おねーちゃんが学校に行ってしまったので、すっかり暇になってしまった。今日は始業式だから午前中で帰ってくるとは言っていたけど、暇なものは暇。
オーディションに必要な書類を揃えて、おねーちゃんに渡すためのコピーも済ませてしまえば、ひとまずすることがなくなってしまった。
明日の用意でもしようかと考えたけれど、課題やら諸々を鞄に詰め込むだけで5分も潰せない。
最近はアロマオイルも作っていなかったから、久しぶりに再開しようかと思い至る。ずっと柑橘系をメインに触っていたから、ハーブも色々と試してみたい。
でもおねーちゃんはあまり好まないみたいだから、少し迷う。ローズマリーとかならいいんだろうか。
やりたいことはいっぱいあって、やるべきことも実はそれなりにある。おねーちゃんに追いつくためならこんな時間も無駄にするべきじゃない。
けど、少し冷めてしまった。ベースはまだまだやりたいけれど、それ以外は何がなんでもおねーちゃんに追いすがりたいと思わなくなっている。
むしろ、追いついてしまう方が恐ろしい。
勝てないのが当たり前で、追いついてしまう方が異常だから。
半ば無意識に、おねーちゃんの部屋に足を向けていた。いつも思うけれど、どうして同じ家で暮らしている双子の姉妹なのに匂いが違うんだろう。匂いを嗅ぐってちょっと変態チックだろうか。
少し前にあげた精油の小瓶が切れかけのままデスクに置いてあった。使ってくれているのは分かっていたけれど、実際に目にすると少し嬉しい。
ベッドに座り込んだ。時計の音と、家の前の道路を通る車の音だけが断続的に鳴るだけの空間。
いろいろと自覚してしまったから、心が乱れている。独占欲も、恋も、穢い自分も。
おねーちゃんの秘密を知りたかったのだって、きっと、『こころから通じ合いたいから』なんて綺麗な理由からじゃない。あたしの知らないおねーちゃんがいることに耐えられない、穢い独占欲からだった。結局、あたしは身勝手におねーちゃんを暴いたくせして、それで自分が傷ついた気になっているだけだ。
やりたいこととやっていることがちぐはぐで、それでもあたしの『やりたいこと』が『やっていいこと』ではないのだから仕方がないと言い訳している。
おねーちゃんを遠ざけようとしているのは、防衛反応だった。この独占欲に蓋をするために、過剰に距離を取ろうとしている。手に入らないものだと諦めてしまえるように言い聞かせている。欲求とは正反対で、妹としてはきっと正解。
おねーちゃんがRoseliaに入って、あたしも所属を新たにして、物理的にも交わる時間は短くなる。その間に色褪せてくれれば万々歳だった。
「日菜、……日菜!」
「……あれ、もう帰ってきたんだ」
「もう昼よ。我が物顔でひとのベッドで寝ていたみたいだけれど」
目を開けたらおねーちゃんがいた。気が付かないうちに眠り込んでしまっていたらしい。くぁ、と欠伸をして、久しぶりの制服姿のおねーちゃんを目に収める。いや、朝も見たけど。
「えへへ、ごめんね?」
「……はぁ」
これみよがしなため息。別に怒るほどでもないけど完全にゆるしてくれる訳でもない時の仕草。おねーちゃんにも何かしらの葛藤があってそういう反応になるんだろうけど、何も言ってこないからあたしの勝ち。なんて。
「今から夜まで、付き合ってもらえるかしら」
「ん、何かするの?」
「少し遠出をしようと思って」
珍しくおねーちゃんからのお誘いがかかる。黙っているといつも一人で出かけてしまうし、基本的にはあたしからおねーちゃんを誘うから本当に珍しい。ライブ関連はおねーちゃんが舵を取ってくれていたからそうでもなかったけれど。
「準備してくる!」
「……急がなくていいわよ」
寝起きのだらしない顔を取り繕って、伸びてきた髪を軽く結って、今日もパンツスタイルに着替える。ベージュのフレアスカートが目に付いて少し惹かれたけど、流石にまだ暑い。秋が恋しくなる。
急がないでいいとは言われたけど、急がない方が難しい。学校に行く時の何倍も早く支度をすませて、おねーちゃんの部屋に突撃した。
「……珍しい、格好だね?」
「変?」
「んーん、何故か似合ってる」
男装、というわけじゃないと思うけど、そんな印象を受けた。ポニーテールに結い上げて、黒のカラーシャツとチノパンに腕時計。ネックレスもあんまり普段つけていないレザー系のやつだし、何より、雰囲気?
「多少、前に寄せてみたの。著しく似合ってないとかでなければそれでいいわ」
「あたしの趣味じゃないな〜」
「知ってるわよ。今日だけだから我慢して」
「そういえば、何処に行くの?」
案外似合っているのが悔しいというのもあるし、あたしの知らないおねーちゃんが憎いというのもある。こればかりは、あたしには知ることができない世界だから余計に。
あたしの小さな抗議を跳ね除けて、ギターケースを背負ったおねーちゃんが気重そうに立ち上がった。
「私が知らない場所よ」
♦
最寄り駅から特急に乗って、羽丘を通り過ぎて遥か先へ。あっさりと東京を抜け出して隣県に入った。何度か来たことがあるけど、繁華街で遊んだり観光地に行ったくらいだ。
「次で降りるわ」
「『条浦』?」
「ええ。来たことないでしょう?」
「うん」
いつにも増して口数が少なかった。お母さんが早く帰ってくるようになった話とか、夕食の話とか、学校に行きたくない話とか。ぽつりぽつりと言葉を交わして、また沈黙が横たわる。
気まずくはないけど、おねーちゃんの纏う雰囲気がいつもと違う気がして、少しだけ不安になった。
「遅くなったけど、着いたら昼食にしましょう」
駅に着くなり、些かの迷いも見せずに歩き出したおねーちゃんの半歩後ろを付いて歩く。流石に都内に比べると人は少ないけど、それでもホームの人口密度はそれなりだった。
「中華かラーメン、どっちがいい?」
「どっちも中華じゃない、それ?」
「……確かに」
西口と書いてある方から駅を出て、ロータリーの脇を通って街へ出る。ピヨピヨ鳴る青信号を渡って、いくつかの路地をぬけたところでおねーちゃんが立ち止まった。視線の先には、いかにも下町の店といった風情の古めの店舗。ちょっと入りにくい。
「ここ?」
「ええ」
なんてあたしの躊躇も余所におねーちゃんはさっさとドアを開けた。ライブハウスのときも同じことがあった気がする。
いらっしゃいませ、と声をかけられながら入った店内は、外観より余程小綺麗だった。サラリーマンや大学生らしき客がけっこう入っていて、地元の店って感じがする。
「お好きな席へどうぞ!」
二人がけのテーブル席に着くと、そのままおねーちゃんからメニューを手渡される。
「おすすめは炒飯とエビチリね」
「油淋鶏は?」
「けっこう大きいわよ。貴方は好きそうな味付けだけれど」
メニューをおねーちゃんに返すと、一通り眺め直してから店員を呼んだ。おねーちゃんは自分がおすすめした通りのものを。あたしは炒飯と油淋鶏を頼む。どうせシェアするし。キムチ炒飯も気になったけど、出先だから普通の方にした。そう考えると中華の方で良かったかもしれない。おねーちゃんもわかっててこっちにしたんだろうけど。
お冷で喉を潤す。電車で来たとはいえ、駅からここまでだけで少し汗をかいた。
「あそこ、大学の最寄り駅だったのよ」
おねーちゃんがぽつりと呟いた。
意味が分かることに少し喜んで、言葉に込められた諦観にそれが霧散する。おねーちゃんがここに来た意味が何となくわかった。それが離別なのか回顧なのかまでは判断がつかないけれど。
「ここは先輩に連れられてよく来た店ね。少し街並みは変わっているけれど、ここはメニューまで同じままみたい」
確かに学生っぽい人が多いようには感じた。わざわざ客席を見回すようなはしたないことはしなかったけど、そういう空気感だ。
注文した炒飯がものの数分で出てきて、丸く盛られた山にレンゲを差し込む。確かに美味しい。あたしは味が濃い方が好きだから、スパイスが濃い方が好みだ。
「大学にも行くの?」
「中には入らないけどね」
わけてもらったエビチリは辛かった。エビのチリソース炒めなんだから当たり前なんだけど、思ったよりも本格的に辛い。おねーちゃんが顔を顰めて、「……煙草のせいかしら」と呟いたのが聞こえた。
お腹が減っていたからかあっさりと完食して、店を出る。
「連れてきて言うのもなんだけど、きっと退屈するだろうから先に謝っておくわ」
「ううん、連れてきてくれてよかった」
どうしてあたしを連れてきてくれたのかは分からない。完全におねーちゃんの都合なのかもしれないし、あるいはあたしを気遣ってくれたのかもしれないし、もしかすると関係性の線引きのためなのかもしれない。
大学はすぐ近くにあった。よく名前を聞く大学だ。
真正面から入っていくのについて歩く。中には入らないって言ってた気がするんだけど。
「あの、おねーちゃん?」
「……ああ、つい、懐かしくて」
「ここ入っていいの?」
「食堂なんかは一般開放されているから、学部棟に入らなければ問題ないわよ」
「ならいいんだけど……」
駐車場をぬけて、広場に出る。大きな……多分イチョウの木が真ん中に生えていて、モニュメントみたいなベンチには人が集まって腰掛けていた。この暑い時期によく外にいるな、と思うけど人のことは言えない。なんなら受ける気もない大学に侵入してる方がよっぽどだ。
「バンドメンバーはみんなこの大学を受けたのよ。好きなバンドがこの大学の軽音サークル発のメジャーバンドでね。結局私ともう1人しか受からなかったのだけど」
「……よく解散しなかったね?」
「中学からの身内バンドだったから、ズルズルとね」
大学名とバンドで検索してみたけど、何も引っかからない。
「何も出ないわよ」
「うん、そうみたい」
別の世界って、そういうことなんだろう。並行世界的なやつ。
……おねーちゃんが住んでた家とか、残ってるんだろうか。この世界の、おねーちゃんになる前の人は?
──それってすごく、恐ろしいことじゃない?
「駅に戻りましょうか。……ああ、楽器店が近くにあるの。そこにも寄って──日菜?」
「ううん、なんでもない」
大学を出て、学生街のようになっている通りを駅の方へと歩く。学生向けの店とか、古着屋とか、カフェとか。いかにもって感じだ。
その中に楽器店が交じっていて、そのひとつに足を向けた。
「楽器店って、少し入りにくいわよね」
「そうかな」
「ベース担当がね、行き慣れない店に行くのがとにかく嫌だったみたいで、いつも愚痴のように言っていたのよ。私も気持ちは分からないでもなかったし」
初めての店に行くのが少しハードルが高く感じられるというのはもちろん分かる。あたしにとってはそれこそライブハウスがそうだったし、前情報無しに勝手が分からない場所に行くのはアウェイ感があって当たり前だ。
楽器店が特別どうだというのはあまり分からない感覚だけど。
「あとはドラムがつまらなさそうにしていたわね。スティックくらいしか買うものがない、とか」
店の中に入ると、いかにも楽器店といった感じだ。棚には手書きのポップと5桁から7桁までの数字が書かれた楽器が並べてあって、あとは教本だとかピックだとかチューナーだとかが所狭しとひしめいている。
「このピック、まだ置いてるのね」
「あたしこのメーカー知らないや」
「あまり見ないけど、海外メーカーらしいわ。ベース担当と二人で『レアもの』だなんて言って買ったの」
「あたしも買おっかな」
「ベースだと使いにくいらしいわよ。彼女も数回しか使わずに封印していたし」
なんでそれほど嫉妬も苛立ちもせずにおねーちゃんの話を聞けているのか、なんとなく分かってきた。おねーちゃんが、多分過去を切り捨てるつもりでいるからだ。あたしにとっては喜ばしいけど、それっておねーちゃんにとってはきっと良くないことだと思う。
「──あれ、女の人だったの?」
「ボーカルとベースは女性でギターとドラムが男よ」
「へぇ。そういえばおねーちゃんの女性遍歴とか、気になるなー」
「……そんなに面白いこともないと思うけど。2年くらい付き合った人がいただけよ」
「取っかえ引っ変えしてたりは……」
「私をなんだと思ってるの?」
流石に冗談。おねーちゃんに恋愛ごとの話は振りにくいから、つい調子に乗ってしまった。少なからずおねーちゃんのコンプレックスでもあるらしいし、無遠慮には踏み込みにくいけど、今日のこの状況で、“前”の話ならまあ大丈夫かなという目算だ。
「そういう人もいたけどね。バンドマンは少なからずモテるらしいから」
「おねーちゃんもモテたんじゃないの?」
「私はあまり……ドラムの方が女性には人気だった覚えがあるわ」
本当かは怪しい。おねーちゃんの自己評価の低さの原因はわかったけど、それはそれとして元から自分を低く見るタイプなんじゃないかと疑っていた。
それか、もしかしておねーちゃんがモテそうだと思っているのはあたしの贔屓目だったりするのかもしれない。真面目で、優しくて、堂々としていて、陰があって……やっぱり贔屓目じゃない、はず。あたしの感性が他とズレてたら知らないけど。
「恋人を作るならバンドマンはやめておきなさいね」
「どうして?」
「大抵ろくでなしだからよ」
そういうのが好みなら好きにすればいいけれど、勧めはしないわと続けて、何かを思い出すように少し目を瞑った。
「ボーカルがね、よくそんな男を引っ掛けては酷い別れ方をして荒れていたわ」
ピックをレジに通して、もう一回りしてから店を出た。ギターケースにピックを放り込んで背負い直すのを眺めて、なんとなく所作がおねーちゃんらしくないな、なんて感じた。完全に勘だけど、わざとやってる気がする。
駅まで逆戻りして、今度は別の路線の鈍行に乗り込んだ。こっちはあまり人がいない。乗客もおじいちゃんおばあちゃんばっかりで、ローカル線って感じだ。いままで乗ったこと無かったけど。
「Roseliaの練習は良かったの?」
「今日は休ませてもらったわ。そもそも、勧誘した翌日から完全にスケジュールを空けろと言うつもりは湊さんもなかったみたいだけど」
「へぇ、意外」
「意外って……」
リサちーから聞く限りは音楽に人生かけてるって感じだったし、生きるのに余裕がなさそうだったから、意外。完全に伝聞での偏見だから、思ってたのと違うのは当たり前なんだけど。
「それに、ダメだと言われても休むつもりだったわ」
「ここに来るために?」
「そう」
東条という駅で降りた。さっきよりも余程住宅街といった様相。駅もこじんまりとしていた。
10分ほど歩いて、スポーツ公園にたどり着いた。
「私が通っていた高校があるはずの場所よ」
「1990年って書いてあるけど」
「初めから無いんでしょうね」
さっさと次へ歩き始めたおねーちゃんについて、大きな橋を渡る。しばらく西に歩くと、商店街に差し掛かった。うちの近くの商店街よりも寂れているな、という印象。
雨漏りしそうなアーケードをぬけて、さらに5分ほど歩くと、小学校が見えてくる。
「ここは?」
「中学校、のはずなのよね」
「おねーちゃんの小学校と同じ名前なの?」
「いいえ」
グラウンドで遊んでいる子達の笑い声が聞こえてくる。どうみたって小学校だ。門にも書いてあるし。
今度は南へ。5分もかからなかっただろうか。大きな病院が見えてきたのに、今度こそおねーちゃんがため息を吐いた。
「……知っていたのだけどね」
次で最後よ、とまた西へ。傾いた太陽を追いかけて、住宅街の真ん中を歩く。
「自分の名前、両親の名前、弟の名前。通った学校の名前、家の住所、バンドメンバーの名前。バンドの名前、著名人の名前、馴染みのある地名。引っかかったものもあるけど、ほとんどが検索にもかからない。ネットに載っていないとおかしい情報まで、綺麗に見つからなかった。地図アプリでこの道をなぞって、この先に何があって何が無いのかも知っているわ」
揺れる右手を握った。あたしよりも低い体温。あたしよりも少し大きい手のひら。汗ばんだ指先から、震えが伝わってくる。
「ほら、何も無い」
売地と書かれた看板。それがそこにある全てだった。
振り返ったおねーちゃんの表情は、分からない。悲しいのか、諦めてしまっているのか、それとも安堵したのか。
「家があった場所?」
「……ええ」
自分が存在した痕跡がまるっきり消えてしまうのって、どんな気持ちなんだろう。
「それほど、悲しくはないのよ。整理がついているから」
「ほんとに?」
「私の巣は貴方だと言ったでしょう。◼️◼️◼️◼️の存在を示すものが消えたとしても、氷川紗夜はここにいる」
そんなふうに割り切れる人間なら、おねーちゃんは今まで苦しんだりしなかったはずだ。強ばった手の震えは何よりの証左だった。
「近くにスタジオがあるの」
「そのためにギター持ってきたの?」
「そうよ。貴方に聴いて欲しくて」
スタジオって当日に取れるものなのだろうか、という心配を他所に、あっさりとおねーちゃんはスタジオを借りてしまった。勝手がわかっていそうな所を見ると、やっぱりここも
やる気のなさそうなスタッフの案内を聞き流して、スタジオに入る。丸椅子に座って、おねーちゃんがセッティングするのを眺めていた。
「ケジメで、懺悔で、決別よ。この世界に存在しないバンドの、最初で最後の
「……うん、いいよ」
「……ありがとう」