(まったりしたいわね)
温かいシャワーを浴びながら、絶死はふと思った。
聖殿の一角――タイル張りのバスルームで絶死はひとり汗を流していた。
曇った鏡を濡れ手でこすると、一糸まとわぬ自分の後ろに大浴場が広がっていた。昔は広すぎると思っていたが、今ではもう見慣れてもの珍しさすら感じなくなってきている。
(永く生きてると、新しいことが減るばかりね)
バスルームの窓からは朝日が射している。
だが、絶死の今日のやることはもう終わっていた。
昨晩から続いていた戦闘が長引き、このままでは消耗戦になると判断した現場指揮官が法国に応援を要請したのだ。
漆黒聖典がひとりいれば状況は打開する、とでも打診したのだろう。
しかし、タイミングの悪いことに荒事向きの漆黒聖典は別の作戦で出払っていた。絶死のところにも任務の報告書は回ってきてはいたが、いつものごとく読んではいない。
こういうのを『お鉢が回ってきた』というのだったか。要するに絶死に出動命令がかかったのだ。
現場にいた火滅聖典の隊長は度肝を抜かれたことだろう。実際、絶死が顔を出すと、歴戦の指揮官は入隊したばかりの新人のようにへこへこしていた。
「状況は。どんな感じ?」
絶死は訊いた。知っている人間に訊く間もなく〈転移〉させられたので、苦戦しているということ以外は知らなかった。
「はっ! 現在交戦中のビーストマンが儀式により
(ああ、あのおっきい埴輪みたいな)
六大神の間では『でか埴輪くん』と呼ばれていたらしい。ゲリラ戦を得意とする火滅聖典としては数で取り囲んで対処できない、不得手な相手だ。
「わかったわ。ちょっと待ってて」
と言って絶死は戦線へと向かう。
両手に装備した刺々しいガントレットを光らせて。
●
『――ふぅ、終わったわ』
絶死は額に浮かんだ汗をぬぐった。
足下には土塊に還った土の精霊たちが倒れている。
体力はあるが、動きはさして早くない相手だ。
振り下ろされる豪腕を回避し、ワンツーパンチを打ち込む。反撃してくる巨体を避け、またワンツー。その繰り返しだ。
戦闘は15分と経たず終了した。
残ったビーストマンたちも火滅聖典が制圧しつつあった。
『それじゃ、私は帰るから』
帰還する絶死を、火滅聖典の隊長たちは唖然とした目で見ていた。それは漆黒聖典の強さを目の当たりにしてなのか、それとも絶死個人に対してだったのか。
シャワーを止めて、髪を乾かしながら絶死はそんなことを考える。やはり拳で戦うのはよくなかったか。ハンマーでぽかぽかやった方が……
『そういう問題ではありませんよ、絶死様』
頭の中で漆黒聖典の“隊長”が言ってくる。
以前、見かけ年頃の少女が脳筋云々とよくわからないことを言っていた気がする。
(そんなことより、今日はまったりしたいわね)
早起きしたが、任務が終わってしまえば、特にすることもない。
空白の一日が妙に寂しく感じる。昨日や一昨日みたいに部屋のベッドでゴロゴロというのはなんとなく嫌だが……
こんこん、と誰かが扉をノックする。
「あ、あの、絶死様……いらっしゃいますでしょうか。朝のお飲み物をうかがいに来たのですが」
無限魔力だ。扉の向こうで揉み手をする姿が透けて見える。
(そうね……)
いつものように果実水にしようか。そう思ったが。
「今日はいいわ。それより、ちょっと〈転移〉で連れてってほしい所があるのだけど?」
言いながら絶死は服に袖を通した。出掛ける準備をしなくては。
●
(この頃はあんまり来てなかったのよね、ここ)
正門から魔導国に入って、一番大きな通りをまっすぐ行った所に、木彫りの看板が立っている。
『珈琲処 アインズ珈琲』
午後の日差しが店の名前を照らしている。
こぢんまりとした店構えは前に来た時と変わらない。けれども、なぜだか心が浮き足立つ。そんな気がした。
――からん、からん。
扉を開けるとドアベルが鳴った。
ひとりであることを告げる。いつも座っていた窓際のボックス席が、まるで指定席であるかのように空いていた。
早速メニューを開いて――、絶死はページをめくる手を止めた。
初めて見るメニューがあったからだ。
――敗北を知りたいあなたに。
人生最初にして最大の敗北の味を、極上の苦味で表しました――と、メニューにはそう書かれている。
(まるで私を名指ししてるみたいなメニュー)
絶死は新メニューの説明文を読みながら小さく唇だけで笑う。
今日は読みかけの本——隊長が返却した後すぐ借りた『海底二万里』の下巻——とルビクキューも持参して、ゆっくりする気でいたが。
再びメニューに目を落とす。
じっくり焙煎したブラックマウンテンが、敗北した際に舌に広がる味と香りをあなたにお届け。是非お食事のあとの最後の一杯にどうぞ。
(へぇ、なかなか言うじゃない)
魅力的、と絶死はつぶやく。
小さなカップ――それこそ手にすっぽり収まりそうなほどのサイズ――のコーヒーは他の追随を許さないほどの濃い色をしていた。
例えるならカップに注がれた漆黒。ひと口で飲めてしまいそうな少なさが、また興味を惹く。
ベルを鳴らすと、ウェイトレスはすぐにやってきた。
カツンッ、とこぎみよく鳴る靴底。軍帽にびしっと手を沿えた敬礼。そして、
「よぉこそおいでくださいましたッ! ご注文をお伺いします!」
「…………」
ここはオペラ座だったか。
大袈裟な動きとビブラートのかかった声は舞台役者以外の何者でもない。これでメイクでもしていれば完璧だったが。
軍帽を被った――なぜ軍帽なのかは謎だが――店員の顔は埴輪のそれだった。見れば手も尖った三本指をしている。
(……ドッペルゲンガー?)
変身能力に長けた異形種だ。そのままの顔を晒しているのは、なるほど、
「いかがなさいましたか、お嬢さん」
「お嬢、さん?」
もしかして自分のことだろうか。
店内には他にお客もいるが、お嬢さんと呼ぶに相応しい年齢層は……うん、見当たらない。
「おぉっと失礼。あまりに可憐なお姿に、つい言葉がでてしまいました。ご注文はお決まりでしょうか」
片手を胸にあて、まるで囚われの姫を救い出す王子のように、手を差し伸べる店員。
ちらりと絶死は他のテーブルを見てみる。
――ご注文をお伺いするでありんす。
――オ待タセシマシタ。
この珈琲処全体がオペラ風のサービスをしているわけではないようだ。相変わらず異形種は多いが。
「煉獄のエスプレッソ、ひとつ」
「おぉ、煉獄のエスプレェェッソ! 当店自慢の至極の一杯! こちら、とても苦い一杯となっておりますが、よろしいでしょうか」
「ええ、問題ないわ」
絶死は腹のうちを隠すように口角をつり上げる。ミルクも結構よ、と付け加えると。
「Wenn es meines Gasts Wille !
(我がお客様のお望みとあらば)」
……ぞわっ
なぜだか、急に鳥肌が立った。神々の使っていた言語でドイツ語、というのだったか。
「では少々……お待ちください。――ご注文、承りましたっ!」
腕をさする絶死をよそに、軍帽のウェイターは舞台役者のような大仰な動作で戻っていった。
●
「――お待たせしました。こちら、煉獄のエスプレッソです」
しばらくして、ボードを持った店員が現れた。
眼鏡をかけたオールバックの男だ。
お皿に乗った、小さなカップがテーブルに置かれる。
思っていたほど色は濃くない。むしろ、もうミルクが入っているかのようにほんのりと……
(ん? これ……)
危うく見誤るところだった。
漂ってくる濃厚なコーヒーの香り。色が薄いように見えたのは、ぽつぽつと弾ける泡のだった。よく見れば泡を奥に、これでもかと濃縮されたコーヒーの黒色が見える。
「いい香り。飲む前から楽しみ」
「ありがとうございます。コーヒーとは元々味と、そして何より香りを楽しむものだと当店の店主も申しておりました」
「そうなの? 紅茶みたい」
「近しいところはあるやもしれません。茶葉であれ豆であれ、それ本来の香りを楽しむ。エスプレッソは、ある種その究極形といえます」
焙煎した豆を挽き、熱々の湯で加圧して淹れるらしい。
「へぇ、珈琲豆からしたら、地獄の責め苦みたい。ああ、ここは煉獄って言うべきだったかしら」
「お気になさらず。補足させていただきますなら、豆はわたくし自慢の煉獄の溶岩熱で焙煎し、挽いた後にガルガンチュアを使い高温加圧で抽出いたしております」
(ガルガンチュアって、確か六大神の……)
城を攻め落とすための超巨大ゴーレムだと聞いている。それが挽きたてのコーヒーをプレスして抽出している様はどこかかわいらしかった。
そうするとコーヒーの香りと旨味を余すことなす抽出できるのです、と眼鏡のオールバック男は語る。
なるほど、それでこうも濃厚な一杯ができるのか。
(ただ飲むのもいいけど、淹れ方を知って飲むのもいいわね)
今度“隊長”にも淹れてあげようかしら、と絶死は苦虫を噛み潰したような隊長の顔を想像し、笑いを押し殺した。
「いかがなさいましたか」
「なんでもない」
そうですか、と男は眼鏡を直した。
「講釈が長くなってしまいました。では、冷めないうちにどうぞお楽しみください」
「ありがとう。……ん、どうかした」
一礼して下がろうとした眼鏡の男がちらりと絶死を見た、――ような気がした。
「いえ、やはりあなた様が最初に頼まれましたかと思いまして。実はこちらの煉獄のエスプレッソ、メニューに出してかれこれ一週間ほどになるのですが、どなたも注文されなかったものですから」
(不人気……じゃなくて、きっと説明文のせいよ、それ)
と言いかけたが、まぁそれならそれでいい。自分が一人目になるまでだ。
では今度こそ、ごゆっくりおくつろぎください、と眼鏡の男は下がっていった。
(さて、いただこうかしら)
絶死はカップを手に取る。
子供のお人形遊びに使う玩具のカップのような小ささ。これで自分に挑んでこようなんて、その自信も含めてかわいらしい。
「……ふふ」
(私が飲めないほど
絶死はカップに口を付けた。
……。
…………。
にっっっがっ……⁉︎
思わず口許を押さえる。堪えようとしたが、我慢できなかった。
(これがコーヒー本来の味? 思ってたのと……うっ……全然違うわね)
ごくり、とひと口目を飲み干す。
まだカップにはコーヒーが残っているが、ひとまずはこれで……
「……⁉︎」
(うそ、これ……、後味までしっかりと苦い)
気づけばコーヒー色の水面に写った絶死は笑みを貼り付けていた。
いつもの感情を隠す時の顔だ。平静を装っているが、舌の上は苦々地獄だった。言い回しが子供っぽい? ……うるさいわね。そんなことを気にしている余裕はない。
できることなら流水で舌を洗いたい。あるいはミルクをガブ飲みしたい。
だけど、と絶死はそのままの表情で店内を見回す。不自然に笑った唇と、瞬きすらしない目が仮面めいている。
絶死の苦悶に気づいている様子はない。お客だけでなく店員も。
ただし、見ていなくても見ている目はある。
漆黒聖典・第七席次“占星千里”。
彼女の前で隠しごとは無意味と言われる千里眼の使い手だ。
周辺国の監視。それが彼女の任である。だからつまり、占星千里が何かの拍子に魔導国を、この珈琲処を覗き見てしまうかもしれない。
そもそもこの店を見つけたのも彼女だし、そうでなくても番外席次の名を背負っている身で無様なことはできない。
(頼んだものくらい飲み干すわ。いただきます)
二回目のいただきます。
絶死はカップを持つ。
……。
…………。
(ちょっと待とうかしら。クールタイムよ)
魔法にだって再発動までに時間がかかるものがある。あれと同じだ。
一旦カップを置く。
(ふう、これが敗北の味? 負けたことなんて……ああ、
苦汁をなめる、とはいうが、なるほど。その辛さだけならまぁ分からなくもない。
(とりあえず水を……)
テーブルを見る。エスプレッソの他にカップはない。
(あのオールバック男、悪魔かしら)
頭の中でオールバックの男が眼鏡を光らせる。そういえば、振り返りざまに鎧をまとった尾が揺れていた。
ナンパペンギンとキノコ頭のバーテンダーの前例もあるし、何らかの異形種だとは思っていたが、まさか本当に悪魔なのか。
(煉獄のエスプレッソ……。確かに悪魔の飲み物ね)
香りはいいし、口を付けるまでは上品な雰囲気を――絶死自身も含め――放っていた。というかその気になっていた。
しかしまぁ、名前は伊達ではなかった、ということか。
甘いものでも頼もうかとメニューに目を向けて、絶死は心の中で首を振る。
ここまで骨のある相手も珍しい。そもそも敗北を知りたいと願ったのは自分だ。
(まぁ、ここでいう敗北が何にあたるかは別としてだけど――)
今日はまったりする気でいたが、読みかけの本もルビクキューもひとまずお預けになりそうだ。
テーブルの上にいる相手は今朝の
けれども、今まで戦ってきた相手より、よっぽど強敵な気がした。
小さなカップを再び手に取る。
コーヒーはまだ半分ほど残っていた。
(私ね、人類の守り手なんて呼ばれてるらしいの)
早朝から敵を屠り、昼前には誰も飲めなかったエスプレッソをしたたかに飲む。らしくなってきた、と絶死は唇だけで笑う。
(いただきます)
三度目の挑戦だった。
絶死はカップを傾け、しっかりとその苦味を味わった。
●
「おや、完飲されたのですか」
様子を見にきたのか、店の奥から出てきたオールバックの男が言った。
「お口直しにシロノワールでもいかがですか」
シロノワール。確かデザートメニューにそんな名前があった。デニッシュと魔導国発祥のソフトクリームという甘味を乗せたひと品。
思えば食べてみたいといいながら、なかなか食指が動かなかったのだが。
「それはまた今度いただこうかしら。煉獄のエスプレッソ、なかなかだったわ」
「お褒めにあずかり恐縮です。――実を申しますと、このメニューはあなたをターゲットにしたものなのですよ」
「へぇ、そうなの」
だから敗北を知りたいあなたへ、なんて売り文句を。
だけど、それよりも――
「私のこと、知ってるの?」
これでも秘中の秘とされている身なのだが。
「ええ、存じ上げておりますよ、法国とはまだ国交はありませんが、いずれ2号店を出店させていただくやもしれませんので」
その時はよろしくお願いいたします、とオールバックの男はうやうやしく礼をした。
「そう。近くにできるのはありがたいことね」
その出店がどういう意味なのか、それはこの際、棚上げしておこう。絶死は伝票を持って席を立った。
「また新メニューができたら味わいたいわね」
「でしたら、法国にお知らせいたしましょうか。――お会計はこちらに」
チャリンチャリンくんに銀貨を入れる。名前と同じ音を鳴らして、お釣りの銅貨が下から出てくる。
「わざわざ知らせてくれなくてもいいわよ」
法国には目も耳もある。
きっとその気になれば、誰よりも早く新メニューの情報を察知できる。ああ、そうだ、次からはそうすればいいのかもしれない。絶死はそんなことを思った。
「また敗北を味あわせてくれるの、楽しみにしてるわ」
そう言って絶死は『アインズ珈琲』を出た。
昼前の太陽はまぶしく、帰り道を温かく照らしていた。