0,プロローグ
ベネチアの朝は格別だ。
水路の涼やかな音色を聴きながら食べる朝食はもはや芸術と言ってもいい。
水路側に突き出したベランダで寛ぎながら、ひと仕事を終えたばかりの流浪の用心棒──菊は淹れたての緑茶を一口啜った。
街角で音楽を奏でる人々の即興セッションが耳に届く。数ヶ月前までの冒険が嘘みたいに平穏な朝だった。
先日、かつての学友──ギルデロイ・ロックハートからの依頼を受けたが、彼からの報酬は正直労力に見合うものではなかった。
依頼の中で失った魔法仕掛けの義腕の修理代はべらぼうに高く、その技術を持った職人も限られている。
菊が休暇がてらベネチアに留まっているのは、日本出身の魔法道具職人に義腕を見てもらうためであった。
彼女はいくつかの仕事をこなしながらベネチアを目指したため、この地に辿り着いたのは昨晩のことである。
サービスの朝食を出してもらい、持ち込んだ緑茶を淹れて朝の水路を楽しんでいたのだが、その景色の美しいことときたらない。
菊はすでにベネチアの街並みを気に入っていた。
彼女はすっかり食べ慣れたスクランブルエッグとベーコンを急拵えでつけた式神製の腕でつつく。せっかく淹れた緑茶と取り合わせがあまり良くなかったことに若干の後悔を抱きながら、菊は最後の一欠けを嚥下した。
その時、部屋の扉が乱暴に叩かれる音が響いた。どこか焦っているようなノックは、昔見た闇金の取り立て業者のような圧を持っていた。
外からうすらと聞こえる「アロホロラ! あれ? 呪文が違ったかな……」と言う陽気な声に、菊はうんざりしたような顔で
若草色のローブを身に纏うやけにキラキラした男──ギルデロイ・ロックハートは部屋の中に散乱した木片を無視し、土足で部屋の中に踏み込んだ。しばしキョロキョロと部屋の中を見渡し、バルコニーから外を眺めている菊の姿に目を止めると途端に花がほころぶような笑みを浮かべた。
「キク! いやあ、先日はお世話になったよ! キミのおかげで書籍は我が人生最高の売れ行きだ!」
ツカツカと近くに寄られても、彼自身にかけられた
「ベネチアの水路はいつ見ても見事だなぁ……」
「色々と振り回されたが今は水に流そうじゃないか! 僕がここに来たのには大きな理由がある」
「久しぶりの休暇だ……いや、人生修行の連続なんだがな、息抜きも大事」
「そう! かねてより構想を練っていた次回作についてなのだが」
「んー、緑茶にはやはりどら焼きだな」
「っておい! 聞いてるのか?!」
ようやく声が届いていないことに気がついたロックハートはハッとした表情で菊に詰め寄る。無視できないレベルでの接近に、パーソナルスペースが広めの菊は露骨に嫌な顔をして渋々振り向いた。
「……ああ、居たのか。久しいな、ロクハート」
「まさか……僕の言葉を何も聞いていなかったな?!」
ロックハートは顔に「信じられません」と浮かべながら、菊の両肩を掴んで揺すった。咄嗟に湯呑みを置いた菊はされるがままだ。彼女の朝食の皿が屋敷しもべの呪文によってパチンと音を立てて消える。その音に我に帰ったロックハートは肩から手を離すと、コホンとわざとらしく咳き込んだ。
「ごちゃごちゃ喋るな。用件を言え、用件を」
「あー、そうだな……そう。つまり、僕は
この作家先生は見てくれからして随分と変わった。薄汚い髭面の浮浪者もどきは、キラキラしいの優男に変化していた。前回会った時よりも学生時代の栄光を随分と取り戻しているようで、菊としてはこちらの方が見慣れた姿である。菊はロックハートの濡れた子犬のようなブルーの瞳に見つめられ、やがてため息をついた。
「……今回はマケないぞ。義腕の修理代で
「! ああ、もちろんだ友よ! 今僕の懐は印税で暖かいからな! 任せてくれ!」
「返事だけは一丁前なやつだ……はぁ、義腕が帰ってくるまで数日ある。その間は待ってもらうぞ」
思えば、菊は学生時代からロックハートの頼みを断れたことなどなかった。周囲を巻き込む力だけは人一倍ある男に、菊は諦めたような顔をして向かいの席を勧めた。
ロックハートがニコニコとして座ったのを見ながら指を一振りして式神にコーヒーを淹れるように指示を出す。背後で人型の薄紙がカサカサと動き出した音を聞きながら、菊は頬杖をついて向かいに座る男の顔を見つめた。
物語がまた1ページ、進むような。そんな気配がした。
ロックハートはすっかり晴れ渡った青空色の瞳をキラキラと輝かせながら手を差し出す。菊がそれに応じようと手を上げかけた瞬間、壊れた扉の方から声がかかった。
「あの、お客様? これは一体……」
「アッ、これは申し訳ない! なぁに、すぐに直しますから! エーット、レパオ! ……レパラ?」
「……先行き不安だ」
半分まで書き終わったので尻叩きのため投稿です。
不定期更新でゆる〜く行きますので気長にお付き合いください。