今日は仕事が2件。イヴちゃん経由で貰ってきた雑誌のモデルの仕事と、クイズ番組のゲスト出演。まあそれは、あたしにとってはどうでもいい。モデルの仕事は初めてじゃないし、自分をどう魅せれば良いのか、客観視することにも慣れてきた。クイズ番組は、単純に知名度の向上にも一役買ってくれるというのと、あたしの『キャラ付け』にも重要だった。頭の良い不思議ちゃん、といった感じで認知されている私は、それなりに頭がいい証拠、みたいなものを出し続けなければならない。
ただ、普通にやっていればそれらは順当にこなせる。だから、あたしの頭の稼働領域を圧迫しているのは別の悩みだ。そしてそれは、もちろんおねーちゃんのことである。
悩み、ではないか。もう悩んではいない。恐れているだけ。
タブーに手を出した。おねーちゃんに唯一託された無二の信頼を、あたしは手放そうとしている。
馬鹿だなぁ、と自分でも思う。
さっさと切り捨てられて終わりだろう。
おねーちゃんがあたしに抱いてくれている好意の大半は、きっと『都合の良さ』に由来するものだろうと感じているのに。
おねーちゃんの精神的孤独を埋めるのに、たまたま異様なほど懐いてくる妹がちょうど良かっただけ。
あたしはそう解釈していたし、それで妥協してもよかった。
好意を抱いてくれているのには違いない。おねーちゃんの理解者足り得る存在が、この世に氷川日菜ただ1人しか存在し得ないという事実に悦びを覚えないとも言わない。
成功確率1パーセントのハッピーエンドを求めるのか、成功率70パーセント以上のベターでビターなエンドで妥協するのか。言ってみればそれだけの話で、あたしは前者を選ぶことにした。
整理できていないけれど、理由は幾つかある。
いちばん大きいのは、おねーちゃんにとってのあたしの価値についてだ。
おねーちゃんの心を動かすに足るあたしの存在理由は、『起爆剤』の役割にある、と思っている。音楽を再開したのも、Roseliaに入ったのも、前世の記憶を他人に話したのも、きっかけはあたしにある。緩やかに朽ちていきたがるおねーちゃんの進路を少しだけでも曲げられたのは、あたしを発端にした出来事だ。
じゃあ、今後は?
結局、おねーちゃんはRoseliaを抜けてしまった。これ以上前世のことを誰かに話すつもりもないだろう。大学を卒業して、就職してしまえば、もうおねーちゃんの人生を変えるような出会いや事件もそうそうは起こり得ない。それこそ、おねーちゃんの望んだような緩やかに閉じていく人生のレールに乗れてしまう。
そして、あたしの価値も。
おねーちゃんが曲がりなりにもあたしを尊重してくれているのは、あたしに価値があるからだ。それはおねーちゃんに予想外の刺激を運び込んでくるという理由からかもしれないし、おねーちゃんが言うようにあたしが『天才』とやらだからなのかもしれない。
ただ、その価値はもう頭打ちになりつつある。成人してしまえば、姉妹の関係は希薄になるだろう。お互いの可処分時間も減って、タイミングも重ならなくなるだろうし、おねーちゃんを引っ張り回すこともできなくなる。
そうなったときに、あたしはおねーちゃんにとって『週末のセッション相手』以上の価値を持ち得るのだろうか。
前世の記憶という楔を、今度はおねーちゃんが面倒がりはしないだろうか。
この唯一無二の繋がりを、些か濫用している自覚はある。おねーちゃんがそれを煩わしく思ってしまえば、緩やかにフェードアウトしていくおねーちゃんを引き留めることはもう難しくなる。
たとえば──そう、例えばの話だ。おねーちゃんと一緒に暮らしたとして、あたしから離れるためにおねーちゃんが結婚を画策することが、ないとは言えない。
おねーちゃんは複合的に性同一性障害を抱えてはいるけれど、身体に精神が引っ張られることがないとはあたしには断言できない。主体的に相手を見繕うことはしないような気はするけれど、言い寄られれば誘いに乗ることはあるかもしれない。
そうならなかったとしても、おねーちゃんからあたしへの感情はもう頭打ちだろうと確信できる。下がりこそすれ上がらないというのは、酷く恐ろしい。まして、維持する手段さえ持ち合わせていないのなら、あたしは怯えながらおねーちゃんに縋る他ない。
列車に乗り込んで、左耳にイヤホンを挿す。彩ちゃんのボーカルも随分質が上がったな、と考えて、パスパレはどうしよう、と思い当たった。続ける気ではいるけれど、今夜の荒れ具合によってはどうなるか分からない。
お母さんとお父さんを信用しているから、まるっきり全てを話してもいいだろうとは思っている。おねーちゃんが普通とほんの少し違うことには気がついているはずだ。前世を引っ括めて、おねーちゃんを愛する度量だって持ち合わせていると思う。だってあたしの親だ。そこは疑っていない。
……おねーちゃんには、そういう信頼もないんだろうか。だとしたら、少し悲しい。あたしでさえおねーちゃんにとっては本当の意味での『妹』でいられているのかも怪しいのだから、お母さん達はどこまで行っても親ではなくホストファミリーくらいの認識でいたっておかしくはない。
おねーちゃんが2人に話したがらないのにも、この辺りの認識が関わってきているんじゃないかと思っている。前世のことを話してしまえば、2人の反応によって関係が振れてしまうわけだ。否定されれば他人になるし、受け入れられれば本当の意味で家族になれるかもしれない。曖昧な関係のままでいればおねーちゃん以外は誰も傷つかないし、2人にとっておねーちゃんは手がかからない娘のままでいられる。
それは、決して間違いじゃない。
あたしだって、前世の話を聞いてショックを受けた。2人だって、きっと同じような反応はするだろう。全くの無傷とはいかない。
うーん、怖くなってきた。
今更引き下がるわけもないけど、怖気付いてはいる。
いちばん大きい理由は『先がないから』ではあるけれど、ポジティブな理由だってある。
おねーちゃんには、あたしの先を歩いてもらわなきゃいけない。この、自分でもどうにかしていると自覚できる感情は、もうどうしようもない。
停滞するなんて許せない。朽ちていくなんて認めない。
あたしの世界を色付けた
幼い頃は、絶対に手が届かない位置にある月のような存在で。
中学の頃だっただろうか。あたしは、月に手が届くことに気がついてしまって、そこで狂ってしまった。
再び遠ざかっていく月光から、あたしはもう目を離せない。カリギュラになるのか、アームストロングになれるのか。
そもそも、おねーちゃんは『幸せ』をはき違えていると思う。
『朽ちていく幸せ』は、逃避に過ぎない。不幸せでないことは、幸せであることと等号で結び付けられない。
他人の幸せを勝手に決めつけることほど愚かしいこともないけれど、それくらいは断言できる。満たされないことに耐えられる人はいるけれど、満たされないことが幸せであるはずはない。
Roseliaにいることに充足感を覚えていた筈だ。不服ではあるけれど、彩ちゃんや千聖ちゃんを友人だと思っていたはずだ。……音楽が、好きなはずだ。
全部捨てて、それで幸せなんて語って欲しくない。
起爆剤は、人生の転機に発揮されなければならない。順当な人生のレールに反する形でなければならない。あたしは、おねーちゃんの現実逃避に『否』を突きつけなければならない。
嫌われるのは恐ろしい。切り捨てられることに怯えている。
この企みが成功したとして、おねーちゃんがもうあたしを信頼してくれなくなるかもしれない。
刹那的な行動には走らない、と思いたいけれど、自制できる自信もなかった。おねーちゃんに痛みを強いるのなら、あたしも相応のリスクは負うべきだ。そしてあたしは、耐えなければならない。例え、一瞬で実行できておねーちゃんの網膜に半永久的にあたしを焼き付けられる方法に心当たりがあったとしても。
──穢い恋ですこと。
いまあたしが、おねーちゃんのどこを魅力的に感じて何に恋をしているのか、具体的な理由を論うのは難しい。
一つ一つ理由を挙げることは出来る。弦を爪弾く指先のしなやかさとか、ふとした拍子の横顔の静謐さとか、あたしのわがままに対して決まったように吐くため息とか、ゆっくりと沁み入る声音とか。
でも、全部おねーちゃんが好きだから好きなのだ。
あたしとおねーちゃんが今、赤の他人として出会ったとして、惹かれることがあっただろうかと考えてみる。
多分、ないだろう。超常的な現象や一目惚れなんかを考慮の外に置いて、じゃあ氷川紗夜という人間に惚れますかと言われたらそれは否だ。もどかしくて苛立つかもしれないし、興味すら抱かないかもしれない……いやそれはないか。能力は確かなのだから、少なくともそこに興味は持つ。
けれどきっと、惚れるようなことはない。
おねーちゃんがいない場合のあたしの性嗜好がどうなっているのかは分からない。性欲が皆無ということはないだろうから、多数派の異性愛者であると考えるのが妥当だろうか。おねーちゃんに恋していることからして同性愛者のケがないとも言えない。まあそこはどうだっていいけど。
好きなことにもはや理由は付けられないし、バイアスがかかっているからおねーちゃんへの愛は些かも衰えないでいる。
恋ゆえに、あたしはこんなことをしでかそうとしている。
あたしの想いを、おねーちゃんに受け止めてもらうことはそう難しくない、と思う。いま、おねーちゃんにはあたしに対する負い目がある。自分の人生へ頓着しないおねーちゃんは、きっとあたしがこの恋を打ち明けても否定しないだろう。
足を踏み外してしまいそうになったことはある。低きに流れることは容易で、今のおねーちゃんから精神的同意を得ることは容易い。
けれど、そう。満たされるかどうかの話だ。
納得のいく結末へと持って行けるかどうか。
いっそ、拒絶された方がすっきりと生きられるかもしれない。
無理矢理に恋を成就させて、おねーちゃんを『不幸せじゃない』状態に縛り付けるよりは、よほど。
今のあたしがおねーちゃんの1番になることは、多分できない。この世界での1番ではあっても、思い出の中の人にまでは勝てないから。
おねーちゃんが今の人生をもっと本気で楽しめる人だったのなら、あるいは違ったのかもしれない。
いや、違うか。おねーちゃんとあたしの関係は、思えばずっとこんなものだった。
幼少期からあたしの姉として世話を焼いてくれていたのは、罪悪感と義務感から。
前世の秘密を話してくれたのだって、後ろめたさから。
何があってもあたしの味方でいると言ってくれたのも、おねーちゃん自身の人生に価値なんかないと思っているから。
そこに好意が含まれているのはわかっているけど、やっぱりなんの含みもなく愛を返されていた彼女さんとは違うし、全幅の信頼を置かれていただろうバンドメンバーとも違う。
おねーちゃんにとってのあたしは庇護すべき対象でしかなくて、そして被害者だった。
これを覆すには、おねーちゃんに自分を許してもらう他ない。
そして、それは両親2人とおねーちゃんの和解なしには有り得ない。
どう転がるかは、あたしにも予想できない。
人間関係の袋小路から、ハイリスクハイリターンの賭けに出るだけだ。
あたしが生涯許されなくなるというリスクも、ようやく呑み込めた。
利他的で利己的な、特大のお節介。
──ああ、どうか。陰らぬ月のままでいて。