「起きなさい、遅刻するわよ」
微睡みからあたしを引き上げてくれるこの声を聞くために、目覚まし時計の時間は遅刻寸前の時間にセットしてある。こうやっておねーちゃんに世話を焼いて貰うための小細工はあたしの生活の中にいくつも散りばめてあって、おねーちゃんは多分それに気が付きながらもあたしの手を離したりはしない。……うん、多分。流石にこれにすら気が付いてくれていなかったら凹むかもしれない。
流石に時間が押していたので、今日はあまり駄々をこねずにベッドから起き上がった。朝のおねーちゃんはハグくらいなら投げやりにでも受け入れてくれるので、ちょっとだけ惜しかったけれど。
寝ぼけ眼を擦ってリビングへ繋がる階段を下りる。微かなシャンプーの残り香。なんで同じシャンプーを使っているのに、とりわけいい匂いに感じるんだろう。体臭の差?
なんてちょっと自分でもどうかと思う思考がぐるぐる回るなか顔を洗って、ダイニングのドアを開けると朝食の匂いが飛び込んでくる。今日は和食らしい。昨日から炊いてあったお米と、お味噌汁と、お弁当のおかずの残りと思しき卵焼きと鮭。おかずはほんの切れ端程度だけれど、品数としては結構ていねいな朝食っぽい。
「おはよう、日菜」
「おはよう。お母さんたちはもう行った?」
「ええ。今年もまともに休みが取れるのはお盆だけらしいわよ」
「大概いそがしいよねぇ。うちってそんなに困窮してるの?」
「仕事が好きなんでしょう。本当に、奇特だと思うけれど……楽しめるだけいいんじゃないかしら」
対面の席におねーちゃんが座って、あまり興味無さそうに言った。おねーちゃんはお母さん達があまり家に帰ってこないのをそれほど良くは思っていないらしい。その割にはお母さんとお父さんがいない時の方が気楽そうにしているけれど、理屈と感情は違うということだろうか。
お母さんはけっこうおねーちゃんに構っては塩対応されているので、ちょっと可哀想。そういうところを見ると、あたしはお母さん似に育ったのかもしれない。
いただきます、と呟いてから味噌汁に口をつけた。今日はおねーちゃんが作ったらしい。今日から夏休みだからかもしれない。
おねーちゃんの料理は、味噌汁が一番わかりやすい。お母さんのよりも味噌が少し薄くて、出汁が濃い。あと、
ついでに、おねーちゃんが作る味噌汁の具が豆腐だったことは無い。
そんな記憶を思い出しながらちびちびと朝食を摘んでいると、少し学校に行くのが嫌になった。
「おねーちゃんは休みだよね」
「ええ。羽丘もキリよく先週で終業にすれば良かったのに」
花咲川は先週の金曜日に終業式があって、土曜日から夏休み。あたしたちは今日、つまり月曜日が終業式で、明日から夏休み。キリも悪いし、何となく夏休み期間が短いようにも感じられるから損した気分にはなる。
おねーちゃんが折角休みなのに、あたしは学校だから一緒にいられない。終業式だけだから昼前には終わるとはいえ、もどかしい。お預けされた犬の気分。
「今日はどうするの?」
「べつに。読書か課題でもしているわ」
「それじゃあ夕方はデートしようよ」
「午後から雨よ。また今度ね」
「えー、雨でもいいじゃん」
毎日なにかしらおねーちゃんを誘ってはいるけれど、体感で7割くらいはこうやって袖にされる。そういう君も美しい、なんて言える精神性でもないからふつうに悲しいんだけれど、気が乗らないおねーちゃんを連れ回すのもそれはそれで虚しいような気がして引き下がっている。
無理に誘えば渋々付き合ってくれるような予感はあるけど、そこまでしなくても誘いを何度か断ると流石に申し訳なく感じるのか、しばらくは優しくしてくれるので悩みどころ。嫌われるのが怖いので聞き分けのいい妹をやっている。
「昼食は何がいい?」
「おねーちゃんが作るの?」
「外食すれば高くつくでしょう」
「んー、じゃあパスタとか? 濃いやつがいいな」
「じゃあそうしましょう」
食後に次の要望を訊ねられると具体的な例が思い付かないのはあたしだけだろうか。お腹がいっぱいで食欲が消失しているから、特に食べたいものが思い浮かばない。
食後のコーヒーをいれているおねーちゃんを尻目に、流石にそんな余裕はないので歯を磨いて制服に着替える。
面倒なので編み込みはナシ、くるくる捻くれた癖毛をとりあえず見られるくらいに宥めて、おさぼり仕様の氷川日菜ができあがる。
夏服はシャツとスカートだけなので涼しくて良い。ベストも真夏はナシ。おねーちゃんは顔を顰めるけど、さすがに暑い。
「行ってらっしゃい」
制服に着替えて1階に降りると、おねーちゃんが玄関まで見送りに出てきてくれる。洗い物を始めようとしていたのか、エプロンをしたままなのがちょっと良い。
「えへ、なんかちょっと、新婚さんみたいだね」
「さっさと行きなさい」
「はーい。いってきまーす」
ドアを開けた瞬間の空気の変化が好きだ。湿度とか、気温とか、匂いとか、そして何より夏は“音”がいい。吹き付けるような熱気も朝はなりを潜めて、張り裂けそうな蝉の調べが真っ先に押し寄せてくる。
近くの神社の裏山から分かりやすく響いてくるアブラゼミの声が、夏の前半といった風情を教えてくれる。というのはまったくのウソで、風情なんて難しいものを感じとる感性は持っていない。なんかいいな、と思っているだけ。
1年半履き続けた──いや、1度変えたっけ。そろそろボロボロになってきたローファーを近々変えることを学校に行くたびに決意しているが、毎回家に帰ると面倒になってそのままにしている。夏休み中に買おう。
学校までは20分くらい。自転車で行けば半分未満の時間でつくけど、雨が降ると面倒だし、歩くのも好きだからあまり使わない。途中で橋を越える必要があって、そこの傾斜がキツイからという理由もある。
学校に近づくにつれ増えていく制服の人波に紛れて校舎に入る。2年になったから教室は2階。分かりやすいけれど、だんだん階段を上る頻度が増えていくのは納得がいかない。どうせなら逆にしてくれればいいのに。1年生が3階を使うようにしよう。
「おっはよ、ヒナ。テンション低いじゃん」
「あ、リサちー。おはよ」
教室に入るなり声を掛けられた。数少ない友達の1人で、大概めんどくさい性格をしているらしいあたしに付き合ってくれる奇特な人間だ。
「帰っておねーちゃんと一緒に居たい」
「あー、花女はもう休みなんだっけ? そっかー、ヒナは補習とか無縁そうだもんね」
「補習? 何かあったっけ?」
「いやー、テストの点数が悪いと補習があるじゃん? もし引っかかってたらヤダなぁって話」
リサちーの席は教室の右前側で、あたしはそのちょうど正反対にある窓側の最後方なので最近は話す機会があんまりなかった。リサちーには他にも沢山友達がいるし、あたしから積極的に話しかけにいくということもないから必然的にそうなる。
「リサちーってそんなに成績悪かったの?」
「最近ちょっと忙しくてさー、全然勉強できなかったんだよね」
そういえば寝不足気味で学校に来ることが多かったな、と思い出す。最近は隣のクラスの──名前は忘れたけど銀髪の子とよく話しているみたいだったし、爪の切り方も変えていたからバンドでも始めたんだろうか。よく考えたら近頃のあたしの変化とまるっきり同じかもしれない。爪のケアのやり方を変えるとか、露骨だ。
「ヒナはいつも成績良いけど、勉強とかしてるの?」
「してるよー。学校のテストはあんまりだけど、模試とかは結構時間割いてやってるし」
「へー、意外。アタシてっきりヒナは勉強なんかしなくてもできるもんだと思ってた」
「それなりにはできると思うけど、勉強しないとおねーちゃんには勝てないもん」
勉強してなさそうなのに頭が良い、とか言われるけれど、実際はサボってる人達よりよっぽど勉強している方だと思う。
この16年と少しをかけて、あたしはようやくおねーちゃんに
マークシート方式だと、大抵あたしの方が点数が高い。あたしもおねーちゃんもほとんどの教科で95%以上は取れるから、あとは国語や英語の読み違えとか、数学の初見問題に対する解答の閃きとか、歴史みたいな暗記教科でのド忘れや覚え違いとかでほんの少しずつ差が開くだけだ。どちらがどれだけミスをするかは大抵時の運だけれど、特に数学で捻った問題が出たときだけはあたしの方が有利になる。どちらかと言えばあたしの方が数学は得意らしい。
反対に、完全な記述式だとおねーちゃんの方が点数が高くなる。国語でも数学でも、おねーちゃんは論理的に思考して、筋道立てて解答を導き出すけれど、あたしはその場の直感で答えたりすることも結構あるからその分で減点を貰いやすくなる。特に数学の途中式を飛ばしたりして、あまり点数が伸びなかったりする。英語くらいだろうか、あまり変わらないのは。
実際には、まだおねーちゃんの方が学力として備わっている能力は高いのだろうなと思っている。マークシートの模試の答案を比べる度におねーちゃんは「所詮凡人は凡人なのね」と言うけれど、国内最難関の大学に余裕で入れそうな成績の高校生は凡人に入るのだろうか。
「お姉さんに勝つために勉強してるの?」
「うん。勉強だけじゃないけど」
勝つためじゃなくて並ぶためだけど、だいたい同じことだ。
あたしがおねーちゃんの言うような“天才”だったら、おねーちゃんが心の内に抱え込んでいる暗いモノを引きずり出す方法がわかったのだろうかと思うことがある。
「あんまりヒナの内面の話は聞いたことなかったから、新鮮かも。──あ、体育館集合だって」
「べつに隠してるわけじゃないけどねー」
誰に訊かれることもないから言ったことがなかっただけで。いや、お母さんには訊かれたことがあったな。
なおざりに朝礼を一言で終わらせた担任が教室を出ていく後ろを、まばらに出ていくクラスメイトたちの中団に混ざる。
あたしとおねーちゃんの距離がもっと遠ければ、却って話して貰えたのかもしれない。あなたの姉でいさせて欲しいという言葉は多分、きっとそういう意味だった。
おねーちゃんの秘密の正体も、アタリをつけたくらいのもので、今のところは根拠に乏しいあたしの妄想みたいなものだ。
性同一性障害という言葉が浸透して久しい。少なくともおねーちゃんの性自認はスタンダードな“女性”ではないんだろうと思う。それは普段のあたしへの視線からも窺えるし、自覚する度に嫌悪感に飲まれているのも知っている。そしてそれはあたし限定というわけでもなくて、だから多分おねーちゃんの抱えている秘密の一つは性自認のことで間違いない、はずだ。
ただそれって、あたしへの『負い目』ではあっても『ズル』じゃない。性自認のズレのことであたしとの関係が変わってしまうことを嫌がっているのは、間違いないと思う。あたしたちは
でも、『ズル』がわからない。特別な才能を持っているのかと考えた。完全記憶能力とか、そういうやつを。でもそういうわけでもなさそうだし、じゃあ二重人格、つまり解離性同一症なんかを疑ってみてもそんな気はしない。人格が二人分ならその分ズルをしている、なんていかにも言いそうだけれど、流石に生まれてからずっと一緒にいて見抜けないとは思いたくない。他にも幾つか疑わしいものはあったけれど、どれも違うように感じられた。
だから『ズル』に関しては、あたしの全く思いもよらない事象なんだろう。例えばオカルティックな『人の心が読める』とか。読めたらあんなに鈍いはずもないし、これはありえないけれど。
非科学的な路線でいくなら、あたしの推理は時間遡行だ。大人びているところとか、特にそれっぽい。過去の自分に戻れたら、なんてみんなが夢想する馬鹿げた夢物語が実現しているのかもしれない。
実際のところは、おねーちゃんが幾つかフェイクを入れているんだろうと思っている。あたしは生涯をかけて隠し通すような秘密を持ったことがないし、それを抱える人の気持ちも分からないから推測でしかないけれど。
退屈な終業式は、おねーちゃんのことを考えて過ごした。夏休みの注意事項とか、校長の長ったらしい中身のない挨拶なんか右から左、馬耳東風。
夏の蒸し暑い体育館で長話をするのが信じられない。無駄に汗をかいた。
教室に戻ると、全教科分のテストが一度に返された。今回はたまたま全教科満点らしかった。いや、家庭科だけ1問外しているけどそれくらい。いつもはもっと間違えているから、本当にたまたま調子が良かったんだろう。学校独自のテストなんて中学校から大して変わらない。
「氷川さん、満点?」
「あ、うん」
隣の席の子に話し掛けられた。席替えしたばかりだからほとんど話したことがない。えっと、名前はなんだっけ。
「いいなぁ。私も頭良く生まれてこれたら良かったのに」
確か、はなちゃんとか呼ばれていた気がする。と、確か二階さんだ。名簿で見た気がする。二階華さん。多分。
誰だっけと言わないくらいの分別はあたしにもある。昔はあまりそういうのが分からなくて、その度におねーちゃんにフォローされていたものだけど、この歳にもなればつまらないことをやり過ごせるだけの思慮深さというか社交性を身に付けている。
おねーちゃんに配慮しなくて良くなったぶん、排他的な思考になっている気はするけれど。
「私に勉強教えてくれたりしない?」
「やだ。面倒臭いもん。それに学校のテストなんて授業からしか出ないんだし覚えるだけじゃん。暗記に付き合ってってこと?」
「えっと、数学があんまりわかんなくて……」
「数学も公式と解き方を覚えるだけだよ。あとは日頃から考えて解いてるか答えだけ写してるかの違いじゃない?」
そういえば高校でも中学でも勉強会という名目の集まりがあった気がするけど、あれは何をしていたんだろう。学校の勉強なんて反復と暗記でしかなくて、特に集団で勉強する意義が見いだせない。分担して課題をやるというならまだ分かるけれど。
特定の委員会は残れだとか、文化祭の実行委員やりたいやつは届出を出せとか、そういう連絡だけを残して解散を告げた担任の言葉にいち早く反応して席を立った。
「ヒナ! またね!」
教室を出がけに掛けられた言葉にひらりと手を振って、そのまま昇降口へと心做しか早足で歩く。
午前10時半。予想よりも少し早めの解散だった。帰り道の方が歩くペースが早い。おねーちゃんの場合は登校の方が早足になるらしい。万が一にも遅刻したくないからなのか、せっかちなのか。急いであたしに会いに帰ってきてくれたっていいのに。
玄関のドアを開けて靴を脱ぎ捨てると、二階からギターの音と歌声が聴こえてきた。気休めだけれど、と言いつつも壁に貼っていた吸音材はそれなりに効果があるらしく、ほんの微かにしか聞こえない。
弾いているのはともかく、歌っているのは珍しいな、と足音を殺して階段を上った。
──初めて聴いた歌だった。
あたしだって、おねーちゃんのことをなんにも知らなかったらしい。
歌声に滲む感情は、寂しさだったように聴こえた。孤独な歌声だった。自分を慰めるような、悲哀を叫ぶような。
そんな感情を、あたしの前で露わにしたことなんてなかったのに。
その後、お昼に食べた冷製パスタの味を覚えていない。
──あたしが考えているよりもずっと、おねーちゃんは嘘をつくのが上手かったらしい。
どうして何も、教えてくれないんだろう。