気候的な意味で夏と秋の境界がいつなのかは知らないが、雨に降られるのが嫌になるのが秋だと思っている。夏の雨はどれほど激しくても何となく心地良さがあって、けれど秋雨は酷く冷たい。私が夏を贔屓しているだけなのかもしれないけど。
あれだけ存在感を放っていた入道雲は姿を消し、蝉の音もぱたりと止んでしまった。
ギターケースが無いと歩きやすい。その分背中が寂しいような気がするのにも、じきに慣れるだろう。
いつも通り風紀委員の仕事をして、ホームルームにあとから合流する形で教室に戻る。白金さんに視線をやると、露骨に逸らされた。彼女からすれば私も裏切った側だろうから仕方がない。
退屈な数学の授業を聴き流しながら、余ってしまった時間の使い道について考えていた。
勉強でもすれば良いのだろうが、前と同じ大学に行くのならこれ以上根を詰める必要も無い。昔の研究の続きでもやれば卒業はできるだろうし、それなりに楽しく4年間を過ごせるだろう。
ベースを触りたいと日菜に言ったのは完全なその場の思い付きだったが、その点では悪くないかもしれない。暇も潰せるし、身にもなる。高校生にもなってジャンルを越境する──たとえば絵の勉強をするなんてのも億劫だから近いジャンルから攻めていくのも悪くは無い。
午前中の授業をやり過ごしたら、あっという間に昼休み。午後からは学校祭の準備になるから、退屈さからは開放された形になる。特に実行委員やらをやっているわけではないから、クラスの出し物の手伝いを程々にしていればそれで許される。
最近はもっぱら母の担当になった弁当を食べて、読みかけだった本に目を落とした。近代文学の名作、なんて言われている作品は数多くあれど、それを面白いと感じる確率は結構低い。それでも表現の幅に唸らせられるときはあるから、文豪とは実を伴った称号には違いないのだろう。
「氷川さん、千聖ちゃんに呼ばれてるよ?」
「……ありがとう。気が付かなかったわ」
「どういたしましてー」
肩に手を置かれながら名前を呼ばれて、初めて声を掛けられていた事に気がついた。教室のドアの方に目をやると、こちらを見ている白鷺さんの姿が。
「こんにちは、紗夜ちゃん。話すのは久しぶりね」
「ええ、まあ、クラスも違いますから」
「頼み事があってきたのだけれど……少し場所を変えてもいいかしら」
「どうせ暇でしたから構いませんが」
昨日の日菜の言が脳裏を
封鎖された屋上に続く階段の踊り場まで歩いて、白鷺さんが立ち止まった。
「内緒話をするわけではないのだけれど、不特定多数に聞かせたい内容でもなかったから、ごめんなさいね」
「構いません。それで、頼み事とは?」
「……その、ギターを教えて欲しいの」
安堵。なんだそんなことか、というニュアンスの言葉が零れかけた。
日菜をPastel*Palettesから抜けさせたいから手伝って欲しいとでも言われたらどうしようかと思った。冗談半分にしてもさすがに穿ちすぎか。
「Pastel*Palettesのメンバーはプロの教導を受けていると聞いていますが、なにか不満が?」
「レッスンにはもちろん出ているわ。けれどどうしても仕事の兼ね合いでほかのメンバーと比べて自主練に割ける時間が少ないから、レッスンだけじゃ足りないのよ」
時間が捻出できないのなら、せめて質と密度を上げるべきでしょう? と言われれば尤もだと頷く他ない。
「私だけが全くの素人だから、演奏のレベルが低いのは仕方がないわ。でも追いつく努力をしないのは怠慢でしかない」
「白鷺さんがPastel*Palettesにそこまでする義理があるようには見えませんが。さっさと抜けてしまえば、傷も広がらずに無駄な時間を使う必要も無くなるのでは?」
「それで、バンドメンバーを切り捨てた汚名を一生背負っていけと言うのかしら。義理はなくとも、それほど薄情になったつもりはないわ」
日菜の言葉の意味がわかった気がした。文字通りやる気が無いわけではなく、やるべきことをやってPastel*Palettesが沈んだのならそれで構わないというスタンスなわけだ。事務所のキャスティングとプロデュースが失敗しただけで、白鷺千聖という一個人が頑張ってもどうしようもなかったという結果になる分には。言いようによっては美談にもできるだろうし、隙がない。あくまで日菜の分析では、という話だけれど。
「……成程。では、なぜ私に? 白鷺さんならギターを弾ける知り合いなんて他にもいそうなものですけれど」
「日菜ちゃんが持っていたライブ映像を観た時に麻弥ちゃん──ドラムの子が褒めていたのを聞いて、本当に上手いのだなと確信が持てたからよ。人格面で信用できることは知っていたし」
「少し、考えさせてください」
「ええ」
大した意味もないのだろう日菜の行動がまた変な縁を運んできたことに、世界の狭さを感じる。……それと、Pastel*Palettesで日菜が何をしているのか不安になってきた。
白鷺さんに教えること自体は構わない。ただRoseliaが続いていくのなら放課後に付きっきりで教えることもできないし、そもそも白鷺さんも多忙だろうからどの程度時間が合うのかも分からない。
「……まず言っておきますが、放課後に直接教える、みたいなことはできません。白鷺さんにも仕事や練習があるでしょうし、私にもバンド練習がありますから」
「わかっているわ。だから弾いている動画を見てもらって指摘を貰ったり、適宜アドバイスを貰えれば良いなと思っていたのだけれど……」
「そういうことなら構いません。……Pastel*Palettesとの縁が急に増えましたね」
日菜の世界を広げたい、なんて言っていたものの、私の世界も日菜経由で拡張されつつある気がする。Roseliaもそうだし、白鷺さんもそう。再びバンドの世界に足を踏み入れたことによって、閉じた日常を開いてしまったような感覚がある。
「ありがとう。……今のうちからやっておいた方が良い練習とか、あるのかしら」
「まだコードから覚える段階でしょう? 基本的な練習はベースと同じだと考えてもらって構いません。コードは覚えなきゃいけませんが、弾きたい曲を練習して、あとは悪い癖を直していくだけです」
「……そうよね。日菜ちゃんは一日である程度弾けるようになったと言っていたけど」
「あの子は初日から指の皮が擦り切れるまで弾いていましたから。……比べるだけ無意味ですよ」
私はもう慣れてしまったが、日菜の成長速度とは比較するだけ無駄だ。努力できる天才がどれほど恐ろしいか。
「ああ、音楽雑誌とか、教本を読むと良いと思います。技術はおいおい身に付けるしかありませんが、知識は早いうちからあっても困りません」
「えーっと、それは何でもいいのかしら」
「雑誌なら大手の物を買えば問題ありません。それか、私が過去に読んでいたものを貸しましょうか。雑誌でも最新号を追いかける必要はありませんし」
「……お願いしてもいいかしら」
知識をつけると先走って小手先の技術ばかり達者になる、とは言うけれど、ある程度の知識は先にあった方が良いと思っている。間違った方向に努力するのを防げるし、悪い癖を自覚して初期から直すこともできる。先が見えている方がモチベーションが保てる人だっている。基礎を疎かにしようが続ける方が大事だし、白鷺さんはそれこそ基礎を疎かにするタイプには見えない。
「あと、連絡先を教えてもらえる?」
「1年のクラスのグループから登録できますよ」
「それもそうね」
「練習の時の動画でもなんでもいいので、送っておいていただけると助かります。それと、あくまで私は教えることに関しては素人なので、プロの意見の方を参考にしてくださいね」
物事を教えるのが下手だと言われたことは無いが、かと言って教え上手だと自惚れている訳でもない。初心者に教えることくらいはできると思いたいけれど。
なんて考えていると、白鷺さんが不思議そうに言った。
「紗夜ちゃんは同級生にも敬語なのよね。なにか意図があるのかしら」
「いえ、基本はタメ口ですよ。バンドメンバーと……白鷺さんくらいです」
「どうして?」
「日菜の同僚という認識が先に出てしまっただけです、恐らく。……無意識でした」
Roseliaのメンバーには意図して敬語で接している。あくまでサポートであるという線引きと、純粋な敬意と、あとは学校外で出会う人には大抵敬語から入った方が楽だという理由から。
「そうよね。以前は普通に話した気がするもの」
「違和感があるなら戻しますが」
「そうしてほしいわ。むず痒いもの」
腕時計を見れば、まだ休み時間が終わるまでには余裕があった。白鷺さんが階段に腰掛けたのに倣って、隣に腰掛ける。
「日菜ちゃんとは似ていないわね、やっぱり」
「……日菜の姉らしいとはよく言われるけれど」
「それは分かるわ。でも、似てはいない。貴方は優しいけど、彼女は恐ろしいもの」
似ているとか似ていないとか、結局自分では分からないことだ。お互いに影響を与えあっているのだから、少なからず似通ったところがあるのは確かだろう。ただ、姉妹にしては似ているかどうかを決めるのは他人の主観に過ぎない。
「……前の紗夜ちゃんに似ているんだわ、きっと」
「前?」
「そう。1年前の貴方」
この一年でそれほど変わっただろうか。日菜との関係性の変化に伴っての心境の変化はあっただろうが、外から見てそれとわかるような大きな変化だとは思えない。
「以前の貴方は、どうでも良さそうに世界を見ていた。……そうね、氷川紗夜の芝居をしている誰か、とでも言うような」
「そんなことは……」
「あくまで私の主観の話よ。当たっているかもしれないし、的外れかもしれない。けれど去年のあなたには、ギターの教導なんて頼めなかったと思う」
確かに、今よりは無味乾燥な世界で他人事のように生きていた自覚がある。そのことを言っているのなら、白鷺さんも大概鋭い人間だ。別にそんな、超越者地味た精神をしていたわけではないけれど、2周目の人生に退屈していたことは否定できない。それが白鷺さんには異常に見えたというのなら、そういうこともあるだろう。
「日菜ちゃんはきっと、Pastel*Palettesに興味があるわけじゃないのよね。芸能界に憧れてるわけでも、私たちの誰かを好意的に見ているわけでもない」
「……少なくとも、Pastel*Palettesを存続させようとしてはいるはずよ」
「でもそれは、Pastel*Palettes
白鷺さんはため息をついて、それから逡巡したように見えた。
「……あの子、頭がいいのよね」
「ええ」
「入って早々、私の逃げ道を全て塞ぐんだもの。……本当に、恐ろしいわ」
やっぱり心当たりがあるんじゃないか、と内心でぼやいた。
恐ろしい、なんて形容される程のことをやらかしておいて、「何でかわかんないけど嫌われてるみたい」、なんてよく言えたものだ。
「やっぱりあれは、紗夜ちゃんに似たのかしら。他人に興味がなさそうなところとか、そっくり」
「……日菜が外に目を向けないのは私も常々感じているけれど、べつに私に似たわけでは──」
「いえ、きっとそうだわ。2日しか話したことがない私でも分かるくらい、貴方しか見ていないのだもの」
何なのかしらね、貴方達は。呆れたようにそんなことを言われて、少なくとも10年以上芸能界で生き抜いている才女に言われたくは無いと返したかった。
「会って間もない相手のことをあれこれ言うのも良くないかしら。──とにかく、ギターのことはお願いするわね」
立ち去っていく背中に軽く手を振って、どうしたものかと空を仰ぐ。日菜は思ったよりもPastel*Palettesで好き勝手しているらしいし、ギターを教えるというのも実の所荷が重い。気も重いが。
Roseliaのこともまだ宙に浮いたままで、あっという間に私を取り巻く世界が移り変わってゆく。
「あ、紗夜ち。クラスT届いたんだけどさ、見てよこれ。ダッサいの!」
「……デザインしたのは誰よ」
「彩ちゃんでーす!」
「これを着て学校中練り歩いてもらいましょうか」
「え゛っ」
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帰路、トークルームに動画が投げられていた。Roseliaの練習風景。宇田川さんが時々撮影していたものだろうか。
記憶よりもずっと楽しそうに歌う湊さんが映っていた。宇田川さんと今井さんは言わずもがな、白金さんも笑っていて。思ったよりも、楽しそうに弾いている私が映っている。
消えてしまうのは惜しい、と思う。ただ、それだけ。とうの昔に折れてしまった人間が触れるには、少し眩しすぎる。