その日、絶死は図書室にいた。聖殿の最奥にあるこの図書室には六大神がもたらした“神書”があり、ちょうど読んでいたのもそのうちの一冊『海底二万里』だ。
タイトルからどんな物語なのかと気になって読み始めてみたら、これが思いのほかおもしろく、一昨日などは徹夜して読んでしまった。
そんなわけで今の絶死は軽く昼夜逆転している状態だった。寝て起きてみれば、すっかり日が沈んでいる。
今日は特に任務もなかったが、それにしても——
(ふぅ……、さすがに屋内にこもりっきりなのは、よくないわね)
物語の中で主人公が東奔西走しているのを読んでいると、まるで自分が食っちゃ寝ニートのように思えてくる。
「おや、こちらにいらしたのですか」
すたすたと図書室へ入ってきたのは漆黒聖典の“隊長”だ。図書室の印璽がされた本をカウンターに置く。
「あなたが借りてたの、それ」
「はい?」
と隊長は絶死の手元を見る。今さっき読み終わったのは上巻。そして隊長が持ってきたのは下巻。ちょうど続きが読みたかった。
こちらの視線に気づき、隊長は納得したように声を漏らす。
「絶死様もですか。六大神の神書はどれも良いですが、これは格別でしたよ。特に物語終盤の——」
「ねぇ、ちょっと。ネタバレしないでよ」
睨んだわけではないのに、隊長は「おっと、そうでしたね」と絶死から距離をとる。もしかして、わざとやっているのか。
「ところで、例の
思い返せば魔導国に珈琲処がオープンしたと紹介してくれたのも彼だった。
「よかったわよ。珈琲だけでもあれだけメニューがあるのには正直驚いたわ。行くたびに何を注文するか迷っちゃうくらい」
「はは、絶賛ですね。もう店主に顔を覚えられているのではありませんか」
店主に会っていないのでどうか分からないけど、店員になら。
眼鏡をかけたオールバックの男が記憶の中からうやうやしく礼をしてきた。
「あなたに紹介されなかったら、行くのは100年先になってたかもしれないもの。感謝しているわ」
「ご満足いただけたなら幸いです。ですが、この頃はあまり行かれてないようですね。何かあったのですか」
「別に。大したことじゃないわ」
実はこの頃は珈琲処に行っていない。
朝11時までのモーニングが気に入って、次はトーストをジャムで食べたいと思っていたが、昼夜逆転した身ではそれもままならない。我ながら自堕落だと思う。
「ちなみにだけど、あなた珈琲は飲むの?」
隊長とはまぁまぁ話すが、おおよそ立ち話で腰を据えてということ——漆黒聖典としての作戦指令があった時は別にして——は滅多にない。
「飲みますよ。眠気覚ましにブラックを」
「ふーん」
なぜだろう。その笑顔を見ていると『え~、漆黒聖典なのにブラック飲めないの~、舌はお子さまなのね~』と煽ってきた第九席次を思い出す。
飲めないんじゃない。飲む機会がなかっただけだ。
第九席次とは一度は絶死と“訓練”をしたが、最近は以前の生意気さを取り戻してきている。今度、二人まとめてエスプレッソを奢ってやらなくては。
「そういえば、つい先日出た新メニューがあるそうですよ。もう試されましたか」
そういうのは早く言ってほしい。
「いいえ、まだよ」
というか新メニューができたのも今の今まで知らなかったのだし。
日取り窓を見ると、起きた時はまだ赤かった空が、すっかり暗くなっている。けれども、時間としてはそう遅くはないのだし、今からでも——
ぱたん、と閉じた本を絶死は本棚に返した。
●
『珈琲処 アインズ珈琲』
夜であっても、その看板は
久しいような、見慣れたような不思議な感覚になる。
からん、からん、とドアベルが鳴った。久しぶりというほどではないのに、その音色が妙に懐かしい。
「いらっしゃいませ、お客さま! あたしの……じゃなかった、あたしたちのお店にようこそ!」
活発そうな少年のウェイターに絶死は一瞬——ほんの一瞬だけ——目を奪われた。
(褐色の、エルフ……ダークエルフだったかしら)
魔導国が多様な種族を受け入れているのは他の店員を見れば一目瞭然だ。それでもエルフにはどうしても気がいってしまう。
今まであったことのない、もしかして新人だろうか?
(まぁ私は
咄嗟に思い付いたギャグに、絶死はひとり笑いを堪える。
今度、他の漆黒聖典の前でもやってみようか。
ちなみに絶死自身は知るよしもないが、彼女に“訓練”された隊員たちはこれを『笑うも地獄、笑わないも地獄』と呼んでいる。
席に着くと、ダークエルフのウェイターがメニューを出す。しかし絶死はメニューを開く前に、
「ねえ、最近でたっていう新メニュー、ある?」
「ジェリー子ちゃんですね、はいはーい。ありますよー、よっと」
(じぇりーこ? 誰それ?)
そもそも人の名前——例えば発案者とか——なのか。腕組みのひとつでもしたくなる絶死の前で、ダークエルフの少年がメニューを開く。
「はーい、当店自慢の新メニュー、ジェリー子ちゃん王道です」
開かれたメニューのページを見て、絶死は納得した。
(ゼリーにしたコーヒー、ジェリーコーヒー……、ああ、それでジェリー子)
名付けのセンスは会計アイテムのチャリンチャリンくんから相変わらずだったが、コーヒーをゼリーに、という発想には興味を惹かれた。それにグラスに乗ったホイップクリームも。
端的に述べるなら、
(かなり魅力的)
「お客さん、もしかしてこれ食べにわざわざ来てくれたんですか?」
「どうかしら。ここに通ってるって話したら、ともだ……知り合いが教えてくれたの、新メニューがあるって」
「へえー、じゃあその人もうちの常連さんかな」
その人も、というからには絶死自身もその常連さんに入っているのか。まだ片手で数えるほどしか通ってないが、そう思ってくれているなら悪い気はしない。
「かもしれないわね。それじゃあせっかくだし、その新メニュー、いただこうかしら」
「はーい、毎度ありがとうございます!」
——ジェリー子ちゃん、お一人さま、とダークエルフのウェイターが言う。
ただし〈伝言〉の魔法ではなく、ドングリを象ったネックレスを握って。あれが遠隔で話せるマジックアイテムなのだろうか。しかし話はかんばしくないようだ。
「あーのーねー、ホイップの搾り方教えたでしょ。あーもー、分かったから、ホイップあたしがやるから、それ以外は——」
ネックレスを握ったままダークエルフのウェイターが仕方ないなぁ、とでも言いたげな顔になる。とはいえ、絶死もクリームを搾るのは得意ではない。朝食にアレンジを加えようとしてパァンとなったのも一度や二度ではないし。
「仲がよさそうね。あなたと、いま話してるその子」
いいことよ、と絶死は付け加える。
「あはは……すいません、少々お待ちください」
「大丈夫。待つ準備はしてきたから」
絶死は栞を挟んだ本を開く。隊長が返した『海底二万里』の下巻だ。待っている間に少し海の底を見て回ろう。
●
「お、おお、お待たせしました。ジェリー子のお客さま……」
注文したものを運んできたのはおどおどしたウェイトレスだ。注文を取りにきたウェイターと同じダークエルフのようだが、絶死は思わず二度見してしまった。
(……似てる。もしかして双子?)
尖った耳が垂れ下がって、瞳の色も左右で逆だが、他は顔だちから背丈までさっきのウェイターとそっくりだ。けれども、この子は明らかに別人だった。いや、履いているものがズボンかスカートかの違いではない。
「あ、あれ……違いましたか……?」
「いいえ、私よ。ちょっと驚いただけ」
さっきの店員と似てたから、と言い添える。
「あ、注文はお姉ちゃんの担当で、ぼ、ぼくはキッチン担当なんです」
「へぇ、そうなの。——え?」
言ってから絶死はまたしても二度見してしまった。
(え、待って。今、お姉ちゃんって)
隠しているが、ハーフエルフは耳はいい。聞き違いではない。確かに今お姉ちゃんと——
頭の中で注文を取りに来たダークエルフの店員を思い出す。
「へ、へぇ、よく似てるわね。さすがは姉妹ね。やっぱり双子?」
「あ、姉弟です」
「え?」
「姉弟、です。ぼくたち」
姉弟——、きょうだい——、姉と——
(……弟、なの?)
今度は
なぜ自分は珈琲処に来て、エルフの男女の見分けに自信をなくしているのだ。しかし、この子が履いているものは、と絶死は目線を下げる。
「もしかして、お姉ちゃんにいじめられてる?」
「あ、いえ、そのぉ……これは至高の、あ、ぼくたちの大切な方がそうあれと」
「そう、だったの。ごめんなさいね、踏み込んだこと聞いちゃって」
「い、いえ、ぼくも、その、……この服は気に入っているので、はい、へへへ」
(あ、そうなんだ)
スカートを押さえて、照れくさそうに笑うダークエルフの少年。それを見て絶死はなんとなく腑に落ちた。もとより他人の趣味趣向に口を出すつもりはないし、本人が気に入っていているのなら、何も問題はない。似合っているのならなおさらだ。
(にしても怯えすぎじゃない?)
おどおどした態度は客の気を惹くための接待なのかもしれない。同情どころか意図的なものではないかと疑念さえ湧いてくる。まさかとは思うが——
(……私って厳ついのかしら?)
強面のファッションを意識したわけではないが、だとしたら少しショックだ。こんな——恐らく年下の——少年にまで。
『そ、そんなことはありませんよ、へ、へへ』
頭の中で同僚の無限魔力が揉み手をしてくる。あっちは心の底からの媚びへつらいだ。
(まぁ、あの子に比べたらまだ、ね)
あれに比べれば目の前のウェイターは慣れない接客でちょっと緊張しているくらいに見えた。そして、そちらばかり眺めていると、テーブルの上にはいつの間にか頼んだものが置かれていた。
ゼリーにしたコーヒーの上にホイップがふんだんに乗っている。パフェグラスに収まったジェリー子ちゃん王道。
「ありがとう」
「は、はい。それじゃ、えっと、し、失礼します」
ぺこりと頭を下げるウェイターに絶死は、
「そんなにおびえ……、畏まらなくてもいいわよ」
「はい?」
「さっきからビクビクしてたけど、もしかして無自覚だった?」
ぽかん、とした顔はきっと気づいていなかったのだろう。
「あなたかわいいんだし、もう少し自信をもっていいと思うわよ。きっと、あなたの大切な人もそう思ってるわよ」
自分にしては珍しく、笑顔の仮面で隠していない本心だった。
とはいえ、あまりキザなことを言いすぎてあのナンパペンギンの二の舞になってはいけない。
「あ、ありがとうございます。あの、これ、スプーンも、どうぞ」
また、ぺこりと頭を下げたウェイターは紙ナプキンに巻かれたスプーンを置いてキッチンへ戻っていく。
さっきよりその背筋はぴんっとしているように見えた。
●
(さて、今日のメインはこっちね)
とっても繊細な、白いガラスのようなホイップ。ひんやりとしたパフェグラスにはコーヒー色のゼリーが、まるで宝石のように詰め込まれている。
眺めているだけで楽しいが、絶死は不思議だった。
皿に乗ったパフェグラスの手前にはストローとスプーンがある。
(選べるように? それともマナーのテスト?)
そんな発想がよぎると、あのおどおどしたダークエルフのウェイターが希代の知謀家に思えてきた。いや、やりそうなのはむしろ眼鏡をかけたオールバック男の方だが。
(ふふ、こういうの久しぶり。
『……』
急に真顔になる“隊長”の顔が浮かんだ。今のは狙ったわけではないが、隊長はそういうところ容赦ない。
(さて、まずはこっちね)
やや考えて絶死はストローを手に取り、それをグラスに挿す。ホイップとその下にある氷をかき分け、ゼリーのある底まで。
(それじゃ、いただきます)
——ちゅるちゅるちゅる。
(……!?)
柄にもなく、絶死は目を見開いた。これでも抑えた方だ。
(すごい……今まで食べたことのない味)
つるんつるん、と口の中に広がる食感。しっかりとした形を保っているのもあるが、ゼリーだからといって甘すぎず、しっかりとコーヒーのほろ苦さがある。
(太めのストローはゼリーをつぶさないためだったのね。となると、こっちのスプーンも……)
何かしら付けた理由がありそうだ。
絶死はスプーンを手に取る。しゅっとした細長い、パフェ用のスプーン。
……。
ホイップをすくう。聖殿ではマナー的にできない食べ方だったので、気にはなっていた。ちょっと贅沢で、悪い子になった気がする。
これでも人類の守り手と呼ばれているらしいが、今はひとりのコーヒー好きということにしておこう。
絶死はスプーンを口に運んだ。
(……へぇ、ゼリーがほろ苦い分、こっちは甘いのね)
白いクリームと黒いゼリー。二つの味が一緒にある。にっこりと、唇がやや好戦的に笑う。
それは単においしかったからではなく、白と黒の色合いが気に入ったからでもある。
それに上から食べるためのスプーンと、下から食べるためのストロー。それぞれ違った食べ方があるのもおもしろ——
(……あぁ、なるほどね。そういう)
なぜ
微笑んでいるつもりなのだが、同僚からは獲物を前にした獣のよう、と評されているので、絶死自身もそうなのかと捉えている。
再びホイップにスプーンを挿す。その下にある氷を避けて、グラスの奥にあるコーヒーゼリーをすくう。
ぷるるん、ぷるるん、と振るえるコーヒーゼリーはまるで逃げたがっているようだった。
(抵抗しても無駄よ。ほら、大人しくホイップとからみなさい)
グラスの端に追い込んだゼリーをスプーンで挟み撃ち。そして、まだたくさんあるホイップをからめてひと口——
(……おいしい)
口の中でもしっかりぷるぷるするゼリーは冷たくて、やはりほろ苦いが、それを濃厚なクリームの味が包み込んでいる。くどくない甘さ。これなら子供舌と言われてもいい気がする。
スプーンで食べ進めていくと、やがてゼリーは氷の下に隠れてしまう。これだと少し食べづらい。
(へぇ、今度は隠れんぼ? でも、そんなところに隠れたって見え見えよ)
グラスの曇りを手でぬぐう。こういう時のためにあるのだろう、と絶死は氷の間にストローを挿し込む。
(ひと口たりとも逃がさない)
とろとろになったホイップがとけて、カフェオレ色になったコーヒーゼリー。
ストローの中をゼリーとホイップが交互に上ってくる。舌先に触れる食感が少し変わる。そして味も。
(ミルクを入れたコーヒーみたい)
しっかりと苦味がありつつも、ミルクのまろやかさが合わさり、さっきまでとはまた違った味になる。
一杯でこれだけの味が楽しめるなんて。
(画期的。考案した店員はどんな相手なのかしら)
一度顔を見てみたい。そんなことを思いながら、絶死は口いっぱいにジェリー子を頬張る。子供っぽいかもしれないが、それ以上に今は幸せだった。
●
「お客様、お楽しみのところ申し上げございませんが」
呼ばれて絶死は本から顔をあげた。ジェリー子だけでは物足りなくなり、あのあとアイスコーヒーを頼み、それをちびちび飲みながらゆったりと読書いた。
本当はルビクキューの2面を揃えるのにも挑戦しようとも思っていたが、読んでいた『海底二万里』が予想以上に面白く、下巻は借りたばかりなのに、もう半分以上も読んでしまった。
「……ん、どうかしたの?」
「はい。大変申し訳ないのですが、当店は間もなく閉店でして」
時計を見る。
針は9時の手前まで来ていた。あと15分とない。
(もうそんな時間)
閉店時間までいたのは初めてだった。楽しいと時間がすぎるのは早い。
明日になればまた来られる。なのに「閉店」と言われるとなぜか少し寂しかった。
自分の中にあったものが少しだけなくなってしまったような、体がきゅっと内に縮むような感覚。
けれども名残惜しむのは柄ではない。
「ごちそうさま」
絶死は伝票を持って席を立った。
「お会計はこちらに」
「チャリンチャリンくんね」
銀貨を入れると名前と同じ音を鳴らしてお釣りの銅貨がでてきた。変な名前だと思っていたが、こうして見ると案外かわいいかもしれない。
「ああ、そういえば」
絶死はふと思い出した。
「ここ、定休日はあるの」
来てみて休みだった、と言うのは嫌だ。絶死の訊きたいことを察したのか、オールバックの男は言う。
「いえ、当店は年中無休でございます。いつでもご来店、お待ちしております」
男は眼鏡を光らせる。よく光る眼鏡だ。
「そう。新メニュー、おいしかったわ」
「これはこれは。ご好評で何よりです。次に来られた際にも、ご満足いただけるよう精進いたします」
「それは楽しみ」
「ありがとうございます。またのご来店、心よりお待ちしております」
合わせて、同じ声が聞こえてくる。振り返ると、後ろで見覚えのある店員たちが一様に礼をしていた。
「ええ」
——また来るわ。
扉を開ける。からん、からん、とドアベルがいつもと変わらない音を鳴らす。
外はすっかり夜のとばりが下りている。月は出ていないが、ぽつらぽつらと灯った街の明かりは星空のようだった。
しばらく歩いていると後ろ髪を引くようにコーヒーの香りを含んだ風が吹く。振り返ると『アインズ珈琲』の看板はもう遠くなっていた。
柄にもなく、絶死は胸に手をやった。
ほろ苦い、まるでコーヒーを飲んだような気持ちになる。
(……厄介ね、何かを好きになるって)
絶死が見ている中で、明かりがひとつ消えた。街には他にもたくさんの星が光っているが『アインズ珈琲』の看板はもう見えなくなっていた。
(さようなら。また来るわね)
絶死は踵を返して歩き出す。
次来た時は何を頼もうか。そんなことを考えながら。
元々短編3話で完結かなと思って書き始めたものでして。
そういう理由から最終回っぽい雰囲気ですが、可能であればもう少し投稿したいです。