ロックハート英雄譚   作:黒鵜

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真実の愛ぱわー、やー


6,彼の遺したもの

 スコットランドの森は、霧が立ち込める。湿気が多いのと、気温が低いためだ。

 森の中を進む一行は肌にまとわりつく湿気に漠然とした不快感を抱いていた。

 

「ここから星がよく見えるな」

 

 ロックハートの声が木々の合間に吸い込まれていった。都会で飲んだくれていた彼が、最後に素面で星を見たのはもう随分と昔のことだった。

 そう、確か最後に星を見たのはホグワーツ在学中のことだ。選択授業の一つである天文学は教師が耄碌していて楽単だとの噂を聞き選択したのだ。深夜の星観察の時間は、よく菊と二人で組んだものだ。ただ、ロックハートは専らレポートをまとめる担当をしていたので、彼が直に星を眺めることは少なかったが。

 ……それに占星術は決して、断じて楽単科目などではなかった。深夜の講義は天文台で行われるのだが、そこがまあ寒いこと。ロックハートはかじかんで震える手を必死に動かして毎回最低三枚以上の羊皮紙に星座の動きとそこからわかる考察を書いていた。彼は今もなお、楽単と嘯いたグリフィンドール寮の先輩を許していなかった。

 

 閑話休題

 

 濃紺の天蓋が月と星の河によって煌々としていた。

 これも都会では見ることができない絶景だ。

 

「それにしても、今思えば不思議に思うことがあるんだが」

 

 洞窟を出てからずっと、腕を組んで考え込んでいた菊が唐突に言葉を発した。その声に一行の足は止まった。黒々とした大木に囲まれたそこで、菊はぼんやりと月光で淡く輪郭を浮かび上がらせていた。

 

「あの赤毛の青年は、魔法使いだろう? どうして杖ではなく剣で戦っていたんだ? 今は中世ではないぞ」

 

 確かに、菊の幻影で映し出された姿は魔法使いというよりはむしろ騎士に近いものがあった。

 

 まだ魔法使いと非魔法使い(マグル)が共存していた頃、魔法使いは杖だけでなく、剣を用いたという。騎士として爵位を戴いたものも少なくない。かの高名なゴドリック・グリフィンドールも、その肖像画はどこか騎士然としたものだ。その手にはゴブリンが鍛えたという伝説の剣(グリフィンドールの剣)が握られており、甲冑はアダマンタイト製。

 そこからもかつての魔法使いの流行が窺えるだろう。

 

 しかし、それは昔の話だ。現代で杖以外の道具を用いる魔法使いはそう多くないだろう。とりわけ、スコットランド(ここ)では。

 

「……それはおかしいな。魔法使いにとって、杖は重要なものだ。とりわけ田舎の純血ともあればな」

 

 菊の言葉を受け、先頭を意気揚々と歩いていたロックハートも立ち止まる。

 

「田舎の純血は嫁ぎ先が限定されるから、奴らの魔法力は濃密かつ濃厚だ。そう、煮詰めたジャムのようにね!」

 

「御託はいい」

 

「……ンン、話を続けよう。魔法力が高いからか、奴らは大抵の場合一族で一つの杖を受け継いでいく。歴代の所有者の魔法力に晒され続けた杖は、ある時根本から性質が変化する。まるで所有者一族のためだけにある専用の魔法具かのように」

 

「付喪神のようなものか?……であれば、やはり彼が杖を持っていなかったのはおかしい」

 

 疑問が深まるばかりの話し合いはアンジーの小さなくしゃみによって断ち切られた。ロックハートが「Bless you(お大事に)」と手を挙げる。アンジーは腕にかけたままの苔色のケープを肩に羽織った。スコットランドの夜は底冷えする。それに加えて彼らは火山の中で暑さに慣れきっていたのでその寒さも一押しだ。人間の体とは不思議なもので、寒さを認識した途端に身体中が震え始める。一行は足早に森を抜けた。

 

 森を抜けたそこからは黒鉄の柵に覆われた屋敷の裏庭が見えた。粗末な物置小屋と生え放題の蔦が生い茂った壁には合間に扉が見える。アンジーが安堵の息を吐き、思わず柵に駆け寄った。その瞬間、パチンと何かが弾けるような音が村中に響き渡った。菊が瞬時に刀に手をかけて前に出る。

 

「後ろへ!」

 

「一体何なんだ!?」

 

「……何もなさそうですね?」

 

 鷹のように鋭い目で周囲に目を配るが一向に変化が起きない。何の恥じらいもなく女性2人の後ろへ飛び込んだロックハートが菊の後ろから「それにしても、あの音に似ていたな」と顔を出す。

 

「なんの音でしょう?」

 

「プロテゴが割れたときに似た音ですよ。あとはシャボン玉とか?」

 

 その条件に、菊は大きな心当たりがあった。日本では最も尊い技とされ、現代に至るまで日本史上で数度しか実施例がない魔法。大抵は親と子の間に生まれる絆を、想いを起点として行われる。様々な経験を積んできた菊も、たった一度、それが発動した瞬間を見たことがあるだけだ。奇跡(あい)の魔法は、特徴として役目を果たした後に泡が弾けるように消えてしまうことが挙げられるという。菊は実家でその記述を見た。あれはそう、確か歴代の当主が書く日誌の中だったはずだ。それも数代前の当主なので、おそらく最後に日本で確認されたのは数百年単位で昔のことだろう。菊は神妙な顔で手を下ろした。

 

「あ、星が……」

 

 菊に庇われた状態で、アンジーがつぶやいた。彼女の視線は星空に向けられている。つられるかのようにロックハートも視線を向けて「アッ」と驚嘆とも感嘆とも取れるような声を上げた。菊も視線を上げて、そして目を見開く。

 

 紺青の矢空に無数に輝いていた星々が、大きくぼやけて雪のように降ってきた。まるで摩天楼のような光たちはポウポウと淡い光を纏いながら村中に降り注いでいる。菊はそっとふしくれだった手を落ちてきた星に伸ばし、優しく手の中に包み込んだ。瞬間、身体中を幸福感が駆け抜けた。それは電気というには優しく、感情というには激しすぎた。菊は一度強く目をつむり、光を胸に当てる。

 

「まさかこの目でお目にかかれるとは……!」

 

「知っているのか?!」

 

「愛だ、アンジー。あの赤毛の坊やから、君への深い愛だよ」

 

 愛とは、最古の魔法だ。魔法族・非魔法族関係なく万人が抱き得る尊い感情だ。犠牲を伴うこの魔法を成立させるには、死の間際に強い思いを抱く必要がある。

 人は死の間際に、他人のことを思いやることができるだろうか。

 答えは、困難。その一言に尽きる。そもそも極限に近い、危機の迫ったときにのみ発動するのだ。現代ではその条件自体が難しいと言える。

 それ故に、愛は最も尊い魔法なのである。

 それ故に、愛は最も困難な魔法なのである。

 そんな魔法が、アンジーが村に足を踏み入れた瞬間、まるで待っていたかのように消えていく。それが意味することはひとつ。

 

「あ、ぅ……ウソ……!」

 

「嘘ではない。彼の愛が、君ごと村を守っていた。そしてドラゴンの消滅と君の帰還が魔法を終わりに導いている。彼は役目を果たしたんだ」

 

 アンジーの目が星の光でピカリとした。湿った赤い瞳にはみるみるうちに涙が溜まり、まろい白肌は真っ赤に染まっていた。菊は空から溢れる光をひとつ摘んで涙を堪える彼女へそっと飛ばした。

 

「そして、愛の魔法も役目を終わりかけている。キミの手で終わらせてあげるんだ」

 

「終わらせるって……」

 

「キク! いくらなんでもお嬢さんにそんな──」

 

「黙っていろ、これは彼女自身の問題だ」

 

 絶句するアンジーに菊は「キミも魔法に連なる者ならば、知っているだろう?」と無表情のまま言った。ロックハートは再び笑顔を失ったアンジーを庇う。菊はピシャリとロックハートを切り捨てると、アンジーに向かい合った。

 

「魂の一部が村に囚われている。還さねばならない」

 

 菊の言葉に、アンジーはケープを握りしめた。肩を上下させ、周囲を浮かぶ星を見る。強張った表情で、いかにも辛そうに。

 

「──彼の、魂が?」

 

「そうとも。キミの手で、ほら」

 

 人の心が微妙にわからないとロックハートに評される菊は躊躇いなく彼女の背を押す。アンジーはしばらくの間、星の降り注ぐ夜闇の中でぽつねんと立ち尽くしていた。金髪赤眼の美少女は、壮絶な顔色で、星降る夜に覚悟を決めた。

 

 ──愛する人の最後を。

 

 アンジーは指を一つ鳴らす。それだけで良かったはずなのに、体は無意識に動いた。まるで杖を振り上げるような動作をして、そして、その小さな口から思わずといった風に言葉が口から溢れた。

 

 

「……っ、フィニート!!」

 

 

 瓦解する”愛”の中で、三人は天を見上げた。紺青の空を大地から立ち上る黄金の粒子が照らす。その様のなんたる美しいことか。

 

 ロックハートは寒がっていたことも忘れ、空から降り注ぐ星のような光に触れ、大地から湧き出る光を浴びながら心地よさげな顔をした。”愛”の魔法に秘められた温かい感情が彼らの体を包み込む。

 

 アンジーはポタポタと涙をこぼしながら、”愛”の中に佇んでいた。

 彼からの大きな、純粋な想いの奔流が、今ままで村を守ってくれていたのかと。彼の言葉が何度も脳裏をよぎる。

 ああ、彼は本当に、私を愛してくれていたのだと。種族も年齢も超越した愛は本当にあったのだと。顔を手で覆って涙を流す。

 

 ごめんなさい、わたしはどうしてあなたを助けられなかったのでしょうか。あなたの危機に駆けつけられないなんて……あの日、約束したのに、それすらも守れなかった。悔やむ心が矢継ぎ早にアンジーの心を傷つけた。後悔とは、後に悔やむから後悔と呼ぶのだ。

 

 不意に、アンジーの頬を温かいものが覆った。

 

「ほら、泣かないで?」

 

 アンジーが、ロックハートが、菊が目を見開く。

 

 洞窟の中で見たあの青年が、膝をついてアンジーの目尻を親指の腹で優しくなぞっていた。彼の──ミカ・ビータサロの輪郭は黄金の光にぼやけ、この邂逅が胡蝶の夢にすぎない事をまざまざと突きつけてくる。「信じられない、こんなこと……」とロックハートがつぶやいたのが、菊にはやけにはっきりと聞こえた。菊の知る限り、このような光景は見たことがなかった。とうに転生した筈の魂の持ち主が、カケラだけ残ったそれを頼りに現世に干渉するなんて! こんな状況、奇跡の他に言い表せない。

 

 固唾を飲んで見守る二人を背に、アンジーはまっすぐにミカを見つめていた。坊ちゃんの姿、坊ちゃんの声。記憶のぼやけた彼じゃない、想いが顕現した過去の彼でもない。対面してこそわかる。直の彼との対話は、そう、”生きて”いた。

 

「坊ちゃん……? 何で──」

 

「アンジーのこと、ずっと見ていたよ。……よく、頑張ったね」

 

 燐光が強く彼の姿を巻き込む。黄金の光が、彼の赤毛をキラキラと輝かせている。ミカは慈しむような色を湛えながら、アンジーの頭をそっと撫でた。そしてゆっくりと腕を広げると、彼女の小さな体を腕の中に閉じ込めた。アンジーは目を大きく見開き、そして安心した幼な子のような表情でゆっくりと閉じた。頬を温かい半透明の胸板にすり寄せて、最後の抱擁を体に刷り込んだ。

 

「僕からの最後のプレゼント、ちゃんと持っていてくれたんだね」

 

 ミカが優しげに微笑んだ。彼の視線の先にはアンジーが羽織る苔色のケープがあった。彼女は幼なげな笑みを浮かべ、小さく何度も頷く。彼は少しイタズラな顔で、まるで幼い弟が姉に悪戯を打ち明けるかのような顔で、口を開いた。

 

「実は、そのケープはね」

 

「ケープ?」

 

「──僕の杖なんだよ?」

 

「え?」

 

 ああ、なるほど。

 菊は内心で全てがつながったような気がした。全て説明がつくのだ。ミカが戦いの際に杖を持っていなかったことも、アンジーの魔力が底上げされていた理由も、全て。全てはあのケープに依拠していたのだ。あの、()()()()()使()()()()杖に。

 

 アンジーは怒ったような、でもどこか嬉しそうな顔でミカの腕をつねった。

 正真正銘、これが最後の、対面。

 離れるのが名残惜しいと、二人は体を寄せ合って空を見上げた。

 

「ご覧よ、空を。僕の魂が還ろうとしているんだ」

 

 天に吸い込まれる黄金の光を、降り注ぐ星の光を見つめながら、ミカは何気なしに言った。

 

「還るって……」

 

「ハハ、そんな悲しい顔しないで!」

 

 思わず縋るような顔で端正な顔を見上げるアンジーに、明るく笑い飛ばしたミカは顔を耳元に寄せて囁いた。

 

「……僕たち、案外直ぐ会えるかもね」

 

「それって……!」

 

 弾かれたように体を離したアンジーは、その時はじめてミカの体がだんだんと透けていることに気がついた。タイムリミットが迫っていた。

 

「そんな……ようやく会えたっていうのに、もうお別れなのか?!」

 

「静かに、()()()ハートって名前の通り岩のように口を噤んでいろ」

 

 ミカは凛々しい眉を緩く下げて目を愛しげに細めた。アンジーの柔い頬に大きな手をそっと当てて、そしてその額に自らの額をコツリと当てた。

 

「ほら、お別れだよ。……最後にキミの顔が見ることができるなんて、僕は幸せ者だ」

 

「……わたしも、わたしも幸せだったわ。魔法族ですらないわたしを愛してくれて、守ってくれてありがとう。ミカ、わたしの太陽……さようなら」

 

()()()、僕の愛しい()()

 

 そう言うや否や、ミカの体はほろほろと光と同化して消えてしまった。崩れ落ち、光の本流を掴もうとするアンジーに菊とロックハートが駆け寄る。三人は光が全て消えるまで、そこに立ち尽くしていた。

 

 

 その日、スコットランドでは数多の彗星が夜空を駆け抜けた。

 

 目にした者たちは魔法族・非魔法族(マグル)問わず、皆不思議と温かな感情を抱いたという。

 

 




<約束 こぼれ話>
 ──約束は、あの日。彼との別れの日に交わしました。

 あの日。
 あの夏の日。
 わたしは”視て”しまったのです。
 彼が、わたしの愛する家族が、暴虐なドラゴンに蹂躙されるのを。


 そよそよと風が東屋の中に座るわたしの頬を撫でる。夏ながら涼しげな風だ。青々とした芝生は風に揺れ、綿のような雲が青空を流れていく。時折顔を出す庭小人たちが庭師に見つかっては追い払われていた。

 平和。その一言に尽きた。

 わたしは久しぶりに取れた坊ちゃんとの時間を楽しむために、心を落ち着かせるように一つ深呼吸をした。坊ちゃんはというと当主就任のための教育が始まって忙しくしていた。彼の美貌は年を経るごとにますます磨かれ、今や勇猛な獅子の如き迫力の美丈夫になっていた。彼はうんざりしたように鼻息を漏らすと、ハチミツ色の長髪を乱雑に後ろに撫で付けて私の隣に腰掛けた。

「ようやく時間を取れたよ……はぁ、引き継ぎだか何だか知らないけど、一族のしきたりなんてもっと幼い頃から教えてくれればよかったのに……」

「あらあら……坊ちゃんは少しお疲れのようですね」

 絹で織られた光沢のあるシャツの適当に袖を捲ると、彼はわたしの膝に頭を乗せるようにしてベンチに横たわった。腰の杖ホルダーを机の上に放ると、拗ねたように声をあげる。

「坊ちゃんはもうやめてよ……」

「ふふ、冗談ですよ。─ミカさま、お疲れ様です」

 ミカ坊ちゃんは大変頑張っていらっしゃる。使用人は皆、知っている。

 最近急に体調を崩された御当主さまの後を継ぐため、急遽盛り込まれた後継修行とも言うべきそれ。魔法や礼儀作法、一族の歴史や剣術まで、彼は実に多くのことに真摯に取り組み、そして成果を出している。先日行われた近辺の魔法族同士の交流会でも立派に挨拶してまわられたと、同行した執事に聞いた。そんな彼が勝ち取った本日の休憩日は、彼が剣術の師範から一本取った褒美であった。

「うん……ねぇ、アンジー。役目って何だろうね」

「役目、ですか」

「ああ、歴史を習う中で耳にしたんだ。僕たち一族がこの地を収めている理由は、僕たちにしかできないある役目があるからだって」

 理由なんて考えたこともなかった。それほどまでに当たり前で、昔から続いていたから。わたしがバンシーになってもう何百年経ったのだろう。もしかしたら、生前のわたしは何か知っていたのかもしれないけれど、バンシーとなったわたしは何も覚えていなかった。

「一族にしかできない、となると魔法絡みですか」

「──わからないんだ。そこの記述は数百年前の当主が書いた日記に書いてあったんだけど、風化してそこだけ読めなくて……アンジーは何か知ってる?」

「……申し訳ありません、お力になれず」

「そっか……ううん、もう少し自分で探してみるよ」

 日に照らされて、彼の伏せられたまつ毛が光る。わたしは坊ちゃんに「お茶が冷めますよ」と促し、姿勢を正させた。渋々起き上がった坊ちゃんが紅茶に口をつけたその時、わたしの脳裏を鋭い痛みが劈く。


 ──轟々と炎が上がる屋敷は崩れ落ち、美しかった庭も荒れ果ててしまう。屋敷の至る所で一族の人間が倒れ伏し、その目が開くことは二度とない。そして、愛を交わした、彼も──


「アンジー? 大丈夫かい?」

「──いけない、このままでは……」

「アンジー……?」

 わたしの役目は魔法族の死を親族に伝えること。そのために備わった能力の一つ”予知”によって、彼が、ミカ坊ちゃんが無惨にも食い殺されるところを”視て”しまった。基本的に、予言は口外禁止。”視た”以上、その対象は自ずとその結末へと進んでいく。例外はただ一つ。

 ──わたしが、動かなければ

 何と罵られようと、嫌われようと、そしてわたしが消えようとも。
わたしはわたしが愛した家族を、守らねば。

 予言視は、その予言を口外しなかった未来を示している。わたしたちバンシーが家族の死に泣くのは、それが見えていながら理に逆らわず、死を見届けたことによる罪悪感に由来する。確かに家族の死は悲しい。しかし、愛する人の死は、耐え難いほどに辛く、悲しみに満ちていた。

 だからこそ動こう。

 未来を変えるために。





 その日、屋敷は騒然としていた。従順だったはずの魔法生物が、突如として屋敷から一族を追い出してしまったのだ。ポイポイと無造作に投げ捨てられる人間と魔法道具、家財道具たち。まるでポートキーに触れたかのような、時空を超えた時特有の体が捻じ曲がるような感覚が一族を襲う。そしてその酔いから覚める前に、アンジーは屋敷の防御装置を利用して周囲に魔力の壁を作り、中に進めないようにしてしまった。一族のものは皆一様にアンジーを罵倒した。

「恥知らず」「裏切り者」「下等生物」

 寝たきりのご当主さまを支えるミカ坊ちゃんの妹君が、仲の良かった執事の青年が、庭師の老人が、顔を真っ赤にしてアンジーに石を投げつける。よくしてやったのになぜ、と。

 愛していた一族は、アンジーに酷い罵声を浴びせながらこの地を去っていった。
 アンジーは屋敷に背を向ける家族の姿を見て、胸中でつぶやいた。どうか幸せに、と。アンジーはわかっていた。村を治めていた地方貴族の魔法族が、誰に助けを求められると言うのだろうか。彼らは亡命先で、辛い生活を送るだろう。今までのような暮らしはできず、食い扶持に困ることさえあるかもしれない。

 それでも、アンジーは家族に生きていて欲しかった。確実な死よりも、不安定な未来へ、家族を押し出すことを決めたのだ。

 しかし彼は。彼だけは、理由を察していた。アンジーが一族の不利益になるようなことは決してしないと、彼は確信していた。

 信頼していた。

 信じきっていた。

 だからこそ、アンジーが何のためにそうしたのか。彼は知ろうとした。何日も何日も、何週間も屋敷に通い詰めた。獅子の如く悠然とした彼の姿は、日に日に薄汚れていった。


 それでも、アンジーは彼に真実を打ち明けることはなかった。


 そして運命の日は訪れる。

 その日は一年を通じて肌寒い村にそぐわぬ灼熱の日だった。ジリジリと太陽の日差しが肌を焦がす。手入れをされなくなって幾週間。すっかり生え放題になった雑草が、彼との思い出を覆い尽くしていた。丘の上に聳える巨木が、藤棚のトンネルが、白磁の東屋が、魔力に誘われた蔦に飲み込まれてしまった。それに気が回らぬほど、わたしは日に日に強まる魔力の圧に焦燥感を抱いていた。
 その日も坊ちゃんは当たり前のようにわたしの前に現れた。「アンジー!」といつものように叫ぶ彼に、しかしわたしは何も返せずにいた。

 ──目覚めた! 

 わたしは全身を何か大きなもので押さえつけられているような感覚と共に、鳩尾のあたりで魔力がざわめくのを感じた。不思議な既視感。金縛りにあったかのようにその場に縫い留められ、坊ちゃんの心配する声が耳を上擦る。我に帰った時には、もう遅かった。

「──ッ、ミカ坊ちゃん、お逃げくださいまし!」

「な、これは……!!」

 屋敷を大きな影が覆った。あたりに何か焦げたような香りが充満する。

 そのドラゴンはそれまで見たどのドラゴンよりも強大で、荘厳で、そして恐ろしかった。本能の奥底から揺すられるような威圧感がアンジーを襲う。パチパチと表皮で弾ける火花が、黄金の眼が、肌を焦がすような火の気配が、一介のバンシーである身には恐ろしく感じた。

 ドラゴンは大きく翼をはためかせると、屋敷のそばにあったマグルの家を押しつぶすように地に降り立った。村の人間も、管理者たる魔法族がいないとなるとここにいる必要がないため早々にこの地から離れていた。そして、ドラゴンもそれをわかっているのだろう。

 冴え冴えとした黄金の瞳は真っ直ぐに屋敷に、その前にいるミカ坊ちゃんに注がれていた。

「わたしが相手です!」」

「あ、アンジー! だめだ、キミが犠牲になる必要はない!」

 ドラゴンの視線を遮るように坊ちゃんの前に躍り出たわたしに、彼は必死の形相で叫ぶ。

「いいえ、坊ちゃん。あなたは逃げるべきです。生きる資格のある人間なのです! ここでみすみす死んではいけません!」

「アンジー!」

 わたしは知っていた。
──彼の言っていた使命とは何かを。

 わたしは知っていた。
──生命の儚さを。

 わたしは、知っていた。



──一族の使命が、このドラゴンを鎮めるための、”人身御供”だということを。

「行って! ──わたしの愛したヒト」

「──ッ!」

 わたしの浮かべた笑みに、彼は悔しそうに顔を歪めた。そして、一度ためらうように瞳を揺らすと、わたしを見て決意を固めたように頷き、ドラゴンとは反対の方向にある森の中へとかけていった。わたしはドラゴンの足止めのため、わずかしかない魔力を駆使して幻を見せ続けた。

 どこへ駆けていったのか。ともかく、彼は──アンジーの愛した男は、ドラゴンに食い殺されることなく安全になったのだと。そう思い、安堵した。

 アンジーの”視た”決別はついぞ訪れなかったのだと。



 彼女はかつて、自らも同じであったことも忘れ、満足そうに微笑んだ。
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