氷川紗夜という人間は、社会で通用するかどうかはともかく、学生社会においてはそれなりに優秀な人間である。勉強ができ、身体能力に優れ、見た目も──日菜に似ているということを考えれば悪くは無いのだろう。自己分析をするとそうなる。
ただ、スポーツで何か成績を残しているわけでもなく、勉強ができるとは言っても高校2年の時点での学力にそれほど意味は無い。結局大学に入れるか否かに尽きる。
だから私は事実、何も特別なものを持ち得ない、どこにでもいる女子高生の1人に過ぎない。
卑屈だと言われようと、絶対評価としてはそうなるのだ。むしろ身の丈にあった自己分析ができていると自負しているくらい。
姉であるという点以外で日菜から好意を向けられる理由もないのだ。彼女と同じ景色が見られる訳でもない、有象無象のひとりに過ぎないのだから。
嫌われていれば楽だった、というのは本心だった。努力の理由に日菜を置いているのは事実だ。日菜の姉でなければ、そして日菜の姉に相応しくあろうというプライドさえなければ、こんな無力感を味わうことはなかっただろう。
あるいは、元◼️としての矜恃、見栄でもあるかもしれない。
「どうやったらおねーちゃんは自分を認めるの?」
「特段卑屈であるつもりはないわよ」
「嘘。これだけ言ってるんだから自覚もしてるよね」
日菜と比べれば、私なんて霞む。より先の人生を知っているから、今更学生としては優秀なんて評価に価値を感じないことも相まって、自己認識が拗れている。
「あたしは、嫌いにならないよ」
「……知っているわ」
「おねーちゃんにどんな
「ええ。私が悪かったわ。ごめんなさい。あなたの気持ちを踏みにじるようなことを言ってしまった。……だからどうか泣き止んで」
ハンカチで目元を抑えて、肩を抱く。本当に、最低だ。どう考えたって、ただの八つ当たりだった。
何となく、日菜はあまり、私たちの関係性に頓着していないのではないかと思っていた。私が素っ気なくしてもじゃれついてくるし、逆に構えばそれはそれで嬉しそうだし、かと言って私に何かを求めてくるわけでもない。
私が感じているプレッシャーだって、私が勝手に背負っているものだ。日菜は姉がどれだけ不出来でも変わらず接してくれるような気がする。
思考がループしている気がする。私が悪い、日菜は悪くない。それだけの思考。
「おねーちゃんがバンド組んでくれたら、ゆるす」
「……あなた、本当は結構余裕があるでしょう」
一言で陰鬱な思考がズラされる。嘘泣きではなかったのだろうが、それにしたって切り替えが早すぎる。
「余裕はそんなにないよ。おねーちゃんがいろいろ、あたしのこと誤解してるのもわかっちゃったし。……ほんと、伝わってると思ってたんだけどなぁ」
人間関係って難しい、と言って目元に私のハンカチを押し付けたまま苦笑する日菜に、なんと声を掛けたものか分からなかった。
私が日菜のことをあまり理解できていないのは事実だ。彼女から私に向けられる好意を、私は雛鳥がインプリンティングによって刷り込まれるものとそう変わらないくらいに思っていたほどなのだから。
日菜は、私のことを理解しようとしてくれていたのだろうか。私が日菜の表面上の人格しか見ていない内から。
どちらが歳上かわかったものじゃない。
「あたし、ベースやろっかな」
「バンドを組むことは決定事項なのね」
「嫌?」
「憂鬱な気分なのは確かよ」
「でもおねーちゃん、あたしのこと見てくれてなかったよね」
チクリと刺される。毒を吐かれたのは今日が初めてで、ずっとペースが乱されている。
「あなたが私のことを好きで堪らないのは知っていたわよ」
「うん。意外と楽観的というか、あんまり深く穿って考えないタチだよね、おねーちゃん」
それは否定できない。どうせ凡人の思考では天才の考えをトレースできないという諦めが前提にあったからだが、少なくとも日菜に対してそういう接し方をしてきたのは間違いなかった。
……良く考えれば、クラスメイトには深入りせず、親友がいたことも、恋人との関係に溺れたことも無く、両親からの愛は無償で与えられるものだと思っている私は、心の奥底から他人と触れ合ったことがないのかもしれない。特に両親には少し負い目があって、幼少期から遠慮してしまいがちだった。
不器用なのは自覚していたが、こうして日菜と向き合わされてからようやく気がつく。
「なんであたしがおねーちゃんのこと好きなのか、普段どれくらいおねーちゃんのことを見てるのか、あんまりわかってないんでしょ?」
「……そうね。でもそれは逆も然りなんじゃないかしら」
「そう? あたしは結構おねーちゃんのこと分かってると思うよ?」
「たとえば?」
「あたしのことが好きで好きで堪らないってこと!」
ひしと抱きつかれて、腕ごと拘束される。夏服だから、半袖のカッターシャツ越しにお互いの心音まで伝わってくる。少し汗ばんだ腕を絡められて、首元から制汗剤の匂いが香る。
確かに間違ってはいない。家族として日菜のことは愛しているし、それ以上に執着しているところもある。ただ、誤魔化されたな、と感じた。何かをはぐらかされた。
「左足から歩き始めることも、シトラスの匂いが好きなことも、あたしより少しだけ手のひらがおっきいことも知ってるっ!」
「双子の姉妹なのだから、それくらいは普通でしょう。私だってあなたの足音は分かるし、月のモチーフが好きなことも、私より少しだけ瞳孔が明るいことも知っているわよ」
「……あたし最近、わざと焦らされてるんじゃないかって思うようになったんだよね」
「何の話よ」
そうこうしているうちに一度家にたどり着いて、日菜と同じように玄関の端に鞄を置く。いったん汗を流したかったけれど、どうせまた茹だるような暑さの中を歩くことになるだろうから諦めた。待っている日菜が我慢できないだろうし。
「それで、楽器はベースにするの?」
「うん。ギターはおねーちゃんと被っちゃうし、ドラムだと家で練習できなさそうだし〜」
「そう」
「そんなに嫌? おねーちゃんがどうしても嫌なら、バンド組むのは諦めるけど」
バンドを組むのが嫌なわけじゃない。足を引っ張るのが嫌なだけだ。ただ、バンドを組めばほぼ確実に私が足を引っ張ることになるだろうから実質的に同義になるというだけで。
「あなたこそなんでバンドにこだわるのよ」
「楽器やるのは多分普通に楽しいけど、好きな人とやれたらもっと楽しいと思うから。変かな?」
「変じゃないけど、順序がおかしいでしょう。楽器をやりたい欲求に私が付帯するんじゃなくて、私と何かをやるのに都合が良さそうなのがバンドだったように見えるのだけれど」
「正解っ! でも、おねーちゃんとバンドが組めなくても音楽はやるよ」
私が何かスポーツをやっていれば同じスポーツに手を出したのだろう。たまたま私がギターを触っていたから、音楽に興味を持っただけだ。まったく、姉離れができていない。
姉妹の関係性を見直すべきなのだろうか。今まで私が見逃してきたものは、思っていたよりもずっと多かったのかもしれない。
「はぁ……いいわよ。やりましょう」
「ほんとに!?」
「長続きするかは保証しかねるわよ」
もっと日菜に向き合わなくては。
私は氷川紗夜、彼女の姉なのだから。
姉が何かを隠していることなんて、とうの昔から気が付いている。
姉が努力の人だということを、この世界の誰よりもよく知っている。
月のように静謐で端麗なあの人を、この世で唯一、愛している。
おねーちゃんの秘密が何なのか、あたしはまだ真に理解してはいないけれど、何となくわかっていることもある。あたしが家で薄着でいると少し
あたしがなにかに成功すると嬉しそうにするくせに、時折悔しさを滲ませること。いつからか、あたしに何かで負ける度に安堵するようになったこと。本当は姉であることを苦痛に思っていること。
数分だけ早く生まれたおねーちゃんが姉で、数分遅く生まれたあたしが妹。その関係に甘えてきたのは多分、あたしなんだろうなと思う。他の双子を見ても、あたし達ほど姉妹の上下関係がはっきりしていることはあまりない。年齢も能力も概ね同じなら、関係性も概ね対等になるものだから。
あたしがおねーちゃんを“上”に据えたから、私たちの関係はそうなったんだと思う。全部、あたしのためだ。あたしの先を往くために努力をして、あたしの姉であるために大人びて。妹に応えて、おねーちゃんは姉になった。
あたしがおねーちゃんの影響を多分に受けてこうなったように、今のおねーちゃんを作っているのもあたしだ。それはちょっと倒錯的で、素敵な関係性だと思う。
あたしが姉だったら、どうなっていたんだろう。あたしがウザ絡みして、おねーちゃんが面倒くさそうにそれをあしらって。うーん、概ね今と変わんないような気もするけど、その中身は今よりもよっぽど健全な関係になっていたような気もする。
考えてはみたけれど、今の方が良いなという結論に至る。あたしが姉でも氷川紗夜という存在を愛していたとは思うけれど、彼女はきっと今の氷川紗夜とは全く違う性格をしていたんじゃないかという気がする。それはより本来の
なら、取り繕った外面と変わらない内面の両方を好きになれる今の方がずっといい。一粒で二度美味しい、というやつ。
むしろ、おねーちゃんがおねーちゃんじゃなければここまで好きにならなかったかもしれない。中学までは憧れとして好きだったおねーちゃんに、本当は手が届くことに気が付いてしまってから、執着心が拗れて私はここまでおかしくなってしまったのだから。最初は純粋な思慕だったはずなのに、どうしてここまで捻くれてしまったのか。
おねーちゃんが妹だったら、多分最初から手が届く場所にいただろうし。
「うーん、好きだー!」
別の学校を受験したのは失敗だったなと今になって思う。一緒に過ごせる時間も凄まじく減ったし、スポーツとかもしていないから一緒になにかに取り組むなんてことも無くなった。
それを考えれば、バンドを組むという確約を得られたのは青天の霹靂と言っても良かった。おねーちゃんがあたしの事を随分と誤解していたらしかったのには少し焦ったけれど、おねーちゃんの自己肯定感の低さを考えれば想定できることだったから、あたしの計算ミスだ。早めに気が付いて良かったと言うことにしておこう。
それよりも二人で共通する趣味を作れたことへの喜びが勝る。やっぱり同じ楽器をやった方が良かったかな、と思わないでもないけれど、代わりにそれぞれメインに据えた楽器を教え合うという口実を取れるかもしれないし。
るんと来た、というやつだ。ここ数日のあたしは結構頑張った。
あとはおねーちゃんに追いつくまで頑張らなきゃ。