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彼に、盗めない
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20××年10月、フランスのパリロンシャン競馬場は大いに盛り上がっていた。観客の中には大勢の日本人が紛れており、日本のレースかと勘違いしそうになるほどだ。
『あ!ジョーカーだ!』
観客の一人がある方向を指差すと、全員がその方向に顔を向ける。その先にはある一頭の馬が入場していた。黒い馬体には走る事のみに特化したなめらかな筋肉がついており、宝石のような艶やかさを持っていた。ジョーカー、と呼ばれた馬は観客席に近づくと、父親に肩車してもらっていた小さな少女の頬にキスを落とした。その瞬間、観客席から歓声が上がり、少女は頬を赤く染める。そんな姿を尻目にかけながら、ジョーカーはゲートに入った。
『さぁ、全馬ゲートイン完了です!』
男性アナウンサーの声が響き渡る。その上擦った声には興奮と感動が混じっていた。
『スタートしました!』
ゲートが開いた、その一瞬の事だ。ジョーカーはゲートが開くタイミングを予め分かっていたかのように、どの馬よりも早く一歩目を踏み出す。
『おぉっと!!ジョーカー、今日は逃げを
ルイトガルトと騎手は外からジョーカーの後ろにピタリと張り付き、プレッシャーをかける作戦を選んだ。ジョーカーはそんなことにはお構い無しと言わんばかりに差を広げていく。
『ハイペースすぎる』
誰かが呟いた。レースを見にきていた全ての人間が、おそらく同じことを考えたであろう。なにせ、この時、すでにジョーカーは最初の3ハロンで40秒を切っており、誰かどうみてもかかっていると感じるだろう。いくらあのジョーカーと言え、これほどまでのハイペースを維持するのは不可能だ、ここから落ちてしまうだろう、と誰もが思った時だった。
『速い!ジョーカー速すぎる!残り300m地点にして、後続との差はすでに7馬身です!!』
ジョーカーは、落ちなかった。それどころか、そこから加速させて見せたのだ。
『ジョーカー先頭!!ジョーカー先頭!!狙う冠はすぐそこだぁ!これが日本が世界に誇る大怪盗です!』
ジョーカーに乗っていた栗野騎手は後に、自伝でこう語っている。『私はあの時、ジョーカーに全てを奪われてしまった。体も、心すらも』と。
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「よーやく着いたな」
東京にある日本ウマ娘トレーニングセンター学園の校門前に、一人の少女が立っていた。癖のある黒毛で目が隠れているため、表情を伺うことはできないが、声から疲労を感じ取れる。
「おいおい、これぐらいで疲れてどうするんだ。こっちでも凱旋門賞取るんだろ?てか、めっちゃ苦しいんだよ!とっとと開けてくれ!」
少女は自分が持っていた学園指定の手提げ鞄のジッパーを開けると、中から何かが飛び出した。
「あぁー、空気が気持ちいいぜ」
鞄から飛び出したのは、小さな猫だった。猫は背伸びをすると、学園の方に向く。
「それにしても、でっかいところだなぁ。オマエ、本当にここでやってけるのか?」
猫の問いに、少女は自信いっぱいに頷いた。
「ま、オマエがそういうんなら、なんとかなるだろうぜ」
猫は少女にそう言うと、少女の肩に飛び乗った。少女はいつもと同じ調子の親友にくすり、と小さく笑うと、学園に向かって足を進めた。
「It's show time」
少女は親友だけに聞こえる大きさで、そう呟いた。