悪役貴族は死にたくないので四天王になるのをやめました〜リピート・ヴァイス〜   作:黒川陽継

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18# 再会

 早朝のローグベルト。

 

 フォル達の住まう頭目宅、その付近の丘に、カルロスの姿があった。

 

 丘の上から、遥か先に広がる海原をじっと見据えるカルロス。

 

 カルロスはローファスの帰還を待っていた。

 

 ローファスは昨夜、ステリア領へ転移する直前に「帰りはこちらで何とかする」と言っていた。

 

 ライトレス領行きの転移石があちらで見つかれば問題無いが、それが無ければ、海路か、或いは飛翔魔法等を用いて最短距離で帰って来るであろうとカルロスは予測した。

 

 ステリア領から直線的に南下すれば、辿り着くのはここローグベルトだ。

 

「坊ちゃん…」

 

 カルロスは既に2時間程待っているが、ローファスの姿は一向に見えない。

 

 それも当然と言えば当然の事。

 

 もしも海路ならば、ステリア領とローグベルトの距離を船で行くと丸一日以上は掛かる。

 

 飛翔魔法もそこまで速度は出ない為、本来ならばまだ帰って来る筈はない。

 

 ここで待つのも無意味かも知れない。

 

 だが、ローファスは「朝までには終わらせる」と口にしていた。

 

 ローファスは一度口にした事は、是が非でも実行する。

 

 無論、ローファスも気紛れな為、口にした全てを実行している訳ではないが、きっとこれは曲げない類の言葉だった。

 

 だから、ローファスはきっと、奴隷として売られたノルンと言うローグベルトの住民を保護し、朝にはライトレス領に戻って来る。

 

 ローファスの世話役として側に仕えるカルロスには、何処か確信に近いものがあった。

 

 ——ふむ、しかし…

 

 カルロスの表情には陰りが見え隠れする。

 

 ローファスは、己の我儘を実行し、実現出来るだけの強大な力を持っている——が、今は決して本調子ではない。

 

 魔力はその大部分を消耗しており、治療したとは言え、身体の方も病み上がり、それも左腕を失い隻腕だ。

 

 ユスリカ——暗黒騎士が一人付き添っている為、余程な事が無い限り大事は無いだろうが。

 

 カルロスは、自分達を逃し、魔鯨に一人で立ち向かうローファスの背中を思い起こす。

 

 ローファスは、強大な力を持つが故に、問題を一人で背負い込む傾向がある。

 

「また、怪我をしていないと良いのですが…」

 

 きっとユスリカも苦労している事だろうと、目を瞑るカルロス。

 

「——?」

 

 ふと、北方ステリア領方面の海域より、猛スピードでこちらに接近する魔力をカルロスは感じ取った。

 

 カルロスは目に魔力を通し、視力を強化する。

 

 遥か先を見据え、空に見えたのは、こちらに向かって来る翼を広げた様な影。

 

「あれは…まさか、ワイバーン?」

 

 凄まじい速度で空に軌跡を描きながら、ローグベルトへ接近するワイバーン。

 

 その背に、ローファスやユスリカ、そしてノルンと思われる少女の姿があるのをカルロスは視認する。

 

 ステリア領ではワイバーンを騎竜として飼い慣らす風習がある事を、カルロスは知識として知っている。

 

 だが、まさかローファスがワイバーンに乗って帰って来るとはカルロスにも予想出来なかった。

 

「…全く、坊ちゃんには敵いませんな」

 

 一先ずはローファスの無事が確認出来、顔を綻ばせるカルロス。

 

「しかし…」

 

 カルロスの魔力探知は、異様な索敵性能を誇るローファス程の精度は無いが、それでもローファス程の高密度の魔力であれば、他よりも明確に感じ取れる。

 

 だが、ローファスから感じられる魔力量は、元より魔力が消耗していたとは言え、かなり弱々しいものになっている。

 

「…また、随分と無茶をされたようだ」

 

 カルロスは、高速で接近するワイバーンの軌道から、着地するであろう地点に当たりを付け——駆ける。

 

 ライトレス領に帰還した、己が主人を出迎える為に。

 

 *

 

 ローグベルト近海上空。

 

 陸地が近づいて来た事を確認したローファスは、どうにか魔力が尽きる前に辿り着いたと一息吐く。

 

 ヴァルムに借り受けたワイバーンに騎乗し、ステリア領から魔の海域を横断する形で飛び続けていた。

 

 このワイバーン、ローファスの想定以上に魔力消費が激しく、万全の状態のローファスならば兎も角、消耗した現状かなり厳しいものがあった。

 

 道中に手持ちのマナポーションを全て飲み、それでもローファスの魔力は限界に近かった。

 

 このワイバーン、あくまでもヴァルムの指示でローファスに従っているだけに過ぎず、それ故に速度を出す為にローファスの魔力をがんがん吸い上げていた。

 

 その分、ローファスの想定よりも遥かに早くローグベルトへ辿り着いたが、魔力限界が近いローファスは今にも意識が飛びそうだった。

 

「若様、やはり魔力が…」

 

 ユスリカが顔色の悪いローファスの身を案じる。

 

「もう着く。問題無い」

 

 ローファスはワイバーンの着地地点を見定める。

 

 ワイバーンが浜辺に降り立つと大騒ぎになりかね無い。

 

「そうだな……そこだ、ワイバーン。その辺に降りろ」

 

 ローファスは、ローグベルトから少し外れた岩山を指差し、ワイバーンに着地の合図を出す。

 

 ワイバーンはひと鳴きするとゆっくりと降下を始め、羽ばたきながら騎乗者に負担の少ない形で着地した。

 

 元が騎竜なだけあり、こうした気配りには聡い様だ。

 

 ヴァルムによく躾けられているな、と感心するローファス。

 

 ワイバーンの着地地点にはカルロスが既に立っており、3人がワイバーンから降りると、出迎える様にお辞儀する。

 

 因みにワイバーンは、3人が背中から降りると、直ぐに上空へ飛び上がり、役目は果たしたとばかりにステリア領へ向けて飛び去って行った。

 

 ローファスは、お辞儀をするカルロスを見て口角を上げる。

 

「出迎えご苦労」

 

「お待ちしておりました。随分と無理をされたようで」

 

 二人の間で交わされる短いやり取り。

 

 ユスリカはこれに、驚きを隠せない。

 

 何故、示し合わせたかの様にカルロスが待っているのか。

 

 道中でローファスが念話等で連絡を取る様子は無かったし、何よりローファスは、ワイバーンの着地地点も今その場で決めていた様に感じられた。

 

 にも関わらず、カルロスはそれを先読みしたかの様に待ち構え、ローファスもそれを当たり前の様に受け入れている。

 

 二人の間にある度を越したとも言える信頼関係に、ユスリカは思わず口を手で覆う。

 

 信頼関係もそうだが、カルロスの未来予知でもしたかの様な行動に、ユスリカは畏怖すら覚える。

 

 一人の暗黒騎士であるユスリカからして見て、暗黒騎士筆頭のアルバは、普段こそ表立って力を誇示していないが、その実力は控えめに言って化け物である。

 

 一人一人が一騎当千の精鋭集団である暗黒騎士の中でも、頭が一つ二つは抜けた存在であり、仮に全ての暗黒騎士と筆頭アルバが戦うとするならば、流石に暗黒騎士側に軍配が上がるが、それでも恐らく、暗黒騎士は半数以上の犠牲を払う事になるだろう。

 

 そんな化け物じみた実力者である筆頭アルバ、その前任者であるカルロスも、やはり只者では無かったかとユスリカは戦慄する。

 

 ふと、視線に気付いたカルロスが、その視線をユスリカに移した。

 

 思わず身体が強張り、姿勢を正すユスリカ。

 

 しかしユスリカを見るカルロスの目は、実に優しげなものだった。

 

「ローファス様に付き添って頂き、ありがとうございました。突然の事で色々と大変だったでしょう」

 

「い、いえ、滅相もございません」

 

 肩透かしを食らったユスリカは若干口ごもりながらも敬礼する。

 

 そして、カルロスの視線はノルンへ向けられる。

 

 ノルンは視線に怯える様にユスリカの背に身を隠す。

 

 それを見たカルロスは、僅かに目を細める。

 

「彼女が、例の?」

 

「ああ、保護した。ローグベルトへ引き渡して終いだ」

 

 魔力不足から急激な眠気に襲われるローファスは、欠伸を噛み殺しながら答える。

 

 だが、カルロスは静かに目を伏せる。

 

「それは、あまり宜しくないかと」

 

「…何故だ?」

 

「先ずは、教会へ送った方が宜しいでしょう」

 

 ローファスの疑問に、カルロスは毅然と答えた。

 

 ノルンの、男の視線に恐怖する様子は、他の保護した奴隷にも見られていたものだ。

 

 男に対する過剰なまでの恐怖心。

 

 それこそ、日常生活に支障をきたす事も懸念される程の。

 

 彼女等の様子からして、奴隷として売られ、どの様に扱われたのかは想像に難くない。

 

 保護された殆どの者が、急ぎ治療が必要な程の怪我を負っており、非人道的な扱いをされていたのは、火を見るより明らかだった。

 

 傷の治療は当然として、精神的治療も必要であった為、保護された住民は全て一時教会に預けている。

 

 ノルンも、ユスリカにより肉体的な治療は受けたものの、精神面は酷く不安定な様にカルロスの目には映った。

 

 ローファスは鋭い目をノルンに向ける。

 

「…だ、そうだが?」

 

 男であるローファスに鋭い視線を向けられながらも、ノルンには過剰に怯える様子は見られない。

 

 それはローファスが、窮地から救い出してくれた存在だからか、それともまだ子供と言える年頃だからか、或いはその両方か。

 

 ノルンは歯を噛み締め、意思を持った目でローファスを見る。

 

「わ、私は、帰りたい…ローグベルトに、帰りたい。帰って、待ってくれてる皆に、フォルに会いたい」

 

 辿々しいながらも、己の意志を言うノルン。

 

 それを聞いたローファスは、口角を上げて笑う。

 

「そう言う事だ。こいつはもう奴隷じゃない——人だ。やりたい事は自分で決める。ローグベルトに帰りたいなら、返してやれば良い」

 

 カルロスは僅かに目を見開き、ノルンとローファスを見る。

 

 確かにノルンは、未だに男に対する怯えはあるようだが、それでも芯のある強い目をしている。

 

 それはとても、奴隷だったとは思えない目。

 

 カルロスは僅かに目を細める。

 

 道中に何があった…いや、何を言われた?

 

 ユスリカは治療に長けているが、それはあくまでも肉体に対してのみ。

 

 精神に負った傷は、それこそ時間を掛けて癒すしかない。

 

 ノルンの様子を見るに、決して精神の傷が完全に癒えた訳では無い様だが、それでも前に進もうと言う強い意志を示している。

 

 その意志を引き出す何かがあったのだろうが、ローファスが傷付いた平民に寄り添うとも考え難く、ユスリカも暗黒騎士として出過ぎた真似はしないだろう。

 

 カルロスは思案を巡らせるが、結局よく分からず、肩を竦める。

 

「…そう言う事でしたら、私からは何もありません」

 

 静かに目を伏せるカルロスに、ローファスは僅かに周囲を見回す。

 

「おいカルロス、馬車は何処だ」

 

「それは麓に準備しておりますが…ローグベルトには寄らないのですか?」

 

 カルロスの問いに、ローファスは返事も億劫と言った調子で歩き出す。

 

「寄る訳ないだろう。やる事は全て終わった」

 

 きっぱりと言い切るローファス。

 

 しかしカルロスは、何処か納得がいかない様子で食い下がった。

 

「お待ち下さい。ファラティアナ様には、お会いにならないのですか?」

 

「…何故、あいつの名が出る? 何が言いたい」

 

 眉間に皺が寄るローファス。

 

 カルロスはノルンに視線を移す。

 

「彼女はファラティアナ様のご友人なのでしょう? 直接お連れすれば良いではないですか」

 

「俺が行く必要は無い。それよりも何だ先程から。何故平民なんぞを敬称で呼んでいる」

 

 フォルの事を“ファラティアナ様”と敬称で呼ぶカルロスに、ローファスは苛立ちを見せた。

 

 しかしカルロスは、何でもない様に爆弾を投下する。

 

「いえ、坊ちゃんの未来の奥方候補ですので」

 

「…は?」

 

 一瞬で表情が消えるローファス。

 

 口を抑えるユスリカとノルン。

 

 カルロスは和かに言葉を続ける。

 

「随分と気に入られている様に見受けられましたので」

 

「…もしそう見えたなら、貴様の目は節穴だカルロス」

 

 ローファスは吐き捨てる様に言うと、付き合い切れんと言った調子で麓に準備された馬車へ歩を進め始める。

 

 カルロスは尚も食い下がる。

 

「お待ち下さい! どうされたのですか、昨晩は宴にも参加されていたのに…」

 

「全て終わったと言ったろう。もう二度とここへ来る気は無い」

 

「坊ちゃん!」

 

 カルロスの引き止めにも応じず、ずんずんと先へ進むローファス。

 

 そしてローファスは、振り向きもせずにユスリカに指示を飛ばす。

 

「ユスリカ! ノルンを送り届けておけ!」

 

「ぎ、御意!」

 

 状況について行けず、呆然と立ち尽くしていたユスリカは急ぎ敬礼する。

 

 ノルンは剣呑な雰囲気を感じ、不安気にローファスの後ろ姿を見ていた。

 

「坊ちゃん…?」

 

 一人で馬車へ向かうローファスを見て、カルロスは立ち尽くす。

 

 カルロスは、ローファスの様子に困惑していた。

 

 頑なに拒絶するこの反応は、カルロスにとって予想外なものだ。

 

 何故だ、何が悪かった?

 

 冗談めかして、奥方候補などと言ったのが逆鱗に触れたのか?

 

 カルロスは思案するが、答えは出ない。

 

 カルロスの目から見て、フォルとローファスの関係は決して悪いものではなかった。

 

 少なくとも、ローファスがあそこまで気安く話す程に気を許した相手を、カルロスは他に知らない。

 

 確かに、フォルから向けられる好意に対して年相応に素直になれない所は見受けられたが、それでも明確に拒絶する様子は無かった。

 

 だが、今のローファスからは明確な拒絶の意思がひしひしと感じられる。

 

 まるで、フォルと顔を合わせる事すら拒んでいるかの様な。

 

 ステリア領で何かあったのか?

 

 それとも、今更身分差に気付いたのか?

 

 カルロスは思考を巡らせるが、やはり明確な解答は浮かばない。

 

 しかし、何れにせよ、ここ数日で見られたローファスの変化は、カルロスから見て非常に喜ばしいものだった。

 

 ローファスはこれまで、ずっと孤独だった。

 

 両親や兄弟とも折り合いが悪く、10歳の頃より家族の住まう本邸から離れ、別邸暮らし。

 

 それからはより一層我儘になり、強い選民志向を持つ様になった。

 

 膨大な魔力と、天才的な魔法適正と言う、生まれながらに強大な力を有していたローファスには、対等な存在が居なかった。

 

 そんなローファスが、紆余曲折はありつつも、驚くべき事に平民であるフォルと対等な関係を築いていたのだ。

 

 本人は断じて否定するだろうが、フォルと過ごすローファスは、悪態を吐きつつも実に楽しそうにカルロスには見えた。

 

 それは血の繋がった家族にも、側近であるカルロスにも見せない楽し気な顔。

 

 カルロスは軽く目頭を抑え、静かに息を吐く。

 

 そして、ユスリカとノルンへ視線を向ける。

 

「ユスリカ、でしたね」

 

「は、はい。ユスリカでございます」

 

 突如名を呼ばれ、強張るユスリカ。

 

 カルロスはそっと頭を下げる。

 

「坊ちゃんより命を受けた所申し訳ありませんが、彼女は私がローグベルトへ送ります」

 

「は? いえ、しかし…」

 

「実は奴隷から救出した者達の事を、ローグベルトの住民にはまだ説明していないのです。心配しているでしょうから、彼女を送り届けるついでに私が伝えましょう。貴女には、私の代わりに坊ちゃんをお願いします」

 

「は、はあ…」

 

 返答に困るユスリカ。

 

 ローファスに直々に命令された以上、例え相手がカルロスであっても、己の勝手な判断で他者に仕事を任せたとなっては、後でどの様なお叱りを受けるか分かったものではない。

 

 そんなユスリカの不安を感じ取ったカルロスは、和かに微笑む。

 

「そう心配なさらずとも。坊ちゃんには私の指示でと言えば大丈夫ですよ」

 

「…カルロス様がそう言われるのでしたら、分かりました」

 

 先程、ローファスとカルロスの間にある信頼を見ていたユスリカは、素直に頷く。

 

 そしてカルロスは、不安気な様子のノルンに対して跪き、頭を下げる。

 

「えっ、あ、あの…」

 

 オロオロしながらも近付こうとはしないノルンに、カルロスは頭を下げたまま答える。

 

「私はローファス様の執事を務めるカルロスと申します。突然の事で困惑されるでしょうが、この私が責任を持ってローグベルトまでご案内致します。ご不快でしょうが、どうかこの老骨めにお付き合い頂けませんでしょうか」

 

 カルロスの物腰柔らかな様子と、穏やかで優し気な声色に、ノルンは身体の強張りが僅かに解ける。

 

「ローファスさんの、執事さん…なんですね。怖がって、ごめんなさい。もう大丈夫、です」

 

 どうにか笑おうとして顔を引き攣らせるノルン。

 

 気丈な人だ、と感心したカルロスは、更に二歩離れ、ローグベルトまでの案内を始めた。

 

 それに着いていくノルン。

 

 ユスリカは、馬車に向かったローファスを追い掛けた。

 

 *

 

 半年近く奴隷として軟禁されていたノルンは、筋力が衰え、岩肌の露出した山道を降りるのにはかなり苦心していた。

 

 カルロスはそれに付き添い、いつしか手を貸し、遂には横に抱きかかえてローグベルトへ戻って来ていた。

 

 ノルンも男に対する恐怖心自体は根強くあるが、カルロスの物腰柔らかな雰囲気と、終始気遣いを絶やさぬ姿から、幾分か気を許すまでになっていた。

 

 抱きかかえられたノルンは、無数の皺が刻まれ、綺麗に切り揃えられた口髭を蓄えたカルロスの顔をじっと見つめる。

 

「ご迷惑を、お掛けします…」

 

 それを聞いたカルロスは、穏やかに笑う。

 

「何を、この程度。それよりも、着きましたよ」

 

 カルロスとノルンの前には、ローグベルトの町並みと、その先に広がるスカイブルーの水平線が広がっていた。

 

 今となっては懐かしき磯の香りと、聞こえてくるウミネコの鳴き声。

 

 もう見る事が無いと思っていた光景に、ノルンの瞳に涙が浮かぶ。

 

 カルロスに降ろされ、自身の足でゆっくりとだが、歩みを進めるノルン。

 

 ローグベルトでは、昨夜の宴の後片付けをする住民達が行き交っていた。

 

 住民の一人が、帰って来たノルンに気付き、運んでいた木箱を落とした。

 

「おい、ノルンじゃねえか…?」

 

「本当だ! 誘拐されたノルンだ! 帰って来れたのか!」

 

 他の住民も反応し、それを聞いた住民達が続々と集まって来る。

 

「ノルン!」

 

 集まった住民達の中を掻き分け、ノルンに抱きついたのは宿屋の娘——リリアだ。

 

 リリアに抱きしめられるノルンは、それを受け入れて抱きしめ返す。

 

「…久しぶり、リリア」

 

「大丈夫だった!? 酷い事されなかった!?」

 

「……ローファスさんが、助けて、くれたの」

 

「…そう。こんなに痩せて」

 

 否定しないノルンに、リリアは自然と、抱く手に力が込められる。

 

 そんな中、集まっていた住民達は、波が引く様に左右に分かれ、道を開ける。

 

 開かれた道の先には、目を見開くフォルが立っていた。

 

 *

 

 幼馴染であるノルンがクリントンの私兵に連れ去られたのは、半年程前の事だ。

 

 魔物が凶暴化し、漁船に被害が出た為、フォルやログを含む腕利の若い船乗りを集め、その対応に当たっていた。

 

 ノルンの誘拐は、その最中に行われたものだった。

 

 ローグベルトでの住民の誘拐は、ノルンが最初だった。

 

 魔物被害が出て税が払えなかった時に、それを聞き入れなかった私兵により行われたものだ。

 

 魔物駆除を終えて帰って来たフォルは、当然怒り狂った。

 

 港町のクリントン邸へ押し掛け、ノルンを返せと暴れた事もある。

 

 しかし、当然その要求は受け入れられず、後日ローグベルトの民家が何軒か焼き払われた。

 

 何かすれば自分以外に被害が及ぶ、その事実は、フォルの行動を抑制するには十分だった。

 

 その後も、腕利の若い船乗り達の留守を狙って、住民の誘拐は続いた。

 

 フォルは、何も出来なかった。

 

 拉致誘拐は女子供を中心に狙われ、ローグベルトの住民は、逃げる様にその数が減っていく。

 

 そんな地獄の様な期間、フォルは無力な自分自身を呪う事しか出来なかった。

 

 ノルンが連れ去られて半年。

 

 最早、ノルンとはもう二度と会えないと思っていた。

 

 助け出す事を、半ば諦めていたと言い換えても良い。

 

 そんなノルンが、今フォルの目の前に居た。

 

 宴をした翌日の朝に、ノルンが村に帰って来た。

 

「ノルン…?」

 

 フォルは、最早呼ぶ事も無いとすら思っていた名を口にする。

 

 それを見たノルンは、瞳に涙を浮かべて微笑む。

 

「…ただいま。久しぶり、フォル」

 

 フォルはゆっくりと近付き、ノルンのその頬を手で触れる。

 

 確かに触れる、柔らかく色白なノルンの肌。

 

 夢でも、幻でもない。

 

 ノルンは笑う。

 

「どうしたの、そのバンダナ。男みたい、似合ってないよ」

 

 半年前、拉致される前と変わらずにくすくすと笑うノルンに、フォルは自然と涙が溢れた。

 

「ノルンっ!」

 

 フォルが優しく抱きつき、それをノルンは優しく抱擁する。

 

「ノルン…ノルンっ」

 

 名前を繰り返しながら、フォルはまるで幼子の様に泣きじゃくる。

 

 まるで、魂の底から溢れ出す様に、止めどなく涙が流れ出る。

 

 それは繰り返された物語の、積み重ねられたファラティアナの涙。

 

 物語では救われなかった。

 

 否、救えなかった。

 

 フォルの魂の奥底に沈殿したライトレス——ローファスへの憎しみも、その根本から流されていく様だった。

 

 そんな泣きじゃくるフォルの頭を優しく撫でながら、ノルンはフォルにだけ聞こえる様に、耳元で話す。

 

「ローファスさんが、助けてくれたの」

 

 その名を聞いたフォルはがばっと顔を上げる。

 

「ローファスが…?」

 

「そう。フォルの知ってる人?」

 

 フォルは言い難そうに目を逸らす。

 

「…ああ。ローグベルトの恩人だよ。貴族だけど、そんなに悪い奴じゃない」

 

「そう——もしかして、フォルの良い人?」

 

 先程、岩山にてカルロスが口にしていた“未来の奥方候補”と言う言葉。

 

 ノルンはそれを聞き逃していなかった。

 

 ノルンの言葉に、フォルは目に見えて狼狽える。

 

「は、はあ!? なんでそんな…ローファスが何か言ってたのか…?」

 

 ノルンは首を横に振る。

 

「フォルの事は何も。ただ、泣きじゃくる私に、甘えるな、貴様には帰りを待ってる奴がいるだろって。凄い怒られちゃって、その時にフォルの名前を出してたの」

 

「ローファスの野郎…」

 

 フォルは呆れと、溜息混じりの息を吐く。

 

 ノルンが購入者から助け出され、ユスリカによる治療を終えてローグベルトへ帰るとなった時、ノルンは泣いてそれを拒否した。

 

 汚された自分が、今更ローグベルトの皆に顔を合わせる事に酷く忌避感を覚えたからだ。

 

 人としての尊厳を徹底的に蹂躙され、生きる希望すら無く、いっそこのまま死んでしまいたいとすら思った。

 

 だが、いつまでも泣いているノルンを、ローファスは寄り添うでも、慰めるでもなく、叱責したのだ。

 

 その口調は酷く厳しいものだったが、フォルの名前を聞き、ノルンは不思議とそれだけで生きる希望を見出せた気がした。

 

 もしもここで救われず、ローグベルトの皆や、フォルに会えなかったら…そんな未来を幻視し、ノルンは身を震わせた。

 

「ローファスさんは、優しい人だよ。助けてくれたんだもん」

 

「いや、アイツは断じて優しくは無いだろ…」

 

 真顔で突っ込むフォルに、くすくすと笑うノルン。

 

 ふと、ノルンは、フォルの目元が赤みを帯びている事に気付いた。

 

「フォル、どうしたのその目、まるで一晩中泣いてたみたい」

 

 フォルは目を逸らす。

 

「…何でもない」

 

「何か、あったの? …もしかして、ローファスさんの事?」

 

「何でもないって」

 

 そんなフォルとノルンの様子を、住民達と共に見守っていたログが、カッと目を見開く。

 

 ——まさか、昨晩のローファスとの会話を、聞かれていたのか…?

 

 冷や汗がダラダラと流れ出る。

 

「…フォル、昨日のあれはだな——」

 

 ログが言いかけた所で、フォルとノルンの側でカルロスが跪いた。

 

「再会の折、割って入る様で大変失礼致します」

 

「あんた、執事の…」

 

 フォルが驚いた様に目を丸くする。

 

「私めの事はカルロス、と呼び捨てでお呼び下さい。ファラティアナ様」

 

 名前を様付けで呼ばれ、むず痒さを感じながらも、フォルの目は自然と周囲を見回す。

 

「カルロス、ローファスは何処に行ったんだ? 朝起きたら居ねえし、かと思えばノルンが助けられたって言うし、訳分かんねえよ…」

 

 周囲にローファスの姿が見当たらず、眉を顰めるフォル。

 

 カルロスは頭を下げたまま、静かに告げる。

 

「坊ちゃんは…ローファス様はもう戻られません。ローグベルトにも、もう来る事はないでしょう」

 

「…は?」

 

 フォルの顔から表情が消えた。

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