《49》ゴーストノート
「どうしてこんなにのめり込んでしまったのかしらね」
「Roseliaのこと? それとも音楽のこと?」
「どちらかと言えば、前者ね」
文化祭の練習のためにベースを握ってみるものの、いまいち身が入らなくて基礎練習の時間を引き伸ばすだけになる。日菜は思うように弾けていない私が面白いのか、いつも以上に楽しそうに隣ではしゃいでいた。
日菜が最初に買って、今ではサブ機に降格してしまった水色のベースを借り受けて、とにかく弾き続けている。音楽へのモチベーションの低下だとか、単純に上手く弾けないことへのストレスだとかが積み重なって、半ば義務感で弾いているような状態だ。
「おねーちゃんが言ったんでしょ。『好意を向けられ続けて、それに何も返せないのは辛い』って。それなら、逃げるか好意を返すかしかないじゃん。おねーちゃんが後者を選んだってだけじゃない?」
「まあ、そうよね。……本当に、何も見えていない」
宇田川さんには泣かれて、曖昧な空気になってしまったけれど、改めてRoseliaを抜けると言い切って全員に頭を下げてきた。
なんだかんだと、色濃い時間を過ごしたと思う。バンド練習以外での交流は少なかったとはいえ、十分に友人といえるくらいには仲を深めたのではないだろうか。
思い返せば私は、一応メンバーの全員から何かしらの相談を受けていたことになるわけか。
湊さんからは音楽への向き合い方への意見を求められて、幾つか話をした。商業展開について。音楽を愛することとはどういうことか。或いは、音楽とどう付き合って行くのか。
今井さんからは、単純に練習の話。楽器が違うから直接的なアドバイスはできなかったが、細々とした相談に乗ることは多かった。
宇田川さんは、進路の話なんかも多かったような気がする。それと、『Neo-Aspect』のときのような音楽の構造に関する話や、機材の話。
白金さんからは、バンドとの付き合い方や内向的な性格の克服について。あまり無責任なことはしたくなかったから、自分がカバーできる範囲での挑戦しか応援できなかったのが心残りだ。
彼女達に向けられた信頼に見合うものを返せたかと言えば、否だ。
私は結局、自分の悩みを打ち明けもしなかった。Roseliaを抜けたくないと思っても、彼女達を頼ろうとは思わなかった。
たとえ活動の仕方が変わったとしても、私がバンドを続けるための方法を模索してくれたかもしれないのに。
「そんなに家を出ていくのが大事?」
「ええ」
「でも、その割に高校はウチから通ってるよね」
「母さんに拒否されたからよ。寮のある高校も探していたし、受験勉強もしていたわ」
「……あたし、それ知らなかったんだけど」
また隠してたの? と怒られる。高校進学のとき、さらに遡れば中学に上がるときにも家を出る手段を探していた。流石にスポーツもやっていない私が中学から寮制のある学校に進学したいと言うのははばかられて、実際に母に言ったのは高校受験のときが初めてだ。
大学進学に関しては、都外の大学に行って一人暮らしをしたい、ということは両親にも仄めかしている。金銭的な余裕はあまり無いだろうけれど、そこはまあ仕方がない。奨学金という形で負債を支払ったっていい。
ゴーストノートを交えたツーフィンガー。ギターとはまた違う筋肉を酷使するので、すぐに右腕の感覚が希薄になっていく。
「昔の話はいいでしょう」
「じゃあ、今の話。おねーちゃんが家から出ても、あたしついてくからね」
「構わないと何度も言っているわよね?」
「心配なんだもん」
風呂上がりの匂い。自室に香るライムの匂いと、日菜のシトラスの匂いが混ざる。柑橘系のチョイスが多いように思えるのは、私の好みに合わせているからだと言っていたような。
予め決めていたメニューの通り弾ききって、ベースを脇に置く。乳酸が溜まりきった右腕の感覚がふわふわとしていて、少しだけ震えている。
「Roseliaのスコアみたいに、あたしとの思い出だっておねーちゃんは捨ててしまえるでしょう?」
さあね、とだけ返す。Roseliaにいたときの練習ノートや、印刷したスコアなんかを処分するために箱に入れてまとめてあるのを日菜は気にしているらしい。
「家族のことを捨てられないから、Roseliaを抜けたのだけどね。父と母のことを抜きにすれば、Roseliaは居心地が良かったのだし」
「じゃあ逆にさ、家を出れば全部解決すると思うの?」
「……思わない。けれどこれ以上進展も悪化もしなくなるでしょう。私が生まれたという特大のマイナスを2人に知られないまま、実家に顔を見せない親不孝娘が一人いるだけ、という微マイナスに抑えたいのよ。何度同じことを聞いても、私は意見を曲げない」
汗をかいたからシャワーを浴びてくる、と言うと日菜は黙ったまま、ひらりと手を振った。思案げな表情が気にかかる、というか100パーセント何か企んでいる。
ただまあ、それはそれで構わないと思う。私よりも日菜の方が頭が良いのも、視野が広いのも自明だ。主観で凝り固まっている私よりも、幾分家庭を客観視できるに違いない。日菜が腹案を持っているのなら、それに従った方が円満に済む可能性は高いだろう、という思惑があった。
だから私の望みと、最低限譲れないラインだけは繰り返し伝えておく。日菜は私が「やめろ」と言えばやめるのだろうから、いざとなればそれでもいい。
自分が冷静で俯瞰的な思考をしていると思い込んでいても、到底それを信じられない。
むしろ、信じられないことに気が付いているだけマシだと思う。
日菜が覚えているかは定かでは無いが、10歳になる前の私はしばしば適応障害を起こしていたように思う。誰かに相談をしたわけでもないし、多分両親も子どもの癇癪や情緒の揺らぎくらいにしか思っていないだろうが、今思い起こしてみれば大概だった。
なんの気概もない自分につくづく失望させられる。
他人とは浅くしか関わらず、虚飾で自分をよく見せるために取り繕って、この2度目の人生を生きてきた私には、情熱も恐怖も欠けている。
終いには、自分の願望まで日菜に委ねてしまった。
いいようにしてくれたらいい、なんて最悪だ。
シャワーを浴びる。長髪の洗い方にもすっかりと慣れてしまった。男だった頃のことも、当時の感覚や習慣も思い出せるけれど、自意識は女に染まっていて、それでいて変えられない思考特性や性的嗜好なんかは当時のままなんだから、不便なものだ。
性別と一緒に、この意気地無さを煮詰めたような性格も変わってくれればよかったのに。
──だから日菜は怯えているのか。
日菜から見ても、私は成長していないらしい。
いい加減に、髪を切ろう。伸ばして欲しいと言われてその通りにしてきたが、腰まで伸びてしまえば邪魔で仕方がなくなった。ショートにするか、残しても肩にかかるくらいまでにしておこうと決意する。
浴室を出て、髪を乾かす。スキンケアを済ませて廊下に出ると、温かくぬかるんだ夏の空気が漂っていた。
部屋に戻れば、日菜は自室に戻ったらしかった。スコアを片付けてベッドに寝そべる。立てかけられたギターとベースが、無性に憎たらしかった。
♦
夏休みも末期になれば、長期休暇の最中だというのに学校にいる生徒はかなり多い。学校祭の準備だったり、そもそも部活の練習があったりと、それなりに賑わっていた。
かく言う私も、風紀委員会の仕事が終わればクラスの演し物の手伝いをすることになる。
風紀委員の見回りの担当区域と時間のシフトだけを作って、生徒会に提出すればそれで仕事は終わりだ。生徒会の方があまりにも忙しそうなら、そちらの手伝いをしてもいいかもしれない。
「紗夜ちゃん! 今日の用事は?」
「……丸山さん。風紀委員の仕事が終わったら、あとは暇ね。クラスの手伝いをするつもりではいるけれど」
登校して早々、バタバタと忙しそうにしている丸山さんと鉢合わせた。
なんとなく丸山さんと出会う回数が多いような気がしてならない。動きが目立つからだろうか。
いきなり今日の予定を訊ねられて、ありのままに答える。
ハロハピで慣れてるから、とクラスでは松原さんが積極的に動いてくれているので、私は消極的に手伝いをしているだけで滞りなく進んでいる。生徒会への申請なんかは白金さんがいるからそのまま直通だし、そうでなくとも白鷺さんがいるからかクラス内が変にごたついたりすることも無い。
楽でいい、というのが私の感想だった。
「ちょっと提案があるんだけど──」
「何かしら」
「お昼から一緒に練習しない? 千聖ちゃんが、今日はクラスの方でやることはないって言ってたし……燐子ちゃんも午後から空いてるらしいから、せっかく集まれてるならと思って……」
少しの緊張を滲ませて、丸山さんがそう言った。
私がRoseliaを抜けた件について人伝にでも聞いて、気を遣っているのだろうか。
白金さんと会うのが気まずくないと言えば嘘になるが、別に喧嘩別れしたわけでもない。練習をすること自体は全く構わないのだが、楽器を持ってきていなかった。
「構わないけれど、今日はベースを持ってきていないの。一度取りに帰らなければいけないから、私は少し遅れて参加してもいいかしら」
「それは勿論! ──あ、吹奏楽に借りるのはどうかな?」
「吹奏楽部こそ練習で忙しいでしょう」
「コンクールではベースは使わないんだって言ってたけど……」
「……それでもよ。他人の楽器を借りる方が面倒だから、取りに帰るわ」
丸山さんとの会話も程々に、会議室へと向かう。
学園祭の見回りのシフトを割り振るだけだから、本当に大したことは無い。開始時刻の10分前からホワイトボードの前に座って待っていると、思ったよりも出席率が良い。欠席は3人だけだった。
開始時刻になっても来ない人を待っていても仕方がないので、さっさと委員会を進行する。
私が外せない部分はそれこそライブの時間くらいだから、入れる人が少ないタイミングに自分が入ってしまえばいい。みんななるべくなら遊びたいだろうし、見回りと言っても実質的には散歩しているようなものなので激務というわけでもない。明らかに羽目を外しすぎている人がいたら注意くらいはするかもしれないが、委員会ごときに責任が付帯するような権限はないのだ。
めんどくさいな、という視線。値踏みするような視線。人の前に立つと必ず向けられるそれが、少しだけ心地好い。
どうしても人が埋まらない部分を埋めるのに幾分かの説得を必要としたが、払った労力と言えばそれくらいだった。別に、当日バックレが発生したとしてもそれはそれで構わない。それこそたかが学校生活なのだし、追及するようなこともしないだろう。
シフトのメモを清書して担当教員に渡してしまえば、それで今日の仕事はおしまいだった。解散を宣言して早々に去っていく生徒たちの背中を見送って、会議室を軽く掃除してから鍵を返しに行く。
教室に顔を出すと、立て看板を作っているところだった。
色つきのわたあめ。まあ、高校生がやる分には気楽な割に楽しくていいんじゃないだろうか。
「あ、紗夜ちゃん」
「おはよう、松原さん。なにか手伝えることは?」
「ベースを取りに帰るんじゃ……?」
「此方が暇そうならそうするつもりよ」
「うーん、それならそっちを優先してもらって大丈夫だよ。正直、夏休みはもう学校に来なくても大丈夫かなってくらいの進捗だから」
「そう……遅れる口実が消えたわね」
「あはは……」
美術部の子が草案を作って、下書きなんかもやったりしている。模擬店だけにあまり大掛かりなセットを作る必要はなかったから、凝れるところは凝りたいらしい。
仕事はないらしいので、そのまま生徒玄関へと向かう。この炎天下でまた通学路を往復するという現実を前にして私は盛大に気勢を削がれていた。吹奏楽部に借りに行った方が楽だっただろうか。