営業名探偵新山さん(仮)   作:rairaibou(風)

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顧客の健康に気を配るのも優れた営業の条件です

 新山は神山電機の会議室で、いつものように商談を進めていた。

 部長の西村と副社長の田村を相手に、幾つかの契約更新に関する提案をしている最中だったが、どこか様子がおかしい。西村と田村は普段よりも表情が硬く、言葉も少なめだ。何かを気にしている様子が見て取れる。新山はそれに気づき、ついでに無意識のうちに周囲を観察する目を細めた。

 

 会議室の隅に置かれた時計が、静かな時間を刻んでいく。新山は何気なく視線を動かし、机の上に広げた書類に目を落とした。しかし、どうしても部屋の空気に漂う違和感が気になる。

 

 しばらくして、会議がひと段落ついた後、西村が口を開く。

 

「新山さん、少しお話ししたいことがあるんですが…」

 

 その一言に、新山は表情を引き締めた。西村の声には、いつもとは違った緊張感が混じっている。新山は自分の仕事における観察力を活かして、その微妙な変化を感じ取った。

 

「もちろん、何か問題でも?」

 

 新山は穏やかな口調で返したが、内心ではすでに何か重大な話が待っている予感がしていた。

 西村は一度息をつき、田村と顔を見合わせた後、静かに言う。

 

「実は、社長が数日前から行方不明なんです。」

 

 その言葉に、新山は瞬時に反応し、顔を上げた。神山充という名前が頭に浮かぶ。その顔が、普段の強い信念を持った姿を思い出させる。だが、その姿が今、どこにもいないという事実が、新山の中で急速に広がり始めた。

 

「行方不明?」

 

 新山は声を絞り出した。冷静さを保とうと努めながらも、その言葉がどうしても現実感を持てなかった。

 西村はゆっくりと頷いた。

 

「はい。急に姿を消してしまったんです。しかも、何も手がかりがないまま…」

 

 新山はその言葉を受け止め、もう一度部屋の空気を深く吸い込んだ。会議室の隅にあるオフィスの書類、何も変わらないその風景が逆に妙に浮かび上がってきた。自分が知っている神山の姿は、こうした日常から消えるような人物には思えない。

 

「どうして、そんなことが…?」新山はもう一度尋ねた。

 

 西村が声を潜めて返す。

 

「社長、最近ちょっと…様子がおかしかったんです。以前からあまりお話しすることが少なくなって、突然会社を休むことも増えていたんです。それで、しばらく前に誰かと会う予定があったみたいですが、その後、連絡が取れなくなった。」

 

 新山はその話を黙って聞いていた。これまでの神山との関係を思い返す。商談や打ち合わせの際、神山は豪快で思い切りの良い人物であり、、取引先としても信頼できる人物だった。しかし、最近の彼の様子に変化があったとは思わなかった。商談の場では変わらぬ姿勢で接していたが、私生活では何か問題があったのだろうか。

 

 田村が続けて言った。

 

「最初は私たちも、ちょっとした体調不良か、何か気になることがあったんだろうと思っていたんですが、あまりにも突然のことで…」

 

 その時、小野が部屋に入ってきた。秘書の小野は普段から神山に仕えている人物で、何事にも冷静な態度で対応する。だが、今その表情はどこか落ち着きがない。

 

「小野さん、何か新しい情報は?」

 

 西村が尋ねると、小野は少し躊躇した後、声をひそめながら言った。

 

「実は…久美子さんが、駆け落ちを疑っているんです。」

 

 その言葉に、新山は思わず目を見開いた。駆け落ち?それは予想もしなかった展開だった。神山がそんな行動に出るとは考えられなかったが、もし妻がそのように考えているならば、何か確たる証拠があるはずだ。

 

 

 新山が久美子の元に向かうと、専用室の扉が開け放たれており、静かな空気が流れていた。神山の妻であり共同経営者である久美子はテーブルに座り、軽く手元の書類をめくっていた。普段と変わらぬ冷静な佇まいだが、その視線の先にある書類の山が、どこか異常な緊張感を漂わせていた。

 

 新山は静かにノックし、「失礼します」と頭を下げた。

 

「あら、新山さん」と、久美子は微笑む。「どうぞ、座って」

 

 新山は「ありがとうございます」と頭を下げてソファーに腰掛けた後に、礼儀正しく話を切り出す。

 

「久美子さん。社長のことですが、少しお伺いしたいことが…。」

 

 久美子は一度、新山の顔を見てから軽く頷く。「もちろん、どうぞ。」

 

 その一言で、新山は本題に入りやすくなった。神山電機の営業先として、久美子とは何度も顔を合わせていたが、普段はあまり深い話を交わすことはなかった。しかし、今の状況で彼女に尋ねるべきことは多かった。

 

「実は、社長の行方がわからないと聞きまして…。」

 

 久美子はその言葉を受けると、短く息をついてから少しだけ顔を上げた。

 

「ええ、実は数日前から行方不明なんです」

 

 久美子は静かな声で言った。その表情にはわずかな陰りが差し、視線を一瞬だけ外した。普段は冷静沈着な彼女が、ここまで動揺を隠しきれない様子を見て、やはり相当な事態であることが感じ取れる。

 

「行方不明、ですか」

 

新山は少し間を空け、言葉を続ける。

 

「急にお姿を消されたのでしょうか?」

 

 久美子は軽く頷くと、再びテーブルに視線を落とした。

 

「そうですね…。急に、というよりは、実はここ数週間、少しずつ様子が変わっていたんです」

 

 久美子は言葉を続けるが、その口調には、冷静を保とうとしているものの、わずかな不安も感じられる。

 

「どんな変化があったのでしょう?」

 

 新山は、久美子が何かを隠しているように感じ取ったが、急かすことなく、あくまで営業マンとして、適切なタイミングで質問を重ねていった。

 

 久美子はしばらく黙っていたが、やがて目を閉じるようにして、重い口を開く。

 

「私も最近見つけたんですけど、あの人、最近瑞稀という女性から手紙を受け取っていたんです。それがどうにも…。」

 

 新山はその言葉に反応を示す。

 

「瑞稀?その女性は…?」

 

 久美子は一瞬ためらい、言葉を選ぶようにしてから答える。

 

「私も最初は彼女のことを知らなかったんです。でも、手紙の内容があまりにも情熱的で『会いたい』と…どうしても気になって、探し始めました。」

 

 状況的に、それはもう決定的な証拠ではないのか、と新山は思ったが、口をつむぐ。

 

「その手紙、何通も届いていたのでしょうか?」

 

 久美子は少し黙り込んだ後、再び言葉を紡いだ。

 

「はい、手紙は何通も届いていました。最初は手書きでしたが、だんだんと筆跡が乱れてきて、最も新しいものは印刷されたものになっていたんです。」

 

久美子は眉をひそめ、再度視線を下に落とした。

 

「印刷された…?」

 

 新山は手紙に込められた感情の変化を感じ取ろうとした。

 

「最初の頃と変わってきたということでしょうか?」

 

 久美子はゆっくりと頷く。

 

「ええ、そうです。最初は熱い想いが込められているような手紙でしたが、次第に冷めた印象を受けるようになりました」

 

 久美子の言葉には、どこか困惑したような響きがあった。

 新山は黙ってその話を聞いていた。久美子の説明からは、確かに不倫相手の存在が見えてくる。

 

「最近は大人しかったですが、昔は女遊びも激しかったですし」と、久美子はため息をついたが、すぐに新山に告げる。

 

「子供はいませんが、会社は私が引き継ぎますから大丈夫、新山さんのところとも変わらずお取引させていただきますので、安心してください」

 

 その言葉に新山は営業の本能的に「ありがとうございます」と頭を下げたが、話がそこまで単純でないことは良く理解していた。

 

 

 新山が部屋を出ようとしたその時、ドアを軽くノックする音が響いた。振り返ると、そこには神山電機の秘書である小野が立っている。目の前で立ち尽くすその姿に、何か新しい情報を持ってきたのだろうかという予感が走る。

 

「失礼いたします」

 

小野が一礼して部屋に入ると、続けて口を開いた。

 

「実は、社長のことで気になることがありまして。」

 

久美子はその言葉にすぐ反応し、小野をじっと見つめた。何か重要な話だということは、すぐにわかったようだ。

 

「すみません、すぐに失礼しますね。」

 

頭を下げて部屋を後にしようとする新山に「いえ、どうせならあなたも知恵を分けて頂戴」と久美子が引き止める。

 

「まあ、そういうのであれば」と、新山は小野に場所を譲るように横にそれて一礼した。

 

 小野は少し間を置いた後、少し躊躇しながらも続ける。

 

「社長が、ここ数カ月、私宛に若い女性の服を注文していたんです」

 

 その言葉に、久美子は思わず目を見開いた。新山はその言葉が何を意味するのか、急速に頭を働かせる。

 

「服を…小野さん宛に?」久美子は確認するように尋ねる。

 

「はい、私宛に送られてきました」小野は無表情で答える。

 

「社長が注文した品物で間違いないと思います」

 

 久美子は驚いた様子を見せながら、軽く目を伏せた。しばらく黙っていたが、すぐに冷静さを取り戻し、小野に問いかける。

 

「どうしてだと思いますか?」

 

 小野は少し肩をすくめて、やや躊躇しながら話し始めた。

 

「あなたにバレるのを恐れていたからだと思います。」

 

 久美子は無言でその話を聞いていたが、やがて口を開く。

 

「それで、どう思いますか、小野さん?」

「社長のことですから、女遊びがあったとしてもおかしくないと思いました。ただ、最近になってこんなことが続いていたので、私も少し心配になったんです」と、小野は答える。

 

「けれど、駆け落ちなんて、まさかそこまで入れ込むとは思っていませんでした。昔から、社長は女遊びはしていましたが、ラインはわきまえていた印象でしたから」

 

久美子は一瞬黙り込むと、新山に問う。

 

「新山さんはどう思うかしら?」

 

新山は背筋を伸ばしながら答えた。

 

「状況的にはお二人のおっしゃる通りだと思いますが、私には違和感があります。」

「例えばどんな?」

「私の知る限り、神山社長は豪快な人物ではありますが、同時に仕事を、この会社を愛してもいました。どういう状況であれ、会社を捨てるようなことは考えにくいです。」

 

 その言葉に、久美子と小野ははっとしたように目を開いた。確かに新山の言う通り、神山は仕事に対しても時代に逆行する勢いで熱意を燃やしているタイプの人間であったからだ。

 

 彼らは神山にあまりに近すぎてそれを忘れていた。

 

 しばらく沈黙があったが、小野が「すみません、実はもう一つ」と切り出す。

 

「まだ何かあるの?」久美子がその続きを求める。

 

 「はい。実は社長が腎臓病のパンフレットを事務所でよく見ていたんです。何度か見たことがあります」

 

 その言葉に、久美子は目を見開き、新山もその情報に「ん?」と声を漏らす。

 

 小野は続ける。

 

「いくつかパンフレットを持ってきました。社長は、最近よくそれを見ていたんです」

 

 久美子はそのパンフレットを手に取って無言で中身を確認した後、しばらく黙り込む。再び顔を上げた彼女は、少し冷たく言った。

 

「若い女のために健康に気を使うなんて、馬鹿げているわ。お義父さんが腎臓病だったことも知ってて…あんなにお酒を飲んでいたのに」

 

 新山はその言葉を静かに聞きながら、少し考え込む。彼の知る限り、神山というのは豪快を絵に書いたような男で、それはもう自分も何時間も飲みにつき合わされたものだ。どうせ飲むならアルコール度数が高いほうが良いと値段にかかわらずボトルを開けていく姿は記憶に新しい。そんな彼が腎臓病に関心を持っていたというのか。

 

 勿論、年齢を重ねた男が突然自身の人生を顧みることもあるだろう。だが、彼に限ってそれは考えにくいと思う。

 

 神山が腎臓病に関心を持っていたのは、もしかすると自分自身ではなく、他の誰かのためだったのではないか。と、一瞬、考える。

 

 そして、彼は突然手を上げ、言った。

 

「すみません、社長のいるところの目星がついたのですが、今お時間よろしいでしょうか?」

 

 久美子と小野はその言葉に驚いた顔をしたが、すぐさま沈黙をもって続きを催促する。

 

 新山は手を下げ「ありがとうございます」と礼を言ってから続ける。

 

「この近くに、人工透析を受けることができる病院はありますか?」

 

 

 応接室に静けさが漂っている。神山と久美子が並んで座り、新山はその二人の対面に静かに座っていた。

 

 神山が口を開く。普段は豪快な人物ではあるが、状況が状況なだけに落ち着いていた。

 

「新山君、君には感謝しているよ。君のおかげで、私たちもようやく隠していたものを認め、向き合うことができた」

 

 神山社長の声は穏やかでありながら、その奥にある苦悩を感じさせるものだった。

 新山は軽く頭を下げ、その言葉を素直に受け止め、遠慮がちに返す。

 

「たまたまです、特に感謝されることではありません」

 

 久美子は少し視線を落としながらも、それでもその質問を我慢できない様子で新山に問うた。

 

「それでも、どうしてあなたは神山が病院にいることが分かったの? 私は正直、今でも理解できていないわ」

 

 それは当然の問いだった。

 

 あの後、新山の言う通り最も近い人工透析施設のある病院に問い合わせると、すぐに神山の居場所が掴めた。その鮮やかさに感心するまもなく物事が進んでいたが、すぐさまにそれを指摘できた新山の考えが未だに理解ができていない。

 

 その問いに、新山はなんでもないことのように答える。

 

「まず腎臓の件ですが……普段ご一緒させて頂いてる時から、社長が腎臓を気にする様子はなかったので、それはおそらく社長本人の問題ではなく、他の誰かに関連しているのではないかと考えました」

 

 久美子はその言葉にしばらく黙って頷いた。神山社長も新山の推測を無言で受け入れたようだった。

 

「そして、社長が仕事をほっぽりだしてまで何かをする相手…それは家族に近い存在に違いないと思ったんです」

 

 ふうん、と、神山はその言葉に唸る。

 

 新山はさらに続けた。

 

「手紙の内容にも注目しました。最初の手紙は非常に情熱的でしたが、日を追うごとにその線が弱くなり、最終的には印刷された手紙に変わりました。筆跡が乱れることなく、力を込めて書かれていたあの手紙が、徐々に弱くなっていったのは、手紙の主が体調を崩していたのが理由ではないかと」

 

 久美子はその説明に「なるほど」と、深く頷き、更に問う。

 

「女の服を送っていたのも? 私にはどうしても恋愛関係に思えたけど、あなたは違ったと」

 

 新山はうなずきながら、少し笑う。

 

「はい。社長は少女趣味ではありませんし、自分より一回り以上下の女性には興味がないと良く仰っていましたから」

 

 その言葉に神山は頭を垂れるが、久美子が少し腕を組んだまま、視線を新山に向ける。

 

「それで、あなたはそれだけの情報で『神山に隠し子がいる』と思ったということ?」

 

 久美子が問いかける声は、やや冷静さを保ちつつも、どこか挑戦的な響きを含んでいた。

新山はその問いに少し間を置いてから、静かに頷く。

 

「はい。駆け落ちでなければ、そうじゃないかと考えました。」

 

 久美子は一瞬、新山の目をじっと見つめた後、少し笑ったような表情を浮かべる。

 

「単純に不倫していた若い女が腎臓病になったとも考えられるじゃないの?」

 

 新山はその問いに答えつつ、少し考え込むようにしてから言葉を続ける。

 

「それは確かに考えましたが、社長のご家族にも腎臓病の方がいらっしゃると聞いていたので…。遺伝したのではないか、という可能性が浮かびました。」

 

 その言葉を聞いて、神山は深いため息をつく。何かを覚悟したような表情を浮かべ、しばらく黙っていたが、やがて静かに口を開く。

 

「そうだ。」

 

 その言葉には、重みがあった。

 

 神山はもう、隠し通すつもりがないことがその言葉に込められていた。新山と久美子の問いが、もう明らかにした事実へと導いていた。

 

「新山くんの言う通りだよ」

 

 あの日、病院に駆け込んだ久美子が目にしたのは、ベッドのそばに座る神山と、ベッドのに横たわる一人の少女であった。

 

「何年か前に遊んだ女の子供でね」と、彼は続ける。

 

「突然連絡が取れなくなったから何事かとは思っていたんだが、まさか子供ができていたとは知らなかった」

 

 それは久美子からすれば激昂することも許される言葉であったが、彼女も神山の女遊びを知っている身である、すでにそこは通り過ぎていた。

 

「一年ほど前に、彼女……瑞稀から連絡があった。母親が亡くなる前に父親が私であることを教えてくれたこと、唯一の肉親である私に会いたいこと」

「その手紙は、肌見放さず持っていたわけですか」

 

 新山の指摘は、久美子が瑞稀が神山の子供であるという直接的な文面のある手紙を見つけることができなかった理由はそれ以外にない。

 

「そのとおりだ、女遊びならともかく、これを久美子に知られたらとんでもないことになる」

「もう知ってますけどね。十何歳の女の子に罪があるわけじゃないでしょう」

 

 その一言に、部屋に少しだけ重たい沈黙が広がった。神山は肩をすくめるように、少し笑みを浮かべた。まるで全てを話し終えた後の安堵感と、それを受け入れた久美子への複雑な感情を含んだ表情だった。

 

「半年ほどしてから、瑞稀が調子を崩した。最初は大した事ないだろうと考えていたんだが……腎臓病だと聞いて血の気が引く思いがしたよ。それは、明らかに私の血が原因だろうからな」

 

 彼は深い深い溜め息をついて続ける。

 

「病院を紹介し、できる限り会いに行った。私だけが唯一の肉親だし、もうさみしい思いをさせたくなかったからな……服も……あまり気に入られなかったが、何を渡せば良いのかわからなかったからな」

 

 新山は一度、神山と久美子を交互に見つめてから、静かに問いかけた。

 

「それで、今後はどうされるおつもりですか?」

 

 

 その質問に、神山は少し考え込む様子を見せた後、静かに口を開く。

 

「腎臓移植を考えている。」

 

 その言葉に、久美子の眉がわずかに動いたが、すぐに表情を戻して神山を見守った。神山は続けて言った。

 

「幸い、私の腎臓は強いんだ。だから、自分のものを提供しようと思っている」

 

 その言葉に新山は少し驚き、そして神山の決意に感心したように頷いた。

 

「それと、久美子、すべてのことはお前に委ねるよ。今後、どうするかはお前次第だ。」

 

 久美子はその言葉を受け、しばらく黙っていた。腕を組み、神山をじっと見つめるその目には、厳しさと冷静さが混じっていた。

 

「そんな大事なことを黙っていたことは許せない」

 

 久美子の声には、怒りや不満がにじんでいたが、それでもその後の言葉にはどこか温かさが含まれていた。

 

「でも、あなたの女遊びに関しては、十分に理解して結婚したつもり。だから、今更どうこう言うつもりはないわ」

 

 その言葉に、神山は少し安心したような表情を浮かべた。久美子は続けて言った。

 

「瑞稀に対しても、彼女に罪があるわけじゃない。話してみたら、良い子だったわ」

 

 久美子は一瞬、遠くを見つめるような目をし、しばらく黙っていた。

 

「だから、あんたもこれからは彼女にちゃんと向き合ってあげて。自分の親だし、あんたを一番頼りにしているんでしょ?」

 

 その言葉には、神山への少しの厳しさが込められていたが、それでも優しさが滲み出ていた。

 

 神山は深く息をつきながら、改めて久美子に謝意を示すように言った。

 

「ありがとう。お前がいるから、何とかやっていける」

 

 久美子はその言葉に、少しだけ微笑みを浮かべ、しっかりと頷いた。

 

「私はあなたがどうなろうと、ずっとそばにいるわ。でも、もう少し正直に言ってくれたら良かったのに」

 

 久美子は淡々とした口調で言ったが、その目にはどこか温かい光が宿っていた。

 しばらく沈黙があったが、やがて久美子が口を開く。

 

「本当にありがとう。あなたのおかげで、いろいろと見えてきたわ。どうか、これからどんなお礼でもさせて」

 

 久美子は深く頭を下げる。神山もその様子を見守りながら、わずかにうなずいた。

 新山はその言葉を軽く受け流し、すぐに笑顔を浮かべる。

 

「そんな必要はありませんよ。私はただ、少しお手伝いをしただけですから。」

 

 

 そう言って立ち上がると、カバンから何かを取り出し、神山に向かって差し出した。

 

「ところで、社長にはちょっと気になるものがあって」

 

 神山が不思議そうにそれを受け取ると、ノンアルコールビールのパンフレットだった。新山は少し照れくさそうに、けれども真剣な表情で続けた。

 

「腎臓の調子を気にされているようなので、こちらのノンアルコールビールを試してみるのもいいかと…」

 

 神山はパンフレットを感慨深そうに眺める。

 

「はは、ノンアルコールビールか。まさか、新山君がそんな勧め方をするとは思わなかったよ」

 

 新山はにっこりと笑いながら、肩をすくめて答えた。

 

「いや、健康には気をつけないといけませんから。これからも、社長には健康を第一に考えていただきたいと思います」

 

 久美子はそのやり取りに思わず笑みを浮かべた。少し緊張していた空気が、ようやく和らいだ。

 

「まあ、これも一つの良い提案ね」

 

 久美子は皮肉混じりに言いながらも、その目には新山への感謝と、どこか楽しい気持ちが込められていた。

 神山はパンフレットを手に取ると、もう一度新山に向かって深く礼をする。

 

「ありがとう。さすが、新山君、気が利くな。」

 

 新山はその言葉に満足そうに微笑みながら、軽く頭を下げた。

 

「それでは、これからも健全なお付き合いを。」

 

 その言葉に、久美子も神山も同時に頷き、空気が少しずつ和んでいった。

 笑い声が部屋の中に響き渡ると、三人は再び和やかな雰囲気の中、次に進むべき未来へと歩き出していた。




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