12月になると、もう冷え込み方が秋のものではなく冬になる。とはいえ、冬の割にはまだそれほど寒くないという微妙な気温だった。マフラーや手袋がなくとも乗り切れそう、くらいのもの。もちろんあるに越したことはないけれど。
徹夜明けの登校は、完遂するのに凄まじいまでの精神力を要した。
日菜にパスパレのことで手伝って欲しいと請われて、柄にもなく張り切ったのが昨日の夜のこと。
しゅわりん☆どりーみんの録音をして、それからSNSを使ってそれなりに説得力をもたせられそうな「アイドルバンド」のメリットについてのデータを集めた。日菜が組み上げた企画の骨組みに軽く意見出しをして、データを渡すところまでやり遂げたのが今日の朝のこと。
せいぜい大学の卒論レベルにも満たない、拙いデータ収集だけれど、影響力もない一般の女子高生にできることはこれくらい。統計解析ソフトのデータを見るのが嫌になった頃に、夜が明けた。
正直なところ、本当に大したものでもないのだが、まあ日菜が使える道具のひとつくらいにはなるんじゃないだろうか。
個人が一日で仕上げられる程度のものなんて、その程度の価値でしかない。
日菜と──あと、白鷺さんか。あの二人が作るプロジェクトなら成否はどうあれ意義のあることをするんだろうし、私程度に手伝えることなら微力を尽くす所存だ。
足の間を通り抜ける
マフラーを巻いたまま、生徒玄関へ逆戻りする。両手で口元を覆うようにして、息を吐いた。つかの間の温かさは、瞬く間に冬の大気へ霧散する。
「おはようございます」
「おはようございまーす!」
委員会の仕事として朝の挨拶活動及び身なり検査をしているわけだが、結構な頻度で元気よく挨拶を返してくれる子達がいる。
朝から元気だなぁ、と老人みたいな感想を抱いたり、或いは人懐こい後輩だなと思ったり。
「……花園さん、リボンが曲がっていますよ」
「ほんとだ」
ギターケースを背負った横顔に声を掛けた。ろくに話したことはないけれど、一つ下の学年でも有名人だから名前くらいは知っていた。Poppin’Partyのリードギター、花園さん。リボンタイが曲がっていると指摘したら、そのままこちらに近づいてくる。直せ、ということだろうか。
左によれていたので、解いて結び直す。日菜のネクタイはともかく、人のリボンを結び直すのはおそらく初めてだった。
「……ありがとうございます」
「いえ。今度からは自分で結び直してくださいね」
「あ。……ごめんなさい」
……もしかして無意識だったのだろうか。少し恥ずかしそうにしながら立ち去っていく後ろ姿を見送って、徹夜にぼやける頭を冬の空気で引き締めるのに努めた。
朝の挨拶を終えて、門を閉める。このままだと来年も委員長をやる羽目になっていそうだな、とため息を吐いた。指定校推薦なんかを使う気もないから、内申が欲しい人がいたら是非とも譲って差し上げたいのだが。
「ここ、氷川さん読んでくれる?」
「はい」
『必要な事はみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。
私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。
しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
私は震える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆なの眼に着くように、元の通り机の上に置きました』
「はい、ありがとう。このシーンから読み取れるのは──」
眠い日に限って当てられる。授業中に爆睡するという醜態を晒さなかっただけマシと思うべきなのだろうが、少しくらい寝たかった。
午前中の授業を全てなんとか眠りに落ちずに受け終えて昼休みに入る。微塵も食欲が湧いていなかったけど、なんとか家から持ってきたサンドイッチを一切れ喉の奥に押し込んで、教室を出た。
とにかく眠い。
教室で衆人環視のなか眠る気にもなれなくて、逃げ場を探して廊下を歩く。保健室も考えたけれど、本当に体調不良の人が来たときのことを考えるとベッドを使うのも決まりが悪い。
結局逃げ場所として使うことにしたのは、ときおり白鷺さんと話す、屋上倉庫へ続く使われない階段の踊り場だった。階段に座り込んで、膝に額をつける。予鈴の時間に一応目覚ましをかけて、スマホを抱えたまま目を閉じた。
「おはよう、紗夜ちゃん」
「…………白鷺さん。どうしてここに?」
「彩ちゃんに頼まれて探しに来たのよ。随分と気持ちよさそうに眠っていたわね」
「なにか用事が?」
「『紗夜ちゃんがフラフラでどっか行っちゃったから、見かけたら教えて欲しいの』って。心配されてるのよ」
目覚ましを止めた瞬間に声を掛けられて、返事を返すのに少しの時間を要した。
スマホの内カメラで自分の顔を覗けば、額に膝のあとがついて赤くなっている。櫛で前髪を下ろして隠した。
「心配って……大袈裟な」
「そうかしら。隈もすごいし、あなたは体調不良とかを隠しそうだから、それが外から分かるレベルだということに不安を覚えるのは理解できるわ」
「……」
じっとりとした責めるような視線を浴びて、居心地悪く立ち上がった。変な姿勢で寝ていたから腰とお尻が痛い。
「寝不足なだけよ。本当に心配されるようなことじゃないの」
立ち上がると目線が下に来る。
実身長よりも大きく見えるのは、そういうオーラがあるんだろうか。あまり白鷺さんが小柄だということを意識することが無い。
「……そういえば、どうしてここが?」
「猫は死に際に人目につかないところに行くらしいじゃない? ──冗談よ」
「……もしかして、今日は日菜ちゃんもこんな感じ?」
「おそらく」
「2人して何をしていたのよ」
「日菜に訊いて」
「今から少し怖いわ……」
少しばかり眠って楽になった。それにしてもただ徹夜しただけで思いの外身体にガタがくる。以前はほとんどまともに眠っていない時期もあったから軽く見ていたが、自覚していないだけであのときは普通に死にかけていたのだから参考にしてはいけなかったかもしれない。この身体になってから健康に生きすぎていて逆に無理が利かない。
「それにしても、隈は隠しなさい。心配されているわよ」
困り果てて眼鏡をかけた。ブルーライトカットと、少しだけ補正が入った眼鏡。学校では普段かけないけれど、これで目元くらいは誤魔化せるだろうか。
♦
目元を隠すための眼鏡にあれやこれやと言われながら、午後の授業を乗り切った。嘘だ。6時間目は思い切り寝てしまった。5限目が体育だったから、疲労と眠気の波状攻撃に屈した形になる。
あとはまあ、白金さんの視線が痛かったくらいか。丸山さんははしゃぎすぎると周りに宥められるので、まあ、と言った感じ。
「どうして紗夜っちのことになると彩ちはチョーシ乗るんだろうね」
「アレ、調子に乗っている扱いなのね」
「そうだよー。紗夜っちに甘えてんの」
教室を出るとき、そんな話をした。
Roseliaの練習は無いから、そのまま家へ帰る。スマホを開けば、母からメッセージが入っていた。帰宅が遅くなることと、夕食を先に済ませておいて欲しいこと。お金は出すから外食でも、と書かれていたが、遅く帰宅して何も食べるものがないのも可哀想だし、何か作ろう。
大根が家で余っていたっけ。母の実家から送られてきたものだ。貰いすぎて消費できないから、というやつ。田舎特有のアレだ。
寒いし、おでんにしよう。大根を消費するだけなら、醤油ベースにして鶏肉と炊いてもいいけれど、今日はおでんの気分だった。12月にもなったし。
大根は家にある。卵はあるけど、買い足しておいてもいいだろう。それから練り物と牛すじ肉、こんにゃくを買って──あと、芋か。個人的には無くてもいいけれど、定番だから入れておこう。
茹でダコや牛タンを入れる家庭もあるらしいけれど、実際どうなのだろう。まあ、不味くはならないだろうという確信があるけれど、美味しいかどうかは別の話だ。
1度家に帰って、荷物を置いた。牛乳ももうないし、からしも賞味期限が切れていた。
ラフな格好に着替えて、今度はスーパーに向かう。
鍋の定番と言えばネギだが、おでんには入っているのを見ない気がする。葉野菜なんかもそうだ。
夕方のスーパーは主婦の方々で混んでいた。野菜と鮮魚のコーナーをスルーしようとして、茹でダコのことを思い出した。安売りで良さげなものがあれば入れてみようか、と思って覗いて見たら、ちょうど手頃な半額品があった。量はないけれどむしろちょうどいい。
牛すじ肉とこんにゃくをカゴに入れて、芋を買い忘れたことに気がついて店内を逆戻りする。
おでんに入れるとしたらじゃがいもか里芋なのだが、どうにも汁物に入っているじゃがいもが好きになれない。煮崩れするのが気になってしまうし、じゃがいも本来の甘みを感じるには他の調理法の方が向いているように思えてしまう。
というわけで調理者特権を行使して具材は里芋ということにする。
練り物はちくわ、厚揚げ、がんもどき、さつま揚げ、はんぺん、ごぼう天。巾着は良さげなものがなかったのでナシ。
みりんが切れかけていたので買い足して、それから卵とからし、柚子胡椒も。その他ついでに必要なものを買っておく。牛タンはさすがに試す気になれなかった。
出来合いの「おでん詰め合わせパック」のようなものを買えば簡単なのに、と囁く脳みそをねじ伏せながら帰路に就く。それはそう。手間をかけた方が美味しくなるとも限らないし、味が染みている分そういう既製品の方が美味しい可能性さえある。
食費としても結構高くついているような気もするし、結局は自己満足だ。
家に着いたら、寝てしまう前にさっさと調理を済ませてしまうことにした。
どうせ作るのだから、コンビニおでんよりも美味しく作りたい。シチュエーションの問題であちらには勝てないのだけれど。冬の学校帰りとか、寒空の下のドライブで、とかそういう要素を付け加えられたら、そりゃあもう。
まずは下茹でから。沸かしたお湯に牛すじ肉を放り込んで、灰汁を取りながら火を通す。別の大きな鍋にもお湯を沸かして、そちらで大根と里芋の下茹でをする。
里芋は皮を剥いて、軽く塩揉みしたら塩を洗い流して鍋に放り込む。下茹でするから塩揉みが必要かは微妙なところだけど、してはいけないということは無いだろうからやっておくことにした。
大根は3センチから4センチ幅に切って、味が染み込みやすいように1センチ程度の深さに十字の隠し包丁を入れておく。大根のかつらむきは結構上手くなったような気がする。どうせピーラーでやれば変わらないのだが。
少しもったいない気もするけれど、そのまま大根の切り口の角を面取りする。煮崩れしにくくするためのひと手間だ。
下茹でする鍋に、生米を少し加える。こうすることで灰汁が出にくいだとか、大根に艶が残るとか、甘みが増すとか。ジアスターゼとでんぷんによる作用と言われれば理屈は納得できるけれど、食べ比べたわけでもないから効果が実感できるほどなのかは分からない。
串を通して少し固く感じるくらいまで待機。15分くらいだろうか。
その間に練り物をザルにあける。揚げ物は後で油を落とすために湯通しするから、そのための準備だ。面倒だからちくわとはんぺんもそのまま一緒にしておく。それからこんにゃくを塩揉みして、格子状に飾り包丁を入れる。飾りと言いつつこんにゃくの場合は実用面も兼ねていたり。
本当にこだわるのなら、出汁からちゃんと引くべきなのだろうけれど、そこまでやる気にもなれなかった。新年の祝い事をする時に母方の実家では大きな鍋で出汁を引いたりもするけれど、普段の食事でそこまでやってられないというのが本音のところ。ただでさえ今はだしの素やらパックやら濃縮出汁やらがあるのに。下手に家で作るよりも安く美味しい出汁になったりする。
先に牛すじ肉の下茹でが終わったので、竹串に刺していく。ついでに、買ってきた茹でダコも。空いた分の鍋でゆで卵を作る。ゆで時間は7分くらい。殻に穴を空けておくと殻が剥きやすくなるらしい。プラシーボ効果の範疇だと思うけれど。
ゆで卵が出来上がるのと、大根と里芋の下茹でが終わるのがほぼ同時だった。ゆで卵を取り出して冷水につける。残った熱湯はそのまま練り物を湯通しするのに使う。ついでに下茹でしていなかったこんにゃくも混ぜておいた。
空いた小鍋で、串に刺した牛すじ肉を再び煮込んでいく。もう灰汁は出ないと思うけれど、単純にまだ硬そうだから煮込み時間を稼いでおきたい。どこまで効果があるかは分からないけれど、冷蔵庫に余っていた古めの青ネギを鍋に放り込んでおいた。
別に私は料理に凝っている人間じゃないし、一家言持っているわけでもないけれど、料理のクオリティを上げるのは調理工程のこういった、効果があるのかないのか分からないひと工夫の積み重ねだと思っている。肉を茹でる前に焼いておくとか、豆を乾煎りしておくとか、魚の脱水とか、臭み取りとか、そういうマイナスを消していく作業が積み重なって美味しい料理になる。
秘伝の調味料とかそういうものがなんでも解決してくれるわけではない。
これで概ね下処理は終わり。空いた大きな方の鍋に、濃縮出汁と水を入れる。おでんだから出汁は結構濃いめに。それに醤油とみりん、砂糖を加えて、塩で味を整える。
時刻を見れば18時。ちょうどいい頃だ。火が通りにくい大根やら牛すじ肉やら里芋から先に鍋に放り込んで、煮込んでいく。ウィンナーの余りがあったから3つほど入れておいた。
日菜からメッセージが入っていた。今日は外で食べてくるから夕食は要らない、との事。
米を炊いて、おでん以外のおかずをどうしようかと思案する。冷蔵庫にきゅうりの浅漬けはあるから、もうそれだけでいいか。日菜がいないなら、仕事でくたびれた母と酒を飲むだろう父はおでんだけで十分だろうし。
チルドにあった小松菜でおひたしを作る。アクセントにするなら味付けはポン酢と鰹節でいいだろう。明日の弁当の1品にもなる。
そうこうしている間に19時を回る。父が帰ってくる音が聞こえた。
「ただいま。今日は紗夜が作ってくれたんだね」
「……お帰りなさい。お風呂沸いてるから、入ってきたら?」
「そうだね、そうするよ」
おでんかぁ、と少し嬉しそうに脱衣所に向かっていく後ろ姿を見送る。
懸念していた牛すじ肉もとりあえず柔らかくなっていたから、一度火を止めておく。父がお風呂を上がったらまた温め直せばいいだろう。それまでは少し休憩。ソファに腰掛けて、背もたれに頭を預けた。
ご飯を食べたら、早めに寝よう。どうせ今日もまた日菜がタスクを持って帰ってくるだろうから、それをこなして……明日はRoseliaの練習もあるか。
「母さんは遅いんだろう?」
「うん。日菜も外で食べてくるって。もうご飯食べられるけど、食べる?」
「ああ。ありがとうね」
再び鍋を火にかけて、冷やしていた副菜を出す。2人分のご飯をよそって、からしと柚子胡椒をテーブルに並べた。
「お酒は飲むの?」
「そうだなぁ……日本酒を飲もうかな。折角だし」
鍋敷きをテーブルに置いて、その上に鍋を載せる。2人で食べるには凄まじく量が多いけれど、どうせ明日も食べるから問題ない。
日本酒用の小さなグラスに酌をする。そのうち手酌で飲み出すのはわかっているから、最初だけだ。それだけでこんなにも嬉しそうにするのだから、大概親バカだった。
「いただきます」
「いただきます」
大根と卵とちくわをよそう。からしを付けて食べるのが美味しいのはもちろんだけれど、白米と食べるのならからしは無い方が好きだ。隠し包丁に沿って大根を箸で4等分する。2日目の方が染みていて美味しいけれど、1日目の味も好きだ。大根本来の味がよく出ているのはこっちだと思う。
うん、自画自賛できる美味しさだった。
「美味しい。タコも入れたんだね」
「試してみようと思って。……どう?」
「俺は好きだよ。歯ごたえもあるしね」
ちくわに箸を伸ばした。ちくわって、竹の棒に魚のすり身を巻き付けて作るから竹輪と呼ぶのだと思っていたら、単純に形が竹の輪切りに似ているから竹輪というらしい。
ついでに、ちくわとちくわぶも大概だ。竹の輪切りに似ているから竹輪。竹輪に似せて作ったお麩だから竹輪麩。漢字にすると少しわかりやすいかもしれない。
ゆで卵の黄身を出汁に溶かして食べる。お酒を飲みながら、父はいつもよりも箸が進んでいるようだった。そんなにお腹が減っていたのだろうか。
「日菜は勿体ないなぁ。こんなに美味しいのに」
「パスパレの子達と食べているんでしょう。そっちの方が楽しくて美味しいんじゃない?」
家庭料理は家庭料理。思い出の味とかならまだしも、友達との外食なんかには勝てない。別にそこと張り合っているわけじゃなくて、完全な自己満足でわざわざ手間のかかるおでんなんかを選んだ。
「紗夜」
「何?」
「俺たちはみんな、紗夜のことが好きだよ」
「……知ってるよ。疑ったこともない」
「……そうか」
「もう酔っているの?」
「どうだろう。まだ2杯だから酔ってないと思うけどなぁ」
疑ったことは無い。騙しているのは私の方だからだ。
箸で掴んだ竹輪から、つゆが滴り落ちた。