで、ぐらのパトロンだなんて、誰に想像できるだろう。ルチアーノ*1以来非イタリア系のマフィア構成員も珍しくないとはいえ、こうも堂々と表の顔――しかも有名な顔――を持っているとは、思っても見なかった。
鼻の感覚が無くなって少し経つと、イナが鼻からアヘンガーゼを抜き取った。
「じゃあ、戻すよ」
「お願い」
大きな鉗子で鼻筋を掴まれて、ぐいと引っ張られる。鼻を折ったのはこれが二回目だったから、この奇妙な感覚も初めてじゃない。それでも、ばかでかい鉗子で挟まれてるのが見えるのに、その感覚が全然無いのは変な気分だった。
イナは私の鼻の様子を確認してから小さく頷くと、乾いたガーゼを鼻腔の中に詰め物として入れて、鼻梁を外から湿布とテープで固定した。
「これでいいかな。麻酔が切れたら今日明日くらいは痛むと思うから、無理しないでアスピリン服んでね」
「わかった」
「年明けに私の家に来て、様子を見せて。何事もなければガーゼとテープを外してあげる」
「オーケイ。ありがとねイナ、こんな朝早くから」
「いいのよ。副業とはいえ仕事は仕事だから。ほら、ローブを脱いで後ろ向いて。膏薬を塗ってあげるから」
膏薬は背中の傷にすごく沁みた。できるだけ声をあげないようしたけれど、きゅう、という感じの高い音が漏れて、ぐらが肘掛椅子の一つ――彼女が座っていると、肘掛椅子でさえ巨大な玉座に見えてくる――から腹の立つニヤニヤ笑いを飛ばしてきた。
「これでよし、と。アメ、あなたの家ってバスタブはある?」
「ないわ」
グリニッジ・ビレッジにあるアパートメントの狭いバスルームには、そんなものを置くスペースはどこにもない。もう少しお金を貯めればチューダー・シティの、独り身にはちょっと贅沢なアパートメントに住めるようになるけれど、それまではあのおんぼろアパートメントで我慢しなきゃいけない。
「アタシの家にはあるよ」
ぐらが横から口を挟んだ。彼女のアパートメントはマスター・バスルームの他にゲスト・バスルームもあって、私の記憶が正しければその両方にバスタブがあったはずだ。まったく、一体いくら家賃を払えばあんなところに住めるんだろう?
「できれば痣がひくまで、毎日お湯に浸かってほしいな。そうすればたぶん、一週間くらいで良くなるはず」
「んじゃ、アメは今日からアタシの家に泊りね」
はしゃいだ感じの声で、ぐらはそう言った。ぐらは時々見た目年齢相応な――そして実年齢不相応な――無邪気さを出すことがあって、それはそれで彼女の可愛い点ではあるのだけれど、それでも私はいつも困惑させられていた。それなりに長い付き合いなのに、私はまだこの不思議なギャップに慣れ切っていなかった。
とはいえ、断る理由もなかった。すでに何度か泊ったことがある、あの贅沢なアパートメントに一週間泊めてもらえるという誘惑ははねのけ難かったし、そもそもぐらのアパートメントは私のより事務所に近いのだ。目に青タンがある状態で街道を歩く必要があるなら、その距離は短いに越したことはない。
「ありがとう、ぐら。甘えさせてもらうわ」
「よしと。じゃあ話が付いたし、着替えなよ、アメ。クロニーもそろそろ朝ご飯が終わる頃だよ」
「じゃあ私はこの辺で」
テーブルの上の器具をまとめていたイナがそう言って、鞄とイーゼルを持って立ちあがった。そのイナに、ぐらが声をかける。
「イナもありがとう。診療代はクロニーからふんだくって、後で払いに行くから」
「来るなら夕方以降にしてね。お日さまが出てる間はバッテリー・パークで写生するつもりだから」
どうやら鞄の中身は医療器具だけじゃなかったらしい。私が着替えている間にも、二人の会話は続いてる。
「へえ。お仕事?」
「まさか。息抜きよ。ここ最近は政府からの仕事ばっかりで、描きたい絵を描かせてもらえないから」
ニノマエ・イナニスの本業は画家だ。元々はそれなりに知られた現代画家だったんだけど、戦争が始まってからは軍用品の取扱説明書の挿絵とか、戦時国債購入や物資節約をよびかけるポスターなんかを描いてて、それに追い回されているとよく愚痴っていた。
医者稼業は売れない画家だった時に、食い扶持を稼ぐために始めたことらしい。つまり闇医者ってやつだ。
今では闇医者が小遣い稼ぎになった画家と、俸給より賄賂が主収入の汚職警官が話している脇で、私は着替えを終えた。ぐらが持ってきた紙袋の中身はコットンのブラウス、ツイードのスカートとサスペンダー、シルクのシュミーズとパンツ、ナイロン・ストッキング、それに革の編上げブーツだった。
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「じゃ、また後でね、ぐら」
「また後で......さあアメ、この街の裏ボスとご対面、といこうか」
クロノ・タワーの最上階に位置するその部屋には、大きなダイニング・テーブルが鎮座していた。ずらりと並んだ椅子の中で、熾り火のはぜる暖炉を背後にした一つにオーロ・クロニーは座っていた。朝も早い時間なのに、テイラー・メイドのスーツを一分の隙もなく着込んでいる。彼女は毎朝こんな感じなんだろうか? 敏腕な若手経営者という彼女の評判を考えれば、そうであっても全く驚かないけれど。
私とぐらがダイニング・ルームに足を踏み入れると、クロニーがニューヨーク・タイムズ紙から顔を上げて口を開きかけた。しかし彼女の喉が音を発する前に、ぐらが先制した。
「おはよう、クロニー。あんたらしくない、杜撰な仕事をしたみたいじゃん」
「おはよう、ぐら」
オーロ・クロニーの声は、以前彼女がラジオ番組に出演した時に聞いたことがあった。それでも目の前で本人が発するその声は、機械越しの時とはまた異なる印象を私に与えた。ずっと深く、ラジオの雑音が無いぶん澄んでいて、静かながら迫力のある声だった。
「ミス・ワトソン。昨晩はどうも、私の友人が早とちりした上、あなたに随分......不快な思いをさせたようだ」
"不快"とは、鼻を湿布とテープで固定された上、腫れた右頬と左目の痣を持った女性に対するものとしては、随分な言い草だ。思わずむっとした目でクロニーを睨むと、彼女は自分の向かいの席を指し示して言った。
「あなたにはお詫びをしたいし、あなたが求めるなら可能な限り事情を説明したい。どうぞ座って」
まだ憤懣やるかたない気分ではあったけれど、相手が――一応――下手に出ている以上、罵倒や捨て台詞を吐くような場面ではなかった。被害者は私と言っても、表裏どちらの顔をとってもクロニーの方が格上なのだ。
私が大人しく席に着くと、それを確認してぐらも座り、メイドたちが私たちの前にお皿を並べ始めた。
「昨晩のことは重ね重ね、申し訳なかった。私の友人の失態は、私の失態でもある」
「
横からぐらが、そう耳打ちしてくれた。そして言い終わるなり目の前に並ぶ皿に向き直ると、三日は食べてないかのような勢いでベーコン・エッグにがっついた。
「生憎とベニー――君を痛めつけた彼――は、この場に来て君に謝ることができない。彼の分と合わせて、私の謝罪を受け取ってほしい」
「彼はなぜここに来られないの?」
できれば、一晩中嬲り者にしてくれた彼に直接謝ってほしいところだった。クロニーは、そんな感情が表に出てたらしい私の表情をじっと見つめてから、おもむろに返した。
「私は、適当な仕事をする奴が嫌いなんだ。会社の部下であれ、友人であれ。その彼なり彼女なりの無能を見抜けずに、仕事を任せてしまった自分の無能さにも腹が立つから。そういう人間には、速やかにお引き取り頂くことにしている。部下であれば辞めてもらうし、友人に関しては......」
クロニーは言葉を濁したけれど、ベニーとかいう大男の末路は想像がついた。もう生きてはいないだろう。生きていたとしてもどのみち今夜、船の往き来も絶えたような時間に、ロワー・ベイかサンディー・フック湾に投げ込まれることになる。死んでいたとしても、死体は同じ道を辿るに違いない。
「わかった、わかったわ。謝罪に関しては、あなたからまとめて受け取ることにする。事情については......聴かない方がよかったりする?」
「そうかも」
横からぐらがそう口を挟んだ。バターをたっぷり塗ったパンケーキを口いっぱいに頬張っていて、その声はちょっともごもごしていたけれど。
それをごっくんと――比喩抜きに――音を立てて嚥み下してから、ぐらはクロニーに問うた。
「ねえクロニー、その事情を聴いた後でも、アメは後戻りできる?」
「
短い間、ぐらとクロニーはにらみ合った。
「......ちょっとアメと二人で話をさせて」
「いいとも」
「アメ、こっち来て」
重苦しい雰囲気の中で、目の前のベーコン・エッグを切り分けるだけで口を付けてなかった――お腹は空いていたけれど、喉を通る気がしなかったから――私は、これ幸いと席を立って、ぐらに続いて次室に入った。
「いい、アメ。これはあんたの人生の分岐点だよ」
私がドアを閉めると、ぐらは真剣そのものの表情と声で言った。こんな彼女を見るのはいつぶりだろう。
「どういうこと?」
「アメ、あんたマフィアについて、どの程度知ってる?」
「よくは知らないわ。秘密主義の犯罪組織で、全米の色んな産業に浸透してるってことくらいしか」
「それだけの規模の組織ってことは、あそこのクロニーの他にもアメリカ中に何十人もボスがいて、何百人も構成員がいて、数えきれない準構成員や外部協力者がいる。ってことくらいは想像つくでしょ?」
「まあ......」
正直言って想像はつかない。言いたいことはわかるし納得もするけど、そんな規模の秘密組織の存在なんて、想像できるものじゃない。
「なのに、あんたはクロニーがボスの一人だってことを昨晩まで知らなかったし、他のボスも誰一人として――ルチアーノとかは除いて――知らないし、構成員も誰一人知らない。それだけの規模の組織なのに秘密が保ててる。なんでだと思う?」
「喋らないから、でしょ? ルチアーノみたいに」
四半世紀後にヴァラキというマフィア構成員が法廷で証言したところによれば、彼らはオメルタと言う死をともなう掟で縛られ、それによって自分たちの組織のことを誰にも――オメルタのない準構成員や外部協力者にさえ――話さないらしい。とはいえこの時の私はそんな内情なんて知らないから、単にラッキー・ルチアーノが法廷で沈黙を通したところから推測しただけだったけれど。
「なにか誓いとか掟とか、そういうのがあるんじゃないかしら」
「まあ、そう。あいつらは組織のことを、その必要が無い人間には絶対に話さない。そしてもし、うっかり知ってしまった人間が現れたら、しっかり始末をつける。そうやって秘密を保ってる」
「......つまり? 私は今、始末をつけられそうになってる、ってこと?」
朝食が喉を通らなかった理由はこれだ。あっさり帰してもらえるなんて、さすがに思っちゃいなかったから、不安のあまりご飯どころじゃなかったんだ。
「そう。でも今回のはクロニーのミスだから、彼女はアメに選ばせようとしてる。つまり、知る必要のある立場になるか、ベニーってやつと一緒に片道クルージングに向かうか」
「それって、選択肢があるって言えるの?」
片方の
「いつものクロニーのやり方を考えれば、選択肢がある方だけど、アメにとってはそうじゃない。でしょ? だから、アタシがもう一択を付け加えて上げる。以降クロニーにもその
「......できるの?」
「できる」
即答だった。でも私はその答えに対して、さらなる質問を加えた。
「それでその代わりに、あなたは何を失うの?」
ぐっとぐらは言葉を詰まらせた。思った通りだ。金づるを失うだけなら、そう即答できるはず。
「ぐら、あなたが私のことを大切に思ってくれてるのは知ってるし、感謝してるわ。でも、私だって同じくらいあなたが大切なの。だからもし、あなたが私の命と引き換えに、自分の命や人生を手放そうとしてるなら、私は今すぐ隣に戻ってクロニーから事情を聴くわ」
「アタシの人生はアタシのものだ。アメにとやかく言われる筋合いは......」
「あるわ。天秤のもう片方に載ってるのは私の人生だもの。その皿の上に私の人生を載せるかどうかは、私が決めるわ」
「......わかった」
渋々、って感じがありありと出ている声でぐらはそう言い、ぴっと指を一本立てて付け加えた。
「ただし、一つだけ条件を付けさせて」
「なに?」
「即答はしないで。何日か――できれば一週間くらい――じっくり考えてほしい。一回でも関わったら、もう二度と抜け出す機会は無いよ」
「わかった」
二人で戸口に向かうと、ダイニング・ルームへ戻る前に、私はぐらに言い足した。
「でも、たぶん答えは変わらないわよ」
「その時はその時でいい」
10:08 AM, Amelia's Apartment, Greenwich Village, NYC
きゅう、とお腹が鳴って、私は荷造りの手を止めた。
「そういえば結局、クロニーのところで出された朝ご飯に全然手を着けなかったっけ......」
ぐらはきれいさっぱり平らげていたけれど、私は結局コーヒーを飲んだだけだった。一度空腹を覚えてしまうと、なにかお腹に入れなきゃ収まりがつかなくなってきた。
角のデリカテッセンでパストラミ・サンドイッチでも買おうかと思って、部屋を出ようとしたときだった。
「あ......」
玄関の横にかけた鏡に、自分の顔が映った。大きな湿布を顔の真ん中にテープで固定して、頬っぺたと目の周りを腫らした、目立つ上に醜い顔だった。腫れは、クロノ・タワーのバスルームの鏡で見た時よりもひどくなっているようだ。
手に取ったコートをハンガーに戻して、私はソファに沈みこんで頭を抱えた。
「こんな顔じゃ、どこにも行けないじゃない......くそ、部屋に何かあったっけ」
キッチンの戸棚をひっくり返して、賞味期限切れのベイクド・ビーンズ缶を見つけた。マッチを擦ってガスコンロに火を着け、缶ごと温めてそのまま食べた。なんだかひどく情けない気分になった。
「ああ、もう。はやくぐらの家に行っちゃおう。あそこならデリバリー頼んでも、ベルマンと顔を合わせるだけで済むし......」
なんならベルマンとも顔を合わせたくはないけれど、あの建物の従業員ならまだ信頼できる。少なくともこんな顔で近所を歩き回って、あらぬ噂を広められるよりはよっぽどましだ。
忘れ物がないかざっと確認してから、恐る恐るドアを開けて廊下に誰もいないのを認めて、タクシーを呼ぶために公衆電話までダッシュした。