カッコつけたい、だとか、見栄を張りたいというような感情は、もちろん私にだってある。必要以上に自分を大きく見せたいわけではなくて、相手の期待を裏切りたくないという感情が占める割合が大きいだろうか。もちろん、人並みのプライドだってあるけれど。
特に今日は、宇田川さんの期待にできる限り応えてあげたい、という思いが。
実の所、やっぱり私は宇田川さんが度々言うようなカッコイイ人間ではないし、その幻想を崩さないようにするためには多少、バタ足をする必要がある。
「今日はちょっとシックだね」
「ドレスコードという程でもないけれど、上品なお店に入るから」
「へぇ〜。あこちんとデート?」
「デートではないけど、そうね」
「飲み過ぎないようにね」
「格好付けるのは得意なのよ」
家を出るときに猫みたいに邪魔してくる日菜の頭を軽く撫でて、約束の時間にかなり余裕を持って出発する。
サシで飲みに連れて行ってください、と宇田川さんに言われたのが始まりだった。ようは、めくるめく大人の世界を教えて欲しいということらしい。
別に私は夜遊びを謳歌しているわけではない、と言っても聞かないので重い腰を上げる羽目になった。宇田川さんの知り合いの中だったら、多分青葉さんが1番そういうのに詳しいと思う。
前世で行った店が残っていないものだろうかと当たってみたら、案外普通に引っかかる。全く同じとは限らないが、初見の店に行くよりは勝率が高いだろうと思って、その中でも比較的入りやすく落ち着いたバーを選んだ。
白金さんからSNSで、「ヒールは低めで、シックかフェミニンな感じでお願いします」と指定のメッセージがあって、突発的なクローゼット捜索に駆り出されたのもまあ、良しとする。ちょっと男のときのノリで、入りにくいお店に引っ張っていってあげようみたいな緩い感じを想定していたところがあるから、温度感が修正できて良かったかもしれない。よく分からないうちにデートっぽくなっていたらしい。或いは、白金さんのさしがねかもしれないけれど。
デート云々よりも、それだけ楽しみにしてくれているならなるべく応えてあげたいという思いの方が大きいだろうか。甥姪の世話をする叔父さんみたいな心境。
いくつか算段を立ててはいるけれど、自分に他人をもてなすセンスはなさそうだなと思う。磨いてこなかったのもあるし、気質とか性格の問題でもある。
RiNGに行ったことがないと言うと、そこが集合場所になった。池袋の喧騒に飲まれながら、夕方に差し掛かった、バンド練に向かうだろうギグバックを背負った高校生が交じった人の群れに乗る。
わ、氷川紗夜、と言われた気がした。
振り返れば、ピンク髪の少女が黒髪の少女に引き摺られて行った。必死に頭を下げられるので、軽く微笑んで手を振っておく。こんなことも多くなってきた、と思ったけれど、高校時代から大概こういう光景を見てきた気がする。苦労役は山吹さんとか奥沢さんとか上原さんとか。突っかかられる私に問題があったりするのか。
二階にカフェラウンジがあるというのでそこで待ち合わせだ。時間を潰しがてら、施設の中を色々と見て歩く。バンドメンバー募集の掲示板とか。1回きりのサポートだったらこういうところで参加しても良いのだけど。ずっと身内で固まっているバンドだったから、一期一会の関係というものに少し憧れがある。
ベース募集。未経験者歓迎。ギター教えてください^^。
こういうものもあったな、なんて感慨深い思い。
それから、一階のショップにも入ってみる。初心者向けにしているからか楽器のラインナップは安価なものに偏っていそうだったけれど、代わりにかなり敷居を低くしているらしい。無料講習日、なんてスケジュール表も貼ってあった。講師の欄にあった「花園たえ」の名前は見なかったことにして……今日の夜になっている。ちょっと気になるからやめて欲しい。
階段を昇ってカフェへ。カウンターには山吹さんが立っていた。目当てが適ったといえばそうだ。
「あ、いらっしゃいませ、紗夜先輩。……珍しいですね?」
「お久しぶりです、山吹さん。カウンターに失礼しても?」
「はーい。ご注文は何にしますか?」
「アールグレイ、アイスで」
「承知しました」
ちょっとそこらでライブやりませんかと引っ掛けるような感じで誘うつもりだった。ただ、そういえば山吹さんには怖がられていた記憶が──
「お待たせしました、アールグレイです」
少し気まずいな、と
「ときに、山吹さん」
「はい?」
「ライブのサポートに誘ったら、困ったりしますか?」
「はい?????」
水色の瞳をまん丸に見開いてしばしフリーズしたあと、合点がいったように山吹さんは頷いた。
「日菜さんと2人のやつですか?」
「はい。日程は未定ですが、近いうちに」
カウンターを拭きながら、山吹さんは思案げだった。
「受けたいんですけど、この前のライブ、私観たんですよ。あそこまでニュアンスを詰めたドラム、というか演奏は、私にはできそうにありません。練習時間もあまり取れないと思いますし……」
「あれは私と日菜の精神的な進退を掛けたものだったので特別ですよ。今回のは本当に、最悪8ビートを叩いてくれれば良いぐらいの感じで誘ってます」
それなら、と言いかけて、山吹さんが固まった。視線は入口の方へ。つられて振り返ると、先程想起した顔が。つまり、花園さんが立っていた。大きめのギグバッグを背負って、背筋をまっすぐ、ずんずんとこちらへ歩いてくる。
「紗夜さんだ」
「はい、氷川紗夜です」
私の後ろに回って、カウンターに座ったままの私の肩を、花園さんが揉み込むように両手で掴んだ。痛くはないけれどこそばゆい。
「……本物だ」
「偽物を見たことがあるんですか」
「ないですけど」
座るように促すと、すとんと姿勢よく腰掛ける。少しギター講習のことが聞きたくなったが、1度後回しに。
「何の話をしてたんですか?」
「山吹さんをライブに誘っていました」
「……! さーや、紗夜さんと演るの?」
「うん。貴重な機会だし、胸を借りさせてもらおうかなって」
私がアールグレイを飲んでいるのが気になったのか、花園さんも同じものを頼んだ。
それから、しばらく考え込むような表情。
「出てくれるんですか。……ありがとうございます」
「あはは、少し緊張しますね」
山吹さんの承諾を取り付けて、内心で息をつく。
未だに、他人を催しに誘うのには緊張する。断られたって他に誘う相手はいるのに、とも思うが、断られたことをあっさり流せるような人間になりたいとも思わない。誘うに足る──誘いたいと思う理由があって、本心から誘いをかけているのだから、断られることに僅かでもショックを受けるのは健全な反応だと思うのだ。それを引き摺ったり根に持つのは別の話だけれども。
「いいなぁ」
花園さんがぽつりと呟いた。
「私も紗夜さんと弾きたい──って言ったら、困りますか?」
小首を傾げて上目遣い。そういうのは意中の相手とかにやるべきだ、と言いたかったが、どうせ天然なのだろうなと思うから口には出さない。
「困りはしません。むしろ歓迎しますが、花園さんにとってはいつもの仕事と変わらないと思いますよ? 際立って面白いものではないというか、ただのサポートですし。それでも良ければ……」
「ううん、きっと楽しいですよ」
花園さんが私の手を取って立ち上がった。それからギグバッグを開けて、ギターを2本取り出す。2本入るタイプは便利そうでいいな、と現実逃避の思考の間隙に、青色のテレキャスターを手渡された。
オープンマイク、と花園さんが言うのに山吹さんがやれやれと息を吐いて、店の片隅の小ステージに置いてあるアンプを弄る。
他の客の期待の眼差し。おたえさんだ、と漏れ聞こえる声。ステージの真ん中に立って手招きする彼女に、大概押しに弱い自分を、こういう時には善く好く思う。
「ピックは?」
「……あ、ポケット」
デニムのポケットからぽろぽろと溢れ出てきたピックをひとつ借りる。
音を調節して、指板に指を滑らせる。良いギターだ。弾き込まれていて、大切にされている。
「ポピパの曲、いくつ知ってます?」
「ブレイクスルーまでです」
「ぜんぶ?」
「はい……多分」
「わ、すごい。……嬉しいな」
じゃあ十八番を、と言って、花園さんが歌い始めたのは、「走り始めたばかりのキミに」。自前のアコギの伴奏も堂に入っている。コードと曲調くらいはなんとなく覚えている曲でよかった、と思いながら、手癖で歪みを強くしたのを誤魔化し誤魔化し、フィルにハーモニクスを入れたりして。
リズム寄りに演奏を切り替えた花園さんの代わりにメロディーを埋める。
「あ、楽奈ちゃん」
曲が終わった直後、まばらに拍手が響く中で、山吹さんの気が抜けた声が聞こえた。先程の花園さんの焼き直しのような構図で、キャリーケースにギターケースを積んだ少女が歩いてくる。
「ギター、やる。……ライブ」
どんな嗅覚してるんだか、というのはらしくない山吹さんの言葉。壇上に上ってきた彼女は、私の方をじいと見て、それからにやりと笑った。
取り出したるはヴィンテージらしきESP。
花園さんが小首を傾げる。
「やる?」
「やる」
やるらしかった。
「4時半に終わるって言ってたじゃないですかぁ!」
「山吹さんに用事があったから、早めに行っておこうと思ったんですよ。都合よく会えたから良かった」
「それでどうして、ギター4人でライブしてるんですか! かすみちゃんと、おたえちゃんと、らーなと……」
だんだん収集が付かなくなってきたから切り上げようか、と提案した辺りで宇田川さんがRiNGに現れた。
「まあ、先に少し楽しんでいたのは申し訳ないと思っていますが」
「そうじゃないんですけど……まあいいや。なんだかんだといつも人に囲まれているのも、紗夜さんの良い所だと思いますし」
RiNGを出て、日が沈む前、夕暮れ時の都会へ。
隣を歩く彼女の視線が私よりも高いのが、やっぱり少し恨めしい。
「身長、何センチでしたっけ」
「171です! まさか高校で伸びるとは思いませんでしたけど」
「巴さんが高いのだから、まあ、伸びてもおかしくはないと思っていたのですけれど……抜かれるとは」
「おねーちゃんも中学で伸びたんで、わたしはもう無理かなーって思ってたんですよね。手が伸びたのはドラムの面でも嬉しいです」
手も大きくなりました、と左手を取られて、宇田川さんの右手と重ね合わされる。手の大きさでいえば余り変わらない。
「紗夜さん指長すぎません?」
「弦を押さえやすくて便利ですよ」
これでも短くなったのだけど、というボヤきは隠しておく。代わりに、宇田川さんの服装に目をやった。白のシャツに、ハイウエストな黒のフレアパンツ。それから、私がプレゼントした厚底の白のスニーカー。モノトーンは良く似合うけれど、白金さんのコーディネートだろうなぁ、と思いつつ。誕生日にあげたスニーカーが綺麗に履かれているのを見ると少し嬉しくなる。体感の身長差が大きくなっているのは頂けないけれど。
「似合ってます」
「えへへ、ありがとうございます。紗夜さんも、可愛いです」
「……昔はカッコイイ一辺倒だったのに」
「え〜? ……うーん、でも、本当に可愛いって感じることは多くなりましたよ?」
「はぁ」
「ついでにタメ口とか呼び捨てになったりしませんか」
「しません」
「ざんねーん」
「……それ、日菜の真似?」
「ひなちんの口癖が伝染ったリサ姉の真似です」
「70点」
インナーに紅を差した、紫のストレートヘア。こうしてみると、やっぱり巴さんとよく似ている。可愛らしいみんなの妹から、少しだけ生意気さを増して。それでもやっぱり真っ直ぐ私に向かってくれる優しさは変わっていない。
「……ちなみに、何か食べたいものはありますか」
「間食ですか?」
「ええ。空腹でバーに行ってもきっと物足りないでしょうから。特に、最初はきっと」
「そうですねぇ……あ、この間リニューアルしたアップルパイ専門店に行きませんか」
「今井さんが言っていたところですか?」
「そうです! 前から気になってて!」
プラザのテナントに入っている店だったはずだ。歩きながら軽く調べて、場所を確認する。じゃあそこにしましょうか、と目的地に定めて、改札を通り抜けた。
……しかしまあ、どうして私の周りには目立つ人間ばかりなのだろう。高校時代は特にそうだったが、今日も花園さんからの宇田川さんと高身長ロングヘア美人の並びだ。
「あ、このエルデってブランド、以前Roseliaでタイアップしたんですよ!」
「雑誌で見ましたよ。白金さんが推しているんでしたっけ」
「そうです。今はみんな着たりしてますけど」
実はこれもなんです、と左手首のシュシュ。てっきり白金さんお手製かと。
プラザの中を一通り冷やかして、一階の目的地へ。時間帯が時間帯だからか、殆ど並ばずに入れた。テナントだから席数も少なくてどうしたものかと思ったが、僥倖。
レンガ調で落ち着いた雰囲気の、暖色の内装。メニューは英語表記がメインで日本語のルビが振ってあるタイプだったから少し目が滑った。おすすめが書いてある辺りは親切なのだろうけれど。
「わたしはクランブルのやつとカスタードのやつにします。……おすすめって書いてありますし」
「その2つは外れなさそうですよね。私は……フロランタンと、ラムレーズンで」
「あとで一口ください!」
「もちろん」
宇田川さんはともかく、私には二つは重かったかもしれないと注文してから思ったけれど、まあ、何とかなるだろうと思うことにした。どうして22年も生きてきて未だに修正が利かないのか不思議でならない。いや、愚かだから以上のものではないのだけど。
テーブルに届けられたアップルパイ2切れずつは、ともすれば夕食になりそうなくらいだった。時刻は午後5時過ぎ、まあ、丁度良いか。
一口ずつ交換して食べた中では、クランブルとフロランタンが好みだった。しかし口直しという意味でもラムレーズンは捨てがたい。あとは、お土産にするならカスタードかなといった感じ。オーブンで焼き直してサクサク感が戻るならクランブルを推すだろうか。
そんな話をして、店を出たのが30分後くらい。バーは8時頃からゆっくり向かっても全く問題ないから、もう一箇所ほど立ち寄って時間を潰したいところではある。
近くのアウトレットに河岸を変えて、ゆっくり見て回ることにした。宇田川さんもファッションには積極的な方らしいから、概ね私が知識を授けられる側になる。
「紗夜さんって、ピアス空けないんですか?」
三日月のピアスを眺めながら、宇田川さんがふいにそう言った。
「空ける理由も空けない理由も特にありませんから、結果的に空いていない形になりますね。アクセサリーの類を好んで着けないのもありますが」
「演奏の時に気になるのはちょっと分かります」
「ギターやベースをやると、大きく腕を捲れるサイズのシャツしか着なくなりますよ」
「わたしは脱ぐので!」
「言い方」
ピアスホールを空けてもいいとは思うのだが、どうせ埋まるのが目に見えているというか、1度通った道というか。
Roseliaでも湊さんは空けていないし、白金さんが用意してくれる衣装はノンホールピアスかイヤーカフか、考慮してくれているようだから必要性が薄い。逆に、白金さんにピアスホールを空けてくださいと言われたら空けるのだが。
「……わたしが空けてもいいですか?」
「空けるなら病院でやります。その方が後々面倒がないので」
「それもそうですよね……」
「そんなに穴を空けたかったんですか」
「ちょっと」
「倒錯的な趣味ですね」
「……?」
「いえ、なんでもないです」
こういう服が良い、とかそういう話にはなるけれど、宇田川さんも自分のセンスをあまり信じてはいないらしく、白金さんか今井さんを呼んでこようという話になった。ううん、虚無の時間。レザー系は着ないんですかと尋ねたら、夏は暑いので嫌ですと言われたのが個人的なハイライト。
広く見て回ったせいで時間は取られたけれど、むしろ丁度良かったかもしれない。少し気温も落ち着いた夜の街に出て、電車で元来た方へ翻る。
「予防線を張っておきますが」
「はい」
「私はべつに、日々飲み歩いているわけではありませんし、小洒落たバーに足繁く通っているわけでもありませんよ。今日行くお店だって初めてです」
宇田川さんだってわかっているはずだ。出会った当初はいざ知らず、付き合いも長くなって、私の「カッコイイ」幻想みたいなものも解いてきた。だから不可解な部分もあるし、今更、多少良く見られる程度なら放置しても良いか、みたいな諦観もある。
「……だとしても、わたしは紗夜さんに連れて行ってもらいたかったんです」
平日のゴールデンタイム。この時間ならまだ、高校生も多い。相変わらず息が詰まるから、電車は嫌いだ。かと言って都内で車を乗り回すのもなぁ、となる。車があれば乗るだろうけど、両親の分と合わせて3台目をわざわざ買う気にはなれない。駐車場にも困るし。
「私でよければ、という前言を翻す気はありません。宇田川さんに頼られるのも、悪い気はしていませんし」
「……いえ、ワガママなのはわかっているんです。でもやっぱり、紗夜さんはわたしにとっては特別で……」
駅近くの雑居ビルの一角に踏み込む。消費者金融が入っているタイプの雑然としたビルではなくて、小綺麗な自動ドアやエレベーターのついた、踏み込むのにあまり躊躇する必要が無い装いのエントランスだった。
「わたしの人生で、最初に憧れたのはおねーちゃんです。その次に、友希那さんの音楽に出会って……友希那さんの音楽のカッコ良さに影響されて、無理やりRoseliaに入って……そして、紗夜さんに出会いました。生き方も、立ち居振る舞いも、姿勢さえもカッコ良いと思ったんです。だから、わたしが大人になれたこの時に、わたしのこの小さな冒険の手を引いてくれるのは紗夜さんであって欲しい。……ワガママですね」
「……でも、嫌いじゃないですよ。ワガママに付き合うのは」
「えへ、知ってます!」
エレベーターで4階へ。後付けだろう重々しい木製のドアを引けば、カランと乾いた金属音が鳴った。
覚えのある内装。ひとまずの安心感を覚えて、バーテンダーの「いらっしゃいませ」の言葉に頭を下げる。カウンターに2人と、テーブル席に1組。平日の真ん中だけあって客の入りは恐らく少ない。
「テーブル席をお願いします」
「承知しました。では、そちらのお席へどうぞ」
窓際の席へ案内される。4階だから景色が良いとは到底言えないが、少し遠くの道路を走る車のライトに不快感ではなく若干の美しさを覚えられるくらいには高さがある。
メニューがない、と宇田川さんが呟いた。それも楽しいのか。
「ご注文がお決まりでしたらお伺いしますが」
「……そうですね。ソルティドッグを2つと、あとチーズの盛り合わせを。それから、メニューを頂けますか」
「畏まりました。少々お待ちください」
メニューそのものはあるんですね、とどういう感情が分からない、くすぐったいような表情で笑って、宇田川さんはテーブルの上に手のひらを広げた。
「勝手に注文してすみません」
「いえ! どうせメニューなしには何も分からないと思うので。むしろ、紗夜さんのおすすめを飲みたいです」
「……まあ、その方が良いかもしれませんね。映画なんかで知って、飲んでみたいカクテルがあったらそういうのは頼んでみると良いですよ」
「ソルティドッグは何かで聞いたことがあります」
「誰かをバーに連れてきたときにとりあえず頼む分には良い択だと、個人的には思っています。内容は知っていますか?」
「いえ」
「じゃあ、お楽しみに」
ソルティドッグが運ばれて、宇田川さんが露骨に目を輝かせた。カクテルグラスに注がれるカクテルや、カクテルがシェイクされるのを見るのもそうだけれど、こういうのがバーに抱いているロマンだよなぁ、と内心で頷く。
ウォッカをベースにグレープフルーツジュースを加えて、ロックグラスの縁に塩を纏わせたこのカクテルには、やっぱりインパクトがあって、その割に飲みやすい。
「これ、塩ですか?」
「ええ。スノースタイルと言うんですが……ああ、そのまま飲んで大丈夫ですよ」
レーズンが混ぜられたクリームチーズをビスケットに載せてひとかじり。宇田川さんの方に向けたメニューを、ついでに流し見する。次に宇田川さんに勧めるのなら何が良いだろう。響や白州……アブサンもある。それなら美術館に連れていけば良かっただろうか。
それから、電気ブラン……は無いか。もし白金さんと飲むことがあったら、電気ブランが飲める店を探してみよう。
「美味しいです。飲みやすいですね!」
「私も好きですよ、これ。お店によっては塩にこだわっていたりもするそうです。一人で飲むときはカウンターに座って、そういう蘊蓄を聴くのも楽しいんですが……なかなか来にくいですよね、一人だと。というか、一人で飲み歩いちゃダメです」
「えー……」
「連れてきてあげますから」
次はリキュールを頼もう、と思う。湊さんがいるときにアブサンは、と思うのと、あとは宇田川さんの反応が気になるから、次はこれを頼むことにした。
「アブサンを……トニックウォーターで割っていただくことは可能ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「じゃあそれと、チョコレートの盛り合わせを」
チーズも残っているけれど、しょっぱいものと甘いものを並べておいた方がいろいろと探究できて良いかもしれないと思ってチョコレートも頼んだ。
流石に酒を飲み始めたばかりの宇田川さんにロックを勧めることは憚られたので、トニックウォーター割りで。
「アブサン、ですか? 知らないお酒です」
「簡単に言えば、薬草の酒ですね。昔の製法では依存性と幻覚作用があったので、一時期は製造が禁止されたほどだとか。そして、芸術家に縁の深いお酒でもあります。例えば──ゴッホとか」
「ひまわりの?」
「ええ。湊さんの前では飲みにくいでしょう。だから、こっそりね」
「……?」
鮮やかな黄緑の液体が注がれたカクテルグラスが届くと、宇田川さんはそれをしばらく興味深げに眺めて、そっと嗅いだりしていた。
先陣を切って私が口を付ける。いつかストレートで飲んだときほどではないけれど、やはり青臭さというか、強いクセが鼻を突き抜ける。
宇田川さんが一口飲むなり大きく目を見開いているのを見て、思わず笑みが漏れた。
「飲めなければ貰いますよ」
「大丈夫です。……紗夜さんは、これが美味しく感じるんですか?」
「……あまり。飲むことを楽しんではいますが、美味しいと思っているわけではないと思います。情報を飲んでいるのか、体験を味わっているのか」
「じゃあ、飲めます」
少し意地悪をしてしまっただろうか。次からは楽しく飲めそうなカクテルを頼もう。
ホワイトチョコレートを摘んで、何を話したものだろうかと思う。こういうとき口が上手くない私は、あまり気の利いたセリフを言えない。
今度連れて来る時は、例えば洋画を見たり、ネタを仕込んできた方が互いのためかもしれないと思いつつ。
「せっかくゆっくり話せる機会ですから、酔ったついでに少し。……私にとってのカッコイイってなんなんだろう、と考えてみたことがあるんです」
「紗夜さんにとって……」
「憧れよりも、どう成りたいかという1種の理想像のようなものですね。私にとっては、芯と余裕のある人間でしょうか」
アブサンを舐めるように飲む。唇を湿らせるつもりで、喉が渇いた。
「信念を貫く人間がカッコイイのは言うまでもなく、やはりゆとりというものが大切だと思うんです。泰然とした立ち居振る舞い、新たなものを受け容れられる度量、漲る自信。……攻撃性の高い人が苦手なので、私が憧れる『満ちた』人間は、自然とそういう人種になるのかもしれません」
群れではなく個人で充足感を得られる人間、という括りでもあるのかもしれないと思った。キャンプに行って本を読んでいるような人種、或いは、美術館でポストカードを買うタイプの人種。
「……それって、紗夜さんのことじゃないんですか?」
「……ん?」
「だって、あこから見た紗夜さんはそんな感じですもん」
「まあ、目指す先ではありますからね。少しでも近づけているのなら嬉しくはあるのですが」
透き通るグリーンを揺らしてみる。
「カッコイイ、のは嬉しいです。でも、間違っても私のようなタイプにはなって欲しくないな、と思います。真面目で、明るくて、……今輝いている宇田川さんが、私は好きなので。こっそり、元気をもらっていたりもするんですよ、これでも」
恥ずかしいことを言った照れを、一息に飲み干したアブサンの青臭さで洗い流した。
ううん、やっぱり向いていない。