Bad Apple   作:Marshal. K

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Bait on the Hook #3

 Dec. 31st, 1942, Gura's Apartment, Upper East Side, NYC

 

「アメ、ただいま」

「おかえりなさい」

 

 ぐらは大晦日の夜、日付が変わる前に帰ってきた。警察主催の年越しパーティーを切り上げて帰ってきてくれたんだ。

 小さな体を包む大きなコート――大きすぎて裾はくるぶしあたりまであるし、腕を下げると手が袖の下にすっぽり入ってしまう――を脱がせて、玄関脇のフックにかけながら言う。

 

「帰って来ちゃってよかったの? あなたと話したいって警官は多いと思うんだけど」

「あんたを一人でほったらかしにしとく価値があるヤツなんて、そんなにいないよ」

 

 例年通りならぐらが私を同伴者に指名して、一緒にパーティーに出てたところだ。ところが今年の私は鼻をテープで固定してる状態ときている。頬と目の腫れは引いたけれど、やっぱりこんな顔で公の場に出たくはなかった。

 

「警部補とその奥さんには挨拶したし、警部にも部長にもした。それ以外はいいかなって」

「本当に必要最小限じゃない。同僚の人たちとかはいいの?」

「どうせ年明けに会うからいいの」

 

 そういうものでもない気がしたけれど、それ以上口出しはしないことにした。私のために帰ってきてくれたんだし、なによりこの広いアパートメントにたった一人なのは、実のところちょっと寂しかったから。

 と、玄関ドアがノックされた。

 

「お、来た来た」

「誰が?」

 

 私の不審げな質問に、ぐらはにんまりと笑いを返して言った。

 

「ちょっとしたお土産。入っていいよ!」

 

 ドアが開いて、ベルマンがカートを押しながら入ってきた。

 

「失礼します、マーム」

「奥のテーブルの上にお願い」

「かしこまりました」

 

 カートの上に載っていたのは、いくつかのお皿に盛りつけられた料理だった。数こそ少ないけれど、スライスされたロースト・ターキー、スモーク・サーモン、スペア・リブにマリネ。それとシャンパンらしい瓶の入ったアイス・ペールも載っていた。

 

「年の瀬にパーティー無しってのも寂しいでしょ? だから、会場からいくらか失敬してきた」

「ぐら......ありがとう」

「いいのいいの、これくらいなら無くなっても誰も気にしないし」

 

 ぐらは何でもないような感じでそう返して、アイス・ペールからシャンパンの瓶を抜いて、コルクを外しにかかった。ワイヤーを緩めながら、お皿を並べ終ったベルマンに訊く。

 

「ありがとう、ジョー。あんたも一杯くらい呑んでく?」

「ありがたいんですが、マーム、シャンパンの匂いをさせて戻るとスタンに怒られそうなので......」

 

 スタンレーはこの建物のベル・キャプテンだ。ベルマンたちの手綱をしっかり握っていて、住人達からの信頼も厚い。

 

「そっか。じゃあよいお年を、ジョー。これチップね」

「ありがとうございます、マーム」

 

 ぐらから50セント銀貨(ハーフ・ダラー)を受け取って、ジョーは部屋から出て行った。

 

「スタンも年の瀬くらい休めばいいのに......」

「年の瀬だからじゃないの?」

 

 コルクの針金に悪戦苦闘しているぐらを横目に、戸棚からフルート・グラスを出しながら私は言った。

 

「ぐらみたいに、ベルマンにお酒をあげたがる住人も多いと思うし。一々貰ってたらみんな酔っぱらって、誰もベルに反応しなくなっちゃうんじゃないかしら」

「そんなもんかな......おっ」

 

 ポンッと小気味いい音がして、コルクが飛んで行った。白い泡が吹き出して、絨毯の上にこぼれる。

 

「うわっとと......アメ、グラスグラス」

「はいはい」

 

 二脚のフルート・グラスいっぱいにお酒が注がれると、ぐらはわざとらしくしゃちこばってグラスを掲げた。

 

「まだちょっと早いけど、乾杯しちゃおう。1943年が、今年よりも良い年でありますように」

「私にとっては、今年というよりここ数日が一番最悪だったけどね」

 

 ぐらと軽くグラスを触れ合わせてから、私はそう言った。

 実のところ個人的には、1942年はそこまで悪い年ではなかった。配給制(レーショニング)は41年よりもキツくなったけれど、食うに困るほどではなかった。ぐらの紹介もあっていくつかの中堅企業から、従業員の素行調査の継続的な依頼を受けることができて、収入もだいぶ安定した。

 先日の最悪の一晩が無ければ、そう、今年は個人的には結構いい年だったと言えたかもしれない。

 

「あれに関しちゃね......でもあんたがクロニーにどう答えるにしても、アタシはアメの味方だよ」

「ありがとう、ぐら」

 

 二人で空になったグラスを置いて、テーブルに並んだ料理に取り掛かった頃、音を絞ってつけっぱなしにしてたラジオからはヴェラ・リンの歌声が流れていた。

 

――また逢いましょう

  何処でとも知れず、何時とも知れないけれど

  ある晴れた日に、きっとまた逢いましょう......

 

 来年とは限らないけれど、"ある晴れた日"はきっとやって来るはず。私とぐらにも、この世界にも。

 

 

 

 Jan. 2nd, 1943, Krono Tower, Financial District, NYC

 

 ぐらの青い41年式クライスラー・ニューヨーカーは、朝のウォール街をのろのろと進んでいた。凍った路面を恐れる自動車通勤者たちが過剰なまでに安全運転を心がけるせいで、ニューヨークの通りはどこも上空の雲量と同じくらい混みあっていた。

 もっとも、その安全運転も無駄ってわけじゃない。歩行者でさえあっちこっちで滑りこけているし、ここに来るまでの間に交差点でひっくり返ったフォードと、立ち木につっこんだシボレーがいて、どちらの現場でも交代時間前に通報を受けてしまった不運な制服巡査が、仏頂面で運転者から話を聴いていた。

 小一時間近い低速ドライブの末、私たちはようやくクロノ・タワーの正面玄関にたどり着いた。

 

「これ買った時、ケチらないでヴァカマティック付けて良かった」

 

 車を降りてドアマンに手招きしながら、ぐらが言った。

 

「小一時間も半クラッチしてたら腰が死んじゃう」

「私のフォードじゃ望むべくもないわね」

 

 クラッチが要らない変速機を積んだ車はどんどん増えているけれど、私が乗っている39年式フォード・スタンダードはオプション装備を含めても全然だった。ゼネラル・モータースやクライスラーと違って、フォードは変速機の自動化にあまり興味が無いらしい。

 

「もうちょっとお金が貯まったら、オールズモビルに乗り換えようかしら......」

「それはちょっとおっさん臭すぎない?」

 

 朝の通勤時間ゆえに混みあったロビー――エンパイア・ステート・ビルと違ってこのビルはテナントがたくさん入っていた――を抜けて、バンクロニー社の1階受付に向かう。名乗るとすぐに入館証を渡されて、本社直通のエレベーターに通された。

 出勤するバンクロニー社の従業員たちと一緒にエレベーターに乗って、ビルの高層階へと向かう。この中のいったい何人くらいが、自分たちの社長がマフィアのボスだって事実を知ってるんだろう? そんな彼らも60階から68階まででみんな降りてしまって、70階の社長室まで乗っていたのは私たち二人だけだった。

 チンとベルが鳴ってドアが開くと、ぐらのそれに負けず劣らず高級そうなスーツに身を包んだ、ガタイのいい男が立っていた。

 

「おはよう、それとあけましておめでとう、ジョニー」

「おはようございます、刑事。ミス・ワトソン」

「アメ、こちらジョン・トネッリ。クロニーの秘書ね」

「初めまして、ミスター・トネッリ」

「初めまして、ミス・ワトソン。社長がお待ちです」

 

 クロノ・タワーの内装はいかにもアール・デコ調の、真鍮とかの金属を多用した金ぴかデザインだけれど、トネッリに案内された社長室はもっとずっとシックで、落ち着いた雰囲気でまとめられていた。どっしりとしたニスの濃いオーク材を基調に、壁紙や絨毯は濃い青と黒で構成されている。

 ユタ州くらいの広さがありそうな巨大なデスクに、オーロ・クロニーは着いていた。彼女の背後のフランス窓の向こうには、白亜のマンハッタン行政ビルがそびえ立っているのがよく見える。

 

「それで、答えは決まったのかな?」

 

 黒い革の執務椅子から、クロニーは落ち着き払った声で訊いてきた。まるで大して重要なことではなく、日常業務の進捗を聞くような、そんな調子だった。

 

「ええ」

 

 私の答えはずっと決まっていたから、それを口に出すのにためらいはなかった。

 

「事情を聴くわ」

「そう」

 

 クロニーの反応は平坦だった。特に意外そうな様子もない。こっちにちらっと視線を飛ばしてから、執務卓の前に並んでいる二脚の客用椅子に手を振った。

 

「どうぞ座って。お望み通り事情を説明する前に、ぐらに確認しておきたいのだけれど」

「なに?」

 

 ぐらはちょうど、スーツの上着の内ポケットから葉巻を取り出したところだった。クロニーの執務卓の上にあるシガー・カッターに断りもなく手を伸ばしていたけれど、それを咎めようってわけではないらしい。

 

「彼女は間違いなくクリーンなんだね?」

「ああ、それならアタシが保証するよ」

 

 バチンと音を立てて、喫い口をV字型に切りながらぐらは言った。

 

「アメはまだ、誰のお手付きでもない」

「だが、連邦政府(フェッド)は?」

「フェッド?」

 

 真面目な調子のクロニーとは対照的に、ぐらは吹き出すと失笑するの中間みたいな笑い方をして続けた。

 

「ない、絶対ないね。アメは確かに腕のいい探偵だけど、ピンカートンってわけじゃない。あの気取り屋どもはアメに協力を仰ぐくらいなら、自分の銃を咥え込んでぶっぱなすと思うよ」

「なんだか貶されてる気がするわ」

「アタシは事実を指摘してるだけ」

 

 ぐらは葉巻用の軸の長いマッチを擦って、その炎で葉巻の先端を炙りながら飄々とそう返した。

 

「本当に政府職員(Gメン)と繋がりがあるならそう言いなよ、アメ。そしたらこの話はナシになるからさ」

「無いわ、残念ながら」

「ほらね」

 

 濃い紫煙をぷかっと一服して、憎たらしい笑顔を浮かべてから、ぐらはクロニーに手振りで先を促した。

 

「では、事情を話すとしよう。ミス・ワトソン......」

「アメリアでいいわ」

「アメリア。あなたが尾行していたミスター・ヒルデブランドには、先月から私の会社の顧問税理士を勤めてもらっている。そして同時に、私のファミリーの税務顧問も担ってもらっているんだ」

 

 私の推測は、半分は当たっていたわけだ。彼が奥さんに説明していた"新しい顧客"は、バンクロニー社だった。

 

「前任者が胃癌で入院したので、その彼から数字の魔法に長けている人物を紹介してもらってね......ところがある筋から、ヒルデブランドの周辺を嗅ぎまわっている動きがあると情報が入った。あなたのことじゃない」

 

 機先を制して、クロニーは私の質問を潰した。

 

「我々の同業者だ。それでベニー――彼の魂に安らぎあれ――が誰の差し金なのかを調べていたところ、あなたをその誰かしらの手先と早合点して捕まえ、先日のような失態に至った。そういうわけだ」

「身辺調査のダブル・ブッキングかあ」

 

 ぐらが面白がるような声で言った。

 

「よくよく不運だね、アメ」

「鼻を折られるのは"不運"で済ませていいレベルじゃないわ」

 

 私がふくれっ面で返すと、ぐらは面白がってさらにけたけた笑った。それが概ね治まるのを待って、クロニーは静かに切り出した。

 

「事情は大体こんなところだ。そして説明が終わったところで、一つ聞いてもらいたいことがある」

「何かしら」

「ベニーの調査を引き継いでもらいたい。つまり、ヒルデブランドの近辺を探っているのが何者で、その目的は何か。それを調べてほしい」

「でも、あなたはもうその答えを知っている。そうじゃないの?」

 

 先ほど、"ある筋からの情報"が私のことを指しているわけではないと断言したときのクロニーの口調から、半分カマをかけるつもりでそう訊いてみた。クロニーはうっすらとした笑みを浮かべて、変わらず落ち着いた口調で答えた。

 

「そうね。だが、裏付け調査は大切だ。そのためにベニーを動かしていたわけだし」

「オーケイ、わかったわ。これは依頼ということでいいのね?」

 

 確認のためにクロニーにそう訊くと、横からぐらが口を挟んだ。

 

「アタシとアメは外部協力者だから、クロニーから"命令"されることはないよ。"依頼という名の命令"は来るけどね」

「つまり、拒否権はないの?」

「いいや、あるとも。形の上では」

 

 クロニーが憎たらしいほど落ち着き払った声で続けた。

 

「あくまで依頼は依頼だ。あなたは断ることができるし、完遂すれば報酬を受け取ることもできる」

「でも、アタシなら断るって選択肢は取らない。よっぽどのことが無い限り」

 

 なら、私からの質問はあと一つだけだ。

 

「わかったわ。で、報酬はいくらなの?」

 

 

 

 10:30 AM, Ina's House, Flushing, Queens.

 

「うん、もうテープと詰め物を外しても大丈夫そうだね」

 

 イナは私の鼻の様子をじっくりと見てから、うんうん頷いてそう言った。場所はクイーンズにあるイナの家だ。こじんまりとした褐色砂岩(ブラウンストーン)のおしゃれな建物で、それなりに売れている画家の住まいとしては、結構いい部類だ。

 もちろんその購入費用が画家としての稼ぎだけじゃなくて、今まさに私が受けている闇医者稼業からも出ていることは、その副業を知っている人間からは自明だったけれど。

 

「じゃあ詰め物を外すから。痛かったら言ってね」

「はーい」

 

 イナがピンセットで、私の鼻の奥から綿の詰め物を引き抜くと、膿とも鼻水ともつかないものがねっとりと尾を引いた。鼻をかもうとハンカチーフを取り出すと、イナがぴっと人差し指を立てて言った。

 

「あんまり強くかまないこと。まだ鼻血が出るかもしれないから」

「わがっだ」

 

 言われた通りかるくかむに留めたけれどそれなりの量が出てきて、かわりに鼻の奥がひどくすっきりした。すっきりしすぎて、なんだかちょっと寂しいくらいだ。

 

「詰め物された当初は違和感しかなかったけど、なくなったらなくなったで、なんだか変な気分ね」

「慣れちゃうでしょ? 一週間もしてると」

 

 鼻回りのテープを剥ぎながら、イナは笑い交じりで言った。

 

「人間は本当に、慣れの生き物だよね......さあ、これでよし。身体の痣の方はどんな感じ?」

「ほとんど引いたわ。染みみたいなのがちょっと残ってる程度ね」

 

 目の周りの痣も、すっかり消えてしまっていた。これでもう、外を歩いても無用な注意を惹くこともない。

 

「それはよかった。アスピリンはまだある?」

「私の家には、あるわ」

「あー、はい」

 

 私がぐらの家に泊まる云々は、イナもあの日クロノ・タワーで聞いていたから、私が消費したアスピリンはほとんどぐらの物だってすぐにわかったらしい。

 

「ぐらなら、配給スタンプなしでも調達できるか......じゃあアメ、今日はもう帰っていいよ。お大事に」

「ありがとう、イナ」

 

 イナの家から出ると、冬のニューヨークの冷気が容赦なく襲い掛かってきて、私はぶるりと身震いした。この一週間というもの、ほとんどぐらのアパートメントにこもりきりか、ぐらのクライスラーで移動するかだったから、ようやくこれで人間に戻れたような気分になった。

 歩道の雪はすっかり掻かれていたけれど、路面には薄い氷が張っていて、私はその上をそろそろと慎重に歩いて地下鉄フラッシング線のメイン・ストリート駅に向かった。

 

 

 

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