月輪より滴り   作:おいかぜ

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第1章 夕陽に望む
《1》ペイパー・ムーン


 ──凡人、氷川紗夜は転生者である。

 

 

 生まれてからこれまで、既視感に満ちた人生を送ってきた。保育園に入ったときも、小学生になっても、中学生になっても。高校受験でも、生理が来ても、初体験への期待と恐怖と驚きが、私の人生には欠けていた。

 前世の記憶があると気が付いたのはいつだっただろうか。二十余年で幕を閉じた人生の記録が、この身には宿っていた。

 

 妹よりもできる姉であれた理由も、性自認がおかしかった理由も、多分この前世に起因するのだろう。子供時代に、人生20年分のアドバンテージはとてつもなく大きい。

 

 

 才能という言葉を憎んでいる。私の人生には足りないもので、代わりに妹には過剰に与えられたもの。

 

「日菜、起きなさい。夜更かしするからそうなるのよ」

「うーん、抱きしめてくれたら、起きる」

「甘えないの」

 

 自分が誰よりも優れていたいだとか、そんな思想を持っているわけじゃない。ただ妹の前に立っていたかった。彼女の姉として相応しい能力を備えていたかったという、ただの持たざる者の我儘だ。

 

「ほら、これで起きるんでしょう」

 

 ベッドから出ようとしない妹を抱き起こして、半開きの瞼を拭う。朝には弱くないはずだが、どうせ夜更かしでもしたのだろう。一晩中なにか本でも読んでいたのか。大抵の場合、好奇心に突き動かされて他のことが手につかなくなるからわかりやすい。

 

「ん、起きた!」

「顔を洗ってきなさい。朝食はできているから」

「はーい。おねーちゃんありがとう!」

 

 一度起きればもう元気なものだ。洗面所へと小走りで駆けていく後ろ姿を見送って、自分はリビングへと引き返す。

 両親はとうに仕事へ出たから、朝食は姉妹で摂る。今日はたまたま日菜が起きてこなかったから、私が起こしに行ったというところだ。ごく稀に逆の立場になることもあるが、基本的に二人とも時間通りに起きる。

 

「おねーちゃんおまたせ! いただきます!」

「……いただきます」

 

 2人分のハムトーストと、ワンコインサラダ。朝から食べるには結構ボリュームがあるけれど、私はもちろん、日菜もよく食べるから問題ない。

 

「昨日はどうして夜更かししたの?」

「ギターの動画を見てたの。おねーちゃんが買ってたから気になって」

「……日菜もやるの?」

「どうしよ〜! セッションするなら他の楽器の方がいいし、でもおねーちゃんと同じのもやりたいから」

 

 日菜も楽器に手を出すのなら、またそう時間を置かずに追い付かれるのだろう。それはやっぱり虚しいというか、現実の厳しさを思い知らされる。

 氷川日菜は天才だ。それも自称ではなく、誰が見てもそう。興味があるものなら1度見たものは忘れないし、大抵の技術は数度試しただけで習得する。運動も単純な身体能力はともかく、センスにおいては知人の誰よりも優れているし、勉強だって高校に入ってからはズルをしている私でさえ勝てなくなった。特定の分野において異様な才覚を発揮すると言うよりは、あらゆる分野において異常に要領がいいといった感じ。

 英才教育とかそういった環境要因で獲得した能力では無い以上は、氷川日菜という人間が元より持っていた才覚に由来するものに違いないから、私は彼女を「天才」だと認識している。

 

「安い買い物ではないから、よく考える事ね」

「うん」

 

 二十分もしないうちに時間が押してくる。朝はどうしたって慌ただしい。

 使った食器を軽く洗って、歯を磨いて、制服に着替える。学校に必要なものはカバンに入れっぱなしだから、大きな忘れ物をすることは滅多にない。前日の夜には用意も済ませているし、少し確認するだけで学校に行く準備は整う。

 

 日菜が寝坊した分、いつもよりは遅い時間になった。それでもだいぶ余裕を持たせてあるから、遅刻するようなことにはならないけれど。

 

「おねーちゃん先行っといていいよー? あたし鍵閉めとくから」

「そう。じゃあお願いね。電気とクーラーもちゃんと消すのよ」

「はーい」

 

 どうせ行先も違うから、一緒に家を出る必要も無い。双子で学力も同じくらいなのにわざわざ別の高校へ通っているというのは良く考えれば珍しいことなのかもしれない。周りに双子のサンプルが少ないからなんとも言えないが。

 

 いってきます、と呟けば何倍も大きな声で行ってらっしゃいと返ってくる。妹の無条件の好意がどうにもむず痒く、そして心苦しい。貴方が私に抱いている尊敬のうちのどれほどが、前世の記憶というズルによって積み上げられた欺瞞なのだろう。告白する勇気さえない弱い姉の、虚構の仮面が崩れる日は近い。

 

 

 夏の朝でも、8時頃にもなると凄まじい熱気が襲ってくる。日傘を差して登校する女子高校生に少しばかり羨ましさを覚えなくもない。

 本格的に蝉が鳴き出すにはまだ早い時期だが、気が急いたあわてんぼうはもう鳴いていた。

 

 私が通っている花咲川女子学園は家からほど近い。日々の通学時間が短く済むのは、私的には高得点だった。逆に日菜が通っている私立の羽丘は少し離れたところにあるのだが、日菜はあまり通学時間に頓着しないようだった。まあ離れているとは言ってもたかが知れているし、自転車通学という選択肢もあるから大した問題では無いのかもしれない。

 

 10分ほどで学校に着いて、教室に荷物をおいてから、校門へと引き返す。不本意ながら風紀委員なんてものになってしまったので、朝から身だしなみと遅刻のチェックをしなければならないのだ。

 委員会なんかどうでもいいと思って余り物に収まったのが良くなかった。

 朝の当番に割り当てられて眠そうに立っている教員の横で、声をかけて回る。あからさまに校則違反をしているようなのは極小数だから、この行為に大した意味は無い。結局は点数稼ぎの材料である。

 

 朝の予鈴が鳴って、教師が職員朝礼のために校内へ戻って行く。門を閉めるのは風紀委員の役目ということになっているから、私が最後に残って正門を閉めて終わりだ。

 鍵を持っているわけではなく、私が門を閉めた時点でそれ以降の登校は遅刻扱いになるというそれだけ。塗装が剥げて赤錆が滲む手すりに手をかけたところで、正門へ走ってくる影が見えた。

 

「丸山さん、1分遅刻よ」

「えぇ!? 走ってきたのに……」

「……冗談よ。門を閉める前ならセーフらしいから、さっさと入って」

「良かった……ありがとう、紗夜ちゃん」

「いえ、……別に」

 

 息を切らして駆けて来たのは、クラスメイトの丸山彩だった。普段から話すわけでもないけれど、クラスメイトだから当然ある程度の交流はある。顔見知り以上友達未満。それくらいの関係。

 目の前で門を閉めるのも忍びなくて、そのまま通す。時間に間に合っていなかったのは事実だが、1分の遅刻でどうこう言うものでもない。誰に咎められるわけでもないから、クラスメイトにいらない不興を買うこともないだろう。

 

 学校では、それなりに優等生として通せているらしい。自覚する限り問題行動を起こしたことは無いし、規範や提出物の期限も破ったことはないから、相対的にそう見られるのはごく自然な成り行きだった。

 授業を受けて、自習時間には課題や読書をして、休み時間には友人の輪の隅っこに混ざっておく。クラスの中心にはならず、けれど外れ値にもならない。昔からチグハグな精神年齢を誤魔化すための、自分なりの処世術というやつだった。高校生にもなればズレも小さくなって、話題に乗るのも随分と楽にはなったけれども、小学生あたりは特に大変だった。精神年齢の物差しとして妹が全く役に立たなかったせいでもあるかもしれないが。

 

「紗夜ちゃんも、カラオケ寄ってかない?」

「……ごめんなさい、今日は用事があるの。また誘ってくれると嬉しいわ」

「そっかー、残念。紗夜ちゃんの歌、聴いてみたいんだけどな」

「普通に下手よ、期待しないで」

 

 用事という用事はないけれど、LINEに通知が入っていた。どうせ日菜からだろう。だから用事ができる予定があると言えばある。

 

「紗夜っち、いつもの自虐でしょそれー。下手って言って下手だったことないよね」

「自虐じゃないわ。どちらかと言うと……保険かしら」

「じゃあ本当は自分でも上手いって思ってるってこと?」

「人並みよ。何事もね」

「そう言われるとウチらの立つ瀬が無くない?」

 

 日菜と比べれば、という前提はもちろん言葉にしない。

 あまり妹のことは話していないし、そういうのを抜きにしても自分が“特別”であると思ったことはないから。

 

「えー、じゃあどうする? 二人で行くのもアレだしさー」

「うーん、彩ちとかどうかな。月曜日は空いてるって言ってた気がするし」

「いんじゃない。……あ、じゃあね紗夜っち」

「ええ。また明日」

 

 鞄を背負ってひとり、教室を出る。部活へと向かう人の波を抜けて、校門の方へ。人間関係の煩わしさを疎んで、高校では結局、部活には入らずじまいだった。気になるのは運動量の不足だが、体型が維持できれば問題ないだろうと思っている。()と比べてあまりにも貧相な身体能力がもどかしくて、スポーツをする気になれないというのもある。ただの100m走だって2秒くらいは遅くなるのだから、どうにも。

 

 昇降口を降りながら、スマホを開いた。LINEの通知が複数。楽器店のセールの通知と、母親からの帰りが遅くなるという連絡、それと日菜からの「そっちに行くね」というメッセージ。

 

 もう来ているのだろうか、と校門へと目をやると案の定。ぶんぶんとこちらに手を振りながら衆目を集めまくる日菜の姿が。些かの羞恥を、咳払いで振り払う。これくらいで動揺していたら彼女の姉なんてやれない。

 

「手を振らなくても見えているわよ」

「えへ、嬉しくって」

「嬉しいって、いつも会っているでしょうに」

「待ち合わせってワクワクするでしょ?」

「待ち合わせじゃないわ。貴方が勝手に待っていただけ」

「確かに、そうかも」

 

 日菜は鞄を持っていなかった。一度家に帰ってからこちらに来たらしい。その割に制服のままなのは、きっとはしゃいだまま玄関に鞄だけ放り込んで来たからだろう。見ていなくても想像に難くない。

 

「私が先に帰っていたらどうしていたのよ」

「こっちが早く終わったから絶対間に合うだろうなーって思って。おねーちゃんの事だから友達と遊ぶとかもしないだろうし」

「……今日も断ったのよ。私だって誘われることくらいあるわ」

「あたしを優先してくれたの?」

 

 友達がいないと思われていたのか、社交性が欠如していると思われていたのか。少し訊くのが恐ろしかったので黙っていると、彼女は擽ったそうに笑っていた。何が嬉しいのか、さらに機嫌が良くなったように見える。

 

「……それで、何処に行きたいの?」

 

 遠出をするようなら私も鞄を置きに戻りたいのだけど、と言うと、自宅の方へと日菜の進路が切り替わる。

 

「楽器やりたいって言ってたでしょ? せっかくだからおねーちゃんと選びたいなって」

「それは構わないけれど、私もまだそんなに詳しいわけじゃないわよ」

「そこは店員さんに聞けばいいかなって」

 

 楽器、楽器か。結局日菜は何を始めようと思っているのだろう。どうせ何をやらせても上手く扱えるのだろうから、あまりピーキーなものでなければ問題ないのだろうが。

 

「おねーちゃんって、バンドやる気ある?」

「あまりないわね」

「えー、あたしとやろうよ」

「2人でどうするのよ」

「そこはほら、メンバーを募ってさ」

 

 バンド。あまり考えたことがなかった。と言うのも、完全に一人の趣味として楽器に手を伸ばしたからだ。誰かがやってるからやるとか、ライブに出たいからとか、そういう動機ではなかったから。

 

「……足を引っ張るのが目に見えているから、気が進まないわね」

「あたしが?」

「私に決まっているでしょう」

「……おねーちゃんのそういうとこ、嫌い」

 

 嫌い、という言葉が日菜の口から零れたことにはっとした。その言葉が私に向けられることは、ここ数年全くなかったから余計に。

 

 だがこちらとしても譲れないものはある。

 

 べつに、置いていかれるのは構わない。もう慣れてしまっているから、とくべつ劣等感を覚えることも、多分ない。

 ただし、足枷になるのなら話は別だった。日菜はきっとそうは思わないだろうが、本気でのめり込めばのめり込むほど、私と彼女の間に生じる差は大きくなる。

 不出来な姉が妹の足を引っ張るなんて、最悪だ。もしそんな状況に置かれたら耐えられる気がしない。

 

「嫌い、ね」

「おねーちゃんのことが、じゃないよ。でも、その卑屈なところは嫌いかな」

「……いっその事、全部嫌ってくれれば楽だったのに」

 

 ぽつりと零れた言葉が地面に吸い込まれていく。

 言うつもりはなかった。言葉にしてしまえば傷付けるのはわかっていた。姉として、そういった発言には気を使っていたつもりだったし、八つ当たりじみたこの感情は見苦しい“弱さ”にほかならない。

 それでも零してしまったのは、いつになく強い日菜の言葉に動揺していたのか、気が緩んでいたのか、それとも、日菜への無意識な甘えからか。

 

()()()()()

 

 唇が固く結ばれていた。日菜のこんな表情を見るのは何年ぶりだろう、とどこか心の遠いところで思考が回って、失言だったなと反省。これは盛大に拗ねるだろうな、とか、長引きそうだな、とか、まだ呑気な思考も過ぎる。

 

「あたしだって怒ることはあるよ」

 

 涙を見るのだって、久しぶりだった。何がしたかったんだろう、私は──

 

 ──嗚呼、私はまた間違えたらしい。

 

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