かつてないほどじっとりとした空気。いっそ恐ろしい程に沈黙が横たわったスタジオで、友希那がポツリと呟いた。
「……どうして、紗夜が来る前のようにできないのかしら」
リサは、手元にあるベースが虚しく響くのに耐えられなくて息を吐いた。技術的な面で言えば、紗夜が入る前と比較してもかなり成長していると思う。
だからこれはRoseliaの音楽性の問題でもあるし、精神的な問題でもある。
端的に言うのなら、主張の不足とバランスの崩壊だった。
「燐子の主張をもっと大きくして……楽器隊の中心はリサ、あなたになるのだからもっと自信を持って弾いて」
「うん」
紗夜がいちばん上手いから紗夜に合わせる、ということばかりしてきたリサには、それだけで少し苦しかった。ギターがいなくなるのに合わせてメロディーを担当する燐子のピアノ、オルガンに軸を置いた曲調にガラリと変わったのも大きい。今のバンドの色に最も合うベースとはなんなのか。いまはそういう部分を模索している途中で、紗夜が抜ける以前から想定されていたスランプでもある。
ただ、それよりもずっと、紗夜があっさりとRoseliaを手放してしまったことがショックだった。
大抵のことはやった、と思う。バンド練習以外で遊びに誘ったり、日菜に相談に乗ってもらって紗夜ともかなり深い話をしたり。
リサの独り善がりでなかったとするなら、紗夜だってこのバンドにかなりの思い入れを抱いてくれていたはずだ。事実、Roseliaを抜けるときには何度も悩んだことがありありと伝わってきたし、本人も惜しく感じてくれていることは明らかだった。
だから、どうやったって紗夜を引き止めることは無理だったのだろう、と思う。
少なくとも、友希那とリサはこのバンドに将来を預けている。人生を賭けて、音楽に挑戦するつもりでいる。ただ、紗夜はそうじゃなかったという話だ。
学びたいことがあるから都外の大学に行きたい、という主張は、単体ではどこか薄っぺらかった。日菜の話と合わせて考えるに、紗夜は家族関係のことで悩みを抱えていて、それも相まって東京を出るつもりなのだ、ということまでは分かった。その時点で、リサにはどうすることもできない。家族関係の悩みに勝手に踏み込むこともできないし、そもそも都外の大学に行きたいという言い分ですら、進路のことを未だ他人事のように考えているリサには口を挟む資格など無いのだ。
──友達だから。
それはリサにとって尤もらしく聞こえる言い分であり、そして言い訳でもあった。
友達だから踏み込まないし、友達だから踏み込めない。家族関係に赤の他人が首を突っ込む訳にはいかないというのは、ごく当たり前の理論だ。リサが唯一無二の親友であると信じている友希那に対してすら、リサは家庭の事情に関して踏み込んでいない。たとえ友希那の父とも親交があって、その両者が悲しくすれ違っているのを知っていたとしても、だ。
だからリサは紗夜の核心に触れる前に踏みとどまったし、それが間違いだったと思いたくはなかった。
ただし。
Roseliaの方を曲げることは、きっとできただろうなと思う。それが何となく、凝りになっていた。紗夜に残って欲しいと言いながら、最善を尽くしただろうか。例えば、Roseliaの活動の様式を変える相談をしてみる、とか。
「リサ。……リサ」
「ああうん、ごめん。少し考え事してた」
友希那がため息を吐く。紗夜そっくりの仕草。
わかっている。今は紗夜のことに拘泥するべきでは無い。
フェスのコンテストの申し込みを控えて、少しでも演奏のクオリティを上げなければならない時期だ。
結局、その日の練習はあまり身にならなかった。
他のみんなはある程度切り替えている様子なのに、1人だけこんな有様なのはいただけない。
「今井さん。……もし良ければ、なんですけど……文化祭の氷川さんのステージ、見に来ませんか」
休憩時間。化粧室で顔を洗って気分を入れ替えようとしていると、ついてきた燐子が徐にそう言った。
「あー、何かやるって言ってたよね」
「花女の3年生でバンドをやるんです」
ああ、それで言いづらそうにしていたのだったか。別に、怒ったりはしないのに。
「えーっと、燐子と、紗夜と、花音と、千聖と、彩?」
「そうです」
「……ベースが足りなくない?」
「あ、それは氷川さんが……」
Roseliaに未練なく弾いている紗夜を見れば、自分も切り替えられるかもしれない。そんな打算を抱いたのは事実だった。紗夜の弾くベースを聴いてみたかったという純粋な興味もある。パスパレとRoseliaから2人、ハロハピから1人。3バンド構成ごちゃ混ぜバンドと言ったところだろうか。
「うん。行きたい、けど、部外者が入れる日なの?」
「あ、それは大丈夫です。当日の案内とかはできないと思うので、それは申し訳ないんですけど……」
「ヘーキヘーキ。アタシ花女にも友達いるし」
冷たい水道水に手が触れる。手汗と皮脂でベタついた手のひらを洗い流す。手首を冷やすと体温が下がりやすいらしい。首、手首、足首。血管が収束する場所だ。いつだったか、紗夜がぽつりと言っていたのを思い出した。
なんだか、恋人に振られて未練タラタラな女みたいだ、と思えてしまって苦笑する。
「……ほんとは誘うつもりは無かったんですけど、今井さんは一度見ておいた方がいいと思ったんです」
「今の紗夜を?」
「Roseliaじゃない氷川さんを。……氷川さんはきっと嫌がると思いますし、他のみんなにはあまり言っていませんから、内緒ですよ?」
あこはフェスの後、紗夜と2人きりでしばらく話していた。泣かれてしまっては流石の紗夜もはいさよなら、とはいかなかったのか、些か困ったような顔をして、それでも言葉を尽くしたんだろうと思う。結果として、紗夜の離脱をいちばんしっかりと受け止めているのはあこだ。
友希那は、しばらくは消沈していた様子だったが、本懐が迫っている。フェスを前にして停滞するようなことを、友希那が自分に許すはずがなかった。編曲作業と歌い方の修正、新たなRoseliaの音楽性の構築と、目先の課題を優先するうちに自分のペースを取り戻したようだった。
だから、宙ぶらりんなのはリサだけだ。寄る辺もなく、かと言って変化に対応する軸もなく。
「……燐子は、この一週間でどう思ったの?」
「私は……私たちと氷川さんがやってきたことは、間違いじゃなかったんだと思いました。残念ながら、私たちと彼女は道を違えてしまいましたが、氷川さんは望んで私たちといてくれた。その事実だけで、前へ進むには十分です」
燐子はあっさりと言い切った。再び道が交わるのなら、それが一番良いのですけどね、と付け加えて、それからリサの様子を窺うように押し黙る。
そういうものだと割り切れていないリサが間違っているのだろう。
紗夜が戻ってくれば満足なのか? きっと、否だ。
リサは恐らく、紗夜に対して最善を尽くしたと思えない後ろめたさに悩んでいるだけだった。
「ありがと。文化祭、楽しみにしとくね」
「……はい」
「じゃあ、戻ろっか。今日もアタシはダメダメだし、少しでも詰めなきゃ」
♦
『どうして、私に拘るんですか』
紗夜が頻繁にそう口にするのが、リサにはどうにも腑に落ちなかった。
例えば人に好意をおぼえるとき、そこに具体的な理由は必要だろうか。
何となく好みの顔立ちだ、とか、所作に気品がある、とか、話していると楽しい、とか、賢くて尊敬できる、とか。そんな細かな要因が複合してリサは
それで構わないんじゃないか、と思う。リサにとって、あの日、CiRCLEのライブで出会った紗夜こそが一緒にバンドをやりたいと思うギタリストなのだ。もしも紗夜と全くおなじ技量を持ったギタリストがいたとして、その人とバンドをやりたいと思うかはまた別の話だ。
──
そう思う理由なんて、その程度で十分だと信じていた。
究極的には、紗夜の言うようにRoseliaで紗夜以上のパフォーマンスを発揮できるギタリストはそれなりにいるだろう。ただそれとこれとは別の話で。
そんなことは紗夜だってわかっているはず。じゃあ、なぜ紗夜は唯一性に拘るのか。
自己肯定感の低さ、なんだろうなぁと思う。
能力がある人が謙虚な態度を取るのとは違う。本当に自分には価値がないと思い込んでいて、他人から求められることに怯えているようにすら見える。
燐子から文化祭ライブの誘いを受けた翌日。花咲川女子学園と同時期に行われる羽丘の文化祭の準備のために登校したリサは、夕暮れ、帰る前に日菜を訪ねた。
「ヒナの家ってさ。お母さんが厳しいとか、そんな感じなの?」
「や、別に? ……ああ、なるほど。おねーちゃん?」
生徒会室に1人残って机に突っ伏していた日菜は、問いに対して曖昧に笑った。
「的外れとは思わないけど……うん、そのアプローチはやめなよ。おねーちゃんの性格は家庭環境に依らないおねーちゃんだけのものだし、それに、これ以上首を突っ込んでどうするの?」
「どうもしないよ。アタシがただ納得したいだけ」
「……まぁ、Roseliaにはあんまり協力できなかったから、そこは申し訳ないと思ってるけどさ。……おねーちゃんが都外の大学に行きたいのは、家族の問題と言うよりもおねーちゃんがそう望んでるからだよ」
どうしたい、と言われて少し言葉に詰まった。
紗夜を改めて勧誘する?
できることならそうしたいが、紗夜が辞めた理由を無視したままそんなことをしたって両方にメリットがないだろう。
だから本当に、リサは納得したいだけだった。
「……まぁ、いっか。ねぇ、リサちー。一つだけお願いがあるんだけど」
「アタシに叶えられることならできる限り努力はするけど……」
家庭の話を日菜に振るのは早計だったかという思いと、普段なら絶対しないような他人の個人的な事情にまで踏み込もうとしている自分への驚きが混在していた。
日菜はきっぱりとリサを拒絶したあと、代替案を提示するように「お願い」を切り出した。
「フェスの予選、何とかしておねーちゃんを会場に連れていくからさ、おねーちゃんを後悔させて欲しいんだよね」