正直言って、初めは不安だった。
今まで担当してくれたチーフトレーナーが体調を崩してしまって、その流れで当時まだサブトレーナーだった彼が私の担当をすることになった。
まだ担当を持ったことのない経験の浅さに対する不安も多少はあったかもしれないが、実際は違う。
彼が男性だったから。
もちろん、彼が悪い人間ではないことは知っていたし、信頼出来るとも感じていた。
それでも、私の理屈ではない部分が心を圧迫してくるようだった。
ただ安心出来るところもあった。
彼はよく気を遣ってくれて、私が男性を苦手としていることを理解して、不必要に近寄らず距離を空け、なるべく二人きりにならないように配慮してくれていた。
そして何より、彼の左手薬指の輝きが、私を安心させてくれていた。
そう、最初は。
もうすぐ三年になるほど苦楽を共にしていく中で私の心境は180度変化した。
上がり症でレースになると上手く実力を発揮できない私に、彼は我慢強く付き添ってくれた。
心の在り方を説いてくれた。
今でも男性を苦手とするのは間違いないが、彼はその域を大きく越えてしまった。
彼は私の特別となった。
私を受け入れてくれる、信頼出来るパートナーとして認識するようになっていた。
そうなってから、私を安心させていたあの光は皮肉にも今度は私を苦しめるようになった。
自分勝手で都合の良い話だと自分でも思う。
それでも、願わずにはいられない。
その光を消して欲しい…。
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最近、トレーナーの様子がおかしい。
初めは気のせいかと思っていたが、しかしその違和感が一ヶ月も続けば流石に気のせいではないと思い始めた。
しかし、確証がなかった。
トレーニングは変わらず見てくれているし、距離感も変わっていない。
ただなんとなく、トレーナーと接する時に薄く見えない膜が増えたような違和感。
もやもやした気持ちが湧き上がるが、もし気のせいだったらと思うと恥ずかしくてトレーナーに直接聞くことも出来なかった。
そんなある日、トレーニングが休みだったこともあり私はチーフトレーナーのお見舞いに来ていた。
「こんばんは。調子は大丈夫ですか?」
「あら、いらっしゃいベルちゃん。来てくれてありがとうね」
「いえ、私も好きで来てますので」
どうぞ座って、と促されたので椅子を引いて座る。
「ベルちゃんの方は最近どう? エリザベス女王杯を勝ったからってあの子浮かれたりしてないかしら」
不意にトレーナーのことを聞かれ、思わずドキリとしてしまう。
近頃の違和感が頭に浮かぶものの、それを無視して返答した。
「いえ、トレーナーは…その、変わらず見てくれてます」
余計なことを考えたせいか、少したどたどしい答えになってしまった。
しまったと思ったもののもう遅く、目の前のチーフトレーナーはそれを見逃してくれなかった。
「……そう。でも、なんだか歯切れが悪いようだけれど、何か気になることでもあるんじゃないかしら? まさかあの子なにか…」
チーフが悪いように深読みしそうだったため、慌てて否定する。
「ぁ、いえ! トレーナーは別に何も。 ただ、その……なんとなくなんですけど、最近トレーナーの様子がおかしい気がして…」
「様子が? それって大体いつ頃から?」
「えっと…、大体一ヶ月くらい前から…。気のせいなのかもしれないんですけど…」
「一ヶ月……? ……ッ」
私の返答を受けて少し考え込むような仕草をとったチーフが突如何か思い当たるような様子を見せた。
何かあったことを確信した私はすかさず問い詰める。
「何か思い当たることがあるんですかチーフ? 教えてくれませんか?」
「……んー、そうねぇ。教えてあげたいのは山々だけど…。でも、ごめんなさい。少し繊細な話だから私の口から言うわけにはいかないのよ」
繊細な話。
そう言われた時、私の心にヒビが入るような感覚を覚えた。心の支えが崩れていくような気がした。
チーフには話したんだ。
ならなんで私には教えてくれないの?
もしかして私のことはそんなに信用できない?
私はあなたのことをこんなに信頼してるのに。
もしかして、私だけが……
どんどん悪い方向に考えがいって、呼吸がやや不規則になっていく。
目尻にじわっと涙が浮かんできた。
「そう…ですか…」
なんとかチーフにそう返したが心がざわつきが収まらない。
これ以上はチーフに迷惑だと思って退席しようとする。
「待ってベルちゃん! ……そう、もうあなたの中であの子の存在はそれほど大きなものになっていたのね…」
そう言って私を呼び止めるチーフ。
少考の後、私を見据えた。
「あなたがそんな風になるのはあの子も本意じゃないだろうし、未だに言ってないあの子にも問題があるものね…」
仕方がない、という様子で秘密を解いてくれた。
いざ知れるとなると、心境としては複雑だった。
聞きたいけど、内緒にしてた私なんかが聞いて良いのだろうか、と思ってしまう。
「あの子ね、先月奥方と離婚したそうなの」
私の思考はあっさりと打ち消された。
あまりの予想外な言葉に胸の鼓動が荒くなる。
「…ぇ…? そ、それ本当なんですか? あ、でも指輪が…」
「指輪を外さないのは多分、あなたのためよベルちゃん」
「わたしの……?」
「あの子なりに気を遣ってるのだと思うわ。男性が苦手なあなたに対して、担当トレーナーが妻と離婚して突然指輪を外す、だなんて出来事を目の当たりにしたら不安にさせちゃうと思ったんじゃないかしら」
そう言われてみて、ようやく理解した。
これまでのトレーナーの違和感を思い返すと、"隠し事がバレないか不安だった"という理由が一番納得出来た。
胸の内側の暗いもやもやが晴れていく。
代わりに、鼓動がどんどん強くなっていくのがわかった。
「それに、離婚の理由も関係してるの」
チーフはさらに続ける。
「奥方が、担当ウマ娘を優先して仕事ばかりしているあの子に怒って聞いたそうなの『担当と私、どっちが大事なの!?』って。そしたらあの子なんて答えたと思う?」
問いかけるような口ぶりのチーフに私は黙して続きを待つ。
口を開くと、この荒げた心臓の音が溢れてしまいそうだったから。
「あの子『今はドーベルの方が大事だ』って言ったの。それで奥方は怒ってしまって、ほとんど喧嘩別れみたいに離婚したそうよ。…全く。あの子が不器用なのは知ってるけど、そんなこと言ったら奥方怒るに決まってるわよね」
呆れたような口調でチーフが話し終える。
トレーナーの衝撃の事実を聞かされ、私はまだ口を開けずにいた。
トレーナーが離婚して独身という事実が私の心を波立てる。
驚愕と、心配と、、、期待に。
奥さんより、私を選んでくれたんだ…。
「理由が理由だからベルちゃんには話しづらかったのね。あの子なりの優しさだから許してあげて」
言葉を向けられて、ようやく硬直が解ける。
「そ、それはもちろんというか…。むしろ、私がトレーナーの秘密を聞いちゃって悪い気がします」
なんとか言葉を紡いだが、そんな私にチーフはふふっと笑みを漏らした。
「そう言う割には、今のあなたとても良い顔してるわよ」
えっ!? と慌てて自分の顔に触れる。
顔は火照って、口角が自然と上がっていたことにようやく気付いた。
自分でも無意識だったことに混乱する。
「えっ!? いや、なんで……!」
「ベルちゃん」
あたふたと慌てる私に、穏やかな顔をしたチーフが優しく呼びかけた。
それは、悩める孫を導く祖母のような眼差しだった。
「後悔しないようにね」
そう言われて総毛立つ。
そうだ。
別れただけで、トレーナーはまた別の人と付き合ってしまうかもしれない。
結婚もしてしまうかもしれない。
私以外の女と。
そんな想像をして、ひどく悲しい気持ちになった。
それが答えだった。
そうか、
「チーフ! すみません、今日はこれで失礼します!」
「はい、今日はありがとうね。頑張んなさい」
「はい!」
急いで、病室を飛び出して学園へ向かった。
もう夕方になろうとしているが、この時間ならまだトレーナー室に居るはず。
扉の前に立ち、一度深呼吸した。
息を整えてからドアノブに手をかけ、開いた。
「あれ、ドーベル? 休みの日にどうしたの?」
机のノートPCに向かって仕事をしていたトレーナーは顔をこちらへ向けて問いかけた。
カツカツと近づいて見ると、彼の左手薬指にはまだ光が着けられていた。
「ねぇ、トレーナー。それ、外していいよ」
彼の左手を指差して言った。
一瞬目を見開いたトレーナー。
しかし、私の突然の訪問、それにこの言葉にトレーナーは全てを察したようだった。
「…バレちゃったか。チーフに聞いたの?」
苦笑しつつトレーナーが白状する。
「うん、最近トレーナーの様子がおかしい気がしたから相談したの」
「なるほど。心配かけさせちゃったね、ごめん」
「ううん、いいの。それよりも─」
「指輪か。無駄な心配させないように着けてたけど、もう昔のドーベルとは違うか。余計なお世話だったみたいだね」
そう言って。
トレーナーは自身の左手薬指に手をかけた。
いくらか引っかかりがありつつも、徐々に指輪が薬指から外れていく。
完全に抜けた指輪を、トレーナーはそっと机に置いた。
光が消えた瞬間だった。
あの消えてほしかった光が。
同時に私の心に光が差した。
暖かな日差しのような、晴れやかな気持ちになった。
一歩、トレーナーに近づく。
「心配しないで。まだ男の人は苦手だけど、
「そっか。ドーベルにそう言って貰えるとなんか感慨深いものがあるなぁ」
しみじみと語るトレーナー。
きっと、担当した頃の私を思い返しているのだろう。
私のことを考えてくれて嬉しい反面、それは子供の成長を見守る父親のような心持ちに見えた。
私は、あなた以外は考えられない。
だから、私から踏み込む必要があった。
「ねぇ、トレーナー。私エリザベス女王杯勝ったよね」
「うん? あぁ! あれは見事な勝利だったね!」
突然レースの話をしたというのに、すぐ目を輝かせるトレーナーに笑みが溢れる。
「それでさ、ご褒美に欲しいもの考えといてって言ってたよね」
「お祝いのやつね! その様子だと何か決まった?」
無邪気に聞いてくるトレーナーに対して、私は勇気の一歩を踏み出した。
「欲しいアクセサリーが出来たから、次の休みに買いに行こうよ」
「アクセサリーか〜、あんまり高すぎるのは勘弁してね」
「そんなに高くないから安心してよ」
大丈夫、簡素な
今はこれで良い。
私の光を着けてもらう。
絶対に消えない光を。
「ふふっ…♪」
前回に引き続いて、ご精読ありがとうございます。
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