ギターの弦を爪弾く。かつての技術には未だ及ばない、たどたどしい運指。指の長さも、動かす感覚も違う。記憶も掠れつつあって、さらにブランクが20年近くあるのだから、半年やそこらで完全に取り戻すところまでいけるとはもとより思っていなかった。
以前使っていたものと同じ型のアコースティック・ギター。未だに身体に対して大きく感じる。
氷川紗夜以前の感覚がまだ残っていることに郷愁じみた強烈な寂しさを覚えた。戻りたいわけじゃない。私は氷川紗夜だ。けれど、孤独を感じるのも事実だった。私が一番好きだった曲を知っているのは、この世界に私一人だ。私が愛したバンドは実在しない。よく見た芸能人は、元いた家は、家族の形跡は、どこにもなかった。
今弾いているこの曲は、誰も知らない曲だ。この世界には楽譜も音源も歌詞もない。私の心臓にだけ残っている曲たちのひとつ。
ワンフレーズだけ。Aメロだけ。手に馴染ませるだけ。忘れないようにと弾き続けているうちに夢中になっていた。
ボイトレもしていない、自分の喉の使い方もわかっていない歌い方。多分、録音してみれば聴けたものじゃないだろう。
──くだらない感傷だ。私しか知らない
日菜が帰ってくる頃には、やめよう。あと30分もしないうちには。
きっと不安にしてしまう。
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バンドを組むとかそういう以前に、人前で演奏をするのが好きじゃなかった。私にとって音楽はもう浸るもので、弾けるような情熱なんてとうに霧散してしまっていたからだ。
かといって、親しい人から懇願されて断るほどに嫌なわけじゃない。いざライブをやれば楽しめるだろうし、ライブに出て恥をかかないような実力は最低限担保しているから、特に不安要素もない。
10日ほど前に丸山さんの誘いを断ったのはそういう理由からだった。それに、凄まじく大きな不安要素がある。
メンバーが集まるのか、という話だ。最悪、ライブに出るのはいい。学生に混じって文化祭でギターを演奏するくらい、多分そつなくこなせるだろう。ただ、私はこの学校で誰が楽器を弾けるのか知らないし、弾けたとしてその人がライブに出る気があるとも限らない。一つ年下にバンドを組んでいる子達がいるのは有名な話だったが、彼女らは当然自分たちのバンドで出るだろうし。
丸山さんは私よりも顔が広いとはいえ、このタイミングで人を集めるのは無茶というものだろう。どうせ向こうも本気じゃなかっただろうし、気に病むことでもない。
「日菜、暑いわ」
「冷房の温度下げればいいじゃん」
「くっつかないでと言っているのよ」
自室のクッションに座ってぼうっと動画サイトを見ていたら、いつの間にかくっつき虫が背中に張り付いていた。コアラみたいにお腹に手を回されて、伝わる体温が暑い。
押し退けるためにハーフパンツから覗く白い脚に手を添えれば、私の手よりも冷たい感触が返ってくる。
「ライブの予定考えてくれたら離れるよ」
「あなたが見繕った適当なイベントに出ればいいじゃない。夏なんて頻繁にアマチュアのイベントが開かれているのだし」
「せっかく初めてのライブなんだし、おねーちゃんと決めたいの」
どれでもいいのに、と返すのは流石に可哀想だろうか。バンドを組むことを了承した以上は、ある程度日菜のわがままに付き合う義務もあるのだろうし。
「参加人数がそれなりに多そうなところで、あとは学生のバンドが多く出るところがいいわね。近くにある学生向けのライブハウスが……CIRCLEだったかしら? そこのイベントから選ぶのが無難だと思うわ」
「うーん、やっぱりそうなるよねぇ。じゃあ8月末のこれ、どうかな」
「『サキドリ音楽文化祭』? まあいいんじゃないかしら」
どうやらイベントについて調べて回ってはいたらしく、いくつかのチラシやサイトの情報を見せられる。私たちが住んでいるこの街は音楽活動がとりわけ盛んなことで有名らしく、休暇期間中ともなればイベントの数もかなり多い。インディーズバンドの中でもプロに近いような人達しか出てこないようなフェスから、ホントの初心者がとりあえず出てみるようなライブイベントまで選り取りみどりだ。
日菜が取り上げたのはその中でもかなり後者よりのイベントだった。参加資格はメンバー全員が学生であることのみ。地元では比較的大きめのハコで行われることから、規模も大きなものになるだろう。
「私たち2人で出るつもりなの?」
「うん。嫌だった?」
「嫌ではないけれど、ドラムもボーカルも足りないわよ」
「そーなんだよねぇ」
ボーカルは兼任でやるとしても、ギターとベースのツーピースバンドなんて滅多に聞かない。ツーピースにしてもキーボードとギターとか、ドラムとベースとか、いや、いずれにせよドラムは必要なイメージがある。音楽業界に詳しいという訳でもないので断言はできないが。
「ちぇー、ドラムにしとけば良かったかなぁ」
「ドラムだと歌うのは難しいんじゃないかしら」
「そのときはおねーちゃんが歌います」
「……そうよね、ボーカルの練習も必要だわ」
ドラムの音源を打ち込みで作るか、日菜がスラップでリズムをやるか、私がアコギでやるか。出せる解としてはこんなところだろうと思う。日菜の実力如何によっては2つ目でもいいし、1つ目であっても変にアレンジを加えない譜面通りの打ち込みであればそれほど難しくはないだろう。3つ目もまあ、最低限はこなせる。
それよりも、そうだ。ボーカルをどうするかという話だった。日菜はどうせ歌も上手いだろうからいいとして、私は一般人の域を出ない位の歌唱力しか備えていない。女性としての歌い方もよく知らず、己の声の特徴も分からず、ただピッチ、音程を合わせるくらいしかしてこなかった。
「歌ってくれるの?」
「私だけが歌うのは嫌よ。でも普通はギターがボーカルも兼任するものでしょう。それとも、メンバーを探す?」
こちらが主体となることにこだわらなければ、ドラムとボーカル枠を探すことはそれほど難しくないだろうと思う。バンドは解散したけど楽器は弾ける、なんて人は沢山転がっている。
もちろん、その質に関しては考慮していない上での話だが。
「嫌」
「そう」
背中に顔を埋めたまま首を振られる。背骨に頭蓋骨や鼻骨が当たって少し痛い。
「どきなさい。いい加減、暑苦しい」
立ち上がる素振りを見せると、日菜は素直に腕を解いた。代わりに見捨てられた子猫のような目を向けてくるのを黙殺する。
勉強机に備え付けられた椅子に腰掛けて、背もたれに体重を押し付けた。安物の椅子が軋む。お金に余裕があったら変えようかと思っていたが、ここ半年の支出が大きすぎて保留になっている。
「言っていることが支離滅裂ね。バンドを組みたいと言ったり、その割にメンバーを増やすのは嫌がったり。ライブをしたいと言うけれど、それ以降のことは別に考えていないのでしょう?」
「それは──」
「別に、あなたの思いつきに乗って何かすることが嫌なわけじゃないわよ。ただ、その程度で『音を通して理解し合えるパフォーマンス』なんて場所に到れるわけが無いじゃない」
すこし、日菜との認識のズレもわかってきた。
日菜は“知りたがり”で“知られたがり”なのだ。相手を知り尽くすことが仲を深めると信じている。言葉にせずとも理解し合える関係に夢を見ているのが、日菜だ。
私は知らない方が幸せだと思っている。自分の中身を暴かれたくないから、他人にも深く干渉しない。お互いの遠慮をなくさないから、無駄に踏み込んで地雷を踏むこともないし、相手を尊重して慮り合えると思っている。
姉妹の形としては、前者の方が健全に違いない。
……いや、違うか。私が日菜に対して何一つ心を開こうとしなかったから、日菜は私を無理矢理にでも暴こうとするようになったのか。だとすれば、やっぱり私が歪なのが原因となるのだろう。
「今度のライブはきっと成功するでしょう。無難に成功して、そこそこ楽しんで、それできっと終わりよ。私はそれでも構わないけれど──」
「良くないよ。そんなんじゃ嫌、だけどさ」
──わかんないよ、あたし。
吐き捨てるように言った日菜の瞳は、心の色を写すように揺れていた。
「おねーちゃんがそんなに音楽好きだったなんて、ギターを買ってるのを見て初めて知ったんだよ。あたしはおねーちゃんのことなんでも解ったつもりでいたから、それだけでちょっと寂しかった」
楽器をやる素振りなんて見せていなかったから、いくら日菜と言えど知らないのは当たり前だ。音楽くらい誰だって聞くだろうし、それ以外には楽器をやりたいだなんて言ったこともなかった。
「じゃああたしも楽器やればおねーちゃんと一緒に弾けるじゃんって思って、結構おねーちゃんに無茶振りをした自覚もあるよ。バンド組もうって言ったのもそうだし、ライブに引っ張ろうとしたのもそう」
無茶振りの自覚はあったのか、という呑気な思考と、どうしてこんなに落ち込んだ様子なんだろう、という困惑が入り交じる。
日菜が何をしたいのか分からない、というのはバンドを組んだあとの無計画さについて言ったつもりだった。2人のバンドでもライブには出られるし、活動自体に支障はない。ただ目標もなくぼちぼちやっていくつもりなのかと、そう問いかけるつもりだった。
「おねーちゃんが歌ってた曲、何処にも載ってなかった。あんなに寂しそうなおねーちゃんの表情、見たことなかった」
「……見ていたのね」
「あたし、おねーちゃんにとって大切な時間を邪魔してないかな。おねーちゃんにとっての聖域を、あたしが壊してない? あたしのために、我慢させてないかな?」
ああ、という納得。一人の世界に逃げ込んで現実逃避していたのを見られていたのなら、まだ理由はわかる。日菜がここまで思い詰めるとは思わなかったから、そこは意外ではあるけれど。
「気にしなくていいわ。あんなの、ただの現実逃避よ」
「ううん。あれ見たらあたしでも分かるよ。おねーちゃん、本当はライブやりたくないでしょ」
「やりたくないわけじゃないわよ。進んでやろうとは思わないだけで」
「嘘。あたしのために我慢して欲しいわけじゃないよ。姉だからって、おねーちゃんはあたしに何も求めないけど……」
つくづく、自分が嫌になる。良い姉を演じているつもりなのに、全く上手くいってはいないらしい。
「いつものあなただったら、『あたしが盛り上げて最高の思い出にする』くらいは言うでしょう」
「……わかんないんだもん。おねーちゃんにとっての音楽も、おねーちゃんの根幹にあるものも。人間関係下手っぴなあたしにはなんて言えばいいかわかんない」
そんなに思いつめる必要は無い、と言っているつもりなのに、どう言っていいか分からない。
日菜が音楽をやりたいと言ったとき、技術的に追い抜かれる虚しさは感じても、自己領域を踏み荒らされるような不快感を覚えることはなかった。私が郷愁のために浸っている音楽はもう、過去のものとして完結していて、氷川紗夜という人間からは別離した場所に納まっているのだろう。
「音楽を通じて分かり合えればなんて言ったのに、おねーちゃんのこと全然わかんなくなっちゃった」
理解できないことを恐れる気持ちが私には分からない。だから気の利いた台詞が出てくるわけもないけれど。
「考え過ぎなのよ、全部。あなたのこと、最近わかってきたわ。あなたが私にとやかく言うように、私もあなたに一つだけ言うけれど、あなたは知りたがりに過ぎる」
結局、似た者同士なのかもしれなかった。日菜だって、本質的には他人のことを信用していない。信じるのが怖いから知ろうとして、そうして理解できた部分だけを信じる。それって、自分のことを信じているに過ぎないのに。
その素養は日菜自身に元からあったのだろうが、それが育つ下地を作ったのは間違いなく私だった。
一緒に生まれて、一緒に育って、四六時中ともに生きてきたはずの双子の片割れのことがまるで理解できないことへの恐怖というのはどれほどのものなのだろうか。
その片割れたる私が、日菜の内心の奥深くにまでまるで関心を向けなかったのなら尚更。
双子であることに日菜がアイデンティティを抱いていたとしたら、それをまるっきり私に否定されたように感じたのではないだろうか。
日菜は多分、私の
だから日菜には我慢を強いるしかない。私が全てをさらけ出すことは恐らく無いし、日菜が私の全てを理解できる日も多分来ない。私は日菜を理解するように努める気ではいるけれど、さりとて己を誰かにひけらかすつもりは微塵もないのだから。
「あたしが音楽やっても、嫌じゃない?」
「嫌じゃないわよ」
「バンド組むのも?」
「面倒だとは思ったわ。でも、それくらいね」
「あたしに嘘ついてない?」
「少なくとも今日は吐いていないわよ」
「あたしのこと、すき?」
「ええ」
ポツリと問いが零される。嘘をついていないかということに関しては、多分ついているのだろうなと思いながらも誤魔化した。息をするように嘘をついてきた人間だから、もう自分がどこまで本音を言ったか定かではない。
「知りたいよ。おねーちゃんのこと、ぜんぶ」
「私としては諦めて欲しいのだけど」
「それはムリ。あー、あたし達が一卵性だったら良かったのに。そしたらまるっきりおねーちゃんと同じだったかも」
「怖いことを言わないで」
つかの間、沈黙が横たわった。それから、ひとつ深呼吸の音。
「ライブは、やりたいよ。多分一回やったら、おねーちゃんにとっての音楽もちょっとは分かるから」
非道いことを言ったと思う。お前なんかに私は理解できないから諦めろと突き付けた。自分からそう仕向けたくせに、酷いマッチポンプのようだ。
私が幼時の彼女をどれだけ歪めてしまったのか今更少しずつ理解しながらも、また同じ轍を踏もうとしている。
日菜のことを否定するばかりの私に自己嫌悪する。実際には、自分の言葉の重みだって理解してはいない。日菜が私の言葉をどのように受け取るのかも想像がつかないから。
姉妹喧嘩って、多分こういうことではないと思う。お互いに空回っているだけで、同じ土俵にすら立てていない。
また少し、自分が嫌になった。