ナイフで切り裂けそうな程に濃く重い霧に沈んだ早朝の路地裏。ゴミ袋が散乱した石畳の上で、うだつの上がらない小説家 ギルデロイ・ロックハートは目を覚ました。
浴びるほど飲んだ火酒のせいで重い思考をゆっくりと回しながら、霞む瞳で周囲を見回す。
ここはどこだ?
──スコットランドの田舎町
何のためにここに?
──小説のネタ探しの、その護衛を探しに
自分がここにいる理由を思い起こしていたロックハートは、そこで傍に黒尽くめの小柄な女が剣を抱えて座り込んでいることに気がついた。
「おお、起きたか。ロクハート」
「……んあ?」
「何、まだ寝ぼけているのか? 全くしょうがないやつだ」
「???」
全く、訳がわからなかった。なぜ、こいつがここにいる? なぜ、僕はここにいる? なぜ、なぜ、なぜ──
その時、懐を弄っていた菊が紙切れのようなものを人差し指と中指に挟んでロックハートの前に立った。
ロックハートの煤に塗れた白い頬に影が落ちる。そこでようやく違和感を覚えたのかノロノロと顔を上げた彼は、そこで菊の持つやけに見覚えのある紙に気がついた。
「どれ、日本に伝わる二日酔いの式を使ってやろう」
「ま、待て……それはまさか──!!」
菊がヘンテコな文字の書かれた薄く細長い紙を口に添えると、ロックハートの身体中を激痛が駆け巡り、思わず地面に倒れ込む。一拍置いて全ての痛み・だるさが体から消え去ったロックハートは「これを経験した僕は、きっと磔の呪文も耐えられるだろうね」と頬を石畳につけたまま嫌味を口にした。
英語に堪能でない菊は嫌味を額面通りに受け取りつつ、目では彼の体から吐き出された穢れを目で追いかけた。
「さて、昨夜の話の続きをしようか、ロクハート」
「だから、それは名前じゃないってば……はあ」
「キミ、何を追いかけるためにここまで来たんだ?」
「──バンシー退治だ」
軽い調子で尋ねかけた菊にロックハートは勿体ぶった様子で答えた。
それは、まるでかつて学生だった頃のやりとりを彷彿とさせる仕草だった。
自己愛の塊であるロックハートがまるで舞台俳優のような大げさな立ち振る舞いで語りかけ、日本からの留学生 菊がそれを生真面目に受け取る。
在りし日の彼らが、まさにそこにいた。
深酒の影響で昨晩の記憶が一部欠けている菊は目を丸くしてロックハートの瞳を見つめた。
「何? バンシーとは……妖怪の?」
「魔法生物だ。……ともかく、僕はバンシーをどうにかしてほしいと依頼を受けてここまで来たんだ」
ここからは聞くも涙、語るも涙の感動劇。
それは、ロックハートがいつものようにネタ探し兼散歩に出かけたある晩のことだった。
彼はいつもの散歩ルートから外れ、森の中に迷い込んでしまった。
霧が深くかかったそこを勇ましく歩いていると、ふと開けた場所に出た。そこには小ぶりな家が一軒立っていたそうだ。その家の玄関口には泣き腫らした顔の老婆が星空を見上げて座り込んでいた。
話を聞くと、元々スコットランドに住んでいた一族だったが、ある魔法生物に家を追い出されてしまったそうだ。その後一族は衰退し、今は森の奥でひっそりと暮らすようになった。
これが、今から60年以上前の話になる。
あなたのような親切な人にお願いしたいことがある、もう一度この目で生家を目にしたいのだ、と。
若干ヒステリックなその老婆が子供の頃に起こったその事件の解決を、ロックハートはまんまと押し付けられたという訳だ。
「ふむ……それでロクハートはその妖怪をバンシーと断定し、退治しようというのか」
「そうとも! この僕の叡智により、その家に居着いていたバンシーが原因だと突き止めた! さて、友よ。魔物退治と洒落込もうじゃないか!」
「──あい、わかった」
一行は、スコットランドの郊外にある寂れた農村へと向かった。老婆から聞き出した、彼女の生家がある村だ。人口は数百人程度の小さな村で、かつてはマグルを支配する立場にあったという。農業が盛んに行われたというその村は、今の季節であれば青々と作物が生い茂っているとの話だった。
「これは──」
「ふむ、ボロボロだな」
ようやっとたどり着いたそこにはなにも、なかった。
枯れ果てた大地はひび割れ、木は生気を失い萎びている。不毛の地とはなるほど、こういう土地の事を指すのだろう。そう思わせるほどに村は枯れ果てていた。建物は倒壊し、風化したレンガが家の周りに散乱しているのみである。事前に聞いていた畑どころか、人気すらないその街に驚きを隠せないままロックハートが呟く。
「60年でここまで風化するのか……」
「廃村は初めてか?」
「初めてだが……うう、この村を壊滅させたモンスターの相手は任せたぞ?! しっかり僕を守ってくれよ?」
「……うーむ」
「な、何だその気の抜けた返事は!?」
「いや、ちと気になることがあってな」
菊はロックハートをあしらいながらも、手を刀にかけて警戒しながら進んでいた。そして空き家が数軒連なるメインストリートを抜けたそこに、目的の屋敷は聳え立っていた。
「これは……」
「なんでここだけ綺麗なんだ!?」
屋敷は驚くべきことに、美しい状態を保っていた。
白い石の壁には蔦が伝い、青い屋根は枯れ葉一つ積もっていない。手前の庭も手入れが行き届いており、芝生は青々と、木には色とりどりの花が咲き誇っていた。
今もここに人が住んでいると言われても何ら不思議ではない。そう思わせるほど、屋敷全体から生活感が漂っていた。
二人でその場に立ちすくんでいると、屋敷から一人の女が顔を出した。苔のような色のガウンを被った金髪の美しい女だ。
「もし、どうかなすったの?」
「ああ、うら若きお嬢さん! 僕はギルデロイ・ロックハートと申します。まずは僕と出会えた君の幸運に感謝しよう! それで──」
「黙れロクハート」
「な、何を言うんだキク!」
「静かに」
凸凹コンビ──方や薄汚れた自惚れ男、方や物騒なものを背負ったアジア系の小娘──の軽妙なやりとりに、女はルビーのように燃え盛る瞳を瞬かせた。
ロックハートに対する対応とは一転、菊は女に対し丁寧なお辞儀をした。
「いや、失礼した。私は菊。さる人の依頼でこの地に参った」
「まあ、ご親切にどうもありがとう。私は主人に頼まれてこの屋敷を管理しております、アンジーです」
アンジーと名乗った女は礼儀正しい菊に喜び、上擦った声で二人を屋敷へ招き入れた。
屋敷の中は清潔なものだった。埃ひとつ落ちていない廊下には燭台がいくつも並び、曇りひとつない燭台が頭上で揺らめく炎を写している。それとは対照的に通る廊下には全く手入れがされていないような部屋が多くあり、中には壁が崩壊して外が丸見えになっている部屋もあった。
「寒かったでしょう? 紅茶を用意しますわ」
「お気遣いどうも、レディ!」
「ふふ、どうぞお掛けになってお持ちくださいまし」
廊下の奥の方に一際大きな部屋があった。両開きの部屋を開くと、暖かい空気が頬を撫でた。パチパチと時折爆ぜる暖炉の薪が中央にあり、長テーブルと椅子が何脚か並んでいる。赤い絨毯は年季の入った風ですっかり踏み固められていた。
菊は、屋敷全体からえも知れぬ気味悪さを感じていた。座りが悪いというか、変なのだ。
一度判断を仰ごうと菊は雇い主を盗み見た。
「フフ、上質な椅子に腰掛ける僕。ゆらめく暖炉を眺める僕。フフフ……
──ん? どうした、キク?」
「……なにも」
盗み見て後悔した。我が雇い主は随分とご機嫌な様子で暖炉に一番近い席、いわゆるお誕生日席に腰掛けてふんぞり帰っていたのだ。
なんて鈍い男だ。
菊はこの男のこういうところが好きであり、嫌いでもあった。
深いため息をこぼしてやれやれと首を振る菊の姿に目を白黒させながらも、再び元の姿勢に戻るロックハート。それを尻目に、菊は違和感の糸を慎重に手繰り寄せた。
「お待たせいたしました、お茶ができましたよ」
「おお、レディ、ありがとうございます!」
「どうぞ十分にあったまってくださいまし」
「ご好意に甘えさせていただきます」
扉から入ってきたアンジーは、上等そうな白磁のティーポットを浮かせたまま空のカップを配った。菊は物珍しそうに、ロックハートは懐かしむように琥珀色の水面から立ち上る湯気を見つめていた。菊は両手でカップを持つと、ふうふうと息を吹きかけてから一口すすった。ロックハートは角砂糖をふたつとミルクをたっぷり入れた紅茶を、魔法でかき混ぜてから煽った。
アンジーは肩にかけていた苔色のガウンを膝の上に重ね、自分で淹れた紅茶に角砂糖をひとつ落とした。
「さて、何かを調査するためにこの村にいらしたのよね?」
「──実は、かつてここに暮らしていた魔法使い一族からの依頼なのです」
ニコニコとしていたアンジーの顔が明らかに翳った。
菊は内心「釣れた」と確信を得ながら話を続ける。
「なんでも、かつて暮らしていた地に戻りたいとのことで──」
「──ダメッ!」
悲鳴のような、拒絶の言葉だった。
菊の言葉を遮るように椅子を倒す勢いで立ち上がったアンジーは「まだ……」と俯きながら呟く。菊はゆっくりと目を細めながら言葉を続けた。
「我々はこの地に調査をしに訪れたのですが……」
「まだ……ダメなの……まだ、まだ……」
「まだ? 何がまだなんです?」
菊の言葉になんの反応も返さないアンジーに焦れたロックハートが畳みかけるように声をかけた。
瞬間、アンジーが弾かれたように顔を上げた。
「ああっ! 帰ってちょうだい!」
「帰る? 僕たちがですか? ご冗談を!」
「……違うな、この気配は──!」
芝居がかった大袈裟な身振り手振りで不満を口にするロックハートだったが、アンジーの視線は彼を通り越して窓の外に注がれていた。怯えながら指をパチンと鳴らしたアンジーの姿は空間の捩れと共に音を立てて掻き消えた。
菊は、肌の表面が焼け付くような、強大な魔力を感じ取っていた。火の属性を感じる気配。この気配の持ち主と、彼女は一度合間見えたことがあった。
彼女はすぐさま非力な依頼主を床に倒した。「なにを!」と文句を垂れている鈍感な男に、菊は窓の外を視線で示した。
「──ードラゴン……?」
黄金の、冴え冴えとした瞳孔が、縦に細長く裂けてこちらを覗いていた。窓越しに中を覗くぎょろりとした眼球は、それだけで人間の頭ほどはあった。赤く澄み渡るような赤い鱗は火の粉を放ち、その体躯は屋敷とほぼ同じだけの大きさだ。全体的にがっしりとした体格のそのドラゴンは、近代では滅多に見ない、古の、力ある竜であった。
「目を合わせるな、ロクハート。今は気配を断つ式でこちらが見えていないが、それも目が合うまでだ」
「あ、あああ……き、キク!」
「よしよし、静かにしておれ」
怯えるロックハートを宥めつつ、念の為懐に忍ばせていた札を使い気配を極限まで薄める菊。
一分経ったのか、はたまた一時間か。
部屋の中を舐め回すように目を動かしていたドラゴンは、やがて踵を返して屋敷の庭から飛び去っていった。影が見えなくなるまでその姿を追っていた菊がようやく腰を上げた。ロックハートも漠々と主張する己の心臓に手を当てて息を整える。
「はは……事実は小説よりも奇なり、とはいうが……」
「ド、ドドドドドラゴン!? あんな強大な生き物は他で見たことがないぞ……一体どれほどの年月を生きているんだ……」
「少なくとも、君が今まで飲んできた酒の年齢を全て足しても足りないだろうさ」
「笑えない冗談だな……」
気配が完全に遠ざかったことを確認してから、菊はロックハートに肩を貸して暖炉の前の椅子まで移動させた。顔色が紙のように白いロックハートを見て『魔法力に当てられたか……』と母国語でつぶやく。改めて部屋を見回す。ロックハートを庇った際に落とした紅茶が絨毯に赤黒いシミを作っていた。
菊は目を瞑り気配を手繰り寄せると、屋敷の廊下に向かって温かいコーヒーとミルクを一杯ずつ注文した。
しばらくして、おずおずと顔色を伺うように女が背を丸めながら壁をすり抜けて部屋へ入ってきた。手元には湯気が上がる小花柄のカップが二つ浮かんでいる。アンジーは「ごめんなさいね」と子犬のように濡れた目でつぶやきながら、菊にミルクとコーヒーを手渡した。
菊は「どうも」とだけ言い、ゴツゴツとした指を空中で円を書くように回した。すると、小花柄のカップから浮かんだ黒と白の液体が宙で混ざり合い、簡単にカフェオレを錬成した。等分にカップに戻ったカフェオレ。表面に向けてさらに指を向けると、指先から砂糖がぽろぽろと落ちていった。大さじ二杯ほど注いだところで、菊はロックハートへ青い小花の描かれたカップを手渡す。ロックハートは自分好みの甘いカフェオレに少し元気が戻ったようであった。一口含んでから、砂糖が溶けていなかったのだろう、顔を顰めて指先から指先から小さな火を起こしてカップの下から砂糖を溶かした。
依頼主の頬に血色が戻ったのを見て、菊はアンジーに向き直った。
「さて、ミス・アンジー。何が起こっているのか教えてくださるか」
「……飲み物を飲み終わったら、今日のところはお引き取りください」
アンジーは頑なに口を開こうとしなかったが、菊はすでに彼女の心に触れていた。
菊の故郷 日本では、他人に真名を握られることは死を意味する。彼の国では、真名を知られると彼我に縁がつながる。それを利用すれば、心を垣間見ることなど容易く行えるのだ。この術の恐ろしさは、開心術とは異なり当事者に発動を悟られない点である。自然と記憶を思い起こすような感覚で記憶を見られてしまうため、日本の魔法族は不用意に名を明かさないことが多い。事実、菊も本名を周囲に伝えていない。親しい友であるロックハートにさえ教えていない用心深さは、日本の魔法族ならではのものだろう。
菊は、アンジーの心から流れてくる景色を見た。
かつて、この地には魔法族と非魔法族が入り混じって暮らしていた。この地の統治者はこの屋敷の主である純血の魔法族であった。
ある時、アンジーは魔法族の子息と恋に落ちた。聡明な、美しい碧眼の青年だった。
・
かつての庭は今よりずっと美しかった。
よく手入れのされた芝生は短く刈りそろえられていて、裸足でかけてもちっとも痛くなかったのを覚えているわ。果実のなった木や、小さな花を咲かせる低木は蜘蛛の巣ひとつかかってなかったし、小鳥の家族が仮住まいをしていたの。葡萄棚のトンネルは木漏れ日が煌めいて、彼と私はよくそこを通っていたわ。
「アンジー!」
ああ、彼の声がする。もう、忘れかけてしまった、彼の声。
木の影からそっと伺えば、ハチミツ色の柔らかな髪を振り乱した彼がいた。
「アンジー!」
探しているわ。私のことを、探している。
温かい光を灯していた碧眼に浮かぶのは、焦りと、疑念。
「アンジー!」
でも、ダメよ。もう、“視えて”しまったから。
進行を妨げる魔力の嵐に体が傷ついてもなお、彼は前進をやめない。
「アンジー……」
本当にごめんなさい。
わたし、あなたに傷ついてほしくないの。
わたし、悲しみたくないの。
60年前の夏、村は廃村と化した。