送られてきた音源──デモと銘打ちながらも、サンプルとは思えないクオリティの演奏を聴きながら、千聖はスコアを目で追った。
これを演奏することによって、日菜に良い影響が表れるだろうか。千聖にはもう、分からなかった。紗夜に作曲依頼を出したのは、話題性があったからだ。かつて流れた日菜へのサプライズプレゼントのリベンジ、みたいな思惑もあったとはいえ、第一義は前者である。
Pastel*Palettesというキャンバスの限界が訪れ始めていた。かつて水色の絵の具を置いた白紙の布は、もう余白を残してはいない。氷川日菜という存在を囲っておけるだけの可能性が、既にPastel*Palettesからは損なわれていた。
大学2年生の春、千聖は期せずして大河ドラマのヒロイン役を掴み取った。まだ内々の話で断ることも可能だったが、受けることにした。アイドルサミットの熱も冷め、各々が再スタートを切ろうとしている局面だったから、新しいことに挑戦する良い機会だと考えたのもある。布地の端、自身を囲う鋼鉄の網を見上げる日菜の溜息に、見ないふりをした。
この事務所は狭すぎる。恐らく日菜も感じていて、何より常々千聖が抱いている絶望でもある。
とある企画で日菜と対談した、スウィング・ジャズの大御所ドラマーが発した言葉は、千聖へ現実を知らしめるのにどれほども効果的だった。
最初は来日に伴う雑事のひとつだと軽く流すつもりだったのだろう彼は、日菜と話すうちに、そして音を合わせるうちにすぐさま態度を変えた。
「なんでこんなところにいるんだ?」
それが全てだった。日菜の演奏は、世界的な奏者から見ても光るものがあるらしかった。ジャズをやれば大成する。今すぐ紹介状を書いたって良い、と彼が名前を挙げたのは、これまた世界的なジャズ・ベーシストだった。
ナオが来てからのPastel*Palettesは小さく纏まった。千聖自身も自覚するところで、彼の言い草も、立ち寄った場末のバーで思わぬ宝を見つけたような口振りでしかなかった。日菜にこのバンドは、事務所は、狭すぎる。
事務所の想定内の活動しかできなくなった。収入のブレないバラエティーへの出演、物販が期待できるライブ、事務所の他のタレントを底上げするための踏み台。音楽的な伸びしろはほとんど潰えたと言ってもいい。所詮事務所に管理されるアイドルであるPastel*Palettesは、Roseliaのように自由には振る舞えない。
SNS上でアドバイスを受ける傍ら、ひたすら「ブルックリンに来い」と言われている日菜を思えば、気重くなる。
── There are many bassists in Japan who play better than me.
── But no one is more crippled than you. Isn't that right?
日菜はとうに、音楽的に高みへ行くことを諦めてしまったんじゃないかと思う。少なくとも、Pastel*Palettesにおいては。
底も天井も見えている。千聖には飛べない高さで、日菜には足りない低さで。
日菜がPastel*Palettesに居着くように仕向けたのは千聖だ。半ば意図的に日菜がそれに乗ってきたのだとしても。
けれど、千聖には力なんてなかった。事務所を抜け出す実力も、事務所を動かす権力も。庇護のないPastel*Palettesが、風の前の塵に同じことを知っている。
今になって紗夜の気持ちがよく分かる。踏み台が檻になる辛さ。持って生まれたものの差を思い知らされる絶望。責任を取ることさえできない無力さ。
まあ、彼女も大概だ。
努めて感情をフラットに戻そうとして、息を吐く。
今日本で五指に入る売れ方をしているバンドのギタリスト。日菜と同じく才能のバケモノみたいなボーカルに、涼しい顔をしてついていく秀才。天才に挟まれれば秀才も裏返るものだろうか。
あんなに熱烈に求められてネットニュースにもなり、それでもなお目立った批判も起きていないくらい、青い薔薇の香りを纏った彼女は。
天才の最高速度には勝てない、と彼女は言った。どの口が言う、とも思ったが、千聖は黙って続きを促した。
天才の初速には勝てる、と事も無げに言った。凡人の最高速度は、十分な助走距離を得て、エンジンの回転数を最高潮に走る凡人は、天才の初速に勝る。
休み休み走る天才よりも先んじて走り、長く走れば、それだけ追い付かれるのが遅くなる。それだけの話だと言ってのけた彼女は、天才でなくとも凡人ではない。
そんな彼女が、自分は踏み台なのだと笑って言ったのを思い出して、千聖はイヤホンを外した。
『仮題 分裂流星』、随分と示唆的なタイトルだこと。
事務所から離れられないのは千聖だ。女優の仕事も続けたいと思っている以上、大手事務所の一角であるここを離れる意味は無い。
日菜がナオを切り捨てなかった理由は彩だ。腐っても彩の原点の一人である彼女を廃することを、日菜は躊躇した。
「天才を殺した」
言語化するのを恐れていた思考だった。しかし口に出してみると、案外しっくり来ない。
これ以上考えても意味がないことを理解しながらも、千聖はソファに腰掛けたまま、気を紛らわそうとは思えなかった。
スマホを手に取って電話をかける。3コールほどで繋がった。
『白鷺さん、珍しいですね。曲になにか不手際でも──』
「ねぇ、今から会えない?」
『えっと、構いませんが……いえ、会ってから聞きます。迎えに行きますよ』
「ありがとう。場所は──」
シャツを羽織る。申し訳程度の変装用のキャップとマスク。
分からないなら聞くのが早い。1人で解決できないなら誰かを頼ればいい。千聖にとって頼もしいと思える人間はそう多くないけれど、こと日菜に限って言えば千聖よりもずっと詳しい人間がいるのだから、さっさと頼ってしまった方が早い。
電話をかけて20分。
紗夜はタクシーでやってきた。透明のビニール傘を差して、随分と雨の灰色に映える存在感で。
「つけられてはいない?」
「……」
「冗談よ。ありがとう」
どうしたんですか、とか、そんなことを言おうとしたのだろう口を塞いで、少しの悪戯を仕掛ける。紗夜は困ったように眉尻を下げて、仕方がなさそうに笑った。
ワイドなスラックスに、丈の長い白のシャツブラウス。飾り気の無さの中にバンドマンらしさを見出して、千聖は少し面白くなった。
「着いてきて。このままデートに行きましょう」
「その言い回し、みんな好きですよね」
「言い回しが好きなのではなくて、あなたに使うのが好きなのではないかしら。……それと、敬語」
「……ああ、どうにも」
紗夜に敬語を使われるのが面白くない、という話をしたら、日菜がケタケタと笑っていたのを思い出す。「おねーちゃんのタメ口は赤ちゃん扱いしてる度だから」と言ってから彩の方を見たから、少しいたたまれない空気が流れたことも。
文字通りの敬意であって、距離を取っているつもりはない、と言い訳されたこともある。それでも認めがたいのは、意地だろうか。
紗夜を連れて入ったのは水族館だった。人の顔が見えにくい碧の暗がりに、夏の暑さを誤魔化す弱冷房。平日のこの時間なら、人も多くない。
「内緒話は人混みに紛れてするといい、という言説があるらしいけれど、その条件に水族館が合致するかは怪しいわね。スクランブル交差点が最も適した場所なんじゃないかしら」
「そんな重大な話じゃないわ。……いえ、機密に関わる話じゃないと言うべきかしらね」
チケットを買って中に入ると、最初に大水槽が迎えてくれる。真ん中には群れた小魚。マアジとプレートに書いてある。それから、感情を見せない顔立ちの、マンボウのように縦に平たい魚がアクリルの手前を泳いでいった。イトヒキアジと書いてあるが、アジとは似ても似つかない。
「大人になればアジっぽくなるのよ。少し不細工にもなるけれど」
「なんでも知っているのね」
「……有名な魚だから。雑学程度なら知っているけれど、そうね、水族館を楽しむための予備知識みたいなレベルでしかないわ」
広げた知識や雑学で話をするのは楽しいけれど、ひけらかすのはつまらない。そういうニュアンスの言い訳じみた文言をいくつか口にしてから、紗夜はまた水槽に目をやった。
「それで、何があったんですか」
「何があったというか、日菜ちゃんの事を考えていたのだけれど……」
「ええ」
「Pastel*Palettesの存在が、日菜ちゃんの枷になっているんじゃないかと思って……悩みが晴れそうになかったから、精神の均衡を取りたかったのよ」
「Pastel*Palettesの事情について私が力になれることは少ないと思うけれど」
「いいえ、解決に至らなくてもいいの。忌憚のない意見を貰って、悪い方向にせよ、良い方向にせよ、一旦私の精神のブレが止まってくれればそれで」
理解はできる、と紗夜は言った。感情が振れることが一番のストレスになる。もちろん日常の中で、あるいは人生の要所でそういう場面が訪れるべきだとは思っているが、常に懊悩しているようでは心が先に磨り減ってしまう。
「白鷺さんの悩みを矮小化してしまうようで、これは良い言い方ではないとは思うのだけど」
「ええ」
「考え過ぎね。そして、日菜を過小評価し過ぎている」
傍によってきたクエのぼうっとした顔を眺めながら、紗夜はばっさりと切り捨てた。
「才能があるから、それに相応しい場所に行かなければならない。周囲がそう押し付けるのは、傲慢で身勝手な行ないでしょう。一方で、足でまといになりたくないと思う周囲の心は、一部自分本位な色を帯びるにしても、思いやりの感情だ」
自分が通ってきた感情を反芻しているのだろう、ということはすぐにわかった。そしてこれが、千聖を責めるわけではない、という前置きであることも。
「日菜がPastel*Palettesにどれほどの音楽的な活動を求めているかは知らないけれど、あの子はやりたいことがあったら勝手にやるわ。本当に興味があればブルックリンにも行くだろうし、Pastel*Palettesに代役を立てる程度のことがあの子にできないとも思えない」
いつの間にか足を進めていた。水槽を眺めながら、タイルカーペットの柔らかい感触を足で確かめるようにゆっくりと歩く。暗い足元を照らす誘導灯と、非常口の案内。
「もし本当にジャズがやりたいんだったら、まずは国内で師匠を探すわね。それで満足できなくなったのなら国外にも行くかもしれないけれど……まあ、よく分からないわね」
「……そうね、想い人の方が大事だものね」
「大人げない意趣返しはやめて。……国内での話であれば、音楽的にやりたいことはだいたい、日菜なら個人で実行できるわ。やろうと思えばPastel*Palettesや私を巻き込むことも可能だろうし。だから、白鷺さんの悩みはほとんど杞憂なんじゃないかしら」
深海魚のコーナー。タカアシガニがいて、ダンゴムシみたいなグソクムシがいて、アンコウや、エビや、細長い魚たちがいる。
杞憂だ、と言われたことに、特に反論は思い浮かばなかった。そうなのか、と思っただけだ。足枷になれるほどの結びつきじゃない、と言われたようなものだったが、それも。
「好き好んで、日菜はPastel*Palettesにいる」
次は海月のコーナーだ。何度か花音と来ているから、それは覚えていた。縦長の風船みたいなクラゲ。透明なクラゲ。黒のクラゲ。カラフルに光るクラゲ。触手が長すぎて水槽が狭そうに見えるクラゲ。豆粒みたいなサイズで、目を凝らさないと見えないクラゲ。
「折角の機会ですから、少しだけお節介をしようと思います」
いくつか置かれたベンチに、紗夜が腰掛けた。改まった敬語でそんなことを言うから、少し身構えて、千聖もその隣に座る。
「敬語で話させてください。この瞬間だけは」
「構わないけれど……」
日菜が望んでPastel*Palettesに留まっているのだから、それを疑ってくれるなという姉の釘刺しなのは間違いなかった。なんだかんだと要所で妹に甘い。
「あの子はクソガキでした」
なんて身構えていたのが、一言で吹き飛んだ。
「え?」
「眠たいのに構え構えとうるさいし、構ったら構ったですぐ寝るし、これは何あれは何と母ではなく私に訊いてくるし。どうせ理解できないくせに空が青い理由を訊いてくるから、平たい言葉で説明したのにそれでも納得しないから散乱光の話をして、レイリー散乱を教えたら意味わかんないと放り投げられて……まあ、子どもなんてそんなものなんですが」
「えっと、何の話?」
「日菜の話です。……少しだけ大人びた子どもでした。ほんの少しだけ。頭が良い子でしたから、学校社会では頼られますよね。けれど日菜はそれを良しとしませんでした。自分の能力が利用される仕組みに気が付いて、それを跳ね除けようとしたんです。自分が勉強して賢くなったのに、勉強してない人間がそれをかすめ取るのは道理が通らない。……中学校までずっとそうです。正論が人間関係において摩擦を生むことを理解していて、正論を言うことで拗れる人間関係なんかいらないと言ってのける」
だからクソガキです、と言った。
それがおかしくて、くすりと笑う。この静謐な容姿の友人から時折漏れ出る、いやに男性的というか、おそらく意図して粗雑な語彙は、ときおり千聖の笑いの琴線を刺激する。
「高校までまともな友達がいなかったんですよ。小学校高学年からはわざとそう振舞っていたのでしょうけれど、同年代の人間に心を開くつもりがなかったんです。周りの人間全部が馬鹿に見えるんですから、仕方がないような気もしますが」
あなたは、と訊ねたくなったのに、柄にもなく千聖は遠慮した。なんとなく想像はつく。日菜が唯一同族意識を抱いていた相手。本心から、心底から、おねーちゃんと慕う相手。二人の関係性も、精神年齢も、紗夜が上だったに違いない。
周りが全部馬鹿に見えていたのは、果たして。そこまで考えると、やっぱり口に出す気にはなれない。けれど、紗夜は上手くやるタイプだろう。利用される側に回ることを少しだけ牽制しながらも、頼られることは拒否しない。双子ではあっても、姉と妹だ。妹の方が甘やかされ慣れているし、姉の方が周りを見ている、と思う。
「高校2年になって、あの子に比較的仲の良い後輩がいると聞いたときは実際、かなり驚きました。それから、友人ができたと聞いたときも」
クラゲを照らすための青いライトが、紗夜の横髪を揺らめく。彼女の瞳に反射する碧の水槽が、四角くハイライトを切り取って見せた。
「親友とは、なんでしょうか。一番仲の良い友人のことでしょうか。言うまでもなく、友人の中にも仲の良さの序列のようなものがありますよね。その頂点が、自動的に親友と呼べるものなのでしょうか。それとも、友人よりも更に上の仲の良さというものがあって、言わば、恋愛対象でない友達以上恋人未満を指す言葉が親友なのでしょうか。親友は一人きりでなければならないのでしょうか。それとも数人いても普通だったり。一方的な認識でも良いのでしょうか。恋愛関係のように、相互の同意の下で親友とは成り立つのでしょうか」
私には分かりませんが。空中にいくつも投げ掛けた問いを、紗夜はそう切って捨てた。
「親友ができた、と。大学1年の夏に聞きました。それが全てでしょう」