私には好きな人がいる。
サトノ家の悲願のGⅠ勝利を導いてくれたトレーナーさん。
文字通り身を削って私を支えてくれた。そのおかげでURAファイナルズにも勝つことができた。
毎日遅くまでレースの研究やトレーニングメニューの精査をしてくれているのを知っている。
私が勝つ度に、我が事のように一緒に喜んでくれた。
そんな彼に惹かれるのにはそれほど時間はかからなかった。
でも、私は知っている。
私の好きな人は、私じゃない人を愛してることを。
左手薬指がキラリとした光が嫌でも現実を突き付けてくる。
だから、この感情は抱いちゃいけない。表に出しちゃいけない。
彼は誠実な人だ。
自分の好きな人のことだからこそ分かる。
私が惹かれた彼は、決して愛する人を裏切ったりしない。
だから、抑え込んで抑え込んで、必死に明るく振る舞う。
身が裂けそうな思いを押し殺す。
この思いがいつか風化するまで。
彼はいつも幸せそうだった。
それを私が壊しちゃいけない。困らせちゃいけない。濁らせちゃいけない。
そう思っていたのに。
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その日は唐突に訪れた。
夏合宿が終わって学園に帰ってきた次の日。
「おはようございます、トレーナーさん」
普段と変わらない時間にトレーナー室へと着いた時、私が見たのは生気が陰った目をしたトレーナーさんだった。
手元のノートPCに目は行っているものの、ぼーっとしておりどこか焦点が合っていない。
すぐに私の入室に気付いたトレーナーさんは即座に表情を繕う。
「おはようダイヤ。よし、今日もトレーニング頑張っていこう!」
彼が努めて普段通りの笑顔を取り繕っているのが分かった。
多分、彼をよく知らない人が見たら気付かないと思うほど、ごく自然なものだったと思う。
でも、私には作り物の笑顔が貼り付けてあるようで怖く思えた。
彼が触れてほしくないなら気付かないフリをしようかな、と最初は思った。
わざわざ何事もなかったように振る舞っているのだからそれに合わせるべきだ。
でも、ふと思った。
彼はこの陰りの理由を奥さんには吐露するのだろう。
私には見せてくれない弱々しい姿を愛する人には惜しげもなく見せるのだろう。
私の中に、小さな炎が点いた気がした。
「………何か、あったんですか…?」
ほんの一瞬だけ、彼の眼が見開かれたのがわかった。
「…何かって、突然どうしたんだい?」
「どうしたって…。どうしたのはトレーナーさんですよ! 平気なフリしてますが分かります。悲しそうに、辛そうにしてる……!」
白を切られたことに思わず感情が高まってしまった。
「ハハハ…。敵わないなダイヤには。上手く隠していたつもりだったのに。そんなに分かりやすかった?」
乾いたように笑いながら、お手上げとばかりに白状してくれた。
「心配かけてごめんね。うん、ちょっと気落ちするような出来事があったんだけど、すごく個人的なことだからさ。表には出さないようにしてたのに俺もまだまだだなぁ」
おどけたように笑う彼は詳しくは話してくれないようだった。
それ以上は踏み込みすぎかもしれない。もし、身内の不幸などであれば軽々に聞き出せないと思っていた時…。
私は見た。
彼の左手を。
あったはずのものが、そこにはなかった。
あれだけ目障りだった光が。
消えていた。
胸の奥の炎が強まる。
「その、何があったかお話してはいただけませんか? 私では頼りにならないかもしれません。ですが、それでも…!」
私はいつもの我儘を懇願するように言った。少しでも話してくれるように。ずるいやり方だと知りながら。
トレーナーさんは、少し考える素振りをする。
自分が気分を落とすような話を担当ウマ娘に話していいものか悩んでいるのだろう。
担当に聞かせるような話ではないが、自分のことを想ってくれている気持ちを無下にも出来ない。という葛藤。
「…ありがとう。でも、予め言っておくけど聞いてて気分の良い話じゃないからね」
そう初めに告げたトレーナーさんは、それから淡々と何があったか語ってくれた。
夏合宿から帰る日を間違えて奥さんに伝えていたことから始まった。
その当日に特に連絡を入れることなく帰宅すると、玄関に奥さんのとは別に、自分のものじゃない男物の靴が散らかっていた。
まさかと思っていると、夫婦の寝室から嬌声が響いていたそうだ。
その場で二人を問い詰めると、奥さんは開き直ったようにその男との関係が去年から1年以上続いていたことを白状しだした。
いつも仕事ばかりで家庭を顧みない事に鬱憤が溜まっていたところを優しくされたと。それで不倫に走ったからトレーナーさんのせいだと。
「そんなことがあってさ、もう離婚することになったんだ」
語り終わったトレーナーさんは、今まで見たこともないような悲痛な顔をしていた。
当たり前だ。長年信じていた人に実は1年以上裏切られていたのだから。
「そんなっ…! すみません! そんな話をさせてしまって…!」
私はすぐさま謝罪した。
両手で口を抑えて頭を下げた。
トレーナーさんはすぐ困ったように笑いながら「ダイヤは悪くないから気にしないでくれ」と言ってくれた。
ごめんなさいトレーナーさん。ダイヤは悪い子です。
申し訳なく思ったのは事実ですが本当は違うんです。
こうでもしないと、口角の上がりを抑えられそうにないんです。
胸の奥の炎が燃え上がるのを感じる。
なんてことなのでしょう。
向こうから勝手に手放してくれるなんて。
バカな人。
一時的で自分勝手な感情で、こんなに心根の良い方を裏切るなんて…。
トレーナーさん以上に思いやりのある誠実な男性なんてそうは居ないのに。
その中でも自分を真に愛してくれる人なんて、彼をおいて他にいるわけがない。
唯一無二の宝を自ら手放した。
トレーナーさんを裏切って傷つけたことは許せません。
ですが、今は"元"奥さんの愚かさに感謝いたします。
心の高ぶりを抑え込んだところで顔を上げる。
こんな好機は二度とない。
そっと近づいた後、両手で彼の手を包んで目を合わせる。
「トレーナーさんの受けた悲しみを私は計り知れません…。それでも言わせてください。ダイヤはどんなことがあっても貴方の味方です!」
言葉と目に熱を込める。
生半可な言葉では今のトレーナーさんの心には届かないと思った。
だから、嘘偽りのない真実の言葉を本気で伝えた。しっかりと双眸を見据えて。
「…ありがとうダイヤ。実は少し女性不信になりかけていたんだけど、キミに話して良かったよ」
「ダイヤのように信頼できる人が近くにいる。そう思うと少し心が楽になったよ」
そう言ったトレーナーさんの笑顔は少し陰りが薄れた。
まだ完全になくなったわけではないが、あの貼り付けたような偽の笑顔ではなくなった。
「少しでもお役に立てたなら良かったです!」
「とんでもない。おかげで嫌な気持ちが吹っ飛んだよ。それじゃあ改めてトレーニング始めようか」
「はい!」
"切り替えた"ということにして元気に返事をする。
今はこれで良い。まだ焦ることはない。
隣の席は空いたのだから。
あの、絶対に空かないと思っていた席が。
「ふふっ……♪」