『電車の乗り換えは得意?』
白鷺さんからそんなメッセージが届いていた。明日の約束の話だろう。
──得意かどうかは知りませんが、特に困ったことはありません。
そんな、答えになっているのかいないのかよく分からない返事をして、スマホを充電ケーブルに挿したまま部屋を出た。
金曜日の夜。父も今日は残業をせず真っ直ぐに帰ってきたから、早めの夕食をとって、順番にお風呂に入ったところだった。今頃は父が入浴の準備をして、母と日菜がリビングでテレビを見ているだろう。
肌寒い廊下の空気が、風呂上がりの高い体温を調節してくれる。
リビングのドアを開けると、ソファで母と日菜がクイズ番組の問題について議論を交わしあっていた。
「スギナだよね、おねーちゃん」
「何の話?」
「あの漢字。『接続草』」
「いや、読めないわよ」
「紗夜でも読めないのね。なら問題として不適切なんじゃないかしら」
「なんで私を基準にするのよ」
こちらまで飛び火してきた。半分当て字のような、まあ多分異名だろう漢字なんてほとんど読めない。一般的な難読漢字なら大概は読めるけれど、ニッチなところの蘊蓄なんかを問題に出されても知らないとしか答えられないのだ。
スギナは杉菜じゃないのか。スギのような葉だから杉菜なのだろう、と思っていたのだが。それともツクシの方に由来する異名なのだろうか。
CMを挟んで白けたような表情をした日菜の隣に腰掛ける。
「おねーちゃん、結構クイズ番組好きだよね」
「流し見する分にはね。日菜は?」
「空気読むのめんどくさかったから嫌い」
ああそう言えば、日菜もクイズ番組にゲストとして出たのだったか。
結構不貞腐れていたのを思い出した。日菜の知識量と発想力を見誤った番組プロデューサーが、日菜を所謂アイドルゲスト枠に置いた結果、クイズ番組内のパワーバランスに著しい開きが生じてしまったらしい。
「次はインテリ枠に入れてねって言っといたけど別に呼ばれたくもないからなー。彩ちゃんとかの方が映えるかも」
「それ、面倒ごとを押し付けているだけでしょう」
「テキザイテキショってやつだよ」
「へぇ?」
なんで彩ちゃんを庇うのさ、と迫られる。
シャンプーの匂いがした。肩を掴んだ手を掴み返して跳ね除ける。ソファに隣り合わせで座っているから、結局遠ざけることもできなくて、寄りかかられるがままになった。
「本当に仲がいいわねぇ。中学の頃はそうでもなかった気がするのに」
「そうね。関係性は随分と変わった、ような気がする」
「紗夜はちょっと寛容になった気がするわね。日菜はますます紗夜にベッタリだけれど、姉離れできるのかしら」
「必要、ある?」
「さあね」
「母さん、そこは断言してよ。……姉離れはしなさい」
「無理!」
私の方が体温が高かった。風呂上がりだからだろうか。
近頃生活が不規則だったせいか、ひどく眠い。まだ夜の9時さえも回っていないというのに、緩やかに眠りに近づいていく自分の意識をどこか遠くで知覚した。
「ああ、日菜。今日は無しね」
「えー。なんで?」
「眠いから」
「んー、じゃあ動画を撮り溜めよっかな。明日はオフだし、そっちで編集しよ」
いつも通りごねてくると思ったが、日菜はあっさり引き下がった。そんなにしんどそうな顔をしていただろうか。
日菜の動画は結構順調に伸びているらしい。さすがにPastel*Palettesの練習風景を切り取ったチャンネルには遥かに劣るが、完全に匿名でゼロからやっているチャンネルとは思えないほどに初期から急速な伸びを見せていた。
多少相談にも乗ったりしたが、動画のテーマ作りや曲選びはすべて日菜の発案だ。本当に、この子は何をやらせても上手くやる。
客層分析の練習、と言いつつチャンネルを「実験場」呼ばわりするのはやめて欲しいが。
噛み殺し切れずに、欠伸が出た。
「ほんとに眠そう」
「多分立ち上がると眠気が覚めるのよね」
「ここで寝る?」
「嫌よ」
徐に立ち上がって、背筋を伸ばす。それだけで少し、微睡みから覚める。
おやすみ、と言って廊下に出ると、日菜もついてきた。
「千聖ちゃんと出かけるんだっけ?」
「そうよ」
「ふーん。前だったら絶対断ってたのにね」
「……少しは変わったわよ。貴方にも向き合っているつもりだし、対等に話せる友人がいても特に困りはしないと思うようになっただけ」
「どうせ切れる縁だから?」
「別に、そんな打算だけで生きてるわけじゃない」
一貫性のある生き方ができるほど強い人間じゃない。日菜への態度でさえそうなのだから、なんと身勝手で傲慢な人間なのだろう。
感情に流されては失敗して、他人に絆されて、拒絶して、そうしてフラフラと生きている。
どうせ切れる縁。否定はしたが、そういう思考がどこかにあるのは事実だった。
今となっては日菜に適用されるか怪しいところだが、少なくとも友人関係についてはそうだ。
無意識の甘えを指摘されたような気がして、苦いものが過った。
人間関係なんて容易く切れるものだ。お互いが維持しようと努めなければ、それだけで自然消滅するようなものなのだから。
「おねーちゃん、結構千聖ちゃんのこと好きだよね」
「そう……ええ、そうかもね。無条件に尊敬できる相手だから」
「Roseliaの皆は?」
「音楽的にはそうね。私生活ではあまり関わりがないから、なんとも言えないけれど」
「燐子ちゃんの応援演説はしたんでしょ」
「逆に言うと、それくらいよ。メンバー同士は遊んでいるのかもしれないけれど、特に誘われもしないし。別に私もそういう繋がりを求めて入ったわけじゃないから」
ライブをいくつも重ねて来たが、結局Roseliaの皆が感じているらしい演奏中の特別な繋がりを実感したことは無い。無意識の絆が齎す高揚感なのだとしたら、私がそれを感じ取れないのも道理ではあるが。
結局日菜が部屋までついてきたので、話しながらストレッチをする。なんだかんだ、目が冴えてきてしまった。それでも身体は疲労を訴えかけてくるので、早めに眠るつもりだ。
「おねーちゃんは今、幸せ?」
「さあ。でも、満ち足りているのは確かね」
「そっか。おやすみ」
「ええ、おやすみ」
嘘つきと、そう聞こえた気がした。
♦
「おはよう、紗夜ちゃん」
「おはよう、白鷺さん。早かったわね」
「そっちこそ。結局、集合時間の15分前に集まるのね」
3月の陽気。来週辺りには桜も咲き始める頃だろうか。つい先月には最高気温が2℃とかそういう有様だったのに、もう春が来ている。
白鷺さんはワントーンのワンピースの上からベージュのコートを一枚羽織っただけの、かなりカジュアルな格好だった。シンプルな色彩の割に差し色のアクセサリーやパンプスで引き締まった上品な印象も持たせるから、やはり私とはセンスが違うなと素直に感心する。
芸能人らしいというか、女の子らしいというか。日菜もオシャレに関するアンテナはかなり高いから、私が単純に疎いだけなのだろう。こういうところは、過去の自分の感性を引き摺ってしまっているなと感じる。
雑に春物のトップスにスキニージーンズを合わせているだけの私とは雲泥の差だ。コートのように着崩しているガウンを羽織ってきたのは正解だったらしい。午前の空気にはまだ朝の冷たさが残っていた。
「……スタイルの良さってズルいわね。私はかなり誤魔化しているのに」
「恵まれているとは思うけど、そんなに自覚はないわね。白鷺さんのセンスの方が余程羨ましいわ」
「これは必要に駆られて磨いたものだから、紗夜ちゃんにも手に入るものよ」
適当に着こなしてもそれなりに見られる見た目になるのはありがたいと思う。以前好んでいたファッションは全く似合わなくなってしまったから、服の選び方を考える必要はあるのだが。
「それで、何処に行くの? 乗り換えがどうとか言っていたけど」
「最近できたオルチャン──韓国ブランドのセレクトショップに行きたいのだけど、ここからだとアクセスが悪いのよね。その、恥ずかしながら、私は乗り換えが苦手で……」
「白鷺さんにも苦手なものはあるのね。……じゃあ、移動は任せて。多分問題ないと思うから」
乗り換えの得手不得手というのがよく分からないが、方向感覚が無くなる、とかだろうか。それとも路線図が苦手なタイプか。
改札を抜けて列車に乗り込む。土曜日の午前中だから比較的人が少ない時間帯のはずだが、さすがに都心と言うべきか、かなり混んでいた。
「紗夜ちゃんはあまり服装に頓着しないタイプなのよね?」
「そうね。見苦しくなければそれでいいというか、自分を良く見せようみたいな意識はあまり無い……と思う」
自分を良く見せたい対象が存在しないせいで、そう言った無頓着さに拍車がかかっている気がする。以前は少なからず女性の目を気にする機会があったし、特段顔がいいわけでも身長が高いわけでもなかったから、せめて服装くらいは最低限整えようという意識があった。
今は、男性にモテたくもないし、あとはわざわざ自分で服を選ばずとも日菜に押し付けられる分でやりくりすればそんなに変な格好にはならないから、着飾る必要性を感じていない。
「これからセレクトショップに行くというのにこういう話をするのも申し訳ないけれど、私はファッションに疎いから建設的な意見は言えないわよ」
「ええ。その代わり、コーディネートさせてくれる?」
「それは構わないけれど……白鷺さんが服を見たいんじゃないの?」
「自分の分も見るけれど、私はあまり似合わないもの。だから紗夜ちゃんを引っ張ってきたのよ」
着せ替え人形係ということだろうか。すすんで勉強するほど優先順位は高くないが、ティーンのファッション雑誌を読んだりもするし、詳しい人の意見を聞きながら服を見るのは楽しそうだから構わない。
「どういう服装が好きなの?」
「ユニセックスなものが好み……と言うよりはガーリーなものを好まないから、必然的にそうなるという感じかしら」
「確かに、そういうのは日菜ちゃんの方が似合いそうね」
電車に揺られてしばらく。白鷺さんに視線を向けている乗客が複数いることに気が付いた。特に意識していなかったせいでやらかしに気が付くのが遅れた。学校で話すときと同じように、思い切り「白鷺さん」呼びをしてしまっていたが、良くなかっただろうか。
「不思議ね。普段はあまり気が付かれないのだけど」
「なんと呼びましょうか。悪目立ちするのも良くないでしょう」
「別に構わないわ。いちいち気にしていたら外出なんてできないもの」
特に変装もしていないし、と本当になんでもないように言って、白鷺さんは車窓越しに外の景色を覗いていた。とはいえただのビル街だ。珍しいものがあるとは思えない。
「紗夜ちゃんが目立つ、というのもあるわね」
「そうかしら。自覚はないわ」
「花音や彩ちゃんといるときは同じ服装でもあまり気付かれなかったもの。なら同行者の違いが作用していると考えるのが自然じゃないかしら」
「理屈はわかるけれど」
駅に着くと、ほぼ無意識に深く呼吸をする。閉所で感じる閉塞感から解放された反動だろうか。昔からの癖だ。エレベーターなんかでも同じ。
しばらく歩いて、地図アプリを見ながら白鷺さんが案内してくれたのはかなり大きめの店舗だった。真新しい内装の店内は、かなり品数が多い。
「紗夜ちゃんはスポーティなものも似合いそうよね。普段キャップは被る?」
「持ってはいるけれど、あまり」
「なら、今日はそういう方向性でチャレンジしてみない? オーバーサイズのアウターにシャツとスキニーを合わせてみるとか、初夏に向けてデザインの良いシャツブラウスを見てみるとか。個人的にはワイドパンツはあまり似合わないと思うのよね……後でそれも試してみたいけど、所作に品があるからそれよりは──」
内装が凝っているとなんとなく気後れするが、雰囲気がいいので同時にテンションも上がっていた。思案を始めた白鷺さんの隣について、マネキンのコーデを眺めたり、ライトアウターを眺めたりしていた。
店員と目が合ったが、会釈されるだけで話しかけては来なかった。他に客も入っているし、一通り回り終えるまで様子見というところだろうか。白鷺さんが真剣に物色しているから、邪魔しないようにしたのか。
「紗夜ちゃん」
「はい」
「これ、着てみてくれる?」
カジュアル系のアウターを手渡される。ホワイトをメインにブルーのラインがあしらわれたデザインだった。今の服装に合わせて選んだのだろうか。これならパンツは黒で来れば良かったかもしれない。
「あとこのブラウスと、キャップは……これでいいかしら」
既に見たことがないくらいテンションが上がり始めている白鷺さんの後ろから店員が近付いてくるのを見ながら、思っていたよりも長く過酷になりそうな一日に溜息をついた。