Mar. 10th, 1943, The Plaza Hotel, Central Park South, NYC
「"鍵束ばあさん"がね、やり直せって」
上へ向かう長期滞在客――スタッフの言い方を借りれば"住人"――用エレベーターの中。私は地下から一緒になった客室係に、モニカから教わった言い逃れを実践していた。名前も知らない彼女は特に支障なくそれを信じたらしく、「あー......」と曖昧に音を伸ばしてから続けた。
「ご愁傷さま」
「全くよ」
三階でエレベーターが停まると、彼女は降り際にこっちを向き、ぐるりと目を回して言った。
「鍵束なんか大っ嫌い」
何か言い返す間もなくドアが閉まり、私は虚空に向かって呟いた。
「随分嫌われてるのね、鍵束ばあさん」
その後、エレベーターはノンストップで私を11階まで運んだ。ドアが開くとケージから降り、分厚い絨毯が敷かれた廊下を東に、ついで北に向かった。
お目当てのスイートは北東の角、59丁目と五番街の角に面した部屋だ。ホテルの名前の由来となった
モニカはカートの中に、スイートの大雑把な間取り図を一緒に入れてくれていた。それによると廊下から彼のスイートに入るドアは、全部で四つあるようだ。その内の一つ、いかにもここから入れという感じに矢印が書き込まれているドアの前にカートを停めた。
さっと周囲を確認して――誰もいない――から、合鍵の一つを使ってドアを開ける。自身とカートを中に入れて、素早くドアを閉めて錠を下ろした。
「けっ、お金持ちってやつは......」
広々とした空間に入って、私は思わずそうこぼした。
ホテルで客室のドアをくぐったら、普通その先にあるのは部屋そのものだ。スイート・ルームでも大抵は狭い
「ぐらのアパートメントのホワイエより広い......しかも家具も高級品ね」
天井の高さという点では、あちらの方が上だ。
それでもこちらのホワイエは
「ぐらと一緒にいるとお金持ちの生活に慣れた気になっちゃうけど......上には上がいるものね」
私は嘆息しつつ、まずは見取り図を参考に室内をざっと見て回ることにした。
目の前にドアがある、このスイートで唯一五番街に面した部屋は、
「あっと、鍵がかかってる」
ガチャリとノブに抵抗されて、私は思わずそう呟いた。
これは興味深い。合鍵で開くだろうけど、これはたぶん客室係に対する"入るな"のメッセージだ。リネン類の交換とかはどうしてるんだろう?
「ここに入るのは後にして、次は......」
ホワイエから南に続く長い内廊下を行くと、その先には
「ふーむ......クローゼットとバスルームは一旦除外してよさそうね。クローゼットにはランドリー・サービスのスタッフが出入りするでしょうし、バスルームは客室係がすみずみまで綺麗にするから、そんなところに置いときたくはないはず」
内廊下をホワイエに戻って反対側、北端のドアを開ける。59丁目と五番街の角、グランド・アーミー・プラザを望むこの部屋は
「うはー......」
部屋に入るなり、私はため息を吐いた。
室内の調度類は、ホワイエのコモード同様ロココ調の高級品でまとめられていた。目が覚めるような白、装飾の金、繊細な彫刻、優美な曲線。テーブルもソファも、キャビネットや
壁紙は白い家具たちの高級さを引き立てるローズ・レッド。クラウン・モールディングは白。
そして石膏の天井からは壮麗なクリスタル・シャンデリアがぶら下がり、電灯が切られているにもかかわらず、自然光でそのクリスタルと真鍮の金具を煌めかせていた。
「真っ白なグランド・ピアノまである......この部屋に入って唖然としない人は少ないでしょうね」
ぐらだって、この部屋に踏み込めば一瞬目を瞠るだろう。それは賭けてもいい。
パーラーの役割は、客人を迎えてもてなすことにある。もてなすといっても、
あるいは書斎に呼ぶほどプライベートではないが、仕事場に招くほどフォーマルでもないビジネスの場として使われることもある。
そういった客人たちに対して富を顕示し、趣味をひけらかし、誰が格上なのかをわからせる――あるいは自分が、相手と対等な富とセンスを持っていることを伝える――ために、パーラーはこんな風に荘厳極まりない部屋になりがちだ。貧乏人の私はたった今、この場にいないゴールドバーグから札束パンチを喰らって、見事にわからせられた格好だ。
「......んで、こっちがダイニング・ルームね」
わからせ部屋――いや、この呼び方はプラザ・ホテルに対して失礼ね。やめよう。
パーラーの西側は壁の代わりに、落ち着いた深紅のカーテンで仕切られている。その向こうは、南北に長い食事室だ。
部屋の中央に、長辺と同じ向きで長いダイニング・テーブルが置かれている。その周辺の椅子を数えた。
「一、二、三、四......十二か」
所謂お誕生日席にも椅子を置けば、最大で十四人まで招けるわけだ。
一方その場合、十三人のゲスト、あるいは主人を含めて十三人の会席者となって、どちらも都合の悪い数字が絡んでしまう。前世紀から
「そしてこっちの家具はルネッサンスか。パーラーよりは居心地重視ってわけね」
テーブルも椅子も、周辺の食器棚や床置時計も、ニスの濃い木目調に緻密な装飾が彫られたルネッサンス様式でまとめられていた。壁紙は落ち着いたグリーン。シャンデリアはあるけれど、より小規模。
この部屋では家具じゃなく、プラザのシェフが供する素晴らしい料理で圧倒するつもりなんだろう。
「そしてこの奥が
目立たないドアをくぐった先は、ゴールドバーグが普段生活しているらしいリビング・ルームだ。この部屋も、パーラーやダイニングと同じように清掃が行き届いているけれど、家具は豪華さより居心地を重視したものが配置されているし、読みかけの本や雑誌、新聞なんかがあちこちに置かれていて、生活感があふれている。
窓はこれまでの部屋にはなかったフランス窓で、その外にはセントラル・パークを見下ろす小さなテラコッタのバルコニーが突き出している。
奥の一画は天井まで届く本棚が配置されていて、両袖の執務卓が置かれていた。
「ここはたぶん書斎スペースね。要チェック、と」
東西に広い居間を抜けた最後は、短い内廊下がある。左右にそれぞれギャレー・キッチンとバスルームがあり、突き当りは隣接する1117号室へのドアになっていた。
ゴールドバーグに限らず、そしてプラザに限らず、高級ホテルのスイートを家代わりにしている人々は、必要に応じて隣接する客室を借りて客間として使う。このドアはその時に使われるものだ。
「キッチンの中は......ピカピカ、と。こんなキッチンで朝食を作る人もいるらしいけど、ゴールドバーグは違うみたいね」
共用廊下に直通のドアもあるし、普段このキッチンは客室係が居間でくつろぐゴールドバーグに、お茶や軽食を給仕するために使うのだろう。となると、ここも除外してよさそうだ。
「さてと、まとめましょう。除外してよさそうなのは2つのバスルーム、クローゼット、ホワイエ、2つの内廊下、パーラー、ダイニング・ルーム、キッチン。逆に可能性が高そうなのはパントリー、マスター・ベッドルーム、リビング・ルームの書斎スペース。こんなところね」
探す順番を少し考えたけれど、一番を決めるのは簡単だった。
「まずはベッドルームから行きましょう。他と違って、そもそもまだ中を見てないし」
ホワイエに戻ると合鍵を使って錠を外し、五番街に面した主寝室へと入った。
「......?」
入り口からさっと中を見渡した時、何かが引っかかった。何か......違和感がある。
「......だめ、わからない。とりあえず、部屋の様子を見ましょう」
寝室も居間と同じく、贅より質といった感じの調度類がそろっている。コーヒー・テーブルとソファ、肘掛椅子、
キング・サイズのベッドは、ぐらが五人くらい並んで寝られそうな広さだ。寝具は乱れていて、確かに今日はリネン類の交換がなかったらしい。
そしてこちらにも両袖のデスクがあった。居間のそれは綺麗に片付けられていたけど、こちらは書類や本――恐らく法律書――で散らかっている。
「なるほど、あっちと違って仕事道具を一々抽斗に仕舞って、鍵をかけなくてもいいわけね」
とはいえ、このデスクに帳簿があるか?
ざっと見る限り、天板の上の書類は訴訟関係のもので、お目当ての物はなさそうだ。抽斗の錠前は簡単なもので、ロック・ピックどころかナイフやプラスチック片でこじ開けられる。セキュリティとしてはお粗末だ。
「うーむ......そういえばこのスイート、金庫が無いわね」
厳密には、クローゼットに一つあった。けれどタンブラー錠だけが付いた小さなもので、おそらく合鍵の中のどれかで開けることができる。後で確認はするけれど、ゴールドバーグならあんなとこに帳簿を隠しはしないだろう。
「床置きの金庫を置くようなスペースはなかった。となると壁金庫ね」
それを念頭に、再び室内を見回す。
「......ああ!」
違和感の正体に気付いて、私は暖炉に駆け寄った。
そう、暖炉。私の家にはないけれど、ぐらのアパートメントにはある、割と見慣れた暖房器具。このスイートも、各部屋に豪華な暖炉が一基ずつあった。
それらの暖炉とこの寝室の暖炉には、違いが二つある。一つは煤一つ無くて、とても綺麗だってこと。まあ、前回客室係が磨き上げてから、一回も使ってないって可能性もあるけれど。
「それでも、火掻き棒とか火箸とかが一つもないのは流石におかしい。なぜなら......」
身体を反り返らせ、指先でマントル・ピースを掴んで、上体を暖炉の中に突っ込んだ。
「やっぱり、煙突に繋がってない」
この暖炉は飾りなのだ。だから薪入れや石炭入れ、あるいは火掻き棒、火箸、石炭シャベルみたいな、暖炉に付属する諸々が見当たらないんだ。他の部屋の暖炉には、しっかり真鍮の道具があったのに。
「となると、あんたが怪しいわね」
私は暖炉の上に飾られた、額縁入りの絵画を睨んでそう呟いた。エドガー・ドガの踊り子。本物がこんなところにあるわけないから、印刷された模造品だろうけど。
「こういうのって大抵こうすると......お」
額縁に指を引っ掛けて、下に力を入れると、がたりと少し下に動いた。手をはなすと、踊り子はそのままゆっくりと上に上がって行き、黒光りする金庫が顔を出した。大当たり。
「これは......いい金庫ね。破りがいがあるわ」
桁数を探るためにダイヤルを回して、私はそう呟いた。ディスクの切れ目を探るのがとても難しい。
できれば指先の感覚だけじゃなくて、全身を金庫にくっつけて機構を感じ取りたいところだ。ところが相手は壁金庫で、しかも大きなマントル・ピースが前に突き出していると来ている。
「聴診器、持ってくればよかった......」
聴診器を使うのは、金庫破りとしては三流だ。でもこの状況だと、少しでも多くの手数が欲しい。くそ、探偵社の抽斗にしまい込んだままにしていた自分がちょっと恨めしい。
「......五......六......六桁か」
厄介さはさらに増した。
一応初期設定の番号を試してみるも、全部ハズレ。
「オーケイ。じゃあ、ゆっくりじっくり付き合ってあげるわ......」
15:08 PM, Goldberg's Suite, The Plaza Hotel, NYC
がこっとレバーが動いて、下着姿の私はへなへなとその場に崩れ落ちた。三十分強に渡る私と壁金庫の逢瀬はたった今、金庫がついに屈服して終わった。
「はーっ......はーっ......」
私も満身創痍、汗びっしょりだ。顔面から垂れる脂汗に、偽りの日灼けを演出するファンデーション・クリームが混ざって、白いシュミーズを汚していく。途中で制服を脱いだ判断は大正解だった。
しばらく息をついて、ようやく私はふらつきつつも立ち上がった。
「ふーっ......さてさて、中身を見せてもらいましょうか」
中から出てきたのは、バンクロニー社のレターヘッドが捺された帳簿だった。大当たりだ。
帳簿は、一見同じように見えるものが二冊入っていたけれど、たぶん中身が少し違うのだろう。社内用の物と、内国歳入局に提出する物に分けてあるらしい。二重帳簿というやつだ。
喝采を叫びたい気分を押さえつつ内廊下に戻ると、清掃カートに隠したコートを取り、その中からミノックスを出して帳簿を撮影した。今日はまだ盗らない。
「これは......ほうほう、リスク管理がなってないな、ゴールドバーグくん」
帳簿と一緒に入っていた書類を見て、私は偉そうな独り言を垂れた。
マンハッタン銀行のレターヘッドが捺された、貸金庫の使用契約書だ。これもミノックスで撮影して、さっと斜め読みする。
「ふーむ......」
なるほど、こちらもなんとか攻略できるかもしれない。
コートから手帳を出し、金庫の組み合わせ番号をメモしてから寝室に戻ると、帳簿と契約書を金庫に戻して閉め、ダイヤルをリセットして"64"が上に来るように合わせた。事務所の金庫と同じだ。
カートから持ってきた清掃道具を使って、金庫の扉にべったりと付いた私の脂汗をふき取り、綺麗に磨き上げた。
「次はクローゼットだけど、その前に......」
主寝室に隣接するマスター・バスルームに入ると、洗面台で顔を洗った。汗で流れてあちこちに筋が入っているクリームを洗い落とし、備え付けのタオルで綺麗にふき取る。
「ふー......」
鏡を見ると、いつも通りのアメリア・ワトソンがそこにいた。かつらは金庫破りの途中に外したまんまだったし、目が吊り気味になるよう目尻を固定していた小さなテープも、たった今流れてしまって、やや垂れ気味の自分の目が、鏡の中からこちらを見返していた。
一旦カートに戻って使用済みのタオルを放ると、新しいタオルと清掃道具を持って戻り、使用前と寸分変わらぬように洗面台を磨き上げた。私、客室係もやれるかもしれない。
15:30 PM, The Plaza Hotel, Central Park South, NYC
さらに三十分ほどかけて他の部屋の捜索も行った私は、ゴールドバーグのスイートを出た。かつら以外の変装が落ちてしまった顔をあまり見られないように、俯き加減で廊下を進む。
南側の住人用エレベーター・ホールに着くと、下りエレベーターを呼んだ。ここが一番どきどきするところだ。
「誰も乗っていないエレベーターが来ますように......」
チン、と控えめなベルが鳴ってドアが開くと、幸いにもケージは無人だった。急いでカートと一緒に乗り込むと、鍵の一つを地下階のキー・スイッチに差し込んで捻った。
ドアが閉まって下りはじめると、さらに操作盤の下の方にある"
「このまま誰にも見られなければ......」
フラグって知ってる? その時の私にそう訊きたいところだ。
地下に着いてドアが開くと、エレベーター・ホールにはベルマンがいて、軽食やティー・セットの載った配膳カートを押して入って来ようとしたところだった。
一瞬目があった後、ベルマンは自分のカートを引いて、先に出るよう私に促した。
「どーも」
南部風に母音を伸ばして言い、エレベーターから降りる。ベルマンは軽く会釈を返して、カートと一緒にエレベーターへと消え、私はこっそりと溜め息を吐いた。
最初に来た倉庫に戻って内側から鍵をかけ、制服からワンピースとコートに着替える。汚れたタオルや清掃道具は、モニカがなんとかしてくれるだろう。たぶん。
錠を外すと、合鍵の束をカートに放り、私は倉庫を後にした。