ヴェネツィアの水路は複雑怪奇である。
町中に張り巡らされた狭い水路は、場所によってゴンドラがすれ違うこともできないほどでであった。あるいは小さな歩行者用の橋がかかっていたり、そこから柵が下りていてゴンドラの道を塞いでいたりする。ともかく、ヴェネツィアという街は徒歩で移動するにも船で移動するにも非常に入り組んでいて、外部の人間には不親切な設計なのである。そんな街にも当然魔法族は存在していて、彼らは一見行き止まりのような場所に入り口を設けることで非魔法族と共存していた。
一行はアパートメントを修理した後、魔法族の足として貸し出される水棲の魔法生物──セイレーンにボートを引いてもらい、水路を移動した。セイレーンは水中に棲家を持つ魔法生物で、美しい髪を生やした
ホグワーツの湖に生息している
ゴンドラに取り付けられた紐を体のハーネスに結びつけている金髪のセイレーンが歌いながら船を引く。セイレーンに限らず、水中人は歌うことが好きである。彼らの歌は微弱な魔法力を帯びているため、魔法耐性の低いものにとっては十分にそれが作用する。ヴェネツィアの魔法省に正式な形で雇用されているセイレーンたちは皆この特性を利用して認識阻害を行いつつ、魔法族の足として働いているのだ。彼らは労働の対価として安全な住処と十分な食事を与えられている。
魔法省と魔法生物が共存する街、それが魔法界上でのヴェネツィアの立ち位置であった。
右へ左へと複雑な道のりを曲がっていく。ようやく菊がセイレーンに停止を呼びかけた頃には、ロックハートはすでに元きた道も覚えていない程であった。菊は水路の途中にある一軒の家の前で立ち止まった。
家の下には蔦を形取った鉄格子の取り付けられた水路が奥へと続いている。菊はそこを指差しながら振り返った。
「ここだ」
「ここって……行き止まりだぞ?」
ロックハートが怪訝な顔で見つめ返す。菊はロックハートの世間知らずぶりを鼻で笑うと、セイレーンに「この先へ」と声をかけた。
それを聞いてゆっくりと進路を壁に向けた水中人に慌てた様子のロックハートが船の座席で飛び上がった。
「壁! 壁だぞ?! 何考えてるんだ!」
「騒がしいやつだ……ほら、ちゃんと捕まっていないと落ちるぞ」
非難を物ともせず、菊は忠告まで返してひたと前を見据えた。
セイレーンがとぷ、と静かに水路に沈む。その瞬間、ゴンドラは水飛沫を上げながら猛烈な勢いで壁へ進んだ。
「うわっ」とロックハートが顔を腕で覆うように身構える。しかし、彼の耳に飛び込んできたのは鈍い衝突音ではなく、喧騒であった。
思わず目を開けた彼の視界に飛び込んできたのは、巨大な水路とその脇に連なる鮮やかな露店、そして怪しげな格好をした魔法族の姿であった。色とりどりの髪を靡かせてセイレーンたちがボートを引き、上に乗る魔法族たちはその大半が豪華なマスクを顔に装着している。露店では洋服から魔法薬の材料、果ては魔法生物の売買まで行われていた。
煉瓦造りの屋根に囲まれたその通りは若干の薄暗さはあれどイギリス魔法界のダイアゴン横丁と同等かそれ以上の活気に満ちていた。
「こ、ここは……」
「ヴェネツィアのメインストリート。ヴェネツィアの魔法族の心臓とも言える商店街だ。曰く、なんでも揃うらしい」
「らしい?」
「ああ、アパートメント入り口に観光冊子が置いてあってだな」
「なるほど……」
ふたりはゴシックな雰囲気の街に圧倒されつつも、船を進めていく。
物珍しいものを見つけるたびにロックハートが「ワオ、見てくれ……あの黄金の首飾り……僕にぴったりだと思わないかい?」「キクゥ! 見てくれ、あの帽子が欲しい! あの羽飾り、きっと素晴らしい品に違いない!」などと騒ぎ立てるのだが、菊はその一切を無視してセイレーンにある角で曲がるように指示を出した。
一つ通りを抜けるだけで場の印象は大きく変わった。大きな一本水路は露店が出ているのみだったが、角を曲がると建物が壁のように聳え立っている。もともと薄暗かったが、人気がなくなったことで本来の不気味さを感じるような嫌な静寂が辺りを支配していた。
そんな道に怯えて露骨に口数が減ったロックハートにしめしめと思いつつ、菊は曲がってから五軒目にある煉瓦造りの家の前で止まるように合図した。徐々に減速し、支持した場所できっかり停止した船は、いかにもヴェネツィアといった風体の家の前で緩やかな波に揺られている。家は細く縦長な建物であった。赤茶色の煉瓦屋根は他と同様だが、露呈した基礎に水草の跡がついた壁は年代を感じさせる。側面には小さな水車が回っており、家の中での何かしらの動力になっているだろうことが窺えた。
菊は家の側面に設置された小さな船着場に船を寄せると、縄を支柱にくくりつけた。高さ一メートル少しはあるだろうか。存外高いそれに「水でも抜いたのか?」と思いながら、床板をノックした。
コンコンと湿った板と骨がぶつかり合う少し鈍い音が静かな通りに響く。ロックハートは思わず生唾を飲んだ。一拍、二拍と空いて、唐突に煉瓦が左右に捲れ、内側から木製の板が二枚に現れた。
少々不恰好に船着場へ這い上がったロックハートは、ぴっちりと締められた
「ファッ?!」
ぶつかる直前にかき消えた
「なんだ、キミもきたのか」
「……ツレか」
果たして、そこにいたのは普段と変わらぬ様子の菊と一人の小柄な老人であった。
アジア系の顔立ちをした白髪頭の気難しそうな老人は歯車のついた椅子──車いすに座っていた。ロックハートは持ち前の絶妙に空気読めなさを発揮して老人にずいっと近づくと、両手を握り込むと激しく上下に振って挨拶をした。
「おお! 貴方が我が相棒の腕を直してくれたという職人ですね! いやあ、噂はかねがね! ……あ、私のサインも要りますよね! 最近本を出版しましてね、当然知っているとは思いますが……そうだ、サイン入りの本をプレゼントするとしましょう! なあに、遠慮はいりませんとも!」
ロックハートの猛烈な勢いに気押されたように老人は本を受け取る。
苔色の豪華な装丁をした大きな本だ。
中央にはニッカリと笑みを浮かべて決めているロックハートが──一周回ってダサいような姿で──写真の中を動き回っていて、その上に装飾文字で『Break with Banshee』(バンシーとの決別)と刻印されている。
老人は眉間の皺をより深くしながら、腕の中の本を作業台の隅へ放った。
「ああ、知っているとも。ロックハートくん。なんでも、自信過剰の自惚れ屋で、
口を開けば棘ばかり飛んでくる。ロックハートは咄嗟に阿呆の顔をして老人が言った内容を忘れ去ろうとした。彼お得意の忘却術はセルフでも有効らしい。老人は本をぞんざいに押しのけると、テーブルの下の引き出しを開けて麻布に包まれた物体を机の上に置いた。
「義腕の件だが、直せるところは直しておいた。ただ、手のひらに格納されていた仕掛けがどうも理解できなくてな……」
「普通の動作ができれば構わないさ」
「それについては保証しよう。あとは、そうだな……ベネチアに伝わる
菊はビームを失った代わりに魔法薬を得た。
老人は元来義腕に備わっている魔法力伝達に伴う擬似的神経伝達と、指先という小さな空間を利用した物質格納を両立させたということだ。これはビームを打てるようになるのとは別のベクトルで超絶的な技巧である。
老人は指を立てるとじっとりとした声色で滔々と語り始めた。
「いいか、中指に幸運薬、人差し指に暗殺用の遅効性の毒薬、親指にその解毒薬が入っている。ここぞという時に使うといい」
「ああ、感謝します」
菊は埃除けの布を剥がすと、義腕を肩に装着した。広がっていく感覚と可動域に、そっとつなげたばかりの手を握り込んでは開いてを数度繰り返した。前回は強引に、半ば引きちぎるような形でもいだため、接続するための神経回路がぐちゃぐちゃだと旅の途中で出会った闇癒者に怒られたことを思い出す。
元はと言えばロックハートの依頼のせいだ、と不意に湧き上がってきた苛立ちをポケッとした顔で突っ立ていたロックハートの脇腹をつねることで発散する。「いで、イデデデデ!! なにを?!」と騒ぐロックハートを尻目に、老人に対して一礼をした。
「急な訪問だったのにも関わらず、完璧に近い状態まで直してくれたこと、感謝します」
「いや、気にせんでくれ。──実家関係で何かあれば、この毒でイチコロだからな」
「──。……はい、有り難く」
老人の声色は心配する響きを伴って菊の心を打った。
老人は今でこそ歩けないが、かつては武闘派として名が知れていた。世界中の戦場を腕一本で渡り歩いていたという話は、幼い時分の菊がお気に入りの話だ。老人はその足を失って以降、日本へ戻ると高度な魔法道具技術を会得するために齢50過ぎにして職人に弟子入りをした。師として老人を導いた職人は菊の実家お抱えの職人であったため、彼我に深い縁が生まれたのだ。その後老人はヴェネツィア出身の老婦人と恋に落ち、居を移した。
老人とはそれっきり、なんのやりとりもしていなかった。
もう、あの頃の幼い自分ではないというのに。深くなった目元の皺に流れた年月を感じた。だが、老人の手のひらはあの頃のまま。分厚く、ゴツゴツとしていて、それでいて
菊は老人の皺々とした手を握り込むと額にそっと当てた。
「貴方は変わりませんね」
「歳をとると人は簡単には変わらんものよ」
「……正直、覚えてくださっているとは思いませんでした」
「忘れるものか、あの寂しがりがこんなに立派になるとは思わなんだ」
老人は不器用に眦を下げた。そして菊の肩を軽く叩くと、顔を上げてロックハートを睨め付けた。
つねられた腹の贅肉を必死にさすりながら訳のわからぬ異国語の会話を聞き流していたロックハートは、鋭い老人の眼光に菊とどこかに通った部分を感じて背を振るわせる。
「で、この男はなんだ? まさか菊の──」
「「それはあり得ません」」
ふたりの否定は綺麗に揃っていた。
「こんな男を選ぶぐらいなら」
「そうです! いや、そういう意味じゃないんだが……アー、その、私とキクの関係は一言で言うと、依頼人と請負人です。やましいことなんて、考えるだけでも恐ろしい……!!」
「それはそれで失礼だぞ」
ロックハートは菊の方を向かないように体ごとそっぽ向きながら、老人に尋ねた。
「実は私、次回作の取材にこの地を訪れたのですがね……何かご存知ないですか? グールの群れについて」
老人は、菊の肩を触診しながら片眉をぴくりとあげた。
「……グールについて心当たりはないが、イングランドの東北部にあるダラム郡という街であれば、何かわかるやもしれん。ワシの知り合いで情報屋をやっているゴブリンがその街を根城にしている。ワシの名を出せばすぐ情報を教えてくれるだろう」
「イングランド……イングランドか。キクゥ! 早速行くぞ!」
ヴェネツィアからイングランドまではいくつかのポートキーを経由していくか、マグルの移動手段を利用する必要があった。ロックハートは脳内でいくつかのポートキー業者を思い浮かべながら出口へと向かう。生憎、彼が知り得る業者はどいつもこいつもがめつい拝金主義者であり、散々金を毟られた思い出しかないのだが。
ロックハートは一度老人を振り返ると、白い歯を見せてハンサムにはにかんで見せた。
「ありがとうご老人!」
「佐々木でいい。ロックハートくん……菊を頼んだ」
ロックハートは隙のない菊の新たな側面を見たようで、どこか浮ついた声色で「任せてくれ、ササキ!」と叫んだ。
若草色の背中を見つめていた老人──佐々木は背後から菊の不満に満ちた、どこか不貞腐れたような声を浴びた。
「どちらかというと私があいつを助けているんだがな……」
「はは、頼ると言うのは何も力に限らぬよ。ワシから見て、彼はすでに君の”心”を支えているようだったからな」
「……分かりかねます」
隣に並んだ菊の黒髪が頭頂部で緩く揺れる。子供のような拗ねた表情を浮かべる菊は佐々木にとってとても見慣れた姿。幼かった時と変わらないものであった。
菊の言葉に佐々木が返答しようと口を開いた瞬間、水に大きなものが落ちる音が部屋の中に響いた。それに伴うように「うわああああ!!! 冷たい!!!」と男の悲鳴とセイレーンがマーミッシュ語で怒りの感情を伴った言葉が上がる。菊はため息を吐くと佐々木を振り返りもせずに家の外へと駆けていった。
船着場の縁で踏ん張り、ロックハートに手を差し伸べる姿に、佐々木は脳裏に自らが参加した戦争での思い出を淡く思い浮かべた。
「……救いのない戦いにおいて、底抜けに明るい愉快な者は周囲の”
みなさんはヴェネツィアって発音出来ますか?私はできません。ベネチアです。
マープルピーって映画版だとアッ…だけど、設定読むと各地でセイレーンやらマーメイドやらと名前が違うらしいので、姿も少し違うと解釈(ポケモンで言うところのリージョンフォーム)。