月輪より滴り   作:おいかぜ

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普通に間に合ってないけど妥協ライン……ってことで許して


《97》触れるものみな傷付ける

 

 いつの記憶が夢として表出してきたのか、正確には分からない。けれども、おそらくは小学校低学年より以前、5歳か6歳か、その辺だろう。すぐに夢だと気が付けるほどの違和感と既視感に満ちた視点の低さと、隣を歩く日菜の幼さが、私を微睡みの世界に押しとどめた。

 

 私は日菜と手を繋いでいた。アニメか何かの影響だったと思うが、日菜は大きく手を振って歩くのが好きだった。前後90°ずつ、半円を描くように手を振って、足を上げて歩く。日菜と手を繋いでいる私の右手も振り回される。はぐれないように強く握られた指先が、今とは違う体温と感触を伝えてくる。

 

 私たちの少し前を歩く母は、疲れきった顔をしていた。

 確かこの頃は、本格的に職場に復帰したばかりだったはず。如何に私が手がかからない子供でいることを心がけていたとはいえ、できることには限度があるし、日菜はそうもいかない。双子の世話は大変だろう、と傍目に強く感じていた。

 

 どこへ向かっているのかは分からなかったが、駅の構内を歩いているのはわかっていた。……この日は御苑に向かっていたような気もするし、日菜のわがままで普段は寄り付かないところに向かっていた気もする。

 

 ただ、何が起こった日かは覚えていた。

 なにかに気を取られた日菜が、私の手を離した。日菜が道をはぐれたのを察して、「おかあさん!」と叫んだのに、母は気が付いていないようだった。行き先について調べながら歩いていたのもあるだろうし、祝日かなにかで駅に人が多かったのもあるだろう。

 

 私が日菜を律するのに、母が慣れていたのも良くなかった。あとから母は反省していたが、母自身で日菜の手を捕まえておかなければならなかったのだ。こればかりは私という異物のせいでもあるから、母を責めることはできない。私が事前に予測して先回りしたせいで、母が母親として自覚を育み成長する機会をいくつか奪ってしまっていただろうから。

 

 私は二人の間、中途半端な位置にいた。咄嗟に日菜の方を追いかける。母をもう一度呼んだが、聞こえたかは分からなかった。

 走り出した日菜を捕まえるには当然私も走らなければならないし、行き交う人々の間をうまくすり抜けなければならない。身長の低い私たちは一瞬で埋もれてしまう。

 

「ひな!」

 

 距離にすればせいぜい50メートルもないだろう距離をバタバタと走って、日菜を捕まえた時には既に母の姿が見えなくなっていた。

 

「あ、おねーちゃん。ママは?」

「ひながきゅうにどこかにいくからはぐれちゃったのよ」

「えへへ、ごめん」

 

 こういう時に子供の体は不便だ。身長があれば母の姿も見つけやすいだろうが、この体では見上げなければならない。未就学児二人で駅を歩いていればすぐに止められるだろうし、少し戻って母が探しに戻ってくるのを待つということもできない。少なくとも改札をくぐる前には気がついてくれるはずだけど、と思案する。

 

「なにみてたの?」

「あれ! はりねずみ!」

 

 何に気を取られたのかと尋ねると、きっぷ売り場の看板の横に吊るされた、交通ICのキャラクターのぬいぐるみが指さされる。確かに可愛らしいけれど、日菜が夢中になるような何かがあるようには思えなかった。相変わらずこの子の感性はよく分からない、と思いつつ、手を引いて駅員のいる窓口を目指す。

 

 そして、私たちは女性の駅員達におおいに歓迎された。迷子になった旨と、母の携帯電話の番号と私の名前を告げるとすぐに対応してくれて、それで一応は一件落着だ。若い女性がお菓子をくれようとしたのを、少し年上のベテランらしい駅員が「アレルギーがあるかもしれないから」と止める。日菜がハリネズミのマスコットキャラクターに目を輝かせているのを見て、事務室に置いてあったストラップをくれた。

 

 駆け込んできた母に抱き締められて、その日の迷子騒動は幕を下ろした。

 駅のホームに大きな穴が空いたとか、事務室に大きな着ぐるみがあったとか、道行く人がスマホを見ていたとか(当時の日本ではガラケーばかりだったはず)、あとから思えば夢らしい支離滅裂な内容もあったが。

 

 ……あの母の表情を見て、私は──

 

 

 ──

 

 

 スマホのアラームが鳴る。

 1時間くらい昼寝しようと思って、結局2時間くらい寝ていた。

 

 日菜は……ロケに行ったんだったか。もう帰ってきていてもおかしくない時間だ。耳を澄ますと、電気ケトルの音とテレビの音が聴こえてくる。既に帰ってきているらしい。

 

 欠伸を噛み殺して背伸び。部屋着のままリビングに繋がる扉を開ける。

 

「あ、おねーちゃん、ただいま」

「おかえり。ロケはどうだった?」

「すっごく楽しかった! あのね、ハリネズミが可愛くって……」

「ハリネズミ?」

「うん。ハリネズミカフェに行ったの」

 

 ハリネズミ。まさか、予知夢だったとでも言うのだろうか。偶然なのだろうが、いやに示唆的だ。

 

「昔からハリネズミが好きだったものね」

「……そうだっけ? ぬいぐるみストラップは持ってた気がするけど」

「貴方、ハリネズミに釣られて迷子になったのよ」

「???? 覚えてるような、違う記憶のような……遊園地のやつじゃないよね?」

「駅のやつよ」

「うーん、ピンとこないなぁ」

 

 ケトルのお湯が湧いて、日菜がインスタントコーヒーを入れる。テーブルの上に放置されたタブレットの画面には、「ハリネズミの飼い方」と書かれていた。

 

「……なに、飼いたいの?」

「んー。ペット飼おうって言ってたじゃん。ハリネズミもいいなぁって」

 

 確かに、ペットを飼いたいという話はしていた。日菜が犬や猫と仲良くしているイメージはないが、実家に水槽があったこともあって、ペットを飼いたいという欲求は人並みにあるらしい。

 それとも、白鷺さん経由で興味が湧いたのか。彼女の家のゴールデンレトリバーは日菜にもそれなりに親しくしてくれるらしく、白鷺さんが送ってくれた写真の中には日菜とレオンがじゃれているものもあった。

 

 ただ、生き物の命を預かるのだ。ペットを飼うと言っても、生半可な想定ではいけない。

 まず犬や猫、インコや文鳥なんかの社会性の強い生き物は難しい。日菜が大動物と相性が悪いというのもあるし、今住んでいるマンションが犬猫禁止というのもあるし、何より私たちが家を空ける時間が長いのが良くない。必ず寂しがらせてしまうことになるし、それは私たちの望むところでは無いから。

 

 そうなると選択肢は魚か、爬虫類か、小動物になる。日菜は水槽を立ち上げるのにも意欲的だったし、魚を飼う方向でなんとなく考えていたが、今日になって方針を翻したらしい。

 ハムスターやモルモットには興味があまりなさそうだったし、爬虫類も……嫌いではないだろうが、別に好きでもないはずだ。

 アクアリウムは見た目も美しいし、ある程度手馴れている部分もあるし、水槽に入れる生体の種類を考えれば維持もそう難しくない。私としてはそちらを推したかったが……ハリネズミと来たか。

 

 群れを作る動物ではないし、寿命が極端に長いということもないだろうし、エキゾチックアニマルの分類ではあるものの、比較的ポピュラーなペットだと言えるだろう。軽く調べてみると、近くにもハリネズミを診れる動物病院があった。

 

「私は構わないわ。日菜が飼いたいと思うなら協力する」

「衝動的に動くのも良くないからしばらく考えるけど、結構傾いてるかも」

「ハリネズミカフェがあるのなら、そこに話を聞きに行くのも悪くないかもね。ブリーダーでもいいだろうけど」

 

 準備は必要だ。特殊な設備は必要なさそうだが、少し大きめのケージと、あとは回し車やヒーターや給水器やら、用意するものは沢山ある。

 

「あとは母さん達の許可も必要ね。もしかしたら、一時的に預かってもらうことになるかもしれないのだし」

「そこはおねーちゃんがいれば大丈夫」

 

 ハリネズミと聞けば母も納得するだろう。日菜が迷子になる理由は様々だったが、ぬいぐるみに釣られてどこかへ消えたのはあの一件だけだったのだから。大抵はお腹がすいた時に食べ物の方に釣られるとか、そんなのばかりだった。

 

 

 

 ♦

 

 

 2月の末になって、結局日菜はハリネズミを飼うことに決めたらしかった。ケージをセッティングして、飼育経験者から話を聞きに行って、日菜にしては慎重に過ぎるくらいには周到に動いていた。

 

 何かの命を預かることに、特別な感慨を感じているらしい。要領を得なかったが、概ねそのようなことを言っていた。

 

 私はと言えば、なんだろう。娘がペットを飼いたいと言い出したときの父親の心境に近いのかもしれない。日菜が世話を投げ出すとも思えないが、それなりに多忙な日菜だけで全てが回るとも思っていない。

 それに、家にいれば情も湧くだろうし。

 

 ハリネズミカフェで生まれた個体を譲り受けることになったらしい。

 受取日当日は私の方に仕事が入ってしまったから、残念ながら日菜の出会いに立ち会うことはできなかった。

 

「ヒナもペットが欲しいとか思うんだね」

「私も意外に思ったくらいだから、外から見れば余計にそうなんでしょうね。パスパレでの反応が知りたいところだけど……」

「彩が余計なこと言ってそうな未来が見えるなぁ……」

 

 収録で一緒になった今井さんに話をすると、今度写真を見せてねと言われた。なんでハリネズミ? という反応はごもっともで、それらしい言い分を思い付かなかった。日菜が気に入ったから、というそれだけなのだが。

 

「それなら、早く帰ってあげなよ。ヒナが待ちわびてそうだし」

「……そうね。じゃあ、また明日」

「また明日! バイバイ」

 

 電車一本で自宅に戻る。私は私で、それなりに楽しみにしているつもりだった。駅からの帰路で夕食の材料を買って、ビニール袋を両手に帰宅。おかえり、と出迎えてくれた日菜に袋を渡して手を洗う。

 

「ケージのセッティングまでやっちゃった」

「問題はなさそう?」

「うん。温度も大丈夫そうだし、水も飲んでたし、シェルターにも入ってくれてる」

 

 エアコンの風が直接当たらず、直射日光も避けて、テレビからも離れた角にアクリルケージを設置してある。光量を落とすために用意してある薄布を持ち上げると、シェルターの入口から顔を覗かせたハリネズミと目が合った。

 

「ちなみに、なんて名前にしたの?」

「ショーペンハウアー」

「あのねぇ……いえ、何も言わないわ」

 

 それはないだろう、というため息が空気に溶ける。

 おずおずとこちらを伺っていたつぶらな瞳が、隠れ家の暗がりに消えていった。

 

 

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