Dec. 24th, 1943, Holding Cell, Syracuse Police Department, Syracuse, NY
私は薄暗い留置場の木製ベッドに腰かけて、ぼろぼろの毛布にくるまってなんとか体の震えを抑えようとしていた。鉄格子の付きの窓にはガラスも嵌められていたけれど、監房に暖房装置はなくて、夜の室温は華氏三十度か、それより辛うじて高いくらいだ。かちかち鳴る歯の間から零れる息は白く、洟が止まらなかった。
一つ、幸いなことがあるとすれば、寒さのせいで寝付けないことだ。ここにぐらはいない。いま眠れば、間違いなくあの悪夢に苛まれることだろう。
なぜこんなことになったのか。私は洟をすすり上げて、今日一日の出来事を振り返るという、ここに収監されてから何度目かわからない暇つぶしを始めた。
7:10 AM, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC
「ねえワトソン、今日なんか予定ある?」
朝、
私はベーコン・エッグを咀嚼しながら頭の中で予定表をめくり、口の中のものを呑み込んで答えた。
「無いわ。強いて言えば、タイプ打ちしなきゃいけない書類がいくつかあるくらいね」
私はほとんど以前の生活に戻りつつあった。悪夢が訪れる頻度は週の半分ほどになって、もう道で行き会う男たちに一々怯えなくなったし、仕事相手と面談することもできるようになった。
それでも悪夢を見た朝は、いまだにぐらの助けが無ければどうにもならない。
当のぐらはすでに自分のお皿を空っぽにしていて、まだ少し眠たそうな目でエスプレッソを啜っている。
「どうしたの?」
「うん。一緒にちょっとドライブに行こうかなって思って。田舎の方まで」
首をかしげてぐらの方を見やると、さっと目を逸らされた。
「ほら、たまには田舎の方の空気を吸いに行くのも、気分転換になっていいんじゃないかなって」
「それは魅力的ね。で、本当の用事は?」
ぐらは溜息を吐いた。
「やっぱあんた相手じゃ隠し事は無理か......クロニーのお仕事だよ」
7:00 PM, A Small Village, Chautauqua Coutny, NY
グランド・セントラル駅八時発のエンパイア・ステート急行に乗って、バッファロー市までかかった時間は八時間だった。二時間ほど、田舎町とその周りの森や草原や、エリー湖のほとりをぶらぶら散歩してから、湖沿いの小さな村まで小一時間かけてタクシーで向かった。タクシーはニューヨークではすっかり見なくなった、古めかしい36年式デソート・カスタムトラベラーで、ガスケットが剥がれているのか時折エンジンが銃声のようにポンッと鳴っていた。
街の入り口辺りでタクシーを降りると、ぐらは勝手を知っているように私を先導して歩き、小さな波止場に向かった。
「止まれ。誰だ?」
波止場には六台ほどのGMCが駐まっていて、その陰からぬっと出てきた男が私たちに問いかけた。
「アタシだよ、がうる・ぐら。その声はトニーかな?」
「なんだ、"
「うるさいよ」
ぐらはトニーと呼んだ男の、擦り切れ気味のトレンチコートの腹をぼすっと殴ると、私の方に手を振って言った。
「今日のアタシのお手伝いさんの、アメリア・ワトソン。ワトソン、こいつはアントニオ・オニール。犯罪者と犯罪者のハーフ」
「イタリアとアイルランドだ」
差し出された手を握る。かなり筋張った、指の長い手だった。
「よろしく、お嬢さん」
「どうも、ミスター・オニール」
オニールの背後では、同じようなコートと帽子姿の男たちが小さなボートから木箱を降ろして、それをトラックに積み込んでいるところだった。オニールがそっちの様子を見に戻って行くと、私はぐらに訊いた。
「あの積荷は何?」
「あれ? あれはお酒だよ」
「お酒? 密造酒ビジネスって崩壊したものと思ってたけど」
1917年から1932年まで、合衆国憲法修正第十八条と、それに基づく連邦法によって、アメリカでは酒類の醸造・流通・販売が大幅に規制されていた。とはいえ酒といい煙草といい麻薬といい、禁じられたところではいそうですか、と止められるものでもない。結局のところ酒類の密造・密輸・密売は非合法ビジネスとして犯罪組織――とりわけイタリア系マフィア――に多大なる恩恵をもたらした。
「もう昔ほどぼろ儲けはできないってだけだよ。いまでもビジネスとして続いてはいる。特に最近みたいに、お酒が手に入りにくい時節にはね」
「あー、なるほどね」
積み込み作業が終わると、男たちの内の何人かは、ボートに乗って湖に戻って行った。たぶん、カナダの方から来たんだろう。
私とぐらは、先頭から二番目のGMC・AC型トラックに乗り込んだ。先頭の一台にはトニーが乗り、他の男たちも次々とトラックに乗り込んでいく。
「助かったよ、ワトソン。アタシ、このGMCじゃ足がペダルに」
「届かないでしょ。なんか前に、似たような会話をした覚えがあるんだけど」
「煙草の時かな、たぶん」
クロニーがナチスの工作員を装って、ニューヨーク港の倉庫から軍需煙草を盗み出した時の話だ。まったく、煙草の運び屋の次は酒の運び屋ときたら、次は麻薬の運び屋でもやらされるんじゃないか。大きなハンドルと遠いペダルに悪戦苦闘しながらトラックを運転していると、そんな思いがふと、私の頭をよぎった。
10:45 PM, U.S. Route 20, Onondaga Coutny, NY
三時間半以上かけて、六台のGMCからなる車列は連邦国道20号線を東に向かい、シラキューズ市南郊のラファイエット町にやってきた。大きな農場を行きすぎ、前方に学校らしい建物が見えてきたところで、先頭のトラックが速度を緩めた。
「んん?」
ぐらが体を捻って前に目を凝らす。
連邦国道11号線との交差点の前に、白黒の車が何台も停まっているのが、前のトラックのヘッドライトに照らされて見えた。木製のバリケードが置かれて道が塞がれている。
「あれ、警察じゃない?」
「みたいだけど......おかしいな」
ぐらが首をひねる。
「シラキューズ市警とは話がついてるはずなんだけど」
「州警察とか、ここいらの保安官とかは?」
「あの車は州警じゃないし、保安官も抱き込んでるはず」
濃紺の詰襟の制服に身を包んだ警官たちが、トニーのトラックに何か話しかけている。
「ちょっと様子を見てくる」
ぐらは助手席のドアを開け、ふと私の方を振り返って言った。
「もしも、だよ。もし、連中がこっちに来てあんたを逮捕しようとしたら、逆らわないで。こういうことをするってことは、連中もたぶん、相応に武装してると思うから」
「ええ、しないわ」
ぐらからは死角になっていたけれど、運転席から見える警官の一人はトミーガンを携えていた。トラックのヘッドライトに照らされて、銃身や機関部側面の金属部品が黒光りしている。あんなのに狙われたら、あっという間にハチの巣だ。
ぐらはぴょんと運転台から飛び降りると、トニーと言い合いをしてるらしい警官の方に歩いて行った。
議論はそんなに長くは続かず、その警官はぐらの肩を掴むと、後ろ向きにトラックに叩き付けた。もう一人別の警官が駆け寄り、ドアを開けてトニーを引きずり降ろす。
「ぐら!」
私が慌てて運転席のドアに手をかけようとしたところで、ぐらが後ろ手に手錠をかけられながらぐりっと首をひねった。こっちを見据えて、小さく首を横に振っている。
私は唇を噛んで、ドアハンドルから手を離した。
まもなく、別の警官がこっちのトラックに歩み寄って来た。ドアが外から開けられる。
「シラキューズ警察だ。降りなさい」
言われた通り、運転台から降りる。
「そっちを向いて、荷台に両手を着け」
言われた通りにすると、警官は服の上から身体検査を始めた。警官の手が両腕を調べ、脇の下を調べ、ついでとばかりに私の胸をぎゅっと揉んだ。
「ちょっと!」
「おっと、失礼」
全然失礼と思ってなさそうな返しをされて、一瞬私は頭の中でその警官を蹴りつける想像をした。
警官の方は全然意に介しない様子で検査を続け、役得とばかりに私のお尻をつねると、太もものところで手を止めた。
「この、スカートの下にあるものはなんだ?」
「銃よ」
「銃?」
いつも通り、私は右太もものホルスターに25口径のコルト・ベストポケットを隠し持っていた。私の私立探偵としての拳銃所持の許可は、あくまでニューヨーク市のもので、市外のここでは違法だった。普段は――州境をまたぎさえしなければ――そんなに厳しく運用されていないものの、この状況ではまずいの一言に尽きる。
「どれどれ」
警官は私のスカートを、必要以上にまくり上げた。
「なるほど、確かに拳銃だな」
そうは言いつつ、視線がお尻の方に向いているのは明らかだ。
警官はゆっくりとした仕草で、私のスカートの中の眺めを堪能しながら、拳銃を没収した。
「あんまり長く見てると、お金取るわよ」
「必要な職務を執行しているだけなので、その義務はない」
強がった言葉とは裏腹に、私は内心では叫びだしそうな気分だった。欲望に満ちた警官の目の色が、あの日私を見ていた脅迫屋のそれとうり二つだったからだ。助けを求めるようにぐらの方を見たけれど、彼女はすでに警察の車の中へ連れ去られていた。一人で耐えるしかない。
靴まで念入りな調査を終えると、警官は私の背中を突き飛ばしてトラックに叩き付けた。
「ぐっ!」
立ち直る前に両手が後ろに回される。冷たい金属の感触が両手首に伝わり、手錠のラッチがかかるギリリと言う音が、背後から聞こえた。
11:45 PM, Syracuse Police Department, Syracuse, NY
「後ろを向いて、鉄格子の前に立て」
言われた通り、狭い監房内でくるりと回り、後ろに手を回す。鉄格子越しにがちゃりと手錠が掛けられた。
警官は古めかしいウォード錠をがちゃつかせて開けると、私を連れだした。廊下を歩いて留置場から出、薄暗い警察署のいくつもある事務室の一つに私を通した。
「ぐら!」
誰かの執務室らしいその部屋の客用椅子に、ぐらが腰かけていた。コートは脱がされてシャツとズボン姿で、私と同じように両手を後ろに回されている。
「ワトソン。一人で大丈夫だった?」
ぐらは心配そうな目で、私の顔色を窺った。
「大丈夫よ。寒すぎて全然寝付けなかったから」
「ならよかった」
執務卓の向こうに座っている男が咳払いをして、私たちの注意を惹いた。濃紺の制服姿で、詰襟の襟元に金線が一本入っている。どこの警察でも、その階級章は大体警部補のものだ。その推定警部補が口を開いた。
「本当に彼女でいいのかね?」
「もちろん」
ぐらが続ける。
「アメ以上に信じられる人間は、あの中にはいないから」
「よかろう」
警部補が目で合図すると、先程私を連れてきた警官が背後に歩み寄った。鍵束を探るかちゃかちゃいう音が聞こえる。
「いい、ワトソン。よく聴いて」
ぐらが椅子の上から、私を真っすぐに見据えて言った。
「なんらかの手違いで、こっちの社長に"付け届け"が届いてないの。あんたはできるだけ早くアタシたちの社長のところに行って、事情を話して、持って来るべきものを持って来て」
つまり、ここの署長宛ての賄賂を持って来いってことか。
「わかった。時間制限は?」
「
「四時だ」
「明日の夕方四時だよ」
「わかった」
手錠が外れた。私は早々に部屋の戸口に向かいながら、ぐらに言った。
「絶対に間に合わせるから。待ってて」
「間に合うよ。あんたなら絶対」
12:43 AM, Dec. 25th, 1943, Western Union Telegraph Syracuse Station Office, Syracuse, NY
警察署を出た私は、しばしニューヨークへのアシについて考えを巡らせた。シラキューズからニューヨークへ直通の近郊列車は無い。州都オールバニーで乗り換えが必要だけど、どのみちエリー線もハドソン線も最終列車はとっくの昔に出ている。
当然だけれど、この辺のタクシーが五時間もかけてニューヨークまで行ってくれるわけがない。
そこいらで車泥棒でも働くか、と考えていた私の耳に、かすかな汽笛が聞こえてきた。市の北郊にあるシラキューズ駅で、入換機関車が鳴らしていたものだろうけれど、それを聞いて別の考えが浮かんだ。何も近郊列車に限る必要はない。
そんなわけで私は、延々二マイル半以上も走ってシラキューズ駅に着くと、まず隣接するウェスタン・ユニオンの電信局に向かった。思った通り、鉄道電報のために窓口は開いていて、女性の窓口係が一人、真鍮の格子の向こうで暇そうにしていた。
一分ほど、電信局の外でぜえぜえ言う息を整えてから、中に入った。
「失礼。小切手を一通、引き受けてもらえるかしら?」
「ええ、どうぞ。こちらの用紙にご記入ください」
電報用紙を転用した書式に、氏名、住所、その他必要事項を書き込んでいく。全部埋めてから格子の下を滑らせると、窓口係は用紙をざっと見てから言った。
「50ドルですと、保証金は2ドル50セントになります。よろしいですか?」
「ええ、いいわ」
私はコートを脱いてカウンターの上に置くと、その裏地を引っぺがした。
私がコートのポケットに入れていた財布、小額紙幣、小銭入れ、小切手帳その他は全部没収されて、返って来たのはコートだけだった。こういう事態を想定していたわけじゃないけれど、備えあればなんとやら。驚く窓口係の目の前で、私は一枚の小切手用紙を取り出して、書式の記入に使った万年筆で52ドル50セント分の小切手を切った。サインして、格子の向こうに押しやる。
「はい、どうぞ」
「少々お待ちください」
窓口係は現金抽斗を開け、紙幣を数え始めた。20ドル札が一枚、10ドル札が二枚、5ドル札が一枚、1ドル札が五枚。あわせて九枚の紙幣がこちらに渡される。
「50ドルちょうどです。お確かめください」
「どうも」
電信局を出ると、暗い駅舎を通り抜けてホームに向かった。時計は十二時五十分を指そうとしている。ベンチに座り、汽車が来るのを待った。