月輪より滴り   作:おいかぜ

75 / 100
《75》夜が日差しになって

 

 おねーちゃんがRoseliaに戻った。

 お膳立てはしたけど、それを完璧に拾ったのは友希那ちゃん。ライブから1ヶ月くらい経ってから正式におねーちゃんの再加入が発表されて、結構意外なことに、初動からおねーちゃんは好意的に受け入れられた。

 

 これは、Roselia側が上手かったんだろうと思う。

 もともと、Roseliaはおねーちゃんの存在を特に隠しもしなかったし、訊ねられれば答える程度にはむしろオープンだった。代わりのギターを入れる気はないから友希那ちゃんがギターを持つけど、おねーちゃんが再加入してくれるならそれが最高だってスタンスはずっと崩していない。

 加えて、歌詞。5人であることを強調している曲も多かったから、ファンの間でも友希那ちゃんとおねーちゃんの関係というのは結構な語り草になっていた。

 

 それで、あんな公開プロポーズみたいなライブをして、その後におねーちゃんの加入が発表されたのだから、昔からのRoseliaファンだけじゃなくて新規層でも肯定的に捉える人が多いのはまあ、予測できる範疇ではある。

 

「それで? 大好きなおねーちゃんのライブを見てどうしてそんなに難しい顔をしているの?」

「嬉しいやら苦しいやらって感じなんだよね」

 

 揶揄するような、それでいて心配の色を滲ませた声色で千聖ちゃんが言った。

 

 あたしの「妹」としての感情は、現状を歓迎している。画面の向こうで何食わぬ顔で超絶技巧のギターソロを披露しているおねーちゃんは、Roseliaに再加入してからの半年でさらに飛躍的に伸びた。

 何となく分かってはいたけど、今までのアレはモチベがない状態での現状維持トレーニングでしかなかったということなんだろう。保持している技術を応用した表現とか、単純に長時間弾き続けることによる成長はあったにしても、あたしみたいにがむしゃらに『先』を追いかけているわけじゃなかった。

 

 それが、今ではまったく違う。今までよりもはるかに恵まれた環境と、設備と、時間と、モチベーションを手に入れたおねーちゃんは、先達との交流を通してレベルの高い環境に瞬く間に順応してしまった。

 

 あたしの予想が当たっていた、ということでもある。

 おねーちゃんは自称するような凡夫などではなくて、少なくともギターにおいては天賦の才能を持っている。

 前世では指にハンデがあったとか、そういう話も聞いたけど、肉体性能の差だけでここまで変わるものだろうか。精神は変わっていないのだから、きっと前世でも相当に上手かったんだろうと思う。おねーちゃんの自称は信じない。

 

「くれぐれも、私にそのレベルを期待して曲を作ってくることは勘弁して頂戴」

「わかってるって。今までそんなに外してないでしょ」

「紗夜ちゃんと何かあった後の曲はギターへの要求が厳しいのよ」

「自覚がないからそれは治んない」

「ちょっと」

 

 いつもの事務所のカフェ。半個室のようになっている、パーテーションで区切られた席でよく時間を潰す。音楽が絡むならスタジオで、4,5人集まるならミーティングルームで、特に理由もなく2人で居るならカフェで。そんな感じで使い分けることが多かった。今回はあとから千聖ちゃんが来たんだけど。

 

「それで、何を悩んでいるの?」

「どうしたらおねーちゃんともっと仲良くなれるかなーって」

「ライブの方じゃないのね」

「そっちは別にどうにでもなるからさ」

 

 千聖ちゃんは、あたしがおねーちゃんにどんな感情を抱いているのか、おそらくなんとなくは把握していると思う。おねーちゃんラブの激重歌詞だって見せたことがあるし。

 おねーちゃんは他人の心の動きに興味が無さすぎるけど、千聖ちゃんはその辺鋭いからある程度伝わっているだろうと信頼してもいい。千聖ちゃんからすると悩みの種かもしれないけれど。

 

「……千聖ちゃんって、恋とかしたことある?」

「ないわね」

「じゃあこの話おしまーい。解散!」

「……はぁ。スキャンダルにならないだけいいと思うべきなのかしら。それとも、友人としては悩んであげるべきなのかしら」

「どっちでも。どうせ実らないんだから、真剣に考えるだけ無駄だし」

 

 おねーちゃんとの関係を作り直す必要はあるだろうな、と思いつつ。その勇気が出ないから仕方がない。

 千聖ちゃんは少し考え込んだあと、「やっぱり似た者姉妹ね」と言った。

 

「実らなくても、無駄じゃないでしょう」

「10年後にはそう思えるかもね」

「このままだと、その10年後に後悔すると思うのだけど?」

「やって後悔しろ、ってやつ? 当たって砕けて死ぬかもよ」

「死ねばいいんじゃないかしら。腐っているよりは」

「千聖ちゃんが虐めるよ〜!」

 

 付き合いが長くなってきて分かるようになったけれど、千聖ちゃんは人間関係において、正面から話し合うことを何よりも重視している。千聖ちゃん曰く、「身をもって学習した結果」らしいけど、いったいどんな目に遭ったのやら。前に少し話してくれたけど、その分だけであたしが抱いた感想は、少しの既視感と、そして子役なんてろくなものじゃないなという至極真っ当な所感だけだった。

 

 実際、千聖ちゃんのスタンスに救われたようなところもあるから、なんでも話し合えばどうにかなる、という考えには一定の信頼を置いている。人間関係においては少なくとも、話し合えば進展があるのだから、単純かつ明快で強力な手段だと思う。

 ただし、悪い方に進む可能性もある。そんな危惧を抜きにしたって、人と向き合うことには多大な勇気と労力を要する。言うほど簡単じゃないのだ、とはおそらくこの世の全員が感じていることだろう。

 

「──ま、良い機会ではあるんだよね」

 

 あたしが規定した、「おねーちゃんにとっての幸せ」のレールは敷き終えた。最後の選択をしたのはおねーちゃんだし、おねーちゃんの心を動かしたのはRoseliaだから、別にそれ自体を誇るわけじゃないけど、あたしの目的のひとつは完遂されたと言ってもいい。目的のひとつというか、目的の中の利他的な部分は、と言うべきか。

 

 おねーちゃんにひとつ、あたしを刻み込んでやろう。

 素知らぬ顔で浮かぶ月の(クレーター)にでもなってやる。

 

 それで、おしまい。

 

 あたしのこの、20年の妄執も、ようやく終わる。

 

 

 

 とまあ、意気込んだはいいものの、少しまとまった時間が欲しい。

 リサちー経由でおねーちゃんと休みのスケジュールを合わせることにして、それまで問題を先送りする。

 

「千聖ちゃん、電話かかってきてるよ」

「……麻弥ちゃんからね」

『あ、千聖さん! 少々お時間よろしいでしょうか』

「ええ。近くに日菜ちゃんもいるのだけど、聞いても問題ない話?」

『大丈夫です。むしろ助かります。その、明後日までのパスパレチャンネルの動画なんですけど……』

「何を撮るか決まってない、とか言うんじゃないでしょうね」

『その通りです……』

 

 音量低めのスピーカー設定にしたスマホをテーブルの真ん中に置いて、千聖ちゃんがため息を吐いた。

 一応、公式チャンネルの個人企画は月に1回未満くらいのペースで回ってくることになっている。メンバー内での企画被りとか不評な企画の廃止なんかを繰り返してもう3年くらいはチャンネルを運営しているから、ネタ切れになってきている部分もあった。特に麻弥ちゃんは、機材語りという武器が商標とかマーケティングの問題で大抵封印されているから苦戦している印象。

 

『助けて頂けませんか……?』

「麻弥ちゃんの本気ドラム回でもいいなら手伝ってあげるよ」

『嫌な予感がしますけど、ちなみに、どんな内容にする予定ですか?』

「『もういちどルミナス』で30分ぶっ通しジャズ・ファンク風セッション。千聖ちゃんも巻き添えね」

『正気ですか!?』

「はぁ。……でも、たまには麻弥ちゃんの技術を喧伝してまわるのもいいかもしれないわね。謙遜し過ぎなところがあるから」

『千聖さんまで!?』

 

 実は密やかな企みの中に、MiDDay-Moonのライブのサポートに麻弥ちゃんを引っ張ってくるというのがある。理由は友人間で1番上手いから。分かりやすくて良い。

 

 そういうのを抜きにしても、いまいち麻弥ちゃんの凄さがファン層には伝わっていなさそうな気がするので、分かりやすく示してみるのはありだと思っている。

 アイドルバンドのファン層なんて、とは思うけど、面白いことに、パスパレのファン層はこの数年で結構成長してきた。音楽コンテンツの発信が功を奏したのか、あたしたちをアイドルとして推してくれているファン層も、音楽の構造だとか演奏の巧拙だとか、そういう部分に興味を示してくれる人が多くなった。

 そこへのアピールとしては悪くない題材、のはずだ。

 

「今から向かうから、麻弥ちゃんもスタジオに来て。事務所にはいるのでしょう?」

『ひえぇ……』

「彩ちゃんみたいな反応しないでよ。あ、譜面も送っとくから見といてね」

 

 

 


 

『ライオンハート』。おねーちゃんがそう名付けて綴った歌詞は、デュエット曲だった。おねーちゃんが自分のことを書くのに到底付けそうにないタイトルだったから、どうしたんだろうと思っていた。最初に書きかけていた草案はボツになったらしく、あたしが知っている分の歌詞とは幾分内容が変わっている。

 おねーちゃんの理想と現実。気持ち悪いくらいの、むせ返るような人間臭さ。

 

 動画サイトに『ライオンハート』の動画が上がって、作詞:氷川紗夜の文字を見た知り合いが一様に動揺していたのは、思い出す度に笑える。特に彩ちゃん。

 

 三日間の休暇。おねーちゃんと被せて、おねーちゃんの部屋に泊まりに行く許可も取っている。

 前回、鶴見ちゃんに会う口実で押しかけた時にはなかった緊張感があった。あのときは結構焦って早急に動いたから、そのぶん気を揉むような事態も起こらなかった。いきあたりばったりなのがむしろ功を奏したと言ってもいい。

 

 おねーちゃんが鶴見ちゃんと出会って、おそらくは彼女の音楽に感化されて、そしておそらく好きじゃないだろうRoseliaの曲の動画を送ってきた。アクションを起こすのにはこれ以上ない機会だったから、友希那ちゃんに声を掛けて、あたしからも選択を突き付けた。お膳立てはしてあげるから、これが最後のチャンスだと言って。

 

 鶴見ちゃんを巻き込めばRoseliaのライブに連れていくことはできるだろう、と思って少し誘導したし、MiDDay-Moonのチャンネルで配信をしたのも少なからずおねーちゃんの心境を操作するためだった。人目に晒されることも、不特定多数からRoseliaのことについて訊ねられるのも、久しぶりだっただろうし。

 次の配信で友希那ちゃんを呼んで、より素に近い姿を晒してもらったのも、戦略のひとつといえばそう。

 

 Roseliaは成功した。おねーちゃんの行動を縛る枷をあたしが外したから、あとは感情に訴えかけられればどうにかなると言えばその通りで、これで大ゴケされていたらいよいよ心が折れていたかもしれない。Roseliaのためにそうしたわけじゃないけど、この状況を作るためにあたしはおねーちゃんからの信頼すら擲っているのだし。

 

 じゃあ、あたしは? 

 この腐りきった恋は。距離を置いてもなお褪せない想いは。

 

 報われようとは思ってない。

 姉妹の壁も性別の壁も世間体の壁も、そしておねーちゃんの感情も。あたしが払い除けるには大きすぎる。それこそ、おねーちゃんの世界に映るものをあたしだけにするしかないから。

 

 おねーちゃんの前世を独占して、寂しく孤独なおねーちゃんに、この世界で唯一抱きしめてあげられる都合の良い妹として付き纏うくらいしかあたしには思いつかない。

 

 そしてその欲求を退けておねーちゃんの幸せを願ったからこそ、こんな今がある。

 

 失恋の八つ当たりに来ているとも言えるのか、この状況は。

 そうなるとちょっとどうしたものか、という気分になって、駅からおねーちゃんの部屋までの道のりを思案に暮れながら歩く。

 

 今まではおねーちゃんのこういう感情を引き出したい、とかそういう意図があった。今日はそうじゃないから、一周まわってどう話せばいいか分からない。

 

 合鍵は持っているけど、黙って入るようなことはしない。2泊3日分の荷物とその他諸々が入ったキャリーケースとベースを背負って、インターホンを押した。

 

「久しぶり、おねーちゃん」

「……言ってくれれば迎えに行ったのだけど」

「近いし場所もわかってるからいいかなーって」

 

 マンションのロビーで誰が来たかは分かっているから特に問題は無いんだけど、スウェットにキャミソール1枚の薄着で出てこられて少し動揺した。まだ春と言うには寒い。

 

「そんな薄着で出てこないでよ。もしかして大学でもそういうことしてない? 女子校のノリでスキンシップしたりとか……」

「そういうことをしてそうに見える?」

「みえないけど」

「……男性から性欲を向けられるのがこんなに辛いとは思わなかった。世の中の女性の気持ちが少しは分かってきたということなのかしら」

 

 そういう意味ではやっぱりアイドルって凄い職業よね、とおねーちゃんは感心したように言って、部屋の中へ引っ込んでいく。そんな内容で見直されてもなぁ、とモヤモヤしながら後ろ手に鍵を閉めて中に入ると、あたしの知らないおねーちゃんの匂いが香る。

 定期的に渡すのが難しくなったから、アロマは近頃渡していない。おねーちゃん自身が買ってきた消臭剤だとか、実家と違うシャンプーだとか、柔軟剤だとか、あと、僅かな生活の匂い。

 悪くないと言えば悪くない。ちょっとドキドキするから。

 

「忙しいのに部屋綺麗にしてるよね」

「貴方が来ると言うから掃除したのよ」

「えぇー」

「なんなの」

 

 身体の匂いが違うほど性的に惹かれやすいらしい、みたいな言説を読んだことがある。自分の匂いに近いということは遺伝子的にも近縁にあるということだから、まあその言説には一定の説得力がある。研究されている以上は有意差のある相関が出ているはずだから、因果関係が正しいかは別にせよ、匂いと恋愛が大きく関わっているのは傾向として間違いないのだろう。

 異性と同性だとか、そもそも血縁だとかそういう前提条件はさておいて。自分と違う匂いが好ましく感じることさえ、あたしの感情を確かめる材料になる。

 

 恋じゃないことにしたい。

 家族愛に過ぎないのだと自分を騙したい。

 

 散々試してはへし折られてきた希望的観測に、今回は黙って見切りをつけた。今更再検討してはいられない。

 

「どこか、行きたいところはある?」

「うーん、特には。おねーちゃんも休みたいんじゃないの?」

「私一人なら外出はしないわね。……ああでも、夕食の買い出しにはいかないと」

 

 出掛ける気は無いと聞いて、おねーちゃんは早々にやる気をなくしたように座椅子に腰掛けた。2人分淹れたコーヒーにミルクを加えて、ティースプーンでかき混ぜる。

 

「ベースは何を持ってきたの?」

「アトリエちゃん」

「……それ、いつの間に買ったの?」

「サミットの優勝祝い。良いでしょ」

「まあ、貴方に合っているとは思うわ。……けど、そうね、ここまでやってきて言うのもなんだけど、多分ギターの方が向いてるわよね」

「そう? ベースもすごく楽しいけど……」

 

 楽器単品で分かりやすく楽しいのは確かにギターかもしれないけど、ベース単品で弾いても十分に面白い。むしろあたしとしては、メロディを汲みつつリズムで遊べるベースの方がしょうにあっているような気もしていた。これは、ベースメインでやってきたからなのかもしれないけど。

 

 今日持ってきたベースは、手数の広さを売りにしたタイプ。24フレットで、音の軽重も表現しやすい。2つ目のベースはパスパレ用に買ったけど、今回のやつはソロ用兼MiDDay-Moon用みたいなところがある。次は五弦を買おうかなとひっそり企んでいた。

 

「後で、少し遊びに行きましょうか」

「遊び?」

「昔よくやっていたのだけどね。楽器とアンプだけ担いで駅前に行って、夕食代を稼いでくるのよ。全然貰えない日もあれば、豪華な食事になる日もあって──よく考えたら金も品もない限界大学生の遊びだったわね」

「そう言いつつ誘うんだ」

「お金のことはさておいて、路上ライブくらいはね」

 

 あまり店を知らないのよね、とローテーブルの上でスマホのマップを眺め始めたのを尻目に、おねーちゃんの部屋を見回した。音楽雑誌と、昔とラインナップが大きく変わった本棚。部屋の隅には貼るのを断念しただろうポスターが丸めて立て掛けられていて、何故か観葉植物まで置いてある。詳しくないから種類までは断言はできないけど、パキラの仲間だろうか。

 

「おねーちゃんはギター買わないの?」

「現状困っていないもの」

 

 肉よりは魚の気分ね、とおねーちゃんが独りごちた。

 ほんとに機材に興味無いなこの人。Roselia内で釣り合いは取るだろうから、まああたしが気にすることじゃないんだろうけど。プロが準エントリーモデルとかで楽しそうに弾いててもそれはそれで味になるだろうし。

 

「目標は6000円ね」

「あ、結局やるの?」

「アイドル的に問題があったりする?」

「別にないと思うけど。昔やったし」

 

 ぼうっとすること1時間。真昼をすぎてしまえば、次は夕方以降の方が良いと言って、おねーちゃんは譜面を広げ始めた。少し疲労を滲ませる気だるげな表情にぞわりと()()()が掻き立てられるのを感じて、思考を逸らす。

 

 路上ライブは、お姉さんとやったきりだ。確かそのときも夕食代を稼ぎにライブをしたから、今回と同じ動機と言えばそう。別におねーちゃんも今はお金に困ってないだろうに、とは思ったけど、ライブそのものはやりたいので黙っておく。

 

「そういえば、MiDDay-Moonのライブもやる気はあるんでしょう? かなり前もって予定を立てておかないと纏まった時間は取れないし、会場も押さえられないわよ」

「その話は明日の配信でやろうかなーって。おねーちゃん復帰してから配信してないし」

「……スタジオ押さえてないわよ」

「いいじゃんこの部屋で」

「……まあ」

 

 取り留めのない話をして、それから少し作曲についての話もして。3時を回ったあたりで、おねーちゃんが着替え始めた。

 それから共有された譜面を確認して、おねーちゃんチョイスのカバー曲のラインナップを頭の中で通してみる。Roseliaの曲もパスパレの曲もやらないのには何か意図があるのだろうと思うけど、何となく、以上の理由ではない気もする。

 

「アコギの方がいいかしら」

「どっちでもいいよ。パーカッション薄くてもなんとかなる気がするし」

「……いえ、路上ライブなのだし、リズムは大事にしましょう。アコギの方が即応性もあるし」

 

 ギターケースを背負って外に出る。まだ少し肌寒い春。アノラックパーカーにキャップを被ったおねーちゃんのファッションは……リサちーのチョイスと見た。

 

 駅前の広場は、買い物帰りの人の中にぼちぼちスーツが混じり始める頃合で、おねーちゃんが持ち込んだ小さなホワイトボードに『MiDDay-Moon』と書き込んだ。それから、5曲分のセトリと、『夕食代ライブ』の文字。

 その間にあたしもセッティングを済ませて、軽く四弦を弾いてみる。いつもウォーミングアップに使っている16ビートのスケールに被せて、タッピングでメロディを乗せてみる。

 

 春風に乗って、マイク越しにおねーちゃんの声が響く。

 

『どうぞ、日常の僅かな一瞬に、ほんの少しの豊かさを』

 

 

 ♦

 

 

 夕食はイタリアンだった。別に高級志向のところに行った訳じゃなくて、大衆居酒屋の要素を汲んだ個人店といった感じ。端っこの席に座れたのと、他の客も静かだったから、雰囲気良く過ごせた。

 

 通うには高い、とおねーちゃんが少しガッカリしていたから、おねーちゃんも気に入ったんだろう。味覚はあたしと似ている。細かな味付けの違いとかもわかるけど、好みは大雑把な感じ。

 

「それで、どうしてこっちへ来たの?」

 

 日もとっぷり暮れた帰路、おねーちゃんが切り出した。

 人気のない住宅街の路地を、二人並んで歩く。通り道の家から聞こえてくるシャワーの音とか、煮魚や唐揚げの匂いとか、そういう情報にアンテナを張りながら月を見上げる。

 

 月夜を歩くのが好きだ。見上げればどこにいたって月と目が合うし、どこまで歩いても月が追いかけてくる。

 

「過去の精算、かな。あたしの人生にひとつ、区切りをつけようと思って」

 

 おねーちゃんは無言のまま、家路を外れた。マンションの通りをひとつ脇に逸れて、コンビニに入る。2人分のカフェオレを買って、無言のまますぐ店を出た。駐車場の端のフェンスに(もた)れて、まだ少し肌寒い夜の風に吹かれる。

 

「区切り、ね」

 

 街灯の下でも、おねーちゃんの表情はよく見えなかった。

 なにかの虫が鳴く音、木立が風に揺れる音、通り抜けてゆく車の音、静かな呼吸の音。排気ガスの臭い、カフェオレの温もり、見下ろす月明かり。

 

 心臓が煩かった。息が詰まる。

 

「聞かせてくれる? 受けとめられるくらいの度量が、私にあるといいのだけど」

 

 やっぱり、私はこの人に狂っているんだと思った。

 あたしを見つめる瞳が、月の光を跳ね返して煌めいた。

 

 遠くにあるものは、遠くにあるから美しい。

 月は、遠くにあるから美しく見えるのだ。

 

 だとすれば、こんなにも近くにいて、弱さも、嫌なところも全部知り得ているおねーちゃんが、こんなにもあたしの世界をかき乱すのは、どういった理屈なのだろう。

 

 右足を動かした拍子に、小石が跳ねた。

 八つ当たりの心境は、とうに失せてしまっていた。

 

 いまは、あたしのこの一言が、おねーちゃんの心にどれほどの揺らぎと傷を与えるのだろうと慄き、そして期待している。

 さらりと流されてしまったら、それはそれでショックだ。むしろ諦めがつくかもしれないけど、あたし個人の欲望としてはおねーちゃんにとってなるべく重たい存在でありたい。

 

 息を吸って、声を出そうとして、少しつっかえた。

 目を瞑って、瞼の裏側に焼き付いた月の光を振り払う。

 

 

「あたし、おねーちゃんが好き」

 

 ああ、言ってしまった。

 心臓が飛び出るほど恐ろしくて、同時にほっとした心境にもなる。

 

 今日で終わる。この後ろめたさを、二十余年抱え続けたはつ恋を、ようやく置いてゆける。

 振られるために告白するなんて、些か滑稽ではあるけれど。あたしはこの数年をこのために生きてきた。

 

「家族としてじゃないよ。ううん、家族としても好きだけど──人として。恋愛的な意味で、おねーちゃんが好き」

 

 ──作り笑い。上手く笑えているだろうか。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。