月輪より滴り   作:おいかぜ

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《52》迷走

 

 

「日菜、起きなさい」

 

 6時に起きなきゃいけないから起こして、と昨晩日菜が言っていたのを思い出して、幾ばくかの安堵と共にベッドの中の日菜を揺り起こした。

 安堵の感情は、今日の文化祭での私の演奏を日菜が見に来られないから。

 

 散々醜い部分も弱い部分も見せた相手ではあるが、恥を上塗りしたいわけではない。

 Roseliaを抜けたことをいっそ意外なくらい引きずっている私の今の演奏を聴かれたくなかった。

 

「……おねーちゃん。……ぁ、もう6時?」

「6時丁度よ。仕事があるんでしょう、さっさと起きて」

「あー……ロケかぁ……。サボっちゃダメかな」

「バイトじゃないのよ」

 

 学校の日はぐずる癖に、仕事にはそれなりに信念を持って向き合っているのか、日菜は早々に起き上がって身支度を始めた。

 日頃のあれは、やっぱり甘えているだけなのか。

 

 日曜日の朝にここまで早起きするのは久しぶりな気がする。文化祭当日といえども、準備をして学校へ行くにはまだかなり早い時間だ。朝食のトーストを焼いて、余っていた無塩バターを塗りたくる。個人的には、あまり好みじゃなかった。

 日菜はオレンジジャムをこれでもかと塗っていた。私もそっちにすれば良かった。トーストを齧りながら明日はバターはやめようと心に決める。

 

 両親は休日でもそれなりに早起きな方だが、流石にこの時間はまだ寝ているようだった。

 

「おねーちゃんも駅まで来てよ」

「……めんどくさい」

 

 送迎とか、そういうのは無いものなのだろうか。まあ帰りはよくマネージャーに送って貰っているようだし、自分で足を運ぶ必要がある日もあるというだけなのだろうが。

 

 面倒だと言いつつ、ちょうど良い暇つぶしくらいにはなるかと私も制服に着替える。

 大した荷物もないから本当にベース1本だけ学校に持っていくような状態だ。

 

「あ、ついて来てくれるの?」

「まあ、暇だもの」

 

 外に出れば、景色は秋。早朝だというのに気温はまだ夏の名残を隠しきれていない。落葉が増えても、9月は実質的に夏みたいなものだ。

 半袖パーカーにプリーツスカートというラフな出で立ちで私の隣を歩く日菜は、憂鬱そうに不平をこぼした。

 

「あーあ、おねーちゃんがベースやってるライブ見たかったな」

「どうせ動画でもなんでも手に入れるつもりでしょう」

「まあそーだけど、どうせなら生で聴きたかった。あとは彩ちゃんと千聖ちゃんが他の人とライブするとどうなるのかも少し気になるし」

「自分以外のベースとライブするのがムカつく、とかは無いの?」

「んー? ……ないかな。そこは別にどーでもいいかも」

 

 バンドメンバーが自分以外とライブをするのに腹を立てる人種というのは結構いるらしい。

 私も苛立ちこそしないが、以前は少し思うところがあった。

 バンド内で一番下手な自覚があったから、外部の上手いギタリストとバンドメンバーが意気投合して、自分が見限られるじゃないか、という危惧だとか。或いは、いっその事見捨ててくれればいいのにという歪んだ期待だとか。

 

「あ、でも逆はあるよ。おねーちゃんはあたし以外とライブしないで欲しい」

「言っていることがめちゃくちゃじゃない。……Roseliaにいて欲しいと言ったり」

「感情的には、ってハナシ。自分で言うのもなんだけど、あたしは結構独占欲強い方だし」

 

 日菜があっさりとそう言うのに、過剰な反応はしない。今更分かりきっていることでもあるし、踏み込むには彼我の関係を改める決意を要する内容でもある。いずれは、日菜と私の関係にも何らかの答えを見つけなければならないだろう。

 もしくは、私が逃げ出すのが先か。

 

 日菜が時折滲ませる私への“感情”について、私はまだ答えを出せない。

 

「そういえば、Roseliaやめたことお母さん達に話したの?」

「受験に専念するからとは言ったわ」

「ふーん。まあそれで納得するよね」

「そうね。あの人たちは、私にほとんど口出ししないもの」

 

 これまで積み上げてきた信用のお陰でもある。私という贋作も、嘘を吐き通せば真になる。

 一瞬、日菜に釘を刺すべきか逡巡した。今のところ、「日菜の方が上手くやるだろう」という信頼のもと、日菜の行動を制限してはいないが、安全策を取るならば日菜が両親に告げ口しないように対策を打つべきだ。

 日菜に委ねておけば上手くいくかもしれない、だなんてなんの根拠もないのだし、そもそも他人任せにするべきではない。

 

 この期待は、弱さだ。

 私はまだ、本物になりたいと思ってしまっている。

 

 大切な娘の中身が実はどこの誰とも知れぬ男でした、なんて事実を両親に突き付ける選択肢を、どうあっても選ぶべきではない。

 

 日菜に零してしまってから、自分がブレてしまったのをひしひしと感じている。結局のところ、限界が来ていたから日菜に話してしまったのかもしれないが。

 

「……逆に、私はどうすればいいと思う?」

「お母さん達に話して、Roseliaに戻って、東大受験」

「ナシね」

「ざんねん。……あたしを連れていってくれるのなら、何処へだって逃げてもいいけどさ。でも“前”と違って、今は地続きだよ。おねーちゃんがいくら関係性を断とうとしても、追いかけることはできる」

「追ってくる相手を作らなければいい」

「あたしは追っかけるよ」

「それは構わないと言っているでしょう。でも、パスパレは放り投げるつもり?」

「そうなるかもね」

 

 どうなれば氷川紗夜という人間が幸せになれるのか。多分1番は記憶を失うことだ。或いは、この石の下で這い回る虫のような湿気った人間性を是正するのでもいい。

 

 前世を言い訳にしてはいるが、結局私の人間性が問題なのだと思う。劣等感塗れで、卑屈で、臆病なこの性根が良くない。

 

 前世だってそうだった。私は確かに彼らが好きだったのに、勝手に折れて、遠ざけて、そして無様に一人で死んだ。

 今この瞬間になっても、私は何も変われていない。

 前世の記憶がコンプレックスで、穢い私を誰かに知られるのも恐ろしい。真に心を通わせられる相手もおらず、取り繕った表面上の笑みだけで友情を語る。妹の才能を妬みさえし、人生さえも無為なものだと吐き捨てる卑屈な人間性。

 

 何が恐ろしいのか。

 きっと、心を開くのが何より恐ろしい。

 

 日菜だけが例外なのは、日菜が私の下にいることを望んでいるのが分かったから。

 あまつさえ私は、心のどこかで“教えてやった”のだとさえ思っているのだ。

 

 側溝の蓋に、小石を蹴り落とした。隣を歩く日菜は、私が投げかけた問いを吟味しているようだった。

 

「おねーちゃんが目指してる大学からなら、パスパレの活動も続けられなくはないかな。事務所に通える範囲だし、バイトするわけじゃないから時間も作れるはず」

「そう」

「あ、言っとくけどお父さんとお母さんには許可取ってるからね。おねーちゃんについて行くって」

「あなた自身が学びたいこととかそういうのは、ないの?」

 

 私に付き従う日菜にほんの少し、煩わしさを覚えているのを自覚する。

 

 人生の分岐点に立っている、という自覚がある。低きに流れようとしているのも分かっている。

 変化に伴う痛みを、私は恐れている。

 

「そっちはパスパレで満足してるからね」

 

 日菜程の才能を腐らせるのは勿体ない、という思いもある。だからといってあと4年も日菜に付き合って実家にいるのは少し、苦しい。

 

 ぼんやりと思考が纏まってくる。

 問題なのは、私の主体性のなさである。変わりたいのか、そうでないのか。

 

「少し考えたのだけど」

「うん」

「やっぱり、余計なことはしないで。私の出奔についてくることも許すし、2人暮らしをするのも構わないから」

 

 結局、釘を刺した。

 日菜の表情は──判断がつかない。思案げには見える。

 

 日菜が水面下でどう動こうとしていたのかは知らない。だが、こと人間関係において日菜はあまり迂遠な手段を選ばないような印象があった。

 日菜が私をRoseliaに戻すことと、両親と腹を割って話し合うことを望んでいるのなら、少なくとも後者に駆け引きは用いないだろう。

 Roseliaのメンバーに関しては断言できるほどの根拠を持っているわけではないが。

 

 両親に対しては、私の秘密を仄めかすか、私と2人の親子関係の歪さに関して指摘をするくらいに違いない。言葉はあくまで直球で裏表のないものを選ぶはずだ。

 

 結局、2人と向き合うのは私で、その私には2人を傷付けずに全てを話すことなんてできない。

 日菜は「受け入れてくれるでしょ」と軽く言うけれど、私は「受け入れさせる」のが嫌なのだから、そもそも認識からしてズレている。

 

 まだ開店していないドラッグストアと、競うように上りを立てている飲食チェーンの間を通り抜ければ、最寄り駅が見えてくる。

 

「おねーちゃんってさ。実は相当気分屋だよね」

 

 一転して、日菜は心底愉快そうに言った。

 

「あたしが離れようとすると引き留めるのに、今のあたしは鬱陶しく見えてるでしょ? 従順なあたしはつまらない? それとも、嫌いな自分を肯定する人間が浅ましく見えるのかな」

 

 従順なあたし、ともう一度呟いて、何がおかしいのかもう一度笑ってみせる。

 

「あたしがおねーちゃんに過剰な期待をしてるのと、本質的には同じなのかも」

 

 似たもの同士だね、と付け加える。

 私が日菜に鎖をつけている状況に、後ろめたさを覚えているのは事実だ。

 それと同時に、日菜への好意に不純な自己肯定が混ざっていたことに気が付いて嫌悪感を覚える。

 

 本来私のことなど歯牙にもかけず、視界にも入れないような才能が、私だけに特大の感情を向けている。それを日菜からの好意を確かめる根拠のひとつに置いていたことに気がついた。

 

「おねーちゃんの想像の範疇に収まるあたしは、多分つまらないんだよね」

 

 改札口の前で立ち止まる。流れていくサラリーマンの背中を背景に、数歩先を歩く日菜が振り返った。

 

「あたしは大切なものを捨てる覚悟を決めたよ。それがたとえおねーちゃんが望まない方向だったとしても、あたしは最良の結果しか認めないことにした」

 

 選択を誤ったらしい。日菜の判断を翻す手札を、私はもう手元に残していない。

 

──ああ、本当に。話すんじゃなかった。

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