「イヴちゃん」
「はい! なんでしょう?」
「なんであたしを捕まえてるのか訊いてもいい?」
「逃げないように、です!」
「そんな、猫じゃないんだからさぁ……」
呆気ないほど、という表現が相応しいくらいに万事上手くいった。この場合は千聖ちゃんの事前交渉が上手かったのだろうと思うのだけれど、具体的にどんな話をしたのかまでは分からない。
アイドル事業部の部長は驚くほど協力的で、あっさりと千聖ちゃんにパスパレの独自裁量権を渡してしまった。もちろん紐付きではあるけれど、事務所主体のアイドル企画から、レーベル所属のバンドくらいの緩さに変わった、というか。
ついでにあたしが熱烈なスカウトを受ける羽目になった。大学を卒業したらウチに就職してくれ、だとか。大企業には違いないけど、めちゃくちゃ嫌だ。あとおねーちゃんをこんなところに入れる訳にはいかないからおねーちゃんの勧誘もやめて欲しい。
ただ、音楽プロデューサーにも繋いでくれて、こちらは麻弥ちゃん主体になるけれどそれなりに深い話ができた。あたしの知識が少ないのにかなり合わせて話してくれたような感じがあるので、それだけは申し訳なかったけれど。
こちらは結構若い人だった。ヒット作もそれなりに持っているから、てっきりもっとベテランの人だと思っていた。アイドル曲に飽きたからバンド曲を書き溜めていたらしい。扱いに困るくらいのデモ音源を渡されて、この中から好きな傾向の作品を選んでくれ、みたいな話をされた。それを今消化中だ。
なんでこんなに上手くいくのかと逆に不安になる。まともな企画が動いていない時期だから、とかならいいんだけれど、事務所自体が事業を動かすのが下手なんじゃないか、みたいな疑惑が少し浮かんできて、それだけが不安。
素人の持ち込み企画なんてもっと駄目出しをされたり修正を求められたりするものだと思っていたから、特に。
カシャリ、とスマホの撮影音。無表情の千聖ちゃんがスマホを構えていた。
イヴちゃんに抱き締められたままイスに座っているところを撮られたわけだ。
「公式アカウントで投稿していいかしら」
「好きにしなよ」
SNS運営は彩ちゃんとイヴちゃん以外なら誰でもよかったけれど、マネージャーと千聖ちゃんに任せることになった。動画サイトのアカウントには麻弥ちゃんとあたしも関わっているから、パスパレの運営担当はこの3人ということになるのだろうか。やることが多い。
「それより千聖ちゃん、仕事取ってきてー」
「話が進んでいるのが2つあるわよ。あと新曲をやるなら事務所の楽曲発表イベントの導線にも乗れるわね」
「え、もう!?」
「もうって……せっかく方向性が決まったんだから周知しておいた方がいいじゃん」
「そ、そうだけど……」
「迅速果断! ですね!」
「だいたいあってる」
彩ちゃんはお姉さんにボロボロにされているらしい。自分より歌える人にボコボコに言われるのは堪える、なんて言いながら、目に見えて(耳に聴こえて?)上達しているのが面白い。もうイベントを入れても歌い切れると確信しているから、新しい仕事の話を始めている。
曲も少ないし、まだワンマンライブなんかできるレベルにはないから、合同の大きなイベントに参加したり、規模の小さなソロイベントをこなしたり、そういう方向性になるのだろう。1番やりやすいのは事務所主催のイベントに乗っかることだけれど、ガールズバンドのファン層を取り込むという目標もある以上は殻に閉じこもっていられない。
事務所の広報の人とも話してみたいな。都合をつけてもらえるだろうか。事務所の人脈をフルに使える上、初めから整った環境を与えられているのだから、実力不足以外で伸び悩むことはありえない。MVを作ろうと思えば上等なスタジオ設備と専門のスタッフの手を借りられるし、衣装には困らないし、プロの楽曲提供も受けられる。そう考えればこれ以上ないくらいに恵まれた条件だ。
それにしても、初動は千聖ちゃんに頼り切りになってしまうのが歯痒い。あたしにも3つほどアテは用意できているけれど、千聖ちゃんと相談してからかな。彼女のワンマンと見られるのも良くないから、彩ちゃんを立てることも考えて──
「日菜ちゃん、楽しそうだね」
「そう? ……そうかも」
どうせ活動が本格的になればボーカルが顔になるから大丈夫か。
……他人の体温が落ち着かない。いい加減離して欲しいんだけど、どういうわけか全く力で勝てない上にホールドされているから逃げられない。
面白そうに見てくる彩ちゃんは、あたしの心境の変化について気になるのか、それとも捕まっているあたしを面白がっているのか。
誰も助け舟を出してくれないので、諦めて力を抜いた。
実はイヴちゃんのこういうところには割と助けられていたりする。良い意味で空気が読めないというか、あえて空気を壊すタイプがいると場の空気をリセットしてくれるから楽だ。
あたしは根っこの思考及び価値観的に、自分だけでなく他人に要求する水準が高くなる。練習時間にふざけたことをされるとイラつくタイプ。真面目な方向に寄り過ぎる。
ただ彩ちゃんはそういうタイプじゃないし、パスパレに求められているものも多分そうじゃない。ストイック過ぎる方向に持っていくべきではない、と思う。
あたしがついそっちに寄りすぎたときに空気を壊してくれるだろうイヴちゃんは、あたしの中で勝手にバランサー側のポジションに置かれていた。ガス抜き役、という表現が正しいんだろうか。
あたしと彩ちゃんだとあたしの声の方が大きくなってしまいがちだから、基本的に彩ちゃん側に付いてくれそうなイヴちゃんがいる方が都合がいい、というのもある。
真剣で真面目であるべきだけれど、行き過ぎるのはあたしの悪い癖だ。息の抜きどころが分からないというか、息継ぎの間隔が長すぎるらしい。
おねーちゃんは平気であたしと同じくらいの深さまで潜ってくるし、面倒くさくなったらバッサリと切ってくれるので今までそんな心配とは無縁だったのだけれど、パスパレのみんなにそれを当てはめるべきではない、らしい。足並みを揃えるのにあたしだけが行き過ぎたら意味が無い。
あたしの足が速くてみんなが遅い、という話ではないんだと思う。あたしが他人に合わせることを考慮せずに突っ走ろうとするせいで、前に出過ぎるだけ。他人に合わせる、ということがとにかく下手なあたしは、例えば彩ちゃんや千聖ちゃん達が無意識にやっているような、周囲のペースに合わせるということが意識的にじゃないとできない。
ますますあたしが主導権を握るべきじゃないな、と思う。彩ちゃんをリーダーにして千聖ちゃんが主導する、という形が多分一番パスパレに合っている。
「目標を考えるなら、タイアップの仕事とかを優先すべきなんだろうけど」
「ええ」
「でも、最初はライブやろうよ。前回のリベンジでさ。彩ちゃんもその方がいいでしょ?」
「……うん!」
ここまでやってようやく、パスパレはスタート地点に立っただけだ。デビュー時に生み出した莫大な負債を、とりあえずゼロに戻しただけ。どうせなら再々始動もライブがいい。
ついこの前のライブと、見える景色がまるで違った。あの日よりもずっと小さなハコなのに、あの日よりもずっと楽しい。
「最後の曲、聴いてください! 『しゅわりん☆どりーみん』!」
アイドルらしさと、バンドらしさ。中途半端にならないように取捨選択を繰り返して、何度も調整してきた。
この曲を、思い切りポップロックに寄せたいと言ったのは彩ちゃんだ。思い切り歪ませたギターと、スラップを混ぜたベースと、麻弥ちゃんが全力で叩くドラム。残すアイドルテイストはイヴちゃんのキーボードとあたしたちの合いの手くらいで、伴奏自体はガチガチのロックになる。
彩ちゃんの歌の質が大きく変わったから、伴奏に負けなくなった。アイドルらしい歌い方のままで、けれど声がずっと伸びるように。
2番に移行する間のギターソロの安定感も増して、前回やりきれなかったイタズラを思い出した。アドリブ入れたら怒られるだろうか。
彩ちゃんが2番を歌い切って、イヴちゃんのキーボードソロに入る。
千聖ちゃんがこっちを見て、意味深に笑った。千聖ちゃんも覚えてたか。
マイクスタンドのホルダーからピックを抜きとる。ぶっつけ本番というほどではないけど、ちゃんと練習してきたわけでもない。ミスしたらめちゃくちゃ恥ずかしいことになるのは目に見えていた。おねーちゃんにもバレるし。
息を吸う。
千聖ちゃんの方へと少し歩いて、指の動きが見える位置へ。
3.2.1──