幼き少年と、永遠を生きる妖狐の少女。
2人の出会いは、お互いの運命を大きく変えるものだった。

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刹那の求める永遠、久遠の遥かな一瞬

 俺、刹那にとって、久遠という存在はほとんどを占めていると言っていい相手だった。

 

 久遠と初めて出会ったのは、俺が3歳の頃だったはずだ。

 近くの神社で遊ぶ、狐の耳と尻尾が生えた変わった少女。

 俺と同じ黒い髪と目を持っているが、耳と尻尾の色が狐と同じで目立っている。

 みてくれは年上の姿だったが、それでも子供にしか見えない相手だった。

 まあ、それでもちょっと年の差を感じるというか、大きい相手だとは思っていたのだが。

 見た目で言えば、12歳くらいだろうか。まあ、久遠という存在に、年齢など意味はなかったのだろうが。

 

 久遠の顔は穏やかで、それでも若干の冷たさを感じるものだった。

 だから、初めて対面した時は少し恐れていたんだよな。

 なんと言えばいいのか。取って食われるかもしれないというか。

 だけど、怖がって震えていた俺に、久遠は優しく微笑んで声をかけてくれた。

 きっと、それが始まりだったのだろう。俺が久遠を想う気持ちの。

 

「お主、なんという名前じゃ? うちは久遠。この神社に住んでいる、いわゆる狐の妖怪じゃ」

 

「妖怪? なら、僕を食べたりするの?」

 

「そんなことはせんよ。ほれ、うちの手を握ってみよ。そうすれば、お主と同じ暖かさが伝わるはずじゃ」

 

 言われるがままに握った久遠の手は俺にとって大きくて、それでも、言われた通りの暖かさに安心した。

 妖怪と呼ばれていても、同じように生きている相手なのだと、その時に感じられたのだろう。

 当時の俺は幼かったので、久遠と俺にある違いなどまるで分かっていなかったのだ。

 

「うん、久遠さん、暖かいね。それに、とっても優しい!」

 

「そうか。お主にはそう見えるのじゃな。嬉しいことじゃ。うちもお主の暖かさを感じるぞ」

 

「なら、おそろいだね! 久遠さんと一緒で嬉しいよ!」

 

「久遠で良いぞ。お主にならば、その呼び方を許してやろう」

 

「久遠、これからよろしくね」

 

「くくっ、これから、ときたか。もちろん良いぞ。また遊びに来るが良い」

 

 俺は近所に住んでいたから、当然のようにまた会うつもりでいた。

 久遠はそれを知っていたのだろうか、知らなかったのだろうか。

 俺の知る久遠のことを考えれば、知っていてもおかしくはない。

 とはいえ、俺は後から名乗ったのだから、知らなくてもおかしくはなかった。

 

「また遊びに来るけど、今からも遊んで、久遠」

 

「それは良いが、お主の名前を聞いておらんな。せっかく遊ぶのじゃから、教えてくれ」

 

「僕は刹那! よろしくね!」

 

「刹那か。うちの名前と反対じゃな。まあそれはよいか。これからよろしく頼むぞ、刹那」

 

「反対ってどういうこと?」

 

「刹那とはとても短い時間。久遠とはとても長い時間のことじゃからな」

 

 その俺と久遠の名前が、俺達の関係を象徴するようなものだなんて、その時の俺は知らなかった。

 ただ、久遠との共通点のようなものを見つけて喜んでいただけだったな。

 

「そうなんだね。知らなかったな。久遠、教えてくれてありがとう」

 

「構わんよ。刹那、うちはお主より随分と長く生きておる。じゃから、聞きたいことがあれば聞いてみるが良い」

 

「じゃあ、人間と妖怪ってどう違うのか教えて!」

 

 その時の俺は、本当に何も知らなかった。人間と妖怪の間に、どれほどの差があるのかも。

 久遠がどれほどの時を生きてきたのかも。そして、俺と久遠がどれほど遠いのかも。

 初めから知っていたのならば、俺は久遠を好きになることなど無かったのかもしれないな。

 久遠を好きになったことで得た喜び、のしかかってきた悲しみ。どちらのほうが多かっただろうか。

 それでも、俺が久遠を好きになったことは得難い経験だったはずなんだ。

 だって、人を好きになる喜びは、久遠だけが教えてくれたものだったから。

 

「説明が難しいのう。じゃが、一番大きい違いは簡単じゃ。人は親から生まれるが、妖怪は自然から生まれるのじゃ」

 

 その言葉を受けて俺が理解できたことなど、ほんの少しでしかなかった。

 だが、当時の俺は分かりやすい説明だと思っていたんだよな。

 なんというか、妖怪のイメージにぴったり当てはまっていたというか。

 よく分からないところから出てくる存在だと思っていたから。

 今ならば分かるんだ。この言葉が、どれほど人と妖怪の間の距離を示していたのか。

 それでも、遠さが分かるだけで、妖怪の本質が理解できたわけではないのだが。

 

 結局のところ、姿形に似ているところがあったとしても、人と妖怪は別の生き物ですら無い。

 動物から進化した人間と、何らかの概念の具現化だろう妖怪。

 妖怪についてちゃんと分かったことなど、俺の一生ではほとんど無かったのだが。

 それでも、久遠と俺の時間が交わったことだけは、心に刻まれていたんだ。

 

「自然って、森とか山とか?」

 

「風や川、雨や雲などもあるのじゃ。うちが何から生まれたのかはうちも知らんが、おそらくは狐がいるような概念からじゃろうな」

 

「狐にそっくりだもんね、久遠」

 

「そういうことじゃ。じゃが、お主とも仲良くすることができる。それは確かなことよ」

 

 久遠と仲良くできる。そう言われたことが嬉しくて、それ以外の疑問なんて頭から抜けていたんだっけな。

 久遠のことは頼りになるお姉さんだと当時は感じていたんだよな。

 初めて顔を見たときに冷たい印象を持ったことなど、もうとっくに忘れていたんだ。

 それくらい、久遠は努めて優しく接してくれていたのだろう。

 そうでもなければ、きっと久遠に俺がなつくことはなかったはずだ。

 

「ありがとう! これからも遊んでね!」

 

「もちろんじゃ。刹那、お主とは長い付き合いになるかもしれんな」

 

 そんな事を言う久遠は、何かを俺から感じ取っていたのだろうか。

 あるいは、単なる社交辞令の一種だったのだろうか。

 いずれにせよ、俺と久遠は、久遠の言葉通りに長い付き合いになるのだ。

 そんなことは当時の俺は知らなかったが、久遠と親しくできそうだと感じて、喜んでいたんだ。

 俺はもう、久遠に魅了されていたのかもしれないな。今となってはハッキリとは分からないが。

 

「そうだと良いね。久遠と仲良くできたら嬉しいかも!」

 

「お主が望むのなら、うちはいつまででも仲良くしよう。じゃが、離れていくのも自由じゃ」

 

 久遠からはどれだけの人が離れていったのだろうか。

 その時の久遠の表情を俺はちゃんと見ることはできていなかった。

 だが、もしかしたら悲しみを映していたのかもしれないな。

 俺の人生の中で、俺以外に久遠と仲良くしている人なんて見かけなかったから。

 それくらい、久遠から離れていく人は多かったのかもしれない。

 俺は、直接久遠に聞くことなんてできなかったけれど。

 

「離れたりなんてしないよ! だって、久遠は優しいから!」

 

「そう言ってくれるのか。ありがたいのう。刹那、いつでも遊びに来い。めいっぱい楽しませてやるからな」

 

 久遠はとても暖かい表情をしていて、自分は受け入れられているんだと信じられた。

 目線を合わせてくれていたのも、その感覚を大きくしていたのかもな。

 もう俺は久遠を信じ切っていたんだ。今思えば、危ない話ではあったのだが。

 妖怪には人間が考えるような危険な存在はいたし、そもそも人間だとして不審者もいる。

 たぶん、誰かに久遠を警戒しろと言われたところで、俺は反発していただろうが。

 

「久遠と一緒なら、きっと何でも楽しいよ! だから、いっぱい遊んでね!」

 

「ああ、もちろんじゃ。刹那は可愛いのう。こんな風に慕ってもらえるというのは、嬉しい限りじゃ」

 

 今思えば危ない発言のような気がしなくもないが、きっと久遠は孤独だったのだろう。

 俺は久遠と長い間ずっと一緒にいたが、久遠に近づく相手など、まるで見かけなかったから。

 何が原因なのか、俺には結局わからなかったんだよな。

 妖怪でも、人間に親しまれる存在はいるのだが。久遠はそうではなかったようだ。

 あんなに優しい相手など、他にいないと思っていたくらいなんだが。

 

「久遠みたいに良い人なんて、そんなにいないからね」

 

「それはどうだろうな。じゃが、お主にはこれからも優しくする。そう決めた。じゃから、何度でもここにやってきていいぞ」

 

 もしかして、久遠の方から人を遠ざけていたりしたのだろうか。

 このセリフを思い出して、何となくそう感じた。

 実際のところがどうであれ、久遠の言うように、俺は何度でもこの神社を訪れることになる。

 その間、久遠は俺にずっと優しくしてくれた。だからこそ、久遠と出会えたことに感謝していたんだ、当時の俺は。

 今でも久遠との出会いは、決して失いたくないものではあるが。

 それでも、久遠のそばにいることで、俺が傷ついていたこともあるんだ。

 そんなことは、3歳だった俺は全く想像もしていなかったな。

 ただ、いい出会いができたとだけ感じていたんだ。

 

「じゃあ、毎日でも来るね!」

 

「そうか。それは楽しみじゃな。刹那、お主はいい子じゃ。だから、色々な遊びを用意しておくからな」

 

 久遠は楽しそうな顔をしてくれていたので、歓迎されていると思えたんだ。

 何をして久遠と遊ぶことができるのか。それを考えただけで、何もしていなくとも楽しい気分になるくらいに。

 俺がいい子だったのかどうかは今でも良くわからないのだが。

 久遠のことを好意的に見ていたからこそ、久遠に会いたいと考えていたのだから。

 最初の印象のままに恐れていたならば、二度とこの神社には訪れなかっただろうな。

 それを思えば、俺がいい子だと久遠に判断されたのは、久遠の優しさのおかげなんだ。

 

「ありがとう! 久遠と遊ぶの、楽しみだなあ」

 

「ならば、今からでも遊ぶか? 刹那とならば、うちも楽しめるじゃろうからな」

 

「うん! 何をするの?」

 

「建物の中と外、どちらが良い? それに合わせてやろう」

 

「じゃあ部屋! 久遠の家、どんなところか教えて?」

 

「よかろう。さあ、こっちじゃ」

 

 久遠に手を引かれて、俺は建物の中へと入っていった。

 お参りする場所と言う雰囲気のところを通り抜けて、家具なんかが置いてある部屋へと案内されたんだ。

 その間、久遠とずっと手を繋いでいた。久遠は優しく手を握ってくれていて、久遠が俺を大切に扱ってくれていると思えたんだよな。

 

 そして、そこでは将棋を教えてもらった。駒の種類も知らなかったんだが、一から教えてくれたんだ。

 ルールを覚えたばかりの俺に華を持たせてくれて、俺はとても楽しく時間を過ごせた。

 久遠はプロでも通用するんじゃないかというくらい強いので、もしかしたら、つまらなかったのかもしれない。

 そんなことはおくびにも出さず、笑顔で俺の勝利を喜んでくれた久遠。

 当たり前のことかもしれないが、久遠の態度のおかげで将棋を好きになれたんだ。

 とはいえ、本気になった久遠には手も足も出ないほどの実力しか身に着けられなかったが。

 久遠とはずっと将棋を指し続けていたのだが、俺は久遠を楽しませられていたのだろうか。

 

 それはさておき、その日は暗くなるまでずっと久遠と将棋を指していた。

 俺が大体勝っていたのだが、良いところで負かされて、それが余計に俺をのめり込ませた。

 まさに久遠の手のひらの上と言って良いのだろうが、当時の俺は全く気づかなかったんだよな。

 相当長い時間を生きていたらしい久遠には、3歳児の考えなど手に取る様にわかったのだろう。

 その日の最後の対極では負かされて、次の日にどうやって勝つかだけを考えていたんだ。

 

「良い所まで来たんじゃがな。惜しかったな。ふふ、次にどう勝つか、考えておくと良い」

 

「今度は負けないからね! 首を洗って待っていること!」

 

「くく、難しい言葉を知っておるの。もちろんじゃ。刹那と遊ぶのは楽しいからな」

 

 さっきまで負けた悔しさで頭がいっぱいだったのに、久遠の言葉でつい嬉しくなっていたんだ、俺は。

 きっと、俺が楽しいと感じていた時間を、久遠が同じように感じてくれていたからだろう。

 もしかしたら嘘の可能性もあるのだが、久遠はずっと俺と一緒にいてくれたから。

 まあ、当時の俺は本気で信じ切っていて、帰る足取りも軽いものだったんだよな。

 次は将棋で勝ちたいと考えていたし、他にも色々な遊びをしたいと思っていたんだ。

 

 それからは毎日のように久遠のもとへ通い、そこで遊んでいた。

 久遠を俺の家へ誘ったこともあったが、それには乗ってくれなかったんだよな。

 少しばかり拗ねたりもしたが、久遠が必死といった様子で慰めてくれたんだ。

 

「せ、刹那。うちはお主のことが嫌いなわけではないぞ。ただ、人の家にうちが行くのは好ましく思われんだろうからな。ほら、お菓子があるぞ。食べていくか?」

 

 明らかに俺のご機嫌取りをしようとしてくれていたよな、あれは。

 でも、久遠に俺が過ごした家を見せられないことは、少しどころではなく寂しかった。

 親しくなった久遠に、もっと俺を知ってもらいたいと考えていたから。

 結局、久遠が俺の家に来ることを避けていた理由は何だったのだろう。

 俺は久遠について、知らないことのほうが多いくらいだったのかもしれないな。

 それでも、久遠への信頼は揺らがないし、仮に疫病神のたぐいだったのだとしても、久遠と離れようとは考えなかっただろう。

 

 それからも久遠とずっと一緒に遊んで、次に印象に残っているのは6歳の時のことだ。

 いつものように久遠と遊んでいると、感慨深げになった久遠が言った言葉が、当時の俺は気になっていた。

 

「刹那もずいぶん大きくなったものじゃな。もうしゃがみこまなくても、目線を合わせられるぞ」

 

 久遠はそう言いながら、俺に向けてかがみながら目線を合わせてくれていた。

 その時に気がついたんだよな。久遠が毎回俺の目をしっかり見ながら話しかけてくれていたことに。

 だから久遠の優しさが伝わってくるような気がして、胸が暖かいもので満たされていたんだ。

 当時の俺は久遠と遊ぶ時間が一番楽しかったからな。今でもそう変わりはしないかもしれないが。

 

「そのうち、久遠の身長なんか抜かしちゃうんだからね。今度は僕がかがむ番だから」

 

「くくっ、それは楽しみじゃな。それなりに時間はかかるであろうが、ゆっくりと待つとしよう」

 

 久遠は朗らかな笑顔で返してくれて、本当に楽しみにしてくれていると感じられた。

 それまで身長など意識したこともなかったのに、伸ばしたいと感じ始めるくらいには。

 きっと久遠は俺の成長を誰よりも期待している。俺はそう信じていたんだ。

 久遠と話しているあいだ、久遠はずっと柔らかい声でいてくれた。その影響は大きいだろうな。

 だからこそ、久遠は俺にとって誰よりも信頼できる相手だったんだ。

 

 俺は久遠の過去などまるで知らない。そんなことは大した問題ではないと、今でも信じられる。

 久遠が俺にしてくれたことを思えば、多少の問題がある思惑なんて、気にもとめなかっただろう。

 まあ、実際に俺が何か悪意のあることを仕掛けられたということは無いのだが。

 俺はその恩に相当するだけのものを、久遠に返せていたのだろうか。わからないな。

 久遠が俺といる時間を楽しんでくれていたことは間違いがない。でも、それで十分と言えるわけでもないだろう。

 とはいえ、今から俺が何をしたところで、返しきれるものでは無いだろうが。

 

「そんなに待たせたりしないよ。すぐに追いついちゃうんだから」

 

「焦るでないぞ。うちはいつまでも待っておるから、いずれその瞬間を見せてくれれば良い」

 

 そう言われた時は、すぐではないと言われているようで悔しかったような、ずっと一緒だと言ってくれているようで嬉しかったような。

 俺にとっては久遠は日常に当たり前にいる存在ではあったが、久遠にとっても同じだと感じられたのかもしれない。

 そんな久遠にお前は幼いと言われているような気分もあったのだろう。

 俺は当時にはもう、久遠に頼られる存在でいたいと思っていたような気がする。

 

「うむむ……ちゃんと待っててよね。そしたら、すぐに背が伸びないって言ったことは許してあげる」

 

「もちろんじゃ。うちは刹那のことをいつでも見守っておるからな」

 

 その言葉通り、久遠は俺のことをずっと見守ってくれていた。

 楽しいことがあった日も、つらいことがあった日も、ずっと。

 そんな久遠がいたからこそ、俺は前向きに生きることができていたんだろうな。

 当時の俺は、親や姉のように思っていたのだろう。

 久遠のことだけは何があったとしても信用できる。そう考えていたんだ。

 

「ありがとう、久遠。大きくなったら、僕が久遠のことを助けてあげるね」

 

 久遠にずっと助けられているだけだという不満が、すでに俺の中にあったんだよな。

 俺は当時から久遠のことが大好きだったから、何か役に立ちたかった。

 久遠はそんな俺に気づいていたのかどうなのか。何か俺が苦しんでいると、すぐに助けてくれていた。

 些細な事から、大きな悩みまで、全部。ただ、ある程度歳を重ねた俺が久遠を遠くに感じるということだけは、どうにもできなかったようだが。

 

 そもそも、その俺の悩みに気づいていたのだろうか。まあ、同じ悩みを持っている相手に、俺が何ができるかと考えれば、何もできないだろう。

 だから、俺の苦悩に手出しできなかったのかもな。正直、解決策など俺には思い浮かばない。

 久遠には久遠で、永遠を生きるということには苦しみもあったのだろうが。

 それを俺は癒せたのだろうか。だとすると嬉しいな。

 

「うちの心配などしなくとも良い。じゃが、お主のその気持ちは嬉しいぞ」

 

 その言葉に、俺は不満と喜びを同時に感じていたような気がする。

 俺が久遠を助けたいという気持ちを喜んでくれているような気が少しして。

 だけど、それ以上に久遠から遠ざけられているような感覚を味わって。

 俺は久遠に本気で感謝していたし、だから久遠に喜んでもらいたかった。

 それなのに、久遠を喜ばせるための手段が見えてこなかった。

 

「心配するよ! だって、僕は久遠が大好きだから。久遠のおかげで、今が楽しいんだから」

 

「それは……ありがたいな。だが、うちはお主が健やかに生きてくれれば、それだけでいい。お主が生を終えるまで見守れるのなら、それが一番じゃ」

 

 久遠の言う望みはほんのささやかな物のように思えて。

 俺が久遠から貰った喜びに等しいとはとても思えなかった。

 久遠が望むのならば、この神社にずっと来る。もともとそのつもりでいたからな。

 それに何より、俺自身が久遠のそばにいたかった。

 幼かった俺の、つまらないと言って良い望み。それでも、その気持ちは本物だったはず。

 だから、俺はこの町でずっと暮らすことを選んだのだ。

 

「そんなの、久遠にとって必要なことなの? 僕は満足できない気がするけど」

 

「他者の平穏を喜びと感じるのは、うちが長く生きたからかもしれん。じゃが、うちが刹那を大切に思っているからこそ、お主には幸せになってほしいのじゃ」

 

 久遠の言葉には、納得できたような、できなかったような。

 俺自身も久遠に幸せになってほしいと感じていたから、その点では理解できた。

 とはいえ、久遠が幸せだとしても、俺の望みが何一つ叶わないのならば。

 きっと俺は幸福など感じられなかったと、少なくとも当時の俺はそう考えていた。

 だから、久遠の個人的な幸福を知りたいと考えていたんだ。

 結局、久遠は答えを教えてはくれなかったのだが。

 ただ、俺を大切にしてくれていた。それは間違いなく本当のことだった。

 

「久遠と一緒にいるから、僕は幸せだよ。だから、他になにかない?」

 

「特にはないの。それよりも、刹那。これからは何をして遊ぶのじゃ?」

 

 話をそらされていることは当時の俺にも分かっていた。

 だが、無理に久遠を問い詰めて、久遠に嫌われてしまうことが恐ろしかった。

 だから、久遠の話題にそのまま乗ることにしたんだよな。

 実際、久遠と遊ぶためにこの神社に通っていたわけでもあるのだし。

 

「何でもいいけど、今日は部屋の中の気分かな」

 

「ならば、トランプでもするか。テレビゲームも用意しているが、それにするか?」

 

「久遠、ゲームを買ったの? どんなやつ?」

 

「パーティゲームというのか? 何人かで遊べるものじゃ」

 

「じゃあ今日はトランプかな。テレビゲームはそのうちにね。わざわざ買ってくれたんでしょ?」

 

「気づかれてしまったか。じゃが、気を使わんでも良いぞ。金には困っておらんからな」

 

 久遠は神社に住んでいるようだったが、参拝客などは特にいなかった。

 一体何をして久遠は金を稼いでいたのだろうか。未だに知らない。

 ただ、その時の俺はそれが気になっていたんだよな。だから、そのまま聞くことにしたんだ。

 

「お賽銭でも貰っているの? でも、人は全然来ていないみたいだけど」

 

「この神社は見た目だけで、正式に神が宿っているわけではないからな」

 

「なら、僕が大きくなったら神主になって、ここを本物にしてあげる」

 

「ふふ、それも悪くないの。じゃが、かなり先の話になるだろうな」

 

「そうかもね。勉強だってしなくちゃいけないし」

 

「まあ、それはよい。刹那、こっちじゃ」

 

 久遠は俺の手を取って、俺たちは手をつなぎながら部屋へと歩いていった。

 今日言われた、俺が大きくなっているということ。

 そのセリフがあったから、俺は久遠の手の大きさを意識していた。

 俺よりもはっきりと大きい手。その感触はいつもと同じはずだったが、いつもより大きく感じていたんだ。

 それで、俺はもっと久遠に近づきたくて、その手をギュッと握った。

 久遠は俺が動いたのに合わせてこちらを見て、微笑んでくれたんだ。

 きっと、俺が何を考えていたのかなんて、お見通しだったのだろう。

 

 それから、久遠とトランプで色々な遊びをしていた。

 当時の俺は気がついていなかったが、相変わらず俺は久遠の手のひらの上。

 将棋だけではなく、駆け引きが絡んでくる遊びならば、ちょうどいいタイミングで負かされてばかり。

 久遠のことだから、俺を楽しませようとしてくれていたのだろう。

 実際、久遠と遊んでいる時間はとても楽しいものだったから。

 

「くく、刹那よ、悔しいか? うちに手も足も出なかったではないか?」

 

「こ、今回だけだから! いつも勝ってるから!」

 

「刹那は可愛いやつじゃな。ほれ、こうしてやろう」

 

 久遠はからかうような顔で俺の頭をなでていく。

 その手は心地よくて、つい俺は頭を久遠にあずけてしまう。

 俺の様子をみた久遠は笑みを深めて、もっと激しく撫で回してきた。

 ちょっと頭を揺らされながらも、それが楽しかったんだよな。

 久遠から遠慮のようなものが徐々に消え去っている実感もあったから。

 

 間違いなく久遠は俺を大切にしてくれていた。それでも、少しばかり距離を感じていたんだ。

 だけど、今は前より近づけている。そう思うことができて。

 とはいえ、俺と久遠との距離は、今でもどうしても紙が一枚挟まっているように思えた。

 人と妖怪だからなのかもしれない。俺の気のせいという可能性だってある。

 原因ははっきりしないが、俺の中には一抹の寂しさがあり続けたんだ。

 

「ふう、疲れちゃった。毎日遊んでくれてありがとう。久遠は優しいね。昔からそうだったの?」

 

「昔のうちは、それはそれは悪い妖怪じゃったからな。刹那など、ひとたまりもなかっただろうな」

 

「全然信じられないかも。どんな事をしてたの? ちょっと会ってみたかったかも」

 

「うちは昔のうちを刹那に会わせたくはないな。それに、昔のことをあまり話すつもりもない」

 

 久遠は本当に聞いてほしくなさそうだったので、それ以上聞くことはためらわれた。

 とはいえ、久遠が自分で言うほど悪い存在ではないだろう。

 悪意に満ちた妖怪だったならば、俺がここまで久遠を慕っていたはずもないのだから。

 仮に本当に昔は悪い妖怪だったとして、今の久遠しか知らない俺は、久遠を嫌うなどということは無かっただろうが。

 久遠はとにかく俺に優しくしてくれた。それが失われるわけではないからな。

 

 もしかしたら、久遠が九尾の狐のようなとてつもない存在だという可能性はある。

 そうだとしても、俺が久遠を大切に思う気持ちは変わらないはずだ。

 なぜなら、今の久遠は俺を傷つけようとしない。そう信じられるから。

 仮に絶大な力を持っているのだとしても問題ではない。

 それくらいには、今まで積み重ねてきた時間は大きいんだ。

 

「じゃあ仕方ないね。久遠が悪い妖怪だったなんて、ちっとも想像できないけど」

 

「思い浮かばんほうがありがたいな。うちは刹那には嫌われたくない」

 

「僕も久遠に嫌われたくないかも。お揃いかな」

 

「ふふ、そうじゃな。お揃いじゃ。嬉しい限りだな」

 

 その時の久遠はとても楽しそうで、だから俺もとても嬉しかったんだ。

 久遠が俺を大切にしてくれている。改めてそう感じられて。

 俺だけが久遠を信じているわけではないのだと、安心したような気がする。

 久遠はずっと優しかった。それは間違いない。

 

 でも、心情がいまいち見えてこない時だって多かったからな。

 何かを隠しているというと大げさだが、久遠が何のために俺に優しくしているのかは分からなかったから。

 だけど、久遠が俺との時間を楽しんでくれていると、心の底から信じるきっかけになったんだ。

 だから、もっと久遠と一緒にいる時間を楽しめるようになった。

 

 それからも、ずっと変わらず久遠と遊びながら過ごして、12歳の頃。

 久遠と俺の身長がそろそろ同じくらいになっていたんだ。

 俺にとってはとても嬉しいことで、久遠はそんな俺を優しく見守っていてくれた。

 この頃辺りから、久遠を守りたいという欲求が生まれていたような。

 これまで支えられてきた分、幸せを返したいというか。

 とはいえ、手段が全く思いつかなかったのだが。

 

「ぼくも久遠と並べるようになったね。もう追い抜くのもすぐかな」

 

「なかなかに長かったが、お主がうちを追い抜かすこと、楽しみにしているぞ」

 

「そうだね。抜かすって言ってからもう6年くらい?」

 

「そうじゃな。刹那の成長は早いものじゃ」

 

「さっきは長いって言ったのに。でも、ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」

 

「当然のことじゃ。うちとて、刹那との時間は楽しいのだからな」

 

 俺が久遠との時間を楽しいと感じている。何も言わずともそれが伝わって。

 だから、久遠の言葉は凄まじく嬉しいものだった。

 久遠と共に過ごした時間は間違いなく最高で、久遠もきっと同じように感じてくれていて。

 いつかは見上げていた久遠に、対等に寄り添えるのだとも思えていた。

 今考えてみれば、幼い思い上がりといったところだろうが。

 

「久遠も同じ気持ちなんだね。またお揃いだね、なんてね」

 

「刹那とお揃い、いい響きじゃな。もっと増やしていきたいものじゃ」

 

「服でも揃えてみる? そんな事をしたら、付き合っているみたいか」

 

「くく、それはまだ、気が早いものじゃな。いずれなら、悪くないかもしれんが」

 

 当時の俺はどう考えても子供だったので、久遠のセリフは当然のものなのだが。

 とはいえ、俺は若干傷ついていたような気がする。

 久遠と並び立ちたいというのが当時の俺の本音だったので、悔しかったのかもな。

 結局のところ、久遠にとって俺は単なる子供だと突きつけられたようで。

 久遠は俺を大切にしてくれているからこそ、安易な言葉を言わなかったのであろうが。

 そんなことは当時の俺には分からなかったからな。

 

「そんな言い方して、後悔したって知らないからね。逃した魚は大きいんだって思い知らせてあげるから」

 

「それほど刹那が成長してくれるのなら、喜ばしいだけじゃ。うちはお主が幸せならばいい。前にも言っただろうがな」

 

 久遠の余裕ある態度ですら、俺が幼いのだと示しているようで。

 だから、もっと早く成長したいという焦りが生まれたんだよな。

 今思えば、反抗期の始まりに近い感情だったのだろうか。

 まあ、俺が久遠に反発するということはなかったのだが。

 久遠以外に大切な存在など居ないようなものだったのだ、俺にとっては。

 

「僕は久遠にも幸せになってもらいたいよ。そうじゃなきゃ、きっと僕は幸せにはなれないから」

 

「それほどうちを大切にしてくれているのは嬉しい。じゃが、そんなことはお主の心配することではない」

 

 久遠のセリフは、きっと俺を心から案じているからこそのものだ。

 人と妖怪は本来相容れないもの。久遠はよく知っていたはずだから。

 だが、当時の俺にはそこまで伝わらなかった。だから、苦しくて。

 それでも、久遠に自分のつらさを見せることは恥ずかしいように思えていたんだ。

 きっと、俺の心は久遠には全て見透かされていたのだろうが。

 

「それなら、勝手に幸せにしてあげるんだから。久遠が望まないとか、知ったことじゃないよ」

 

「間違いなく茨の道だと知って、それでも実行できるのか? そうでないなら、諦めるのじゃ」

 

「何があっても負けない! だって、久遠のことだから」

 

「……はぁ。刹那、いずれ後悔するぞ」

 

「絶対に後悔なんてしないよ。久遠から逃げるほうが、後悔するに決まってるから」

 

 結局俺は後悔したのだろうか。苦しみは確かにあった。それは間違いないが。

 当時の俺は人と妖怪が近づこうとする事がどれほどの難題か、理解できてはいなかった。

 それでも、今の俺がもう一度繰り返したとして、同じ判断をするはずだ。

 だから、きっとあの時の答えは正しかったんだ。そう思いたいな。

 

「強情なやつじゃ。だが、そんなお主だからこそ、好ましいのかもしれん。刹那、うちの運命よ」

 

 久遠は一体俺に何を見出していたのだろうな。

 運命などと言うくらいなのだから、相当大きな影響を与えていたのだろうが。

 ただ、当時の俺は久遠に認められたと考えて喜んでいただけ。

 実際、その時から久遠の態度が少し変わった気がするから、認められていたのは確かなはずだ。

 俺の思い違いだったのなら、とんだ笑い話ではあるのだが。

 

「久遠のことだからね。他の人相手なら、ここまではしないよ」

 

「つまり、うちの行動が今の刹那を生んだわけか。良かったような、悪かったような。お主に厳しい道を歩ませることになるのにな」

 

「良かったでいいんだよ。久遠のおかげなんだから。いま僕が楽しいのは。だから、苦しくても負けないよ」

 

「うちも刹那のおかげで今が楽しい。だから、いつ引き返してもいいのじゃぞ」

 

「そんなことしない! だって、久遠を悲しませたくないから」

 

「刹那はいい子じゃ。うちには相応しくないほどに。じゃが、そこまで言ったのなら。もう逃がさんぞ」

 

 その時久遠から少しだけ恐怖のようなものを感じた。

 だけど、久遠が俺に相応しくないなどと言ったことへの怒りで塗りつぶされたんだよな。

 今振り返ってみれば、久遠の執着を感じていたのだろうか。

 それとも、単に久遠の逃がさないという言葉に引きずられていただけだろうか。

 何にせよ、俺と久遠は一生そばにいることになるのだ。この時に、運命が決定づけられたのかもな。

 

「逃げるって久遠から? そんなの考えられないな。それに、僕が久遠と一緒にいたいんだから、それでいいの!」

 

「今はそうかもしれんな。じゃが、気が変わったとしてももう遅いぞ。覚悟しておくことだな」

 

「気が変わるなんて、無い無い。久遠といるのは楽しいし、嬉しいからね」

 

 当時の俺は本当に軽く考えていた。実際、気が変わることはなかったはずだが。

 それでも、俺が想像していたよりも遥かに大きな苦しみはあったから。

 久遠と一緒にいることは素晴らしいことだった。それは疑う余地はない。

 だけど、ただ喜びだけがあったわけじゃない。あの頃はまだ、幸せなだけだったけれど。

 

「そうか。まあ、今はそれで良い。もはやお主の命運は定まったのじゃから。楽しみじゃな、これから先が」

 

「これまでだってずっと楽しかったんだから、当たり前だよね」

 

「もっと楽しくなるじゃろうな。刹那にとってどうかは知らんが」

 

「久遠が楽しいなら、僕だってきっと楽しいよ」

 

「そうだといいな。さあ、うちに囚われる用意はできたか? これが契約の証じゃ」

 

 久遠はそれから俺の手を握り、静電気のような感覚が走った。

 おそらく、それが契約だったのだろう。未だに何だったのかは分からないが。

 久遠は驚いた俺を見ながら、とてもきれいに笑っていた。

 思わず見とれてしまうほどで、そんな俺を見て、更に笑みを深めていた。

 おそらく契約とやらはそれで終わったのだが、久遠は俺の手を握ったままで。

 

 久遠の手を改めて意識してみると、昔は大きいと感じていたのに、当時は同じくらいで。

 俺が久遠に近づけた証だと、素直に喜んでいたんだよな。俺の成長をはっきり実感できたような気がして。

 暖かくて、柔らかくて、それでいて優しく繋がれていた手。

 久遠のそばにいるのだと、俺の手を通して伝わってきた。

 心にぽかぽかする感覚があって、契約で伝わってきた痛みなんて、もう忘れていたんだ。

 

「こうして手をつなぐのも、久しぶりかな。小さいときはもっと繋いでいたのに」

 

「今でも小さいと思うがな。まあ、うちが言えたことではないか。ただ、刹那はもっと大きくなるじゃろうて」

 

「だといいね。大きくなったら、久遠にできない力仕事とか手伝ってあげる」

 

「うちは力仕事程度なら人間より遥かにできるぞ。刹那の気持ちはありがたいがな」

 

 はたして俺の人生で、なにか久遠を上回っていた能力はあるのだろうか。

 そんな疑問が浮かび上がってくる程度には、久遠にできないことは思いつかない。

 ただ、久遠より遥かに下回る俺だとしても、変わらないことがある。

 俺が久遠を大切に感じていたこと、久遠が俺を望んでくれていたこと。

 だから、もし何一つ勝てないのだとしても、それでいい。

 悔しさを感じないわけではないが、もっと大事なことが俺の中にあるから。だから、十分だ。

 

「久遠の助けになりたいんだけどな。まあ、今は難しいか」

 

「お主がそばにいるだけで、十分うちの助けになっておる。刹那はうちの幸せなのだから」

 

 久遠のその言葉は、きっと本当だったはず。

 俺がこれまでずっと久遠といた中で、久遠の幸せそうな顔は何度も見ていたから。

 久遠がこの言葉を発していた時だって、同じ様な顔をしていたはずだ。

 だって、当時の俺は久遠の言葉をすなおに信じることができていたから。

 久遠の幸せそうな姿を見ることで、俺も嬉しくなっていたような気がするから。

 

「だったらずっと久遠は幸せだね。でも、もっと幸せにしたい気もするけど」

 

「ふふ、刹那は本当に可愛いものじゃ。ほれ、こうしてやろう」

 

 久遠は俺の頭をなでていくが、少しだけ撫でづらそうだった。

 きっと、俺と久遠の背が同じくらいになったから、低い相手を撫でるより難しかったのだろう。

 それを感じた瞬間、嬉しいだけだった俺の成長に、少しだけ寂しさも浮かんできたんだ。

 以前久遠とできたことが、これからできなくなるかもしれない。そんな可能性を思いついて。

 今思えば、始まりはこの時だったのかもしれない。長く続く俺の苦悩の。

 

「背伸びまでしちゃって、そんなに撫でたいの?」

 

「可愛い可愛いうちの刹那だからな。当然じゃ」

 

 当時の俺は全く気にしていなかったが、うちの、と言うのは大概な発言だな。

 気がついていたところで、久遠が近寄ってくれたように感じていただろうが。

 本気で俺をモノとして扱うようには思えないからな、久遠は。

 仮にモノとして扱われていたところで、喜んでいた可能性すらある。

 それくらいには、俺は久遠に依存していただろう。

 

「いい加減、かっこいいって言ってほしい気もするけど。まあ、久遠が僕をかわいがってくれるのは嬉しいけどね」

 

「それは何より。ただ、かっこよく感じるほど成長した刹那をなでるのは難しいじゃろうな」

 

「だったら、僕が久遠をなでてあげるよ。その時なら僕のほうが大きいだろうから」

 

「ふふ、それも悪くはないな。また楽しみが一つ増えたぞ」

 

 久遠の柔らかい表情が、真剣に俺の成長を願っている印に見えて。

 だから、俺も久遠と同じように楽しみにしていたんだ。

 単に思いつきでの発言だったが、久遠の言葉と顔が思った以上に響いた。

 久遠が俺の未来を待ちわびてくれている。そのことが嬉しくて。

 あの頃は成長すること、歳を重ねることを喜びだと思えていたんだ。

 

「それは良かった。絶対に叶えてあげるからね」

 

「成長だけは絶対とはいかんのではないか? 背が伸びなかったのなら、うちがまた撫でてやろう」

 

「久遠の背なんか、すぐに抜いてあげるから。流石にまだ身長は止まらないよ」

 

「くく、まあそうじゃろうな。うちが見上げる側になるのだろう。今までとは逆じゃな」

 

 久遠の言う今までとは逆。それがあまりイメージできなくて。

 ずっと久遠を見上げていたけれど、見下ろすことになるはず。

 なんというか、久遠が俺の上にいるのが当たり前のような感覚がしていた。

 だから、その状況が変化するというのが、よく分からなかったのかもしれない。

 まあ、精神的にはずっと久遠が優位だったわけだから、俺の感覚は間違っていなかったのだろうが。

 

 その日は身長のことだけを意識していたような気がする。

 久遠は他にも契約とやらを大事にしているみたいな気配があったが、俺は気にしていなかったからな。

 俺が久遠から逃げられなくなる契約。直接俺に影響はなかったと思うが。

 ときおり久遠は契約のことを口にしていたから、久遠にとっては重要だったのだろう。

 

 それから2年ほど経って、14歳の頃。

 俺は明らかに久遠より大きくなっていた。相変わらず久遠は全く変わらない姿のままで。

 久遠が俺を見上げてくるようになったという事実が、嬉しかったような、寂しかったような。

 以前のように久遠に甘えるような態度をとることはできない気がして。

 俺自身の成長を感じられた気もするし、単に久遠に意地を張りたかっただけだったのかもしれない。

 何にせよ、久遠は俺が大きくなったことを素直に喜んでくれて。

 だから、まだこの時は久遠との間にある、人と妖怪の差という断崖は意識していなかった。

 

「いつか言ったように、うちが刹那を見上げる側になったんじゃな。時の流れは早いものじゃ」

 

「じゃあ、いつか言ったみたいに久遠の頭をなでてやる。俺も大きくなっただろ?」

 

「つい最近まで僕と言っていたのにな。可愛げが消えたような気がするぞ」

 

「俺は男なんだから、可愛くなくて良いんだよ」

 

「まあ、刹那のような年頃はそんなものか。それで、うちの頭をなでてくれるのじゃろ?」

 

 久遠はからかうような顔で俺に言っていた。

 当然、俺は自分から言いだしたこともあったので、久遠の頭をなでていくのだが。

 狐の耳が生えているので、どうにもうまく撫でづらいと感じていたんだよな。

 なんというか、単に手のひらを乗せるだけでは駄目な感じがして。

 まあ、久遠は心地よさそうにしてくれていたので、俺は悪い気分ではなかった。

 

「こんなものでどうだ? 慣れていないから、うまくないかもしれないが」

 

「うむ。十分じゃよ。刹那に撫でられるというのも、悪くないな」

 

「そうか。もっと練習してもいいかもな。まあ、久遠がもっと撫でていいというのならだが」

 

「刹那の好きにすればいい。うちが拒絶することはないだろう」

 

 その言葉が久遠が俺自身を受け入れてくれることの暗示に思えて。

 俺は密かに喜びの感情に浸っていた。

 何があったとしても久遠だけは信じられる。今でも変わらない思いが、その時また強くなったんだ。

 久遠の些細な仕草や表情、言葉から俺が勝手に歓喜に浸る。

 俺にとってはよくあることだが、久遠は気づいていたのだろうか。

 答えがどうあれ、俺の久遠への感謝は変わらないだろうがな。

 手のひらの上で感情を誘導されていたのだとして、何の問題もないのだから。

 

「そうか。なら、もっとうまくなってみるか。久遠がどんな顔をするのか楽しみだ」

 

「うちの顔を変えられるようなら、どこに行っても通用するじゃろうな」

 

「久遠以外に通用してほしい相手は居ないけどな」

 

「くく、そうか。それは愉快なことじゃな。うちだけの刹那というわけか」

 

「ボッチみたいに言うのをやめろ! 友達くらいは居るんだぞ」

 

「うちがいるからボッチではないだろう。なんだ? うちでは不満か?」

 

 久遠の言葉に思わず言葉が止まってしまった。

 もちろん、久遠に不満があったわけではない。

 ただ、久遠の顔に妖艶さのようなものを感じて、つい照れてしまったというか。

 この頃には自覚していなかったとはいえ、久遠のことが好きだったのは間違いなかったから、おそらくそのせいだ。

 当たり前といえば当たり前か。ずっとそばで優しく見守ってくれた人を好きになるのは。

 とはいえ、自分の感情を自覚していなかったから、単に想いに振り回されていただけだったな。

 

「そういう訳では無い……けど……ずっと久遠と一緒ってわけではないからな……」

 

「まあ、ここに来る以外にも生活はあるからな。しかし、くく、刹那がなぁ」

 

 久遠はなんとも言いがたい顔をして俺の方を見ていたのを思い出す。

 おそらく、俺の想いは気づかれていたというのが正しいのだろうが。

 そう考えると、恥ずかしくて仕方がないな。年を考えればおかしな事ではないとはいえ。

 微妙に素直になりきれないあの感じを見透かされていたことになるわけだからな。

 

「俺がどうかしたのか? なんだ、その顔は? からかってるのか?」

 

「からかってはおらんよ。ただ、喜ばしいだけじゃ」

 

「喜ばしいって、何が? 一体何の話なんだ?」

 

「くく、それを言ってしまったらもったいない。今の刹那を存分に味わいたいからな」

 

 まあ、久遠にとってあの頃の俺というのはちょうどいい玩具だったのかもしれない。

 久遠から嫌われたら耐えきれないであろうに、素直に好意を表に出せないのだ。

 そんな姿の相手が目の前にいたら、それは楽しいだろう。

 久遠から嫌われていたのなら、その限りではなかったはずだが。

 幸い、俺は久遠から好意的に見られていたようだから。

 実は違ったとかなら、俺は絶望しても足りないかもしれないな。

 

「よく分からないことを……まあ、久遠が楽しいならいいけど」

 

「くく、うちのような妖怪にとって、人間の変化は一瞬じゃからな。今の刹那は今しか楽しめんからな」

 

 久遠の言う一瞬は、本当に瞬きのような時間の感覚なのかもしれない。

 そう考えるようになったのは、まだ先の話ではあるが。

 それでも、久遠の言葉になにか引っかかりを感じていたような記憶がある。

 あの時は、久遠が俺を遊び道具というか、からかう相手に考えていたと想像していたのだが。

 きっと、久遠は本当にその瞬間しか出会えない俺を大切にしてくれていたのだろう。

 俺は久遠の感情をもっと大切にするべきだったのかもしれない。いまさらではあるが。

 

「まあ、好きにすればいいけど。何が楽しいのやら」

 

「お主を見ているだけで十分楽しいからな。あとはおまけのようなものじゃ」

 

「そ、そうか。久遠が楽しいのなら何よりだが、変わっているな」

 

「刹那のほうが変わっておるよ。うちのようなものとずっと一緒にいるのだから」

 

 時折久遠の口から出てくる自虐のような言葉が、本当に気に入らなかった。

 当時の俺は間違いなく久遠の存在に救われていたのに、それを否定されたような気がして。

 久遠の過去に何があったのか、俺は今でも知らないが。

 俺は久遠がいたからこそ幸福を知ることができたのだから。

 だから、それだけで十分なんだと知ってほしかった。素直に言葉にすることはできなかったけれど。

 

「仲良くするのに問題があったとは思わないけど。嫌いなら一緒にいるわけがないし」

 

「お主は分かりやすいな。もう少しひねくれていても、面白そうではあるが」

 

 間違いなく、俺の感情がどんな動きをしていたのかはお見通しだった。

 今でも久遠に俺の考えが筒抜けのように感じる時があるが。

 当時の俺は、久遠に分かりやすいと言われることが、子ども扱いのように思えて。

 もしかしたら、今でも子供か何かと思われているかもしれないけどな。

 久遠は大人というか、遥かに年上なわけだから。

 とはいえ、今では久遠に子供扱いされていたのだとしても受け入れられるが。

 

「知ったような口を聞かれると腹が立つな。俺の何をわかったと言うんだ」

 

「くく、可愛らしいことじゃ。怒りを顔に込められておらんぞ」

 

 実際に俺は怒っていたわけではないからな。

 単に子供っぽく見られたことに反発していただけというか。

 だから、本気で怒りと捉えられていないことに、むしろ安心したくらいで。

 久遠に嫌われるようなことなど、俺にはできなかったのだろうな。

 もし久遠が機嫌を損ねていたのなら、慌てて謝っていたことが容易に想像できる。

 

「男に可愛いは、けなしてるようなモノなんだよな」

 

「くく、悪い悪い。じゃが、うちにとってはもっと小さい頃から可愛い刹那じゃからな」

 

「親戚に子供扱いされるようなものか。分からなくもないか」

 

「うちに血族はおらんが、そんなところじゃ。ずっと見守ってきたのじゃから」

 

 久遠は妖怪だから、子孫など居ないのだろうが。

 妖怪は自然から生まれるという以前の久遠の説明からすると、血など大した意味はないのだろう。

 それでも、俺を家族か何かのように大切にしてくれた久遠には感謝しかない。

 もしかしたら、妖怪に情など必要ないのかもしれない。そう感じたこともあるから。

 だって、他者の存在など無くとも、妖怪は生きていけるはずと思えてしまう。

 そんな久遠が俺を信じてくれたこと。愛してくれたこと。間違いなく宝物だ。

 

「はぁ、仕方ないか。だけど、できればかっこいいと言ってほしいものだな」

 

「以前もそんな事を言っていた気がするな。男というのはそういうものか」

 

「他の人間だって知っているだろうに、分からないのか?」

 

「そこまで親しい相手はおらんかったからな。知ろうとも思わなかったな」

 

 久遠の言葉は真実なのかどうなのか。俺には分からないが。

 ただ、久遠とここまで近づけたのが俺だけと言われるのは、心地よかった。

 なんだろうな。言葉にすると、独占欲のようなものだろうか。

 久遠に俺の知らない過去がある。仕方のないことではあるが。

 それでも、久遠をもっと知りたかったような思いがある。

 他にも、俺の知らない恋人のようなものが居ないか、気になってしまっていた。

 まあ、今でも俺は実際どうなのかを知らないのだが。

 

「だったら、何故俺とは親しくしてくれたんだ? ただの子供だっただろうに」

 

「今でも子供ではあるが。それはさておき、そういう気分だったからじゃ」

 

 つまり、久遠の気分次第では俺と久遠の関係は生まれていなかった。

 それを考えた瞬間、つい震えてしまいそうになって。

 だけど、意地のようなものが表に感情を出すことを押し留めて。

 久遠と出会えなかった俺の人生に意味などあると思えなかった。

 とはいえ、今は久遠がそばにいてくれる。そう念じていたんだ。

 

「なるほどな。よく分からないということが分かった」

 

「くく、ほれ、うちが手を繋いでやろう。暖かいだろう?」

 

 久遠はそんな事を言いながら手を握ってきた。

 当時の俺は話の脈絡が分かっていなかったが、おそらく俺の恐怖が見透かされていた。

 久遠の手は言葉どおりに暖かくて、安心できて。

 そして、以前より随分と小さく感じていた。

 このことが、後々に始まる苦しみの原因だとは、当時は知らないままで。

 単純に、久遠をそばに感じるという喜びを噛み締めていた。

 

「なぜ急に手を? まあいいが。こうして手をつなぐのも、久しぶりかもな」

 

「うちはもっと多くても構わんのじゃがな。刹那はどうだ?」

 

「子供みたいで恥ずかしいじゃないか。たまにならいいけど」

 

「くく、たまになら良いのじゃな。それはさておき、子供の頃にお主は神主になると言っていたが、今でもなりたいのか?」

 

「どうだろうな。この神社、何が祀られているのかも知らないからな」

 

「なら、このまま知らなくて良い。そうしてくれ、刹那」

 

 久遠は俺に何を知られたくなかったのだろう。今でもわからない。

 もしかしたら、久遠が祀られていたのだろうか。そうだとして、知られたくないのは何故なのか。

 まあ、久遠が嫌がっているというのは分かったので、神主になる気はなくなっていた。

 俺は久遠に喜んでほしくて、神主を目指すと言った。たしかに覚えていたから。

 久遠のつらそうな、あるいは苦しそうな顔は今でも忘れられない。

 だから、もう神社について口に出さないようにしようと考えていたんだ。

 

「久遠がそう言うのなら……」

 

「ありがとう。優しい子じゃ、刹那は。お主と出会えて、うちは嬉しい」

 

 久遠から俺と出会えて良かったというようなことを言ってもらえて、その時はとても嬉しかった。

 俺と久遠が同じ気持ちを抱いているような感覚になれて。久遠と近づけたような気分になれて。

 ただ、そこから俺の苦しみは始まることになったような気がする。

 

 はっきりと俺が苦しさを理解したのは、16歳の頃だった。

 その時でも、久遠とときおり手を繋いでいた。そして、久遠が全く変わらないということを感じて。

 俺はだんだん成長しているのに、久遠はずっと同じ姿。

 人と妖怪がまるで違う存在だということに、はっきりと思い至ってしまっていた。

 俺は久遠と近づけているどころか、遠ざかっていると感じて。切なくて、心が痛くて。

 

 だけど、久遠に俺の悩みを告げる訳にはいかないと考えていたんだ。

 意地だったのかもしれないし、恐怖から逃げたかっただけなのかもしれない。

 なんにせよ、久遠にはきっと見透かされていたのだろう。

 でも、久遠は俺をゆっくりと見守ってくれていて。だから、久遠をもっと好きになってしまって。

 なのに、久遠は俺の手が届く存在ではないように思える時間がずっと続いた。

 

 苦しくて、つらくて、嘆きたくて。でも、久遠から遠ざかりたくなくて。

 時々手を繋いだりして、そばにいるはずなのに、距離を感じてしまう。

 人と妖怪の間にある断崖はこんなにも広いのだと、強く思い知らされていた。

 だけど、諦めたくなかった。久遠が大好きで、ずっと傍にいたくて。その思いは本物だったから。

 ただ、日々を過ごせば過ごすほど人と妖怪は違うのだとより実感して。

 

 本音のところでは、きっと久遠の理解者にはなれないし、久遠だって俺を理解できない。そう思っていた。

 だけど、せめて一歩だけでも近づきたくて、近づけなくて。

 ある日、心がポッキリ折れたような感覚があった。

 それから、しばらく無気力で。それでも毎日久遠に会いに行くことは止められなかった。

 久遠は心配してくれているようだったけど、何も言えなかった。

 俺が苦しんでいる内容は、久遠も苦しめてしまうように思えて。

 他にも、俺が今更そんな事を悩んでいると知られたくなかったんだ。

 

 久遠はずっと、自分と関わるなどおかしな事だと言っていたはずなのに。

 俺は久遠といられることを楽しむだけで、何も考えていなかった。

 だから、今こんなに苦しいんだ。でも、久遠だけは諦めたくない。そう考えていた。

 久遠は俺の手の届かない存在だということは分かっていて、それでも、手を伸ばし続けたくて。

 そして、一生苦しむのだとしても、久遠と離れるよりマシだと考えて、俺はある決意をした。

 それが20歳の頃。何年も何年も悩んだ問題に、一つの答えが出た頃だった。

 

 いつものように久遠に会いに行って、でも、緊張感が抜けなくて。

 その時の久遠の顔はとても柔らかくて、だから、勇気が湧いてくるようだった。

 久遠に俺の想いが届かないのだとしても、後悔はしないつもりで。

 俺は俺の心を言葉にすると決めたんだ。

 

「久遠、伝えたいことがあるんだ。聞いてくれるか?」

 

「刹那の言葉なら何でも聞くのじゃ。それに、うちにとっていい話のようじゃからな」

 

 ここでも久遠に見透かされているように思えて、安心したような気がしていた。

 久遠はいつまでも変わらないが、俺を大切にしてくれることも変わらないと思えて。

 まあ、俺の心が知られていると思うと、恥ずかしさもあったのだが。

 深呼吸を一度して、久遠に俺の想いを伝える。

 

「久遠、俺は久遠とずっと一緒にいたい。同じ景色を見て、同じように過ごしていたいんだ」

 

「うむ、うちも同じ様な考えじゃ。じゃが、それだけではないだろう?」

 

「人と妖怪に結婚という仕組みはない。ないが、同じようなことがしたいんだ」

 

「ふふ、刹那の気持ちが伝わってくるな。器用な言葉とはいい難いが、だからこそ」

 

 器用な言葉ではないと言われたことには、地味にショックを受けていた。

 事前にある程度考えていたから、俺のセンスが無いのだと言われたような気がして。

 まあ、久遠に伝わっているのだから十分ではあったのだが。

 久遠は明るい顔をしていたので、大丈夫だろうと信じていたこともある。

 俺の想いが届くにしろ、届かないにしろ、久遠との関係は壊れたりしないと。

 

「これを言わなきゃいけないよな。久遠、好きだ」

 

「刹那、うちもお主が好きじゃ。だが、お主の苦しみは知っているつもりだ。覚悟は良いのか?」

 

「たとえこれからずっと苦しむのだとしても、久遠と一緒にいたいんだ。それだけは、きっと変わらないはず」

 

「なら、よい。これからよろしく頼むぞ、刹那」

 

 久遠に俺の思いが届いた喜びで、胸の中がいっぱいだった。

 それだけではなく、久遠の幸せそうな顔を見ることができて、最高の気分で。

 やっぱり俺は久遠が大好きなんだと、告白までしているのに、改めて感じていた。

 そして、久遠も俺のことを好きでいてくれている。

 これまでは、久遠の思いは保護者のような思いではないかという疑いもあった。

 だけど、俺と同じ様な気持ちを抱いてくれているとハッキリ分かって。

 まるで人生の絶頂にいるのだと、そんなふうに思えていたんだ。

 

「ありがとう、久遠、俺を受け入れてくれて」

 

「当たり前じゃ。いつか、お主を逃がさんと言ったであろう? な、うちの刹那よ」

 

 久遠のものとして扱われているようなセリフですら、とても嬉しくて。

 これから久遠と一緒に過ごせるのならば、これまでの苦しみだって忘れられるかもしれない。

 未来に大きな希望を抱いて、これからの生活を思い描いていた。

 久遠との生活の中で、結局苦しみは失われなかったけれど。

 それでも、間違いなく幸せと言える日々の始まりだったんだ。

 

「これからは、俺の久遠にもなるのか? なんか、不思議な感覚だな」

 

「刹那のもの。案外悪くない気分じゃな。くく、このうちがこんな感情を抱くとは、わからんものよ」

 

 久遠は相当長生きしているようだから、色々とあったのだろうが。

 ただ、久遠は過去を探ってほしくないようだから、この時にも聞くことができなかった。

 気になりはするのだが、久遠に嫌われる可能性を考えると、どうしても怖くて。

 久遠がいない日々になど何の意味もないと思える程度には、久遠が好きだったから。

 もしかしたら、嫌われても立ち直る未来があったのかもしれないけれど。

 

「久遠を好きになってよかった。久遠と出会えてよかった。久遠のおかげで、嬉しいことがいっぱいあったんだ」

 

「うちも同じじゃ。それに、これからもっと幸せになれるはずじゃ。まずはほれ、こちらに、な?」

 

 久遠は顔を上に向けて、目をつむる。何をすればいいのかはすぐに分かった。

 少しだけ気を落ち着かせて、こちらから久遠の方へと向かっていく。

 久遠の体温は高くて、唇からは柔らかさと熱さが伝わってきた。

 念願がかなったはずなのだが、いまいち実感が薄かったような記憶がある。

 まあ、その日には色々ありすぎたから、心が疲れていたのかもな。

 それとも、ずっと現実だと信じられていたかったからだろうか。

 今となってはどちらかハッキリしないが、久遠と結ばれたという感覚はゆっくりと訪れたんだ。

 

「なんだか照れくさいな。ずっと望んでいたことなんだが」

 

「くく、刹那はうちが初めてじゃからな? 慣れておらんのも当然じゃな」

 

 なぜ、久遠は俺が初めてだと知っていたのだろうか。

 確かに俺は久遠以外の女と男女の関係になったことはないが。

 彼女がいながら久遠に会いに来るのがおかしいという判断なのだろうか。

 それとも、俺の態度から経験の浅さに感づかれたのだろうか。

 なんにせよ、間違ってはいないので、訂正するつもりはなかったのだが。

 

「それはそうだが。久遠は余裕いっぱいだな」

 

「まあ、そうじゃな。刹那よりはよほど落ち着いておったよ。折角の機会なのじゃから、存分に楽しまなくてはな」

 

「俺は十分に楽しめなかったのかもしれないな。まあ、幸せではあるが」

 

「くく、これからも何度も機会があるじゃろ。ゆっくりと味わい方を覚えていけば良い」

 

 久遠の言葉で、ついこれからについて想像してしまっていたな。

 またキスをするのだと思うと、高揚したような気もする。

 味わい方という久遠の言葉選びのせいで、より深く想像してしまったんだよな。

 久遠は一体、どこまで計算していたのやら。

 俺は久遠の手のひらにいるだけではないかと感じることも、それなりにはあったな。

 今回の言葉で、久遠をより意識してしまったところはあるから。似たような経験も何度かある。

 

「そんなものか。まあ、時間はたくさんありそうだな」

 

「お主の生が続く限り、ずっとそばにいるつもりじゃからな」

 

「それはありがたいな。久遠と過ごす時間は幸せだろうからな」

 

「うちの力を尽くして、お主を幸福にしてみせるからな」

 

 久遠は言葉通りに、俺を幸せにするために手を尽くしてくれたと思う。

 実際、久遠と過ごした時間はたしかに幸福でいられたんだ。

 俺が久遠にもらったものは大きいどころではない。

 久遠の行為に対して、俺は十分なものを返せただろうか。

 俺が幸せを感じた分くらいは、久遠には幸せであってほしいものだ。

 

「ありがとう。これまでだって十分に幸せにしてもらったと思うけどな」

 

「うちだって同じじゃ。だからこそ、お主を好きになれたのだから」

 

 久遠は俺を好きでいてくれたことは間違いないと思うが。

 ただ、俺が久遠に何をできたのか。今でもわからない。

 俺はただ久遠からもらった幸せを享受しているだけだったのではないか。その疑念が拭えないんだ。

 だって、俺はただ久遠が好きなだけで、久遠の幸せをちゃんとは知らないから。

 久遠には知られたくない事がいっぱいあったようだから、聞くことがためらわれて。

 

「久遠は俺をずっと大切にしてくれた。感謝している。ところで、久遠は俺のどんなところが好きなんだ?」

 

「それを聞きたければ、まずはお主が話すことじゃな」

 

「そうだな。俺を暖かく見守ってくれたところとか、優しい顔とか、穏やかなところとか」

 

「くく、面白い評価じゃな。うちがお主を好きな理由は、お主がうちを好きでいてくれるからじゃ」

 

 その時は、何を当たり前のことを言っているのだろうかと思ったものだが。

 よく考えれば、人が妖怪を好きになるというのはそもそも稀有な話か。

 それになんとなく、久遠は嫌われていたというか、そんな雰囲気を感じていたこともあるからな。

 まあ、俺以外の人間が久遠と接している姿を見たことはないのだが。

 今思えば、それでよく生活できていたな。俺が気づかなかっただけで、交流がないわけではないのだろうが。

 

「なら、久遠は俺をずっと好きでいてくれるだろうな」

 

「やはり刹那は可愛らしいな。お主を見ていると癒されるよ」

 

「また可愛いと……もういいけどな。久遠が俺を好意的に見ているのは分かるから」

 

「お主にもかっこいい所はあるぞ。まあ、可愛さのほうが強いが」

 

 当時の俺はもう可愛いと言われることは諦めていたような。

 まあ、久遠の愛情表現のたぐいだと思えば、むしろ嬉しかったのかもしれない。

 

「いい大人だというのにな。まあいいが。ところで、かっこいい所とはどこだ?」

 

「やはり可愛いのう。まあよい。何よりも顔じゃ。……冗談じゃよ。そんな顔をするな。うちのために頑張る姿が良いのじゃ」

 

「そんなに頑張っていたか? まあ、久遠がそう思ってくれているのは嬉しいが」

 

「うちのために苦しみを耐える覚悟、最高なのじゃ。もうどうにかなってしまいそうだぞ」

 

 別に久遠のためというわけでは無かったのだが、久遠が喜んでいる様子なのが嬉しくて。

 やっぱり、久遠の幸せそうな姿をもっと見たいんだと感じた。

 俺は久遠がそばにいるだけで幸福だが、久遠はどうなのだろうか。

 疑問だったが、質問することはできなかったな。

 なんとなく、怖かったのかもしれない。久遠の内心を知ることが。

 あるいは、久遠には知られたくないことが多そうで、質問するという行為に抵抗があったのか。

 俺は結局、臆病者だったのかもな。まあ、それが悪いこととは限らないとはいえ。

 

「久遠と一緒に居たいのは、間違いなく俺の本心だからな」

 

「うむ、よく分かっておるぞ。刹那の心、ありがたく受け取っているのじゃ」

 

「それは助かると言えばいいのか? 久遠に伝わっているのは、恥ずかしいような気もするが」

 

「恥じることはない。お主の心が、うちに喜びを与えてくれるのじゃから」

 

 久遠が俺の苦しみをきっかけに喜んでくれると考えただけで、俺の傷が癒やされたような気がしていた。

 つらい日々はあったし、今でも苦しみを抱えているのだが、それでも。

 久遠の役に立てているという実感を得られる、数少ないことだったからかもな。

 

「久遠が嬉しいのなら何よりだ。俺は久遠に幸せになってもらいたいんだからな」

 

「よく知っているぞ。じゃが、お主がうちのものである限り、心配する必要はないのじゃ」

 

 その言葉はつまり、俺がそばにいるなら幸せだという意味で良かったのだろうか。

 俺は久遠がそばにいてくれるだけで、間違いなく幸せだったが。

 妖怪である久遠が遠く感じて、つい嘆いてしまいそうになったこともある。

 それでも、久遠の優しさに触れて、ぬくもりに触れて、癒されていたから。

 

 久遠と結ばれてから、俺はずっと幸せだった。

 いつも久遠と会いに来ていた神社で過ごすことになって、同じ部屋で寝て。

 しばらく過ごしているうちに、久遠と交わることもあった。

 人と妖怪のあいだに子供は生まれないとお互い知っていたのに、それでも。

 ただ、久遠は俺とふれあうことに喜びを感じてくれていたようだから、それで十分だった。

 

 結局、久遠の過ごしていた神社については、今でも詳しく知らない。

 俺が生活するために使っていた場所以外には、入ろうとすると久遠が悲しそうだったから。

 この神社に、もしかしたら悲しい思い出でもあったのだろうか。

 そうだとすると、何故この神社に久遠が住んでいたのかという疑問は浮かぶが。

 まあ、答えは俺が知る必要のないことだろう。俺は久遠を傷つけたくないのだから。

 

 それからも、久遠と過ごす日々が続いた。

 間違いなく幸せで、楽しくて、素晴らしい日々だった。

 それでも、久遠と俺との距離を思い知らされることが何度もあった。

 

 例えば、久遠とときおり手を繋いでいたのだが。

 俺の手はだんだんしわがれていくような感覚があったのに、久遠は変わらなくて。

 覚悟していたはずだったのに、苦しみやつらさが襲いかかってきたんだ。

 久遠は俺が死んだとしてもずっと生きていて、いずれは忘れ去られてしまうのかもしれない。

 そんな考えを振り払うことができなくて。

 

 俺のことを久遠は一生大切にしてくれるということは、全く疑っていなかった。それでも。

 いつか久遠が別の誰かと結ばれるのかもしれないなんて考えが思い浮かんで。

 嫉妬心なのか、恐怖なのか、はたまた他のなにかか。

 とにかく考えるだけで苦しくて、叫びだしそうになったことすらある。

 俺は久遠の人生に何かを残せるのだろうか。

 あくまで過ぎ去った過去になってしまうのではないか。

 

 久遠を信じていないような考えだとわかっていながら、止められないままで。

 俺が苦しんでいると、久遠は察して手を繋いでくれるのだが。

 そのたびに、変わらない久遠を意識してしまって。

 久遠のぬくもりを感じているのに、久遠は遠くに居るとしか思えない時もあった。

 俺が苦しんでいることを察した久遠は悲しそうで、だからなんとか考えを振り払いたくて。

 それでも、俺は俺自身の不安を拭いきれなかったんだ。

 

 ただ、久遠は俺に温かい言葉を何度もかけてくれていた。

 俺がいるから久遠は幸せなのだと、全身で伝えようとしていて。

 だから、苦しみを感じながらも、その苦しみと戦うことができていたんだ。

 

 久遠と離れていたら、もしかしたら楽だったのかもしれないけれど。

 でも、何が何でも久遠を悲しませたくなかったから。

 俺が苦しんでいることで、久遠が悲しんでいる時はあったけれど。

 久遠のもとから去ることが、より久遠を悲しませることになる選択だと信じていたから。

 

 それでも、いずれ俺が死ぬ瞬間はやってくると考えて、久遠が悲しむだろうと思えて。

 永遠の命なんて空想を求めていたこともあったんだ。

 まあ、俺の老いが止まることはなくて、すぐに現実に引き戻されたのだが。

 久遠は俺が死んでからも長い時間を過ごすことになる。

 それでも、久遠の良い思い出になれたら。結局、俺の考えはそう決まった。

 

 それからは、できるだけ久遠を楽しませられるように工夫しながら過ごしていた。

 何気ない会話をする日を作ったり、遊び道具を持ってきて久遠と遊んだり。

 はたまた、久遠といちゃいちゃするだけの日を過ごしてみたり。

 色々と変化をもたせつつ、それでも久遠と一緒にいることは欠かさずに。

 久遠の楽しそうな姿を見ることで、俺も幸せを感じることができていた。

 

 完全に俺の中から苦悩が失われた訳では無いが。

 それでも、久遠の幸せを感じる顔を見ていると、俺はこれでいいんだと思えた。

 久遠は間違いなく俺に幸せをくれた。今でもそれは変わらない。

 だからこそ、久遠のその分を少しでも返せているのだと信じられて。

 きっと、俺のほうが得られた幸福は多いのだと思うけれど、だとしても。

 

 それからも、ずっとずっと久遠と2人で過ごして。

 俺はそろそろ限界だと感じ始めていた。もう、これ以上生きられないだろうと。

 そんな俺の様子を察したのか、久遠は俺を悲しそうな目で見つめている。

 これからの会話が、きっと最後になるだろう。何故か俺はそう確信して。

 だから、悔いを残さないように、俺の感謝を伝えたかった。

 

「久遠、これまでありがとう。久遠のおかげで、俺は間違いなく幸せだった。久遠と出会えたことは、他の何よりも大切な思い出なんだ」

 

「ああ。うちにとっても同じじゃ。刹那と出会えたこと、共に過ごしたこと。永遠に忘れぬからな」

 

 久遠のその言葉で、口にしていなかった俺の悩みは知られていたのだと理解した。

 俺は久遠に悩みを知られたくないと考えていたが、もしかしたら無意味だったのかもな。

 とはいえ、久遠は幸せそうでいてくれたから、俺と同じ悩みで苦しんだわけではないのだろう。

 良かった。俺が久遠を苦しめていたのなら、後悔してもしきれなかったから。

 

「久遠、俺は久遠にどれだけのものを残せただろうな。これからの久遠を見ることはできないが、幸せでいてほしいものだ」

 

「くく、うちが他の誰かと結ばれてもか?」

 

 その悩みまで気づかれていたのか。だが、久遠の表情からは、他の人と結ばれることを検討しているようには感じない。

 それに、俺自身の嫉妬よりも、久遠が健やかでいるほうが大切だから。

 どうせ、俺はその姿を見ることはないというのもあるが。

 久遠がいつか俺を忘れるのだとしても、その先に久遠の幸福があるのならば、それでいいんだ。

 だって、久遠は俺の人生の殆どを幸せで彩ってくれていたから。もう十分なんだ。

 

「無いに越したことはないと思えるのが悔しいな。でも、大丈夫だ」

 

「安心しろ。うちの伴侶は、永遠にお主ひとりだけ。これは絶対の誓いじゃからな」

 

 久遠の言葉が本音でも、俺を安らかに眠らせるためのものでも、どちらでもいい。

 ただ、久遠が俺を唯一の伴侶だと言ってくれたという事実だけで、満たされた心地なんだ。

 俺は久遠に出会えて、本当に良かった。大切な相手の大切な存在になることができて。

 

「ありがとう、嬉しいよ。でも、無理はしないでいいからな」

 

「無理などする必要もないぞ。うちはこれからもずっと満たされたまま。それは決まっておるからな」

 

 どういう意味なのだろう。分からない。

 だけど、久遠がこれからも満たされたままだというのなら、嬉しい限りだ。

 俺と過ごした時間が、その一助になってくれるのならば、もっと嬉しいのだが。

 とはいえ、望み過ぎかもしれないな。俺がそこまでの存在だとは思えない。

 結局、俺はただの一人の人間でしかなかった。悔しいが、どうにもならない事実だ。

 

「なら、安心だな。久遠を置いていくというのは、心残りだったから」

 

「存分に安心して良いぞ。うちはこれから、お主と1つになれるのだから」

 

 思い出の中で一緒にいられるということだろうか。

 すでに久遠とは2つで1つのような心地でいたが、久遠にとってはそうではなかったのかもな。

 悪い意味だとは思わない。久遠のそばに一緒にいたという証でもあるのだから。

 ただ、俺と久遠はあくまで価値観が違うというだけの話だ。

 

「よくわからないが、久遠と1つというのは、心地よさそうだな」

 

「くく、そうじゃな。うちも同じ気持ちじゃ。だから、これからのうちは幸せでいられる」

 

 久遠がこれから幸せでいられるのなら、十分だな。

 仕草や表情を見ていても、本当にこれからを楽しみというか、希望を抱いているようで。

 俺が死ぬこと自体には悲しみを覚えているのは間違いないだろうが、それで絶望しないのだろう。

 久遠が苦しむかもしれないということが、心残りの1つだったから。

 だから、重荷が1つ消えたような心地で。久遠は大丈夫そうだなと思えたから。

 

「それは、何よりだ。久遠が俺といて幸せだったこと。それが最高の気分にしてくれた。だから、これから久遠は好きにしてくれていいぞ」

 

「ああ、もちろん好きにする。好きに、お主を想い続けるのじゃ。刹那、ありがとうな、うちと出会ってくれて」

 

「それはこちらのセリフだ。でも、久遠の気持ちは嬉しいよ」

 

「お主が考えているよりも、うちはお主のおかげで幸福じゃった。それは、伝えておきたい」

 

 俺が考えているよりとなると、どれほど幸せだったのだろうか。

 想像することすら難しいが、体が動くのなら舞い上がっていたのかもしれない。

 それくらい、久遠が幸せでいてくれたという事実は嬉しい。

 俺にとって何よりも、俺自身よりも大切だろう久遠なのだから。

 

「俺ばかりが幸福になっていたわけじゃなかったんだな……良かった……」

 

「ああ。じゃから、お主と出会えてよかった。うちからも、伝えておきたかったのじゃ」

 

「ありがとう。おかげで、落ち着いた気持ちになれたよ。寂しくはあるが、満足だ」

 

「それは何よりじゃ。刹那が幸せでいてくれることは、うちにとって大切なことじゃから」

 

 そうだよな。俺が子供の頃からずっと、久遠は俺の幸せを真摯に考えてくれていた。

 きっと、だから久遠のことを好きになったのだろうと思うくらいには。

 ただ、心残りがないわけではない。俺にはどうすることもできないことだが。

 そんな心残りを抱えたとしても、満足な人生だったと言えるはずだ。

 だから、未練はない。久遠との別れも、受け入れられる。

 

「久遠、そろそろさよならだな。自分のことだが、もう限界だと分かる」

 

「寂しくなるの。じゃが、お主との思い出は、これからの生を彩ってくれるはずじゃ」

 

「そうなんだな。寂しくなさそうで、ありがたい。悲しい顔を見ていたら、死んでも死にきれなかっただろうな」

 

「最後の最後まで、刹那は優しいの。そんなお主じゃからこそ、うちはつかの間の安息を得られた」

 

 やはり、久遠にとって俺の生など、ほんの一瞬のことなのだろうな。

 俺が久遠の永遠に届かないことは、やはり悔しい。悔しいが、どうにもならない。

 そろそろ、視界がぼやけてきたな。久遠の姿を見るのも最後だ。しっかり目に焼き付けたい。

 

 俺にとって最後の光景になるであろう久遠の顔は、穏やかなものに見える。

 これまで、久遠はずっと俺を支えてくれた。感謝の言葉は伝えたはずだが。

 まだまだ言いたいことが残っているような気がする。だけど、言葉が出てこない。

 

 徐々に俺の視界が薄れていって、意識も遠ざかっていく。

 これから、久遠とともに過ごせないこと、やっぱり、さびしい、な……。

 

 

 ――――――

 

 

 

 うち、久遠にとっては、刹那との出会いは福音だったのかもしれん。

 

 初めて刹那と出会った時は、変な子供が迷い込んできたとだけ思っておった。

 じゃから、適当に対応して、そのまま忘れ去るだけだろうと考えていたのじゃが。

 刹那は思いの外うちに好意的で、つい絆されてしまったのかもしれん。

 うちは幼い子供からも恐れられることが当然であったから。

 まあ、うちがこれまでに行ってきたことを考えれば、当たり前のことではある。

 

 かつてのうちは、人を弄び、奪い、殺し、国すらも崩壊させたことがある。

 刹那との出会いからすれば、随分と昔のことではあるが。

 うちが大きな災害とならないように、うちを祟り神のように祀ろうと考えた人間がいたのじゃ。

 それが、今うちが住まう神社の始まりだった。

 

 金銭を始めとしたうちが望むものは何でも手に入る環境で、それなりに快適だった。

 じゃから、今の状況が続く限り、人に災厄をもたらすことは止めようと。そう考えておった。

 とはいえ、おそれというものは存外消え去らんもので、うちに近づこうとする存在など、いはしなかった。

 そんな日々を過ごすうちに、うちからは棘のようなものが大幅に消えていった。

 

 特に意味もなく人を傷つけるような行いは避けるようになり、だから刹那と出会った時に、刹那は無事でいられた。

 うちは刹那に興味など持っていなかったが、それでも刹那には楽しい時間を過ごしてもらっておこうと考えていた。

 かつてのうちだったなら、考えもしなかったじゃろうな。

 ただ、刹那を絶望とともに死にいざなっていただろうことが容易に想像できる。

 

 しかし、そうはならなかった。だからこそ、うちは初めて幸せを知ることができたのだろう。

 刹那との自己紹介から、運命は始まっていたはずじゃ。

 なにせ、刹那という名前、久遠という名前。

 お互いの関係を象徴する名前の2人が出会ったのじゃから。

 

 刹那は単なる人間で、うちは永遠を生きる妖怪。

 妖怪とは何かという刹那の質問も、うちらが運命で結ばれている証のような気がするな。

 まず最初に、お互いがどういう存在かを話すこと。

 そして、全く違う存在であるにも関わらず仲良くできるという、うちの発言。

 あの時からずっと続くうちらの関係にはピッタリな会話じゃった。

 

 刹那には、長い付き合いになるかもしれんと言ってみたが。

 あの時のうちは期待半分くらいのものだったような気がする。

 想像していた以上に、自分に好意的な相手との交流は心地よかったからな。

 ただ、刹那が去っていくのならば、それでも良いと当時は考えていた。

 

 とはいえ、刹那から優しくていい人だと言われることは嬉しかった。

 おべっかや世辞のたぐいではない、心からの言葉だと分かったから。

 刹那から慕われているということが強く伝わって、だからこそ刹那を愛しく感じたのじゃ。

 その時にはまだ、可愛い子供が懐いてくるくらいの感覚ではあったが。

 だとしても、刹那がまた会いに来るのならば、歓迎しようと思えていた。

 

 はっきり言って、うちは孤独だったのだろうな。

 だから、ほんの少し接しただけの刹那に、それなりの好意を抱いてしまった。

 とはいえ、刹那が去っていったとしても、まだ問題なかったはずじゃ。

 ただ、自分から刹那に嫌われるようなことはしたくなかったのでな。

 だから、刹那を存分に楽しませるために、力を尽くそうと決めたのじゃ。

 

 当時の刹那は部屋の中で遊びたかったようだから、たまたま手元にあった将棋で遊ぶことに決めた。

 うちは将棋は得意で、金銭を賭けてくる相手を破滅させて遊んでいたこともある。

 もちろん、刹那にそのようなことを仕掛けるつもりはなく、楽しんでほしい一心だった。

 そのために、刹那に対してうちの手管を存分に使っていたのじゃ。

 

 気分良く勝たせたあと、大口の賭けを仕掛けて相手を破滅させるための方法論。

 それを応用して、刹那が勝負にのめり込むように誘導してな。

 うちの思い通りに手のひらで転がされる刹那は、それはそれは可愛かった。

 刹那がうちとの勝負を楽しむ姿が好ましくて、うち自身も将棋を楽しんでいたのじゃ。

 かつてはどんな相手も思い通りにできてつまらなかった将棋を、初めて楽しい遊びと思えた瞬間だった。

 

 それからは、ほとんど毎日刹那が家のもとへと遊びに来て、だんだん刹那と過ごす時間を大切に思うようになっていった。

 時折ある、刹那が家へ訪れない日を苦々しく思う程度には。

 そんな日々の中で、うちは刹那の家へ誘われたことがあった。

 本音では、刹那が過ごしているところを知りたいと考えていたが。

 じゃが、うちは誰からも恐れられる怪物で。刹那の家へ行ったら、もう刹那はうちのもとへと訪れなくなるように思えた。

 

 だから、刹那からの誘いを断腸の思いで断って。

 すると、刹那は目に見えて不機嫌になっていた。

 当時のうちは、もう刹那から嫌われることが恐ろしくて。

 だから、必死に刹那の機嫌取りをしていたのじゃ。

 幸い、刹那はすぐに明るい顔になってくれて。とても安心したことを覚えておる。

 

 それからも、刹那との日々を過ごして。刹那はゆるやかに成長していった。

 人間の変化など、これまでどうでもいいと考えてきたうちじゃが。

 刹那が健やかに成長できることを幸せだと感じるようになっていた。

 

 刹那が6歳の頃、刹那の成長を感慨深く感じて、つい言葉をかけていた。

 意地っ張りというか、男の子供らしく負けず嫌いな刹那は、うちの背を抜かしたいようじゃった。

 いつか刹那の顔を見上げる瞬間が訪れるのだと思うと、少し寂しさもあったが。

 何よりも、刹那が大きくなるということは喜ばしいことだと考えておった。

 刹那が幸福になるための一助として、ゆっくりと見守っていきたいとも。

 

 うちにとっては刹那は我が子のような、弟のような、よく分からないものではあったが。

 ただ、大切な存在だという事だけははっきりとしていた。

 刹那がうちに懐いてくれているという事実が心地よくて。つい甘やかしたような記憶がある。

 

 そんな刹那がうちを守りたいと言ったこと。

 おそらく、刹那にとっては単なる何気ない言葉だったのだろうとは思うのじゃが。

 だとしても、うちの心の奥深くに刺さるような心地があった。

 なにせ、これまで人間というものは敵でしか無かったから。

 恐れられ、排斥されることが当たり前であったから。

 

 刹那にうちを守るだけの力など無い。分かりきったことではあったのだが。

 それでも、刹那の思いというか、好意と言うか、そのようなものが嬉しくて。

 とはいえ、うちはあくまでも化け物。刹那の人生を無為に消費させたくはなかった。

 刹那はうちに喜びを与えてくれたから、幸せな人生を過ごしてほしかったのじゃ。

 うちとともに居ようとしてくれることは嬉しかった。嬉しかったが、まだ刹那の幸福のほうが大事だったから。

 

 いつものように刹那と遊んでいたうちだが、遊び自体は色々と変えていた。

 有り余っていた金を刹那と遊ぶために使うことが楽しくて、つい色々と買っていたのじゃ。

 そんな遊びの中で、刹那がうちの住む神社の神主になりたいと言った時、表情を変えないように必死じゃった。

 刹那が神主になるのなら、必然的にうちの過去を知られるだろうから。

 ただ、刹那がうちから遠ざかって、それで幸せになるのなら、別にかまわないつもりでいた。

 

 だから、刹那にうちの過去を聞かれた時に、うちがかつては悪だった事をほのめかしたのかもしれん。

 ただ、昔のうちを知りたいという刹那には、少し困らされたものじゃが。

 なにせ、かつてのうちならば、刹那のことは全く大切にしようとはしなかったはずだから。

 刹那を傷つけているようなもしも。そんなうちを考えたくなくて。

 そして、刹那が単に去るのではなく、刹那から嫌われることが怖くて。

 

 もううちは、本当は刹那から離れられないのかもしれん。そう考えた。

 なにせ、刹那にうちの正体を伝えた人間が存在するのならば、きっとただでは殺さないと確信できたから。

 ただ、刹那に幸福になってほしいという思いも間違いなく本物だった。

 だから、うちだけの刹那にしたいという思いとの間で、頭を悩ませていたのじゃ。

 

 うちは刹那を大切に思いながらも、刹那の人生を滅茶苦茶にしたくなる時はあって。

 刹那を傷つけたいというよりは、刹那にうちを刻みつけたいという感情で。

 ただ、刹那を苦しめたくないという思いだけが、うちの心を押し留めていたのじゃ。

 

 そんな日々に決定的な変化が訪れたのが、刹那が12歳の頃。

 いつも通りに刹那と話している間は良かった。

 じゃが、刹那がうちに好意を示し始めて。つい、刹那のすべてがほしいと感じた。

 ただ、うちが刹那をものにしてしまえば、刹那は不幸になるという考えが押し留めて。

 なのに、刹那はうちに本気で幸福になってほしいなど言って。だから、心が抑え切れないような気がした。

 

 刹那を不幸にしたくないからこそ、刹那がうちを幸福にしようとするのを止めようとして。

 じゃが、時はすでに遅かったのかもしれん。仮に、刹那がうちから離れようとしたら。

 うちは自分を抑えきれたのだろうか。はっきり言って、怪しいと思える。

 ただ、現実では刹那がうちのためらいを破壊してしまった。

 だから、刹那のすべて、肉の一片から魂に至るまで。全てをうちのものにするための契約をした。

 

 もし刹那がうちから遠ざかろうとすれば、うちが仕掛けた呪いがうちのもとへと刹那を引き寄せる。

 他にも、刹那の思考の隅々まで、うちが常に見ることができるという事もあった。

 この呪いの詳細を知るものが居るのならば、おぞましいと言うことは間違いないじゃろうな。

 だとしても、刹那がうちのものとなった。その喜びが抑え切れないうちにいらぬことを言ったものは。

 おそらく、まともな死に方はできなかったじゃろうな。

 

 刹那は契約について軽く考えているようだったが。

 もしうちから離れようとしたならば。うちがどんな存在か思い知っていたのじゃろうな。

 ただ、今更うちのことを嫌ったとしてももう遅いのだと。刹那はすでにうちに囚われているのだと。

 刹那程度の力で何をしたところで、うちから逃れることなど叶わなかったのじゃから。

 

 うちは喜びに浸っていたが、刹那のとある言葉で少し考えにのめり込みそうになる。

 これから刹那の背が伸びれば、うちが刹那を撫でることは難しくなる。

 つまり、これまでうちが刹那とできたことが、できなくなるということ。

 ずっと刹那の成長は喜ばしいだけだと感じていたが。

 過去の刹那はもう味わうことができないし、今の刹那は今しか楽しめない。

 それを強く心に刻むきっかけとなった。

 

 それから、日々変わっていく刹那を味わいながら過ごして、刹那が14歳の頃。

 刹那はうちが見上げるほど大きくなっていたし、声も変わっていた。

 他にも、一人称は俺に変化していたので、だいぶ大きく刹那は違いを見せていた。

 ただ、うちを大切にしてくれていること、うちのそばを幸せに感じてくれていることは変わらなくて。

 だから、うちは刹那の成長を好ましく受け取ることができていた。

 

 それだけでなく、うちのかけた呪いから、刹那の自覚していない好意が伝わってきて。

 これならば、刹那はそう遠くない間にうちに堕ちていくだろうと感じられた。

 なのに微妙にうちに素直になりきれない刹那が、可愛くて可愛くて仕方がなかった。

 まあ、素直になれないと言っても、心を読めないとしても好意は明らかという程度じゃが。

 

 刹那はうちの言葉の1つ1つで感情を揺さぶられていて、とても容易い相手と言えた。

 ただ、根本的にはうちへの好意によるものだから、不安や嫌悪ですらも好ましくて。

 刹那はどんなときでもうちのことを考えているのだと、心が浮き立つようだった。

 うちは刹那を愛している。そう確信していたが、もっと好意が深まっていくようで。

 刹那の一挙一動すらも愛おしく思えて、いつ刹那をもっと深く味わうか、悩ましかった。

 

 うちが刹那との関係を変えてしまえば、今の刹那は楽しめなくなる。

 だからこそ、刹那を摘み取るタイミングは慎重に測りたかった。

 もう刹那の魂すらもうちのものであるとはいえ、刹那の心をものにする瞬間を。

 刹那は、うち自身ですらもうちを軽く扱うのが嫌だと考えるほどにうちを好んでいた。

 だから、ひと押ししてしまえば簡単にうちと付き合うだろうと判断できた。

 

 ただ、うちには少しばかりの懸念があった。

 刹那がわずかにうちの住む神社の神主になるという考えを残していたこと。

 もしうちの正体を刹那が知ったらどういう反応をするのか。

 刹那がうちを拒絶するのならば、うちは世界すらも破壊したかもしれん。

 まあ、刹那はうちの言葉で、うちの神社については知ろうとしなくなったのじゃが。

 だから、安心して刹那を見守ることができていた。

 

 ただ、刹那は成長するにつれてだんだん苦しみの感情を見せるようになっていた。

 うちが永遠を生きる存在で、だから人間の刹那には遠く感じるのだと。

 刹那の心を見ている以上、刹那が何を考えているのかはすぐに分かる。

 うちは刹那の感情を知って、心配と喜びが同時にやってきた。

 

 刹那は苦しんでいるから、できる限り解消してやりたいという思い。

 反対に、刹那がうちを想って苦しんでいるのを楽しんでしまう心。

 しばらく刹那は同じ苦しみを抱き続けていた。だから、やがて心配の方が勝つようになって。

 

 そして刹那が20歳の頃、刹那はうちに告白すると決意した。

 うちは喜びで舞い上がりそうになっていたが、努めて感情を表に出さないでいた。

 

 そして同時に、1つの安心があったのじゃ。

 もし刹那に他の想い人ができていたのであれば。うちは絶対に自分を抑えきれなかった。

 おそらくは、事故か何かを装って相手を殺し、刹那を慰めることで心に入り込んでいたはず。

 できれば刹那を傷つけないに越したことはなかったので、うまく進んでよかったと言えた。

 

 それから、刹那に告白されて、受け入れて、キスをして。

 うちは最高の気分に浸ることができていた。

 

 他にも、刹那からどこを好きになったのかと聞かれて。うちを好きでいるところだと返して。

 それに対して、刹那がうちがずっと刹那を好きでいると言ったこと。

 つまり、うちのことをずっと好きでいるというアピール。

 可愛らしくて、いじらしくて、ついほっこりとした。

 

 また、うちが刹那をかっこいいと考えているところを聞かれて。

 真っ先に思い浮かんだのは、刹那はうちのために必死なところだった。

 うちを喜ばせたくて、そのために苦しみながらも耐え抜こうとして。

 思わず喜びに震えてしまいそうなほど、刹那の感情は味わい深かった。

 

 刹那があらゆる意味でうちのものと言えるようになった日から、幸福な日々が続いた。

 ときおり刹那から体を求められることもあった。

 人間の欲望をくだらないと感じていたうちだが、刹那から情欲を向けられることは心地よかった。

 

 ただ、日々を重ねていくにつれて刹那はまた苦しみだしたようで。

 うちとしても、刹那の苦しむ姿はあまり見たくなかった。

 徐々にうちと刹那が過ごせる時間が減っていく。その事実はうちにとっては問題ないことではあったが。

 刹那にとっては大きな悩みとなっているようだったから。

 

 とはいえ、刹那がうちが誰かと結ばれる可能性を思い浮かべて嫉妬していたことは。

 うちにとってはとても心地よい感情と言えて。

 もっと味わいたいという欲求に悩まされることもあった。

 刹那を苦しめたいわけではなかったから、耐えていたのだが。

 

 そしてある日。刹那はある種の割り切りを得た。

 うちを楽しませるために残りの人生を使おうと考えるようになっていたのじゃ。

 刹那と過ごすだけで、うちは十分楽しめていると言えたが。

 だとしても、刹那がうちのために工夫しているというだけで、新たな喜びを味わえるようだった。

 間違いなく幸せな時間で。刹那に邪な欲求を向ける必要もない日々が続いた。

 

 それからも長い日々を過ごして。

 ついに刹那が最後を迎える日がやってきた。

 刹那と別れることは寂しいが、同時にある楽しみが待ち受けていて。

 だから、刹那に心配をかけることなく見送ることができた。

 

 刹那が本当に死ぬ直前、うちは刹那の魂を回収して、取り込んだ。

 うちが刹那との契約でかけた呪いの、最後の効果。

 そして、うちの中に刹那が存在することを確認して、刹那の遺体を食べていった。

 味はとても美味と言えるものではなかったが。

 刹那を取り込んでいると思うだけで、甘露を味わっているとすら思えた。

 

 刹那の魂と、肉体と、すべてをうちの中へと入れて。

 それからも長い日々をずっと、刹那を感じながら過ごしていた。

 刹那には意識がないとはいえ、魂には動きがあって。

 だから、ずっと刹那を心に抱いたまま生きることができていた。

 

 あれから何年経ったのだろうか。1000年やそこらではないが。

 うちは刹那との思い出をずっと胸に、幸せを感じながら過ごしていた。

 刹那の魂がうちの中にあるからこそ、記憶が全く薄れることはなく。

 今まさに刹那と過ごしているかのように、感情も感触も匂いも、何もかもを頭に再現できたから。

 だから、うちは刹那と離れてからも、ずっとずっと幸せだった。

 

 この幸福は、世界とともにうちが失われるときまで続くだろうから。

 刹那への感謝が改めて深まっていった。

 

 ありがとう、刹那。うちと出会ってくれて、うちを幸せにしてくれて。



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