エデン条約3章終わり~こんな一幕が先生との間にあってもいいんじゃないかと思って書きました。ヒナ視点。
しんと静けさのこもる執務室。ぺら、とめくった書類に夕日がチラつき目を細めつつ、ペンを片手に目を凝らして読み進めていく。
「『風紀委員会における予算の正当性』。これは……これ”も”万魔殿のヤツらね。はぁ……」
げんなりしながらも一応は最後まで目を通すものの、始終風紀委員会への文句で占められているのを見て屑籠に放る。随分ぞんざいな扱いだと自分でも思うが、目の前の執務机に分類分けも碌になく山と積まれた書類を処理し始めて二つに一つはこんな調子なのだからこうもなる。
とは言えこれもゲヘナの風紀を守る風紀委員長として必要な仕事、と気を引き締め次の書類に取り掛かる。
「これは……」
次に取った書類の書式には憶えがある。S.C.H.A.L.E――シャーレの、”先生”の書類だ。内容は特に何ということもない、ゲヘナ自治区におけるシャーレの活動報告書のようなもので、しかしその筆跡に指を這わせ先生を想う。
……先生。キヴォトスでは珍しい大人の人で、私を気遣ってくれて、とても頼りになる、落ち着けるひと。……少し、変なところがある人ではあるけれど。
「……ふふ」
胸が暖かな気持ちになる。……そういえば明日はシャーレと共同で外回りの巡回をする予定だったと、そのことを想ってらしくもなく頬を緩める。
巡回は明日の昼から。それまでにこの書類の山を片付けなければならない事を思えば、こんなことをしている暇はない。
「……うん、頑張らないと」
シャーレの報告書を執務机の引き出しに丁寧に仕舞って、再びペンを取る。気合を入れ直すつもりで、しかしどうしようもなくかすかに頬は緩んだまま。
「――機嫌がよさそうだね、ヒナ。何かいいことでもあった?」
「うん、先生がね……?」
……うん?返事をしてからおかしいと気付く。執務室には今私しかいないはずで……そこまで考えて顔を上げる。そこには背中側から覗き込むようにこちらを見る、先ほどまで頭の中で思い浮かべていた先生の顔があった。近すぎる距離に思わず頬が熱くなる。
「せ、先生!? い、いつからそこに!? それにどうして……」
「ゲヘナに少し用事があって、近くに来たからヒナちゃんに会いに来たよ! 仕事に集中してるみたいだったから、邪魔しちゃ悪いかなと思って」
「ま、また先生はそう言う事を……」
先生が私以上に多忙な事は知っている。私は屈託のない笑顔と言葉を前に、ついででも先生が私を気にかけてくれたことに『嬉しい』と思いつつも目を逸らしてしまう。こういうところがかわいくないって分かっているのに……。
「それにしてもいつ見てもすごい量だね、ヒナがすっぽり覆われてて気付かなかったよ。他に手伝ってくれる風紀委員の子はいないの?」
「……その、これぐらい、いつものことだから。他の子たちは皆外回りに出てる。他の風紀委員が対処できない問題が起きた時の為にも私はここに詰めておいた方が効率的」
先生が指さす書類の山に端的に答える。その間も先生は屈んだままで顔がとても近い。夕焼けがかる先生の顔に、気まずいような恥ずかしいような不思議な気持ちに堪えられず大きく音を立てながら席を立つ。
「せ、先生、えっと……ちょっと待ってて。今、コーヒーでも――」
――コンコン、ガチャ。
「――失礼します! 風紀委員長! 本校舎の第二食堂で爆発が!」
腕を背中で組みながら現れたのは校内を見回っている風紀委員の一人だ。その内容からして……美食研究会、だろうか。先生も同じ考えに至ったのか、苦笑、といった感じ。
美食研究会もあれで中々厄介な連中だ。風紀委員会の追跡を逃れたことも一度や二度ではなく、面倒なことに確かに一介の風紀委員の手に負える案件ではなさそうだ。
徐に先生は懐からタブレットを取り出す。
「私も手伝うよ」
「……先生。……ううん、これぐらいなら私一人で十分。これぐらいのことで先生に迷惑かけたくないし……先生には申し訳ないけど、私に用事があるならしばらく待っててもらうか、それとも明日にでも……」
「……そう、無理してない? なら、私はここで待ってるよ」
「……ごめん。ありがとう、先生。私が戻ってくるまでこの部屋にあるものなら何でも使ってくれて構わないから」
先生の気遣いを嬉しく思いつつも、いつも忙しくしている先生をゲヘナのいざこざに巻き込みたくなかった。私一人で対処できる範囲の事であれば猶更。
椅子に掛けていたジャケットを羽織り、黒手袋に手を通し、執務机に立てかけてある私の銃『終幕:デストロイヤー』を手に取れば準備は完了した。
「報告ご苦労様……そう言えば、そろそろ交代の時間ね。もう遅いし、あなたはこのまま休んでいいわ」
「ハッ! 失礼いたします! 委員長、ご武運を!」
「お疲れ様……ヒナも気を付けてね」
「うん。――すぐに終わらせるから」
横からの明朗な声と背後からかけられる優しい声に一瞬だけ頬を緩め、すぐに気を引き締める。先生がいる時に風紀を乱すなんて――覚悟してもらわなければ。
「……随分遅くなった……」
眉間に寄った皺を揉みこみつつも足は止めない。外はもう真っ暗で人気も疎ら、腕時計を見れば執務室を出てから2時間程が経過していた。
……別に美食研究会に手こずったわけではない。美食研究会を捕縛した後、行く先々で暴動、抗争が起きていてその対処をしていたのだ。ひっきょう身体一つではできることは限られる。そのための組織としての風紀委員会なのだが……今日に限って言えば明日のシャーレとの共同巡回に備えて外回りが多く、交代の時間が重なったのも大きかった。
いつもの事とは言えなにもこんな時じゃなくても……。先生を待たせていると、そう思いつつも目の前の不法行為を見過ごすわけにもいかず都度制圧する内にこれだけの時間になってしまった。……今後は要員の交代についても改善していく必要があるかもしれない。
取り留めもないことを思い浮かべながら、横から月明りのみが照らす廊下を歩く。急いてしまう気持ちはあるものの、私は誰にいつ見られているかわからない身。『風紀委員長が急いで先生に会いに行く』ところを見られるのは先生にとってよくない、と判断した上での選択とは言え、もどかしい気持ちが募って何か考えていたかった。
いつもより長く感じる廊下を歩き終え、執務室の前で息を吐く。ドアをノックしてそのまま中へ入った。
「――先生、ごめん、遅くなった……先生?」
すぐに気付いた。執務室に明かりは点いているのに人の気配がない。待ちくたびれて帰ってしまったのだろうかと一瞬思うも、すぐに否定する。先生なら私に連絡もなしに帰ったりはしない、先生は確かに『待ってる』と言ったのだから。だとすると――!?
最悪の予想に血の気が引いた。即座に身を翻し考える。
――先生が浚われた? 誰に? 万魔殿? まさか風紀委員の部室にわざわざ? それとも……いや、その前に他に連絡が取れる風紀委員は――
そこまで考えてから携帯を取り出し、自らも先生の行方を探るために――
「あ、ヒナ。帰ってたんだね、お疲れ様」
「――っ!?」
執務室の扉を抜けた所で目の前に現れた姿に言葉を失い、意味もなく携帯を後ろ手に隠す。
「コレ、買ってきたんだけど飲む? がんばったご褒美……と言うにはちょっと安すぎるけど」
にへら、といつもの気の抜けた調子で「いや、部屋にサイフォンとかはあったんだけど使い方が分からなくて……」なんて缶コーヒーを差し出しながら頭を掻く先生に、安堵に気が抜けそうになると同時に、心臓はまだ落ち着かなくて、何を言えばいいのか分からなくなる。
「でも安心して! お茶請けの方はちゃんとしたのを用意してきたからね!」
いつもの先生だ。外傷も見られず、調子が悪そうにも見えない。ちょっとふざけたような口調で話す言葉は、どこまでも日常を感じさせるそれで。
「……ヒナ?」
放心してただ立ち尽くす私を心配したように、先生は私の名前を呼ぶ。
「っ……な、なんでも……なんでも、ないの……ただ、そう。私が、考えすぎただけ」
先生に心配をかけたくない。その一心でやっと言葉を紡ぐ。同時に奇しくもそれは今の状況の正鵠を射ているように思えた。
そう、だからこれは私が考えすぎてしまっただけ。ただ先生に何かあったかもしれないと思っただけで、私はその恐れに支配されて……風紀委員長として恥ずべき視野狭窄。そんな考え、大袈裟だと、先生もきっとそう思う筈。
先生が今どんな表情をしているのか。今はその眼を見るのが怖くて、私は視線を逸らす。
逸らした先の窓にはひどく顔を強張らせた私が居て――
「なんでもなくないよ。全部は分からないけど……きっと、私を心配してくれたんだよね?」
「ぁ……?」
頭の上に感触があった。暖かくて、私より大きい、大人の手。はっと見た正面には膝をついて真剣な顔をしている先生の顔が目の前にあって、どきりとする。
「……生徒を心配させる先生でごめんね。でも、いつもありがとう、ヒナ」
「先、生……」
無性に満たされる感覚があった。先生は嗤うでもなく、下に見るでもなく、真剣に私の心に向き合ってくれていた。
……先生のそういう所が好きで、少しだけ嫌いだった。この人の前では私も生徒の、子供の一人でしかないのだと、そう無力さを実感するから。
「遅くまで頑張ったね、ヒナ。とりあえず、休憩がてらコーヒーでもどう?」
「……うん」
でも、頭を優しく撫ぜるこの手の暖かさには抗いたくなくて、笑顔で柔らかく私の名前を呼ぶ先生に任せ、小さく頷く。
先生の瞳に揺らいで映る私はぎこちなくも、それこそ幼子のように安心した笑みを浮かべていた。
応接スペースで低いテーブルを挟んでソファに腰掛ける。静かで、しかし決して嫌ではない穏やかな空気。
「ふふ」
目の前には学校の自販機で売られている缶コーヒーと綺麗に整ったショートケーキがあって、そのアンバランスさに声が漏れた。
「あー……その、こう見ると確かにちょっと絵面が……。甘味と一緒にカフェインを取れるといいと思ったんだけど……」
「ううん。先生が私を想ってしてくれたことだから、嬉しい。……それにしても、先生でも知らないことがあるなんて」
「お恥ずかしい限りで……。サイフォンで淹れられたら恰好もついたんだけどね」
「……なら、今度教えてあげる。そんなに難しくないから」
他愛のない会話。ショートケーキと嚥下するにはなんだか甘すぎて、缶コーヒーに口を付ける。雑な苦みが寧ろ現実感を取り戻してくれる気がして、丁度良かった。
「そう言えば、先生は忙しいはずなのに……待たせてしまったのは私だけど、こんなにゆっくりしていて大丈夫?」
「気にしなくて大丈夫。今日はヒナに会うために時間を空けてきたからね」
「『私に会いに来た』って、からかってたんじゃなかったんだ……」
「――当然だよ。”先生として”、頑張っている生徒は目一杯労って、褒めてあげなきゃ」
胸を張って、至極真面目に言う先生に僅かに目を見開く。……覚えてくれていた。その事を知るだけでこんなにも心が暖かくなってしまう。私が好きな穏やかで優しい、先生のカオ。……なのに。
「……えっと……そ、それなら、その……いつも私のに、匂い……を嗅いだり、変な事をしてからかうのも先生として、なの……?」
頼りなく口をついて出た言葉に自分でも驚く。何を思ってそんなことを口にしてしまったのか。
先生は驚いたように目を丸くしていて、それを認識した途端、顔が熱くなるのが分かった。こんな聞き方、まるで私が先生に『先生と生徒』以上の関係を求めているみたいで――
「――ち、違うの! 先生、その……今のは、そうじゃなくてっ」
「当然、ヒナちゃんがかわいいからだよね……。ああ、癒される……」
「っ……か、かわいい……って、先生は、またそうやってっ」
顔の熱さが引かない。先生は達観したような表情で生温かく私を見つめて、缶コーヒーに口を付ける。
「も、もう! 休憩はおしまい! 明日の為にも書類を片付けないといけないの!」
堪えられなくなって、視線から逃れるように席を立って執務机に触れる。……先生と居ると、いつも調子を狂わされてしまう。別に嫌、と言う訳ではないのだけど……。
いつもは煩わしく思う書類仕事も今の顔の熱を冷ますには丁度いいかもしれないと、机上に目を向ければ今の今まで気付かなかった『整然と整理された』書類。各束には『万魔殿』、『予算』、『活動報告』などと題された付箋が付随していて、明らかに私が席を外すまでは無かった筈のもの。……先生の字。短く息を飲み、先生に振り向く。
「……先生。もしかして、先生がこれを……?」
「ああ、えっと、さっきまでちょっと時間があったからね。分類分けくらいだけど……ここにあるものなら触っていいって聞いたから」
「それにしても、万魔殿の書類がその、何ていうか……多いよね」なんてちょっと疲れた顔で苦笑する先生に、少しでも同じ気持ちを共有できたような気がして。私を知って貰えているように思えて。
「それよりも、手伝うよ。私の休憩にも付き合ってもらっちゃったしね」
そしてその気遣いを、先生は誇りもしない。未だ子供である私は、こうしてきっと知らない部分でも先生に支えられている。
「……ありがとう、先生。これだけじゃなくて、色々と」
甘えていたい気持ちと、もどかしい気持ちが同居して、目を伏せる。私が頼るだけじゃなくて、先生にもっと私を頼って欲しいと思っているのに。これ以上先生の重荷にはなりたくないのに。
「――いつもヒナには助けられているから、お互い様だよ。寧ろ、私の方がありがとうと伝えたいんだ」
どうするべきなのか分からない私の心を見透かすように、先生は私に理由をくれる。私が子供でいられる、大人の理由を。
……意地を張るのも、今更のようで、子供っぽい気がした。
「先生……えっと……それなら、これを頼んでもいい?」
私も先生のようにいつかは、でも、今暫くは――
……その後は、先生に仕事を手伝ってもらって、夜が深くなる前にシャーレのオフィスまで先生を送り届けて。
去り際に「明日を楽しみにしている」と言う先生に、困ったひとと思いつつも私も頷き返して。
そんな特別な日常が、私にとってかけがえのない大きな幸いだった。
閲覧いただきありがとうございます。
最後の“幸い”を誤字として報告頂くことが多いのですが、“さいわい”と言う読みで考えているので、そこについての誤字報告は不要となります。
誤字報告自体はありがたいことですので、どうかご理解の程、よろしくお願いします。