もしかしてアレか、とお思いの方に1つ質問したい。
貴方、あの"柱時計"を作ったことがありますね? そう、『凶刻【時雨】』を!
皆様ごきげんよう、シルヴァーブレイズです。只今より競走開始につき挨拶はすみませんが最低限度ですわ!
枠入りは順調に進んでいますね…あと30秒もしないうちに発走でしょう。
さて、今回私がとるべき戦術はたった1つ。
『ブレイズ、君の末脚は非常に素晴らしいものがある。前のアネモネSの時点で上がり3Fが33秒を切ったのには、正直言って大変驚いたよ。あの末脚を繰り出せれば、次の桜花賞も勝てる可能性は高いだろう。ただ、君は後方から捲る戦法を使いがちだから…』
『Trainer さん、その先は言わずとも分かりますわ。包囲されて潰されやすい、ということですね? ただでさえ私はこの大流星がある上に、勝負服が赤色と非常に目立つでしょうから…』
『その通りだ。君はかなりマークされやすい状態になっている。そして……マークされた時、厳しい状態に置かれる可能性が非常に高い。その理由は…』
『以前にちらりと仰ってましたね、体格が小さい分膂力に劣るため、相手をはね飛ばして進路をこじ開けるのが難しいから…でしょう?』
『さすがの理解力というべきか…そうだ。
では、次の桜花賞、どんな戦術で行けば良いと思う?』
これは、アネモネSが終わってすぐの《シリウス》部室での会話ですわ。
『……桜花賞の勝負の行方は、競走開始2秒で8割方決まる、でしょうか。つまり、最初の一瞬でスリーキングダムズさんに食らいつくことで、後方で囲まれて潰される事態を避ける、という感じですか?』
私がそう答えると、trainer さんは額に手を当てて天を仰いでしまわれました…。
『こうまでぴたっと当ててくるとはな……これ俺本当に必要か?』
『何を仰いますの、trainer さん。少しのことにも先達はあらまほしきことなり、ですわ』
『そこをちゃんと理解して思い上がっていないなら、それで良い。
そうだ、次の桜花賞はマイルレースで距離が短い。その分、もし後方からのレースになればマークされる可能性が高いだろう。
というわけで、スタート直後の位置取りがかなり重要になる。はっきり言えば、一番良いスタートを切って先頭に立つだろうスリーキングダムズをマークし、彼女の後ろにぴったり付けるくらいの勢いで飛び出すんだ。それで先行勢や差し勢のマークを振り切る』
『承知しました。そうなりますと、今後は最序盤の踏み込みの練習が多くなる、という感じですか?』
『うん、ゲート練習をメインに据えていきたい。君はスタートが得意だとは決して言えないからな。
ただし、この戦法を使うには注意しないといけないことがある……』
というわけで、今日まで練習を重ねてきたのですわ。
もちろんですが、他のウマ娘たち…特にこの桜花賞に出走している方や出走を狙っていた方、そしてそうしたウマ娘の trainer さん方は、私の鍛練について様々な情報を集めていたでしょう。そして、私が発走直後を重視していること、しかしあまり上手くいっていないことまで知っているでしょう。いえ、聡明な trainer の方ならば、上手くいっていないのは演技で、実はそれなりの位置取りができると思っているかもしれません。
しかし…その全てが甘い見通しであることを、この実戦を以て思い知らせて差し上げますわ!
チリッ……
来ました! この、机の角に肘をぶつけた時に前腕に走るものに似た、ぴりりとした感覚! これを待っていたのです。
これが来たならば、数秒とかからずに発走です。朝日杯FSでそのことに気付き、アネモネSで確信していました。そしてここで偽装を解除します。
大きく息を吸い込み、1秒数えながら吐いて……ここっ!
ガシャコン!
…どんぴしゃでした! 私より先を走っているのは、最内のスリーキングダムズさんを入れて2、3人のみ! 初動は完全に成功ですわ!
私としても賭けの要素があったのですが…とりあえずは上手くいきました。
さあ、作戦の第二段階。スリーキングダムズさんの外側後方にぴったり付けて、圧力をかけ続けるのです! 流れの速さはしっかりと意識しておかねばなりませんが、私の
『…ただし、この戦法を使うには注意しないといけないことがある。それは何だと思う?』
『そうですね…朝日杯の時に走って感じましたが、阪神の外回り1,600は速度が乗りやすい。ということは、逃げを追いすぎると体力が切れて撃沈する、ということでしょうか?』
『ご名答。というわけで、スリーキングダムズのペースに呑まれるなよ』
Trainer さんからの注意を思い出しつつ、まずは周囲の状況の確認。
現在の私の順位は3番手。前方をスリーキングダムズさんが塞ぎ、私の左手にはサンデーアクションさんが陣取っています。おそらく私を大外へ出させないつもりですね……外へ出た時の私の末脚の鋭さは、朝日杯FSやアネモネSで嫌というほど思い知ったでしょうし。
ただ…これまでの走りを調べた限り、サンデーアクションさんの脚質はかなり不安定です。追込の走りだけは見られませんでしたが、公式戦だけでも逃げたかと思えば先行勢に混じり、そうかと思うと後ろから差す走り方もしていました。と、いうことは…。
『スリーキングダムズのペースに呑まれるなよ』
『それは逆ですわ、trainer さん』
『逆?』
『私が飲み込んで上書きすれば、問題無いでしょう?』
脚の回転数を引き上げ、スリーキングダムズさんの後方にぴたりと張り付くようにして加速。これできっと……
「…! ちぃ…!」
思った通り。サンデーアクションさんがすっと後ろに下がっていきました。
公式戦の記録を集めて調べた限り、サンデーアクションさんにとっては1,600Mは初挑戦の距離にして最長距離です。未知の領域に挑むとなれば、不安要素は極力排除したいでしょう。そうなると、スリーキングダムズさんの速さに付き合うとは考えにくかったのです。なので、背中をちょっと押して後退温存策を選ばせてあげたのですわ。
これで邪魔者はもういない。さてスリーキングダムズさん、サシの勝負といきましょうか!
手始めに、3rd corner で外から抜く素振りを見せます。私の勝負服は赤で非常に目立ちますし、それに髪の色も独特ですから、嫌でも目につくでしょう。それをとことん活かします!
っとスリーキングダムズさん、今ちらっとこちらを見ましたわね? 私のことを気にしている、何よりの証ですわ。
そして、私が仕掛けたのに合わせて速度を上げています。抜かされまいとしているのは明白ですわ。
ここで抜くつもりはありませんので、少しだけ減速して彼女を先に行かせます。同時に、私も後ろをちらっと振り返りました。
後続の皆様は、その多くが私を狙っているようですね。必死に追い上げようとしている様子が窺えました。
ちょうどファンファーレが鳴り終わった頃、ナカヤマフェスタとキンイロリョテイの遥か後方……最後列の席に2人、滑り込むようにして座る者があった。片方はヒト、片方はウマ娘。
「はぁ、はぁ……何とか間に合いましたね、トレーナーさん」
「アダチが、ギリギリまで、迷ったからでしょ…! はあ、はあ」
チーム《エレクトラ》の
《エレクトラ》からは誰も桜花賞に出走していない。ではなぜその2人がここにいるかというと、偵察のためである。2人の偵察目標は…
「5番か、内側ね。大外からの捲りは知ってるけど、内側からはどうやって抜け出すかな?」
「NHKと同じ1,600メートル、貴方がどのように走るか見せてもらいますよ。…朝日杯フューチュリティステークスで私を破った宿敵、シルヴァーブレイズさん」
シルヴァーブレイズであった。
レーススタートと同時に沸き立つスタンド。そんな中で双眼鏡を目に当てた《シリウス》の
「おいおい何だありゃ!? あんなスムーズに…練習でもあんな見事なスタート見たことないぞ!」
そこに高坂の実況が重なる。
『先行争いは、やはりスリーキングダムズが制しました、その真後ろにシルヴァーブレイズがぴったり付けているぞ!! これはどうなってしまうのか!』
「「「「なっ!?」」」」
一般の観客も、ウマ娘たちもそのトレーナーたちも、もう一度ざわついた。ただし、これは驚きによるものである。
スリーキングダムズがハナを奪い、そこにサンデーアクションが競りかけるのは予想していた。ただ、そこにシルヴァーブレイズが突っ込んでくるのは想定外だったのだ。
シルヴァーブレイズは後方から捲る戦術を多用している。そのため、今回も後方から差してくるだろうと考えられていたのだ。まさか逃げるスリーキングダムズに競りかけてくるとは思わなかったのである。
また、シルヴァーブレイズはスタートがあまり得意ではないと、トレーナーやウマ娘の多くは認識していた。というか当の西郷トレーナーですらそうだった。スタート練習はしていたものの結果は芳しいとは言えず、戦術は紹介したものの結局は後方から行くと思っていたのである。それが、ここまで見事なスタートを切られたことで、良い意味で裏切られたのであった。
ブレイズの先行を予想したのはナカヤマフェスタくらいのものであろう。
で、当のナカヤマフェスタはというと、レーススタートから10秒と経たずして左手をすっとキンイロリョテイに差し出した。
「……しゃーねーな、俺の負けだ」
素直に賭けの負けを認めるキンイロリョテイ。たこ焼き奢り確定である。
「それと1つ忘れるとこだったが」
「何だ?」
「仁川の舞台、ブレイズはどうすると思う?」
「そんなもん、答えなんざ最初から決まってんだろ」
この時ばかりは、キンイロリョテイとナカヤマフェスタの意見が一致した。
「「飛ぶな」」
ちなみにこの2人が座っている場所は、前回…朝日杯フューチュリティステークスの時とほぼ同じ席である。
『さあ大波乱の先行争い、ハナを奪ったのは1番スリーキングダムズ、その外から17番サンデーアクションが並びかけて、後ろに5番シルヴァーブレイズがぴたりと着けています!
そこから3、4バ身離れて16番アルケドニンフェと13番トウホウライデンが並んで外、さらに15番ビエナピースも来ました! 内は3番グリンドストーンが行きまして、テン3ハロンは32秒6と速いです!
半バ身後ろに7番パープルケイと9番アクアリバー、外14番クイーンズゲーム、さらに12番ニジノアヤメも並んできた! 18番リボンマーチも来ています。
その後ろ1バ身に控える6番シュガーニンフェと10番ブラッククイーン、その後ろ2番パワフルトルクと4番スイープトウショウに8番フローズンスカイ、最後方から11番ロイヤルタータンという体勢です!』
実況放送を聞きながら目の前のレースを見て、屋内高所のVIP席に陣取る《リギル》メンバーは満場一致で同じ感想を抱いた。
「
「ああ。あれはどう見ても掛かっている」
エアグルーヴが後を引き継いだ。
「シルヴァーブレイズ君を意識しすぎかな?」
これはフジキセキの意見。それにヒシアマゾンが「ありゃそうだろうね」とのっかる。
「誤算だったな…まさか、ここまでシルヴァーブレイズ君を意識しすぎるとは」
ため息を吐きたそうな顔でシンボリルドルフが続いた。
「やるではないかブレイズ君。キングダムズ君のペースについてくるばかりか上書きしてしまうとはね…ボクが見込んだだけのことはある!」
「君はいったいどっちの味方なんだい!?」
何故か得意そうな顔をしているテイエムオペラオーに、フジキセキが勢いよくツッコミを入れた。
同時刻、スタンド最前列。
「さすがスリーキングダムズさん、ペースが速い…」
チーム《シリウス》の観客席にて、サニーウェザーが呟いた。
「確かにね。あのペースにはあたしもついてけないかもしれない」
ショートボブの葦毛を揺らして、カルンウェナンが頷く。その時、別のコメントが入り込んだ。
「それは違いますわ、お二人とも」
《シリウス》のサブトレーナー、メジロマックイーンである。
「「え?」」
「このレース、ペースを作っているのはスリーキングダムズさんじゃありません」
「「じゃあ誰が…?」」
「ブレイズさんですわ。ですよね、トレーナーさん?」
メジロマックイーンの質問に、西郷トレーナーは大きく頷いた。その手にストップウォッチを持っている。
「マックイーンも見方が分かってきたな。そうだ、あのペースはキングダムズが作っているように見せかけて、実際はブレイズが作ってる」
「え、ブレイズちゃんが?」
サニーウェザーが首を傾げた。その疑問に西郷トレーナーは、ストップウォッチをちらっと見てから答える。
「ああ。テン3ハロンのタイムを調べてみると、スリーキングダムズの逃げはだいたい34秒前後になる。だが、今回は32秒6と出た。明らかに外からプレッシャーを掛けられている。
そして、スリーキングダムズを強くマークしているのは2人、ブレイズとサンデーアクションだった。サンデーは後ろに下がっているから、今のペースメーカーはブレイズだ」
「なるほど…」
理路整然とした西郷トレーナーの説明に、サニーウェザーもカルンウェナンも納得した。
「じゃあ、この後の展開は…」
カルンウェナンの質問に、西郷トレーナーは首を横に振る。
「まだ分からんな。ペースが速い上に、阪神の外回りはスピードが乗りやすい。だから、前がハイペースで逃げた時、後続がそれに引っ張られると体力を切らす可能性が高い。あるいは、速い流れの中で仕掛け所を見失う可能性はあると思うが…スイープやシュガーが突っ切ってくるって線もある」
「成り行き次第、ですわね」
メジロマックイーンが話をまとめる。
その《シリウス》一同の隣ではシルバーアクセサリが、両手を顔の前できつく組み、無言でコースを…いや、我が娘を凝視していた。
一方、東京中央病院にて。
「ウソでしょ、テン3ハロンが32秒6!?」
「めちゃくちゃ速いじゃねえか!」
入院中の患者たちが、レース中継を聞いて騒然となっていた。それを聞いたライスシャワーの耳が、ぴくりと動く。
(確かに速い……普通なら、テン3ハロンは34秒くらいのはずなのに…)
レースの流れが想像以上に速い。これだけハイペースでは、正直なところ後半戦で何が起こるか分からない。
(ブレイズちゃん、頑張れ…!)
ライスシャワーは両手をきつく握りしめ、画面を見守った。
そして「パブ 流星の止まり木」でも。
「おいおいこれは速すぎやせんか?」
「ヤバいぜこれは…」
「ああ、阪神の外回りはスピードが乗りやすい。そんなところでこんなハイペース出したら、後半スタミナが保たねぇぞ!」
騒ぎ始める利用客たちとは対照的に、マスターだけは落ち着き払った様子で画面を見ていた。
実際マスターは、客たちと同じ危惧は抱いているものの、気にしすぎてはいない。
(確かにこの流れは恐ろしく速い。だがよく見ると、このペースはおそらくスリーキングダムズが作ったものじゃない……その証拠に、キングダムズは時々後ろを振り返っているし、耳がやや絞れている。
多分だが、このペースを作ってるのはブレイズの嬢ちゃんだ。となれば大きな心配はないだろう)
かつて中央トレーナーを志していただけあり、マスターには違うものが見えていたのであった。
さて、そろそろ 4th cornerですね…ここでもう一度、外から仕掛けますわ!
脚の回転数を少しずつ上げ、スリーキングダムズさんの背中を右手に見て前へ行きます。
ここまでの流れですが、テン3Fで体感32秒くらいでしょうか。普段のスリーキングダムズさんから比べると速いですし、この距離の競走としても速めの流れです。そうなるように私が誘導したのですけれど。
そしてここで、あの「1ハロンシャトルラン」が意外な形で有効に働きました。本当は末脚を鍛えるつもりの鍛練だったのですが、大きく逃げる方に食らいつくためにも使えるとは……これは思わぬ副産物でした。
それに、確かにスリーキングダムズさんの逃げはかなり速いですが……ちょっと前に並走した時の
む、前を行くスリーキングダムズさんが、こちらを見た後に少し進路を変えました。わずかに外側に進路を膨らませています。おそらく私を
やられる前に大外へ出ようか、と考えたその瞬間のことでした。先日見たある映像が、私の脳裏を過りましたの。
それは、我が同室のリナルドモントバンさんに勧められて、この前からハマってしまった映像作品の一場面。夜闇のように真っ黒な車を、外側から追い抜こうとする白黒の車。2回も外から抜こうとする素振りを見せた後、3回目の仕掛けで……。
これです!!
大地を駆ける、
(くっ、さっきからチョロチョロと目障りな…!)
スリーキングダムズは、執拗にマークしてくるシルヴァーブレイズに手を焼いていた。
自身の逃げのペースはかなり速い。下手についてこようとすれば、スタミナ切れで沈没は免れない。まして阪神の外回りなどの、スピードの乗りやすいコースなら尚更である。
しかしシルヴァーブレイズは、潰れる様子がない。スリーキングダムズの視界の左端に白い流星を煌めかせて、後を追ってくる。
今の時分がかなり無理をした走りをしていることは、スリーキングダムズ自身分かっていた。このままではブレイズを潰すどころか、こちらがスタミナを切らしてしまいかねない。
そこで、左後方から迫るシルヴァーブレイズを阻止しようと、スリーキングダムズは僅かに進路を外側へ膨らませた。
そして次の瞬間、スリーキングダムズは愕然とした。
「!?」
さっきまで感じられたシルヴァーブレイズの気配が、突然ふっと消えたのだ。
レース中、しかも観客席に近くなってきているため人々の歓声が聞こえるはずなのに、スリーキングダムズにはそれらの音以上に、ドクン、ドクンという自身の心臓の鼓動が大きく聞こえた。
(シルヴァーブレイズが、消えた!?)
振り返って左後方を確認しても、シルヴァーブレイズの姿は見えない。
(…まさか!?)
嫌な予感が急速に頭をもたげる。心臓の鼓動がより大きく、早くなる。
スリーキングダムズは急いで右側に視線を向け直した。その視界に映ったのは……
外側へコースがヨレたこと、そして宝塚記念の発走ポケットに差し掛かったことで開かれたイン側。そこに今まさにねじ込まれた、白い尾を引くほうき星を思わせる茶色の頭髪だった。
「うわっ!?」
スリーキングダムズが悲鳴を上げた直後、内を割ってシルヴァーブレイズが前へ飛び出そうとする。
(フェイントか! 不覚だった!
外から行くと見せかけて、たった1歩でブレーキングしながらラインを変え、イン側へ潜り込みよった…!)
シルヴァーブレイズは、スリーキングダムズの意識の盲点を衝いたのだ。
ここは第4コーナーとホームストレッチの接合部であり、そこには宝塚記念の発走に使うポケットがある。そのためイン側のコースがぐっと広がる。シルヴァーブレイズは外側に張り付いてプレッシャーをかけることでスリーキングダムズの注意を外側へと逸らし、一瞬の隙を見逃さずにポケットへ飛び込んでインから抜きにかかったのだ。
当然だが、こんな戦法を実践するとなれば、とんでもない瞬発力と胆力、空間認識が必要になる。左足の踏み込み1歩だけでこれまでの進路に強烈なブレーキをかけて内向きにねじ曲げるばかりか、スリーキングダムズと内ラチの間の狭い隙間に飛び込む勇気と、隙間を潜り抜けられると判断するだけの正確なボディイメージを持たねばならないからだ。また、こちらに悟られないよう意識の隙間を潜り抜けるという、大胆かつ繊細な足音のコントロールも必要になるだろう。
さらに言えば、左足には強烈な負担がかかっただろうことは想像に難くない。ただでさえ高速で走るウマ娘なのだから、その運動エネルギーは尋常のものではない。踏み込んだ左足の故障を避けるためにも、普通ならこんな攻撃方法は選択しないはずである。
それだけではない。これほど強引なラインの変更は、後続に対する斜行判定を喰らって降格、最悪は失格になる可能性が非常に高い。後方とのリードが十分開いていることを一瞬で確認し、斜行判定を取られないと確信して攻撃に踏み切ったのだ。
同期どころかチームの先輩方の中にも、ここまでキチガイめいた攻撃方法を選択して実行する、バカにも等しいクソ度胸を持った人はいない。
(でもまだ! アタシだって体力にも逃げ足にも自信がある! ここからフルスロットルで加速すれば、まだ抜き返せるんだ!
アタシの底力を見せてやるわ!)
離されまいと、加速しにかかるスリーキングダムズ。しかし彼女はこの時、あることを忘れていた。
第4コーナーを立ち上がるその瞬間、踏み込んだスリーキングダムズの左足が、急にズルリと外側に滑った。
とたんにスリーキングダムズの姿勢が大きく崩れ、ターフに転倒しそうになる。
「うわあっ!?」
(しまった! 肝心なところで、水分が…!)
忘れてはいけない、バ場発表は「重」である。つまり、芝にまだ水分が残っており、脚が滑る場合がある。その芝がスリーキングダムズに牙を剥いたのだ。しかもここは4コーナーを抜けた所、つまり下り坂である。重力に引っ張られて余計に加速してしまう。
峠道でコーナリング中にアンダーステアを出してしまった時のように、外側へと大きく吹っ飛んでいくスリーキングダムズ。慌てて左足で何度も芝を蹴りつけ、右側に倒れそうな体幹を無理やり左向きに引っ張って、さらに右足も数歩踏み込んで、やっとのことで転倒と外ラチへの衝突を2つとも免れた。だが、この姿勢の崩れと、対処に伴うスピードダウンが、決定的な差を作り出してしまった。
レースの世界では、時間の流れ方が現実世界とは全く違う。端的には「コンマ1秒の世界」と言われる。つまり、仕掛けるのが0.1秒遅かっただけで勝ち負けがはっきり分かれるほど、残酷な世界なのである。そんなシビアな世界では、崩れた姿勢を立て直すのに要した3秒くらいの時間、そしてそこから再加速するのにかかった時間は、あまりにも致命的であった。
スリーキングダムズが体勢を立て直した時、シルヴァーブレイズは独走体制で"仁川の舞台"へと突っ込みつつあったのだ。
『シルヴァーブレイズ、外から、いや内側だ!? 内へ切り込んでスリーキングダムズを差した!? 内から差した! いったい何が、何が起きたのでしょうか!!』
『左足の踏み込みでブレーキングしながらラインを変え、一瞬で内側に切り込んだのです。スリーキングダムズはシルヴァーブレイズを意識しすぎるあまり、イン側への警戒がおろそかになって宝塚記念の発走ポケットを見落としたのでしょう。その隙間を衝いた、見事なラインクロス攻撃です!』
実況と解説も興奮している。観客も大いに沸き立っていた。
その一方で、スタンド最前列は波を打ったように静かだった。
「「「………」」」
あまりに予想外の光景に、誰も二の句が継げない。
まさか、外から行くと見せかけてフルブレーキで無理やりラインを変え、イン側に鼻先をねじ込むなんて、誰がそんな破天荒なやり口を想像するだろうか。
「マジかよ……」
あのゴールドシップですら、それだけ言うのが精一杯だった。だが、スリーキングダムズが姿勢を崩したのをきっかけに、にわかに騒がしくなる。
「アイシング準備! それと万一に備えて担架を!」
東条トレーナーが忙しく指示を飛ばし、チーム《リギル》の面々が動いていく。
「マックイーン、とりあえずアイシングの用意を。ブレイズの左の足首に負担がかかった可能性がある」
「分かりましたわ!」
西郷トレーナーも、シルヴァーブレイズの足首を心配していた。
「そんなのアリかよ……」
《ミモザ》の
「スタート直後の時点で、既にスイーピーに授けた対抗手段は使いづらくなってたが、こりゃトドメ刺されたな」
川添トレーナーがスイープトウショウに授けた対抗手段というのは、残り600メートル付近から末脚を使い始め、第4コーナー立ち上がりから全開走行し、下り坂を利用して速力を上げてシルヴァーブレイズを抜く、という戦法である。ただ、これはシルヴァーブレイズが後方からレースを進めることが前提になっていた感があった。そのため、シルヴァーブレイズがスリーキングダムズをマークして先行した時点で、既に破綻しかけていたのである。
また、スタンドの別の一席では、
「すごーい! あんな切り込み方できるんだ…!」
「信じがたいものを見せられたね…」
興奮のあまり尻尾を激しく揺らすラインクラフトと、驚愕にわずかに目を見開きながらも落ち着きを崩さないシーザリオ。その後ろで、
「マジかあいつ…」
コースに視線を釘付けにしたまま、キンイロリョテイはそれだけ言うのがやっとだった。その横で、
「く……クク、ハーッハッハッハッハ!」
ナカヤマフェスタが、膝を打って爆笑している。
「信じられねぇ…阿寒湖で一度やらかしたとはいえ、普通あんな抜き方するか? あいつのスタミナなら、外から捲ることも不可能じゃないはずだが、まさか強引にインへ切り込むか…」
「くくく……やっぱりアイツは、私の想像を超えたやり方をしてくれる。これだから、アイツに賭けるの止めらんねーんだよ!」
「だから、後輩をテメーの趣味のタネにすんじゃねぇ!」
「さてリョテイさんよ、そろそろあのポイントだぜ?」
「んあ!? …ああ、そうか」
シルヴァーブレイズがちょうど、"仁川の舞台"に差し掛かるところだったのである。
「うそっ、そんなことある…!?」
「まさかそんな攻撃方法を選択するとは……怖いもの知らずと言うか豪胆と言うか。いずれにせよ、さすが
驚く相原トレーナーと、感心するアウダーチ。異なる反応を見せつつも、2人ともレースの成り行きを見守っていた。
『さあ最後の直線、先頭はシルヴァーブレイズ! 追い縋るのはサンデーアクション、内からトウホウライデン! トウホウライデンが突っ込んでくる! 外からはアクアリバー、シュガーニンフェが捲ろうとする! スイープトウショウはまだ動かないか! その後ろでスリーキングダムズが立て直している!』
もう既に、シルヴァーブレイズと後続の間には3バ身ほどのリードができている。もともとスリーキングダムズと競り合ったおかげでできていたリードが、物を言っているのだ。だが、一度は下がったサンデーアクションが再び上がってきているし、末脚自慢のトウホウライデンやシュガーニンフェが、その背中を喰らわんと猛然と追いかけてくる。スリーキングダムズも「まだだ、まだ終わらんよ!」と言わんばかりだ。
しかし、レースが残り200メートルに差し掛かったその時、シルヴァーブレイズは信じがたい行動に出た。なんと、下り坂と"仁川の舞台"の繋ぎ目となる谷底をジャンプして飛び越えたのだ。着地した勢いのまま姿勢を低く下げ、飛ぶように坂を登っていく。
『飛んだっ!? 間違いなく翔んだ! シルヴァーブレイズ飛んだ!!
200を切った、桜の栄冠へ駆け上がる仁川の舞台! 空からつばめに教えてもらえなくても良い、地上の流星ここにあり! 後続は誰も届かない!
先頭シルヴァーブレイズ、桜吹雪に無敗の戴冠だーっ!!』
歓声の中、後続に4バ身くらいの差を着けて、先頭でゴールに飛び込んだのは白い奇跡だった。
『汚れ無き桜の女王の誕生だ! シルヴァーブレイズ、無敗の一冠達成!
おっと、しかしここで審議の青ランプ! このレースは審議となりました!』
シルヴァーブレイズのゴールインと同時に、スタンドが大歓声に包まれる。熱狂が支配しつつあるスタンドの最前列にて、《シリウス》の面々も喜んでいた。
「ブレイズちゃんかっこいい…! クラシックレース、1個め勝っちゃった…!」
「マイルに慣れてるあたしからしても、あれはすごいよ……あの脚を出されたら、もしかしたら負けちゃうかもね」
サニーウェザーが目を輝かせる一方、カルンウェナンはどこか複雑そうである。まあ、こんな実力を見せられては、先輩としての沽券に関わるようなところがあるのだろう。
「やりましたわね、トレーナーさん!」
「ああ!」
メジロマックイーンが勢いで突き出した両手に、西郷トレーナーがハイタッチで応える。それにしれっとゴールドシップが混ざる。
「トレーナーさんにとっては、初めてのティアラの栄冠ですわね!」
「マックイーンもライスもチケゾーもゴルシも、みんな三冠路線だったからな。初めての挑戦でどうなるかと思ったけど、ブレイズが上手くやってくれた。つくづく、流石としか言えないな」
「おーし、桜花賞のタイトル銀星賞に書き換えてやろーぜ!」
「何無茶なこと言ってますの!」
マックイーンがゴールドシップにツッコミを入れた。
わちゃわちゃし始めたチームメンバーを横目に、西郷トレーナーはシルバーアクセサリに声をかける。
「ご覧になりましたか、シルバーアクセサリさん? 貴女の娘さんが…」
そこで西郷トレーナーの言葉は止まってしまった。
シルバーアクセサリが、大粒の涙を流している。レースを見ていた時と同じく両手をきつく組み合わせたまま、彼女は静かに泣いていた。
「トレーナー、さん」
程なくして西郷トレーナーを呼んだシルバーアクセサリの瞳には、まだ大粒の涙が光っていた。
「うちの娘が、勝ったんですよね…? ブレイズが、桜花賞のタイトルを取ったんですよね…?」
「ええ、間違いありません」
掲示板の表示が「審議」の青ランプから「確定」の赤文字に切り替わるのを見て、西郷トレーナーは大きく頷いた。
勝ち時計は1分33秒5。2着は4バ身離れて13番トウホウライデン。そこから1/2バ身離れた3着が6番シュガーニンフェ。4着、ハナ差で17番サンデーアクション。そこから1/2バ身離れた5着に、4番スイープトウショウが滑り込んだ。
ちなみに、ウマ娘レースのデータをかき集めている大手サイト「net.umarace.com」によれば、スリーキングダムズは7着入線とのことである。
いずれにせよ、シルヴァーブレイズが桜花賞のタイトルを取るのと同時に、オークスへの優先出走権の1つを獲得したのだった。
タイトルの元ネタの正体は、「モンスターハンター」シリーズに登場するモンスターの1種、《嵐龍 アマツマガツチ》の戦闘BGM「大風に羽衣の舞う」でした。
前書きに出した「凶刻【時雨】」というのは、ポータブル3rd界隈にて"最強兵器"の呼び声も高かったヘビィボウガンの名前です。このヘビィボウガン、アマツマガツチの素材から作るんですよ。
そして今回も、ウマシャル…ならぬ頭文字Dのネタ入りです。シルヴァーブレイズがスリーキングダムズを抜き去るシーンで"安田ハッピー"…失礼、「Heartbeat」を脳内再生していた方、素晴らしい、よく訓練されています。バクシンオーに倣ってハナマルを差し上げます。
ついでに、実況には「地上の星」と史実ネタが紛れ込んでいましたね。史実ネタはそう、ディープインパクトが引退した時の有馬記念の実況です。
あと、前回の次回予告でシルヴァーブレイズが「ラーメン? 要らないですわ」と言っていたのを、覚えておいででしょうか。…ひょっとすると、もう正体が分かっている方もいらっしゃるかもしれません。
そうです。その正体は"ラーメン要らないです"…「Running in the 90th」の空耳です。「頭文字D」のファーストステージにて、中里のR32 GT-Rと拓海のハチロクが対戦した時、バトルスタート時のBGMがこれでした。それを引っ張り出すことで、「途中でラインクロスX攻撃を仕掛けて、"安田ハッピー"を脳内再生するような場面作りますよ」というメッセージにしてあったのです。
新たにお気に入り登録してくださいました皆様、ありがとうございます!!
それでは次回予告です。まだ何も知らされてないのですが、今回の担当は誰だ…?
「初めまして。今回は私、シルバーアクセサリが担当させていただきます」
おお、ブレイズの母君でしたか!
「まさか、うちの娘が無敗で桜花賞のタイトルを取り、オークスの優先出走権を手にしてくるとは…。いつだったかの宣言通りに勝ってくるなんて、私としても誇らしいです。次回はそんな桜花賞の後の話となります。『咲き誇る桜、そして目指すは樫』 更新はしばらくお待ちください。
あと、この頃暑い日々が続いています。熱中症や夏バテ、そして水の事故には充分気をつけてくださいね。夏バテを防ぐには、夏野菜やタンパク質を摂るのが良いですよ。私のおすすめ料理はトマトやきゅうり、卵、ネギ、ショウガ等を添えた冷やし素麺と、豚冷しゃぶです」
ありがとうございます…家で育ててるトマトときゅうり、早速活用させていただきます。
あと枝豆って夏バテ防止に使えますか?
「枝豆も良いですよ、ビタミンB1が豊富ですから。シンプルに塩茹でにすると、経済的にもお得です」