柄にもなく──と自分で言うのもスカしているようで嫌なのだが──私は日菜とのライブを随分と楽しみにしているらしかった。
具体的に言うと、練習で弾きすぎて指が痛くなったし、歌いすぎて数日に1度は声が潰れていた。どう考えても喉に良くないし練習としても効率が良くないが、今が夏休みだという事実が悪さをした。部活をやっていない高校生にとって夏休みは凄まじく暇なのだ。時間だけは有り余っていて、衝動を紛らわす術が無かった。
そんな感じで普段はあまり握っていなかったアコギに触れ続けた結果、たぶん今日の私は過去一番アコギが上手い。
日菜も随分と上手くなった。指の動かし方、弦の抑え方、音の出し方。基礎からきっちりと1ヶ月ほど積み重ねた日菜の音は、まだ特有の拙さが残っていることを差し引いても驚異の伸び方をしていると言える。
楽器なんてものは反復練習でしか上達しない技術がほとんどだから、日菜はやれることはやったと言えるだろう。例えば音を際立たせるためにミュートを意識しよう、なんて目的意識を持って上達を早めることはできる。漠然と弾くよりも余程上手くなれるだろうし、そういうところで差は生まれてくる。ただそれでも、1ヶ月練習した程度の日菜が5年練習した他のベーシストに追いつけるなんて甘い現実は存在しないわけで。
それでも日菜はもう、ライブに出られるくらいにはベーシストになっていた。
「ちょくちょく聴いてたから分かってはいたんだけど、日菜ちゃんホントにあの時ベース始めたばっかりだったんだね」
「そう言ったじゃん、まだ疑われてたの?」
「ちょっとね。私が今まで見た初心者で一番上達が早かったから。それもぶっちぎりで」
リハーサルを終えて本番を待つ間に、月島さんと日菜が話していた。鋼の心臓をしているのか、初ライブの前でも日菜は大して緊張しないらしい。私でも久々すぎて緊張しているというのに。
しかし、このライブハウスはやっぱり相当質が高い。この間ライブを生で聴いたAfterglow、あとはさっきリハーサルで演奏を聞いたPoppin’Party。今日の対バン相手の中でもこの2組はかなり上手いし、他のバンドも安定した演奏をしていた。
チーフスタッフということでイベントの企画をしたりブッカーをしているらしい月島さんが有能なのだろう。
Afterglowが日菜の学校の1年生5人組で、Poppin’Partyが私の高校の後輩5人組なのでなんとなく親近感が湧いている。Afterglowの羽沢さんとは話したこともあるし、Poppin’Partyのメンバーとも学校ですれ違ったりすることくらいはあるから縁が無いとも言えない。
そういえば、Roseliaのキーボードは同じクラスの白金さんだったとあとから知った。同級生ながらほとんど話した記憶がないので、休み明けに話しかけてみようと思いつつ、身近なところでバンドをやっている人間が多いことを実感する。
流石に音楽が盛んな街だけはある。
「紗夜さん!」
「羽沢さん。今日はお手柔らかにお願いするわね」
「え、いや、こちらこそ……?」
Afterglowのメンバーが少し離れたところを通りがかったのにちらりと目をやると、羽沢さんと目が合った。声を掛けられたのでとりあえず返しておく。固定のファン層が既に居そうなAfterglowに比べれば、私達なんて吹けば飛ぶようなバンドだから媚びを売っておくべきかもしれない。なんて冗談だが。
「紗夜さんもライブ、出られるんですね」
「意外?」
「うーん、はい。どちらかと言うとヴァイオリンとかやってそうな雰囲気だったので」
羽沢さんの方が余程ロックバンドに似合わない雰囲気を纏っている気がする。口に出しはしないけれど。
「ギターとベースしか触ったことがないわね。ヴァイオリンには少し憧れるけれど、クラシックは……学生の趣味レベルでやれるものでもなさそうだし」
軽音楽に生きて軽音楽に死んだ人間だ。ついでにドラムにも触っておけばよかったかもしれない。
クラシックに関しては、たぶん才能がないだろうからもうどうしようもない。2周目が始まった時点で何かしらに手を出しておけばそれなりの奏者にはなれたと思うが、あくまで“それなり”だ。こと音楽に関して、私には稀有な才能などないと断言できる。
「そういえば、この間のAfterglowの演奏、とても良かったわ。バンドの方向性が決まっていてまとまりがあるのって素晴らしいわね」
「ありがとうございます。上を見ればまだまだですけど……」
ジュブナイル、といった感じの曲調だったと思う。正統派のロックサウンドに、若者らしい直球の歌詞。結構、いやかなり好きだ。
「物販にCDとか出していないの? この間見たときは無さそうだったけれど」
「えっと、今のところは。アルバムを作りたいとは思っているんですけど、曲の数もあまり多くはないですから」
グッズ自体ほとんど作っていないようだったし、あまりそういう方向に興味はないのかもしれない。仲間とのライブだけが主目的で、それで完結しているバンドもそれなりに多くある。それにしたって安く作れて資金の足しになるCDくらいは売ればいいのにと思うが。
声を録音されるのがどうしても無理だというボーカルに会ったことがあるし、人それぞれなのかもしれない。
「つぐ〜?」
「あ、もう戻りますね」
「ええ。お互いに楽しみましょう」
「はい!」
リードギターの子が呼びに来たのに合わせて戻って行った羽沢さんを見送りながら、脳内で譜面を反芻する。
『◼️◼️はいっつも緊張してんな』、とよく肩を痛いくらいに揉みほぐされたのを思い出した。身体が勝手に強ばるのだから仕方がない。心の方はそれなりに慣れたと思うのだが。
──くだらない感傷に浸るな。
未だに一人抱えている過去ではあっても、確かに見切りをつけたはずだろう。
力を込めすぎて、左手の人差し指の付け根が痛くなった。
「……おねーちゃん?」
「……何かしら」
「表情が硬いように見えたから」
「まあね。緊張してるのよ」
いつの間にか隣に座っていた日菜が、意外だという顔をする。この子にバレていなかったのなら、今までの私は相当上手く取り繕えていたらしい。緊張しやすいタチだから、それを誤魔化すのも上手くなったのかもしれない。
「大丈夫?」
「弾けば直るわ」
「ならいいけど……や、なんでもない」
少しはマシな顔になっただろうか。深呼吸をして、ギターのネックに手を伸ばす。フレットを軽くなぞって、ひやりとした感触に指の温度を溶かした。
そういえば、今日は母が来ている。
結局、転職まではせずに部署異動によって仕事量を減らしたと言っていた。曰く、ゴネたら通ったらしい。思うところはあるけれど、基本的にはしたいようにしてくれればいいと思う。もうその話題には触れたくないというのが本音だ。お互いに何も得るものがない。
心做しか最近の日菜が楽しそうなのも、鬱屈と抱いていた不満に拍車をかけていた。これに関しては時間が解決すると思うけれど。
私が日菜の面倒をみれていたから仕事を増やしても問題ないと判断した可能性だってあるのに。完璧な子育てができる親なんて存在しないのだから、正しく娘ならぬ私が偉そうに批判できたものでは無い。むしろ母に対する不満などそれしかないくらいなのだ。
だから一旦忘れることにする。言ってしまえば、これは私がネチネチと母の過去の小さな過失をつついているに過ぎない。
「そういえば、チケットは誰に売ったの?」
「うーんと、トモダチかな」
「Roseliaのベースの人?」
「うん。下手だよって言ったのに」
まああの人と比べたらまだ上手いとは言えないが、それにしても自虐が過ぎる。それを言ったら今回のライブに出る9割が下手だということになってしまう。
「紗夜ちゃん日菜ちゃん、そろそろだけど大丈夫?」
「問題ありません」
「いけるよ〜。ドキドキしてきた!」
一応初めてのライブだからか、月島さんが重点的についてくれているらしい。新人くんにもそろそろライブを仕切ってもらいたいから、とは言っていたが、もしかして凄まじいスパルタ教育の現場を垣間見せられているのではなかろうか。
「それじゃあ行ってらっしゃい! リハの通りにやれば大丈夫だからね!」
前のバンドと交代でステージに立つ。そういえばMCをするのは初めてだ。日菜はさっさとベースをアンプに繋げて、マイクスタンドの調節をしていた。日菜に押し付けるべきだったか。
「初めまして、『MiDDay-Moon』です。見ての通りアコギとベースの変則的なツーピースでやってます。JPOPのコピーをやるので、ハードルを下げて楽しんでください」
前のバンドもポップロック系だったからまあ、それなりに盛り上げられるだろう。これがメタルとかの後だったら場が冷えていたことは想像に難くない。その場合またライブハウス探しから始めることになる。
一曲目。弦を弾いた瞬間に音楽の世界へと埋没する。選曲は日菜と交互に出し合ったけれど、これは私が選んだ曲だ。ドラムがない分、バンドミュージック色が強い曲をやるとどうにも音の弱さが目立つから、ピアノのメロディの存在感が大きい曲を引っ張ってきた。ロック調にアレンジしたと言い張ってみる。
このライブハウスの面白いところは、客層に占める音楽オタク層の割合が少なそうなところだ。今日のサキドリ音楽文化祭はコンセプトからしてそうなのかもしれないが、とにかく若い女性客が多い。ライブハウスなんかに来るからには同じ穴の狢ではあるのだろうが、弾いている側からすれば気楽に感じる。
割と新しい映画の主題歌で、良く言えば現実逃避を肯定したファイトソング。ベースラインが結構忙しいが、日菜なら特に問題は無いくらい。むしろベーシストが転調で気持ちよくなるタイプの曲だろう。
──日菜と目が合う。
若干逸りかけていたテンポが戻った。私が合わせても良かったが、際限なく加速しても困る。テンションが上がると指が乗る感覚はよく分かるから仕方がない。
スラム奏法でリズムを刻むのに合わせて、観客が手を振ってくれている。ノリが良いオーディエンスは好きだ。気分の高揚に釣られてストロークが激しさを増す。
しかし、私たち二人とも声に迫力がない。もっと迫力のある低音が出せれば面白いのだけど、どうにもパンチが効いていないような感じがする。ロックサウンドでゴリ押しの演奏をしたい時に少し、寂しい。
「2曲目いくぞー!」
1曲目の余韻が終わって直ぐに、我慢できなくなったらしい日菜が叫んだ。
おー! とまばらに返ってくる。
2曲目は日菜が選んだ曲だ。王道のバンド曲。つまりドラムがいない分がモロに響く。
日菜のスラップが弾けて、一気にロックへと引きずり込まれた。
日菜の音が好きだ。よく弾むサウンドが心底楽しそうに聴こえる。技術的な話ではなくて、スピリチュアルな感覚の話だ。
練習のときはそんな素振りも見せていなかったくせに、ロータリーまで使いこなしている。ベースが厚くなった分、聴き良い。
ライブで、というかセッションで心が通じ合えるかと言われたら、たぶんそんなことはないんじゃないかと答えるだろう。音楽がときに言語を超越した可能性を持つことは否定しないが、音楽でもたらされるのはあくまで相互理解であって意思疎通では無いと思う。
音作りから尊敬しているアーティストが分かったり、手癖から好きなフレーズやテクニックが分かったり、その程度。ギターの音でその人の性格が理解できたりはしない。
ただ、日菜は私の音を通して私を理解しようとしているのだろう。そしてそれはきっと、不可能なことでは無いはずだ。このストロークひとつにさえ、氷川紗夜ではない私の一生分が詰まっているのだ。その残滓の一欠片でも感じ取ることくらいは、きっと日菜には容易い。
氷川紗夜を知っている日菜には、氷川紗夜でない私をよりわけることだって可能だろう。そんな私ならぬ私を、この音色から読み解いたのなら。日菜にとっての”音楽を通した理解“は成立し得るのかもしれない。
たとえば昔、体質の問題か薬指を使うのがどうしても不得手だった。弦を抑える時に薬指よりも小指を優先して使う癖がついていて、それは氷川紗夜になった今でも残っている。
あるいは、最初に覚えた曲にグリッサンドがあって、見せ場だったそのフレーズを繰り返し練習してからずっとグリッサンドが得意だ。
他にも自覚していない手癖なんかはきっと山ほどあって、そこに私の音楽人生が染み込んでいるに違いない。
たった30分のライブを駆け抜ける。自分を包み隠すのは不公平だと感じて、出し惜しみはしていない。元々日菜に合わせてレベルを下げるようなことをしていたわけではないけれど、それでも意識を他のことに割いても問題ない程度の余裕があった。日菜へのアドバイスをしたりライブの組み立てを考えるためにそうしていたわけだが、本番に遠慮はいらない。
かと言って突然譜面が難しくなるわけでもない。ただ気持ちの問題だ。気合いが入るか否かの話。
日菜も明らかに演奏が違えている。本番に強いタイプだとは思っていたが、練習より何倍も上手い。
実の所、自分で提案しておきながらドラムなしでロックをやることに少し不安を覚えていた。アコギ1本と喉ひとつでライブは十分にできるけれど、それはフォークソングとか弾き語りに寄せた場合であって、スラム奏法とベースのスラップでドラムの穴を埋めるほどのバンドサウンドを表現できるかどうかは未知数だったからだ。
セッションでは良く聴こえるけど、ライブではどうなるか分からない。気の抜けたように聞こえるかもしれないし、案外面白いバンドになるかもしれなかった。
結果としては上手くいっていると思う。
ある程度ライブ慣れしていて、楽しむためのハードルも高くなっているだろう私が心底楽しめているのだから。
サビの直前に日菜がハーモニクスを入れて、私と音色が重なる。完全にアドリブだ。してやったり、という顔で舌を出された。
言い訳じみた思考はやめよう。考えるのはおしまい。
音楽とは魂、らしいから。
♦
首筋を伝う汗が、ライブの余韻を拭った。
夢中になって弾いたのも、他人の前で弾いたのも、あれだけの歓声を浴びたのも久しぶりだった。それこそ15年以上。
「日菜は、楽しかった?」
「……うん」
茫然としているように見えた。私たちの後に入れ替わりでステージに立ったPoppin’Partyの演奏を眺めながら、傍らの日菜に話しかける。
「おねーちゃんのこと、ちょっとは分かったよ」
「そう?」
「うん。ライブに誘ったの、間違ってなかったんだね」
「それは前からそうだと言っていたでしょう」
「実はあんまり信じてませんでした」
ライブそのものは好きだ。ただそれ以上に振り払った過去が追いついてくるのを嫌っただけで。
「……でも、しばらくお預けかなぁ」
「どうして?」
「あたしが下手過ぎるんだもん。このままおねーちゃんと弾き続けても上手くなるとは思うけど、今日みたいにおねーちゃんに甘えた弾き方になりそうだし」
「……色々な人と弾く経験をした方が上達するのは確かね」
「それもそうだし、あたしはおねーちゃんに寄り掛かりたいんじゃないんだよね。おねーちゃんに認められたいの」
認めるの定義がよく分からないが、私は日菜を十二分に認めていると思う。才能も努力も。あの日、日菜に指摘された日から、自覚する限りの色眼鏡を外して日菜のことを見るように心掛けてきた。
「……私が全て打ち明けてしまえば、あなたは
心苦しくなった。日菜のことを知れば知るほど、日菜がどれほど私を想ってくれているのかが伝わってくる。それに何も返せない自分が嫌になる。
嫌われていれば、無関心でいられる。そこそこ仲が良い姉妹でも、相応の愛を以て返せただろう。
けれど、日菜から向けられる感情の密度に、私は何も返せていない。隠して、隠して、隠して。過去に蓋をして、何も言い出せないでいる。
打ち明けてしまえば、この関係は変わってしまうだろう。
日菜が私に向ける感情の中には、私たちが姉妹であるという前提が横たわっている。唯一の姉への信頼。同じ世界を共有することへの共感。同じ経験をしてきたからこその尊敬。
それらを土台から崩してしまうことに恐怖を覚えないと言えば嘘になる。
「心苦しいのよ。どうして私のために貴方が人生を費やそうとするの?」
それこそ血のにじむような努力をする子だと知っている。明らかに生き急いでいると分かるようなことを平気でするのも。
それが自分のためならば構わない。ベースが上手くなりたいから、とか。
ただ、動機の源泉が私のためだというのがどうにも耐えられない。以前よりも日菜のことが好きになったのだろうか。それとも等身大の彼女を見られるようになったからか。
「どうしてって、おねーちゃんが好きだから。何度も言ってるじゃん。あたしはおねーちゃんが好きだからおねーちゃんのことを知りたいし、おねーちゃんにもあたしの事を知ってもらいたいの」
「……そう、言うわよね」
「でも罪悪感から話してもらいたくはないかな。我儘だけどね。あたしはやりたいことをやっているだけなんだから、それでおねーちゃんに気負って欲しくない」
「……私が貴方を好く想う度にこの秘密は重くなるのよ。貴方が私に何かをくれる度に苦しくなるの」
何度か、話してしまおうかと思うことはあった。それは自己嫌悪からの苛立ち交じりの感情からだったり、今日と同じく罪悪感からだったりしたけれど、その度に思い直していた。日菜の努力をふいにするようなことをしたくなかったから。
けれど今日ならばいいか、という思いもある。ライブの後で感情の箍が外れている、というのも要因の一つではあるが、それよりも日菜の努力を踏み躙るような心配がないからでもある。
「──うん、終わりにしましょう。私の苦しみも、貴方のもどかしさも」
どうしてそんなに苦しそうな顔をするのか。日菜が望んだことだろう。
この1ヶ月、日菜を見てきたからこそ話してもいいと思えたのだ。私の判断に負い目を感じて欲しくはない。
♦
ライブの終わり際に、Roseliaの2人の後ろ姿を見たような気がした。ベースの人に関しては日菜がチケットを売ったと言っていたから、別に変なことでは無いけれど。
母の車に乗って家路に就くあいだ、日菜はずっと上の空だった。その分気分が最高潮らしい母がうるさかったからプラスマイナスゼロ、と言ったところだ。
シャワーを浴びて、夕食をとったらもう21時を過ぎている。
何から話そうか、と考えているうちに瞬く間に猶予は無くなった。なるようになる、と考えるしかない。日菜がどう受け止めるかは日菜にしか分からないのだから。案外「そんなこと?」とか言われるかも知れないのだし。
「おねーちゃん、入ってもいい?」
「ええ」
いつもは黙って入ってくるのに、と口に出して揶揄することはしなかった。いつになくしおらしい態度の日菜を目にしてそれを言うのは憚られたからだ。
「……貴方が望んでいたことじゃないの?」
「怖気付いちゃって……それに、あたしがやってきたことがおねーちゃんのプレッシャーになっていたってことなんでしょ? それはあたしの本意じゃなかったから」
「貴方に全幅の信頼を置いているから話すわけじゃないわ。そこは認めるけど、比重が抱えた秘密よりも貴方に傾いたから話そうとしているのには変わりないのよ」
私との思い出全てにノイズが入ることに、日菜がどんな反応を示すのかは分からない。日菜なりに私の秘密について推理して予め納得をしている可能性だってある。
冷房の音と、時計の音だけが部屋の静寂を演出していた。ふう、と日菜が息を吐いたのと、私の思考がひとまず組み立てられるのが同時だった。
「私には違う世界で27年間を生きた別人の記憶があるの。俗に言う、『前世の記憶がある』というやつね」
沈黙を保ちながら、けれど確かに驚愕が日菜を襲っているのが見て取れた。それはそうだ。前世なんてオカルトを完璧に予想できているはずもない。まして幽霊や天国地獄なんて次元の話でもない。
「名前は◼️◼️◼️◼️。性別は男。家族構成は父と母と、二つ下の弟がいたわね。笑えるでしょう、前の私は本気でプロのギタリストを目指していたのよ。メジャーデビューを目指してバンドをやって、大学を卒業する頃になっても芽が出ないまま卒業して、普通の企業に就職して、そして──死んだ。死因は分からないけど、突然身体が動かなくなって倒れ伏したのは覚えているわ。そして気がついたら自分が氷川紗夜という赤子になっていた」
最後に曲を作ろうと思っていた、はずだ。もうバンドメンバーも集まらなくなって、最後にライブをやろうという話になって、その集大成の曲を作ろうとしていた、と思う。日頃の不摂生が祟ったのか、それとも気付かぬうちに持病を抱えていたのか、死因はよく分からないけれど。
「最初は困惑して、それから私が抱いたのは危惧だった。成人が赤子の振りをするなんて不可能でしょう? 気持ち悪がられでもしたらどんな目に遭うか想像もつかない。そんな時に都合が良かったのが双子の妹、つまり貴方の存在だった。貴方の真似をしていれば幼子として不自然じゃなくなる。貴方の面倒をみていれば多少大人びていてもそういうものかと流される。きっと貴方が私に抱いている幼き日の私への憧憬は、そんな打算に塗れた偽りの姉妹愛に過ぎないのよ」
自分が異物だと気付かれないために日菜に構った。返される好意に罪悪感を覚えながらも、最初は別に日菜のことなんて好きじゃなかった。ただのよく知らない子供でしかなかったから。
「言葉を覚えるのが早かったのも、小さい頃からずっと頭が良かったのも、大人びて落ち着いた性格だったのも、そして始めたばかりのはずのギターをここまで弾けているのも全部、そんな記憶があったから。貴方が私に勝てないと思っていたのも当たり前よね、だって小学生が真面目に勉強し直した大人に学力で勝てるわけがないじゃない。私の自己評価の由来も、分かったでしょう?
だから日菜は天才なのだ。1周目の癖に、私に付いてこれていることがどれほど異常なのか。これで分かってもらえるだろうか。
「母さんも父さんも、可哀想ね。腹を痛めて産んだ我が子が、どこの誰ともしれぬ人間の記憶を引き継いで生まれてきたなんて。私さえいなければ、この家は普通の幸せな家族だったのに」
言葉にしてみれば、私はどこまで行っても異物なのだと改めて認識させられる。
「貴方は分かっていたみたいだけど、私の性自認は男のままなのよ。この口調も、女らしい所作も、母さんの真似をしてそれっぽく誤魔化してはいるけれど、根底は変わらない。貴方に対しても──それって、姉として正しくないでしょう? 貴方が姉として慕ってくれている氷川紗夜は、こんなにも虚構で満ちている」
否定してくれ。いっその事、お前なんか信じるんじゃなかったと拒絶して欲しい。
1番人生を歪められたのは日菜だ。いくら努力しても追いつけない姉が実はズルをしていたと知って、どれほどの虚しさを覚えたのだろう。
幻滅して欲しい。馬鹿で、愚かで、小賢しくて、傲慢で、それでも愛して欲しいと思ってしまう浅ましい人間を、払い除けてくれ。
君のクオリアを総て否定した私を、努力を無為にした私を、献身を無下にした私を、気持ちが悪いと言い切ってくれ。
罪の告白を先延ばしにして来たツケだ。言葉にしてみれば、この欺瞞は感じていたよりもずっと凶悪でタチが悪い。
「……ダメだよ、
腕を掴まれる。指先が震えていた。
「自分の苦しみを無視しないで。いちばん辛かったのはおねーちゃんでしょ?」
恨み言を言ってくれ。騙した私を、罵ってくれ。そんなに優しい目をしないでくれ。
「世界に自分のことを知っている人が独りもいないのって、家族や友達と二度と会えないのって、周りの人全てから自分を隠すために嘘をつくのって、──死ぬのって、どれほど苦しいの?」
「苦しくなんて──」
「嘘つくの禁止。だいたいわかったよ、おねーちゃんのこと」
真っ直ぐな瞳に射抜かれる。
「おねーちゃんが内心どう思ってあたしの面倒を見てくれてたとか、よく考えたらあたしには関係ないもん。あたしがどう感じるかが全てでしょ?」
まあまだ思考の整理がついてないけど、と付け足しながらも日菜の圧が増す。
「あたしだっておねーちゃんを神格化し過ぎてる面もあるし、そもそも姉妹なんて綺麗な感情だけで成立するわけないじゃん」
日菜の細指が首筋に触れる。この痛いくらいの動悸も、動脈を通して伝わっているだろうか。
「嫌ったことも、嫉妬したこともあるよ。もっと汚い感情を向けていることだってある」
本当だろうか。あまり日菜がそういう、負の感情を抱くのが想像つかない。
「おねーちゃんはね、潔癖症過ぎ。……もちろん、ショックだよ? 今まで信じてたおねーちゃんの像が崩れたのは事実だし、もっと早く話してくれたって良かったじゃんとも思ったけど──あたしの「好き」って感情は揺らいでない」
首に回された腕を抑えた。ちょうど、首を絞められるような形になる。
「おねーちゃんはあたしのこと、妹じゃなくて他人だと思ってるの?」
「そんなこと無い、けど」
「じゃあそれで十分だよ。あたしにとっては」
嫌われなくてよかったと思ってしまう自分が、心底気持ち悪い。この細指で首を絞められたら、いっその事自分を許す気にもなれたんだろうか。
「おねーちゃんにとっての秘密は、確かに重いものだけど。でも、それでおねーちゃんがあたしの感情まで考慮しなくていいんだよ。だってあたしが勝手に『おねーちゃんはこういう人間だ』って決めつけて、勝手に信奉してるだけなんだもの。それに、『隠して』はいても『騙して』はいないんじゃない?」
「……」
「自分を許してあげて欲しいの。だって、仕方ないことだもん」
「難しいわ」
「それじゃああたしが許すよ。ただし罰として今日はあたしと一緒に寝ようね」
確かに救われている自分がいる。そして、それが気に食わない自分も。
あっさりと許されてしまえば、悩んでいたのが馬鹿らしくなってしまうような。私のこの罪悪感が、無駄なものになってしまうような。
否、間違いじゃない。両親を騙しているのは紛れもない事実だ。罪の比率で言えば、日菜に対するものよりもずっと重い。だから、無条件に許されていいものでもない。
「性自認の話はしたでしょう」
「うん。でも今更じゃない?」
「……はぁ」
いつも通りのため息。調子を取り戻しつつある自分が憎い。良くも悪くも、日菜がブレなかったから。
「前に言ったよね。あたし、おねーちゃんが思っているよりもずっとおねーちゃんのこと好きだよ」
「本当に、理解不能だわ」
「おねーちゃんの自己評価が低い分もあたしが補ってるからね」
話に一区切りついてから、どっと疲れに襲われた。ライブの分の疲労と、告白の精神疲労。眠くもなる。
日菜との関係の変化に関しては、1度メンタルをリセットしなければ分からないだろう。今は頭の中がいっぱいいっぱいで、自己嫌悪と安堵がぐるぐると回り続けているだけだ。
「強がりすぎなんだよおねーちゃんは」
「……そうかもね。少なくとも貴方ほど素直じゃないわ」
「えへへ」
ああもう、本当に、最悪だ。