氷川さん所のゆるふわなお姉ちゃん   作:雪月-dox-

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過去

私、氷川紗夜には――妹と、姉がいます。

 

 

 

幼い頃は三人でよく公園や庭を駆けまわって、泥だらけになって帰っては親に叱られる。そんな日常が当たり前でした。けれど、小学高学年になる頃からでしょうか。妹の日菜の才能が周囲で話題にのぼるようになって……私は、次第に彼女と接するのが煩わしくなっていきました。

そして、別々の中学を選んだのです。

 

 

 

そこから私は、妹に――日菜に、恐れを抱くようになりました。

情けない話です。でも事実です。

テストでも、習い事でも、あらゆる結果は日菜のほうが上。努力の差なんて、意味をなさなかった。最初は張り合うつもりでした。けれど、どれだけ努力しても、追いつくことすら叶わない。

本当に、あの子は……天才なんです。

それが、どうしようもなく、怖かった。

 

 

 

逃げるように、私は自分だけの世界を求めてギターを手に取りました。

もともと音楽は好きだったんです。だから上達も早かったし、すぐに伸び悩みました。

――バカですよね。私が始めれば、日菜が始めるのは当然なのに。

 

 

 

当時の私は、日菜にひどく冷たく当たっていました。

家にいる時は部屋に籠りっきり。今思えば、まさに黒歴史そのものです。

けれど――そんな私を変えてくれた存在が、ひとりだけいました。

 

 

 

ふふっ……ええ、ご存じでしょう?

私の姉。私の、一番の自慢で、大好きな姉です。

 

 

 

夕凪姉さんは、私よりもずっと穏やかで、勉強への熱意もそれほどではありませんでした。テストの点数も私と大差なくて……正直、姉妹の中で一番成績が低いことも多かった気がします。

でも、今思えば、それは姉なりの“気遣い”だったのかもしれません。

だって、姉は――あの月ノ森に特待生で入学しているんですから。

 

 

 

それなのに、私は姉には勝っていると思い込み、優越感に浸っていました。

姉は、私と日菜の間にある溝を理解していました。

だから、私から声をかけない限り、関わってこなかった。冷たく感じるかもしれません。でも、当時の私には、それが救いだったんです。余裕がなかったから。

 

 

 

それでも、両親の帰りが遅い日は何も言わずに家事をして、私たち姉妹を見守ってくれた。

――姉は、私たちの関係を修復するためなら、自分を犠牲にする覚悟をずっと持っていたんです。

……それに、私は気づけなかった。

 

 

私は、姉は天才じゃないって思い込んで、甘えていたんです。

 

 

 

♪♬♫♫♬♪♬♫♫♬♪

 

 

 

その日、私はバンドメンバーと口論になり、解散――家に帰るなり部屋へ飛び込んで、乱暴にドアを閉めた。ギターを引っ掴むと、苛立ちを指に込めて弦を掻き鳴らす。けれど音は濁り、何度やっても同じ箇所でつまずく。

 

 

「なんで……こんなことも、できないの……」

 

 

焦燥と怒りと恐怖。自分でも理由はわかっていた。

 

――もっと、もっと、先に進まなきゃ。あの子が、日菜が“当たり前のように”私を追い抜いていく。ギターまで、奪っていく。

 

私はがむしゃらに弾き続けた。それしか、頭の中を掻き消す術がなかったから。

その時だった。控えめなノック音が、ドア越しに響いた。

 

 

「お、お姉ちゃん……入っていい……?」

 

「……なに」

 

 

――最も聞きたくない声。胸の奥を爪でひっかかれるような不快感に、声が氷のように冷たくなった。

 

日菜の手にはギター。ああ、まただ。どうして、いつもこうなんだろう。

 

 

「あの……ギターで、ちょっと弾けないところがあって。教えて、ほしくて……」

 

「――残念だけど、無理。自分で調べなさい」

 

「調べても…分からなくて……だから、一緒に、やりたくて……」

 

 

ドアを開け、部屋に入って来るその足音が、心を引き裂いた。私は立ち上がり、ギターをケースに叩きつける。

 

 

「出ていって!!私、もうギターなんてやめるの!……それに、私の真似をしないでって言ったでしょ!!」

 

「ま、真似じゃないよ! お姉ちゃんと、仲良くなりたくて……ギターのこと、知りたくて……! それに!ギターは勝手にやめないって、約――」

 

「そんな約束、もう忘れたわよ! それに……ギターをやめる理由は……!」

 

「っっ!―――お姉ちゃんなんか、大っ嫌い!!」

 

 

言葉が胸に突き刺さる。ドアが音を立てて閉まり、日菜の足音が遠ざかっていく。

あんなこと、言うつもりじゃなかった。叫ぶつもりじゃなかった。

 

――でも、もう遅い。

 

追いかけようと手を伸ばした。でも、その手は空を切り、何も掴めなかった。謝らなきゃ、そう思ったのに――足が動かない。

 

ようやく身体が反応した頃には罪悪感に潰されそうで、私はただ、家を飛び出していた。どこへ行くともなく歩き、ポケットに手を入れる。

 

 

「……財布、ない」

 

 

置いてきた。今さら戻る気にもなれず、流されるように歩き続けると、見覚えのある道に出た。

 

――SPACE。ライブハウス。そして、バンドを解散した場所。

 

ここなら、時間を潰せるかもしれない。日菜に……もう、許してもらえないかもしれないけれど。

人気のない受付を通り、奥へと進む。スタジオから音が漏れていた。1番スタジオ。その扉の前で、私は足を止める。

 

美しい音色と、聴いたことのない歌声が響いていた。

 

そっと扉を開くと――

 

 

「~♪~♫」

 

 

そこにいたのは、キーボードを弾きながら歌う姉、夕凪だった。

初めて見るその姿。初めて聞いたその声。

 

ベースやギターのパートまでも、キーボードで見事に補いながら――姉は、ひとりで音楽を成立させていた。

 

 

……私は、何も知らなかった。

 

 

“姉より上だ”と思い込んでいた優越感が、一瞬で崩れていく。

 

 

――あんなに優しくて、強くて、天才だった姉に、私は甘えていたんだ。

 

 

私が劣等感に潰れそうになっても、日菜が無邪気に笑っても、姉は気付いていた。それでも、傷つけないように、壊さないように、全部抱えてくれていた。

 

あの日、誰かが言っていた。

 

 

『最初の子が一番馬鹿なんだって』

 

『二番目の子は秀才だもんね』

 

『生まれた順番と才能が逆転してる』

 

 

……姉は、聞こえていないふりをして、私たちを笑顔で引っ張っていた。

 

 

才能を偽って、私を“勝たせて”くれた。

 

 

――それをさせたのは、誰?

 

 

もし、姉がいなかったら。私は、どうなっていたんだろう。吐き気がこみ上げる。これから、二人にどう顔を合わせればいいのか分からない。

 

 

私は――姉の幸せを、壊していた?

 

 

「……紗夜ちゃん?」

 

「あ……」

 

「だ、大丈夫……!?」

 

 

演奏を止め、心配そうに駆け寄ってくる姉。その優しさが、胸を締め付ける。

 

 

「っ……来ないで……っ!」

 

 

私は、逃げるようにその場から走り出した。

 

 

 

♪♬♫♫♬♪♬♫♫♬♪

 

 

 

夢中で走り続けるうち、気がつけば見知らぬ景色の中にいた。

夜はすっかり更けていて、中学生の私が一人で出歩くには不適切な時間だということくらいは理解できた。

 

不意に足が止まり、街灯の下で立ち尽くす。

先ほどとは違う、別の恐怖が胸に広がる――知らない夜道で、迷子になったのだ。

文字にすれば笑い話かもしれない。でも、実際にその場に立てば、それは十分すぎるほどの恐怖だった。

 

 

 

ぽつ…ぽつ…

 

 

 

髪に触れた冷たい感触に、はっとして空を見上げる。

運の悪いことに、雨が降り出したようだ。

……こんな時まで、雨女なんて。

自嘲気味に口元が歪む。

雨は次第に強さを増していき、歩く気力も削がれて、その場にしゃがみ込んでしまった。

 

 

「……このまま、消えた方がいいのよね」

 

 

日菜を、傷つけた。

自分のプライドを守るために、大好きな姉に辛い思いをさせてきた。

私は――私自身が、一番醜かった。

罪悪感に押し潰されるように、呟いた言葉は雨音に紛れて消えていく。

ぼんやりと、降り注ぐ雨を眺めていたそのとき――

 

 

突然、右腕がぐいと引っ張られた。

 

 

「紗夜ちゃん!」

 

「っ……!」

 

 

驚きに声も出ない。

視線を向けると、そこには――

ずぶ濡れになった姉が、私を見下ろしていた。

肩を上下させ、息を切らしながら、それでも私を見失わないようにしっかりと目を見つめてくる。

 

 

「はぁ……はぁ……良かった。見つけられて……」

 

 

立ち上がった私は、思わず顔を背けた。

姉の手を振り払おうとするが、強く握られた手はびくともしない。

 

 

「帰ろう、紗夜ちゃん。雨も強くなってきてるし……」

 

「……っ……放っておいてよ……!」

 

 

――家には日菜がいる。

今は、まだ顔を合わせられない。

会ったらまた、酷いことを言ってしまいそうで怖い。

姉と一緒にいることすら、今の私には――怖かった。

 

 

「……紗夜ちゃん。……もう少しだけ、夜更かししちゃおっか」

 

「……え?」

 

 

不意に向けられたその言葉に、私は困惑する。戸惑う間もなく、手を引かれ、歩き出していた。

振り解こうとしても、決して離れないその手。少しだけ強く握られたその温もりが――

遠い日の記憶を呼び起こすには、十分だった。

 

 

歪んだ視界の中、私はただ、姉の背中を見つめていた。

 

 

♪♬♫♫♬♪♬♫♫♬♪

 

 

カランッ カランッ

 

 

 

私を連れて来たのは、どこか寂れたモダンな雰囲気の喫茶店だった。

顎髭が特徴的でお世辞にも品の良いとは言えないマスターが、来店を知らせる鐘の音に反応し、新聞から私たちに視線を向けた。

驚いた様子で私たちを見た後、壁掛けの時計を確認し、読んでいた新聞を畳んで奥へと引っ込み、すぐにバスタオルを手に戻ってきた。

 

 

「風邪引く前に拭けよ。席は好きなところ使ってくれ」

 

「突然の事なのに…申し訳ありません。ありがとうございます」

 

「この雨じゃ客も来ねぇからな、気にすんなよ」

 

 

姉にバスタオルを渡し、短い会話に後頭部を掻きながらぶっきらぼうに答えたマスターは、店の出入口に向かい、ドアに掛かっている小さな看板を『Open』から『Close』にひっくり返すと、再び奥へと姿を消した。

 

 

「姉さん、ここは?」

 

「んー……仕事場?」

 

「……バイトしてたんですか?」

 

 

「黙っててごめんね」と、小さく舌を出して謝る姉の姿に、ぎこちない笑顔しか返せなかった。

お互いに拭き終えると、コーヒーの香ばしい香りと、空腹を刺激するスパイシーな匂いが漂ってきた。そういえば、昼から何も食べていないことに気づき、急に空腹感が襲ってくる。

 

両手にカレーライスの盛られた皿を持ってきたマスターは、私たちの近くのテーブル席に置き、姉に声をかけた。

 

 

「夕凪ちゃん、飯食ってねぇだろ?俺の奢りだ。遠慮せず食ってけ」

 

「そんな、悪いですよ……代金を……」

 

「遠慮するなって言っただろ?代わりに常連になってくれそうな人にここを紹介してくれ。コーヒーはサービスだ」

 

「……わかりました、ありがとうございます」

 

「何があったのかは聞かねぇ。でも体調だけは崩すなよ?」

 

 

後頭部を掻きながら、心配そうに私たちを見た後、帰る時は声をかけてくれ、とそう言い残しマスターは奥の部屋に入っていった。

 

 

「食べよっか」

 

「……はい」

 

 

こんな気分でも美味しいと感じるカレーとコーヒーに驚きつつ、スプーンを動かしていく。

食事中、会話はなく、痛いほどに静かだったけれど……久しぶりの姉との食事は嬉しかった。

 

 

「ごちそうさま。……気分は落ち着いた?」

 

「……はい」

 

 

食べ終えたタイミングで姉から声をかけられ、大人しく頷く。

 

 

しばらく間を置いてから、姉はぽつりと口を開いた。

 

 

「……実はね、ずっと迷ってたの。音楽を続けてる私が…紗夜ちゃんの負担になってしまうんじゃないかって」

 

ふと漏れた姉の声は、あまりにも穏やかで、けれど――決意のようなものが滲んでいた。

 

「……」

 

 

返せない。胸の奥がざわついて、言葉が出てこない。

 

 

「私が目立ちすぎて、紗夜ちゃんを傷つけるくらいなら……」

 

「……」

 

 

小さな間。そして、投げられた言葉は、まるで刃のように胸を突いた。

 

 

「……もう音楽をやめようと思うの」

 

「え……?」

 

 

思わず、情けない声がこぼれた。そんなはずがない、という想いが頭を巡る。

 

あの音を聞いたときの衝撃。少し聴いただけで伝わる、ずば抜けた技術。あの迫力、あの輝き――私には到底、出せない。

 

 

「……気がついていたの。紗夜ちゃんが日菜ちゃんと比べられて、周りの言葉に傷ついて、苦しくて辛い思いをしているのに、どうしたらいいのかわからなくて……。だから、せめて私とは比べられないように、私が陰に隠れれば……私が悪目立ちすれば少しは肩代わりできる。そう思ったの……」

 

 

姉は淡々と語る。苦悩や葛藤すら、包み込むように。

 

 

「このまま私が音楽を続けて。それで、周りの人達が…紗夜ちゃんを傷つけるかもしれないって、そう思うと、そう考えると……」

 

 

優しすぎるほどの優しさだった。まるで、自分を切り捨ててでも守ろうとしてくれているような。

 

 

「なんで……?なんでそこまでするの?姉さんは……辛くないの?」

 

 

たまらず声が震えた。

押さえきれず、胸を抱き締める。音を立ててきしむ心臓。ギチリッ…ギチリッ…。

 

それでも姉は微笑んでいた。私を真っ直ぐ見つめて――。

 

 

「また、昔みたいに仲良く笑い合っている紗夜ちゃんと日菜ちゃんに戻ってほしいから。何よりも、私は二人のお姉ちゃんだから」

 

「貴女たちのためなら守れるなら……なんだって捨てられる」

 

「周りが何を言おうと、紗夜ちゃんも日菜ちゃんも私の自慢で、どんなことを言われても受け止めて、受け入れられる」

 

「私の妹たちはすごいんだぞー!って思いながら過ごしていける」

 

 

言葉の一つひとつが、あたたかくて、強くて、そして優しすぎて――涙がこぼれた。

 

こんな想いを、一人で抱えていたのかと思うと……怖かった。気づかないうちに、姉がどこかへ行ってしまうような気がして。

 

 

「だめ……」

 

「紗夜ちゃん……?」

 

「やめないで……!もう、私なんかのためにやりたいことを捨てないで……!」

 

 

声がうわずる。震えが止まらない。

 

 

「――あんなに綺麗な音を出せるのに、音楽をやめないで……!」

 

「私も!日菜も!お姉ちゃんと一度もセッションしてないんです!」

 

「だから、だから……やめないで、やめないでよ!……お姉ちゃん……!!」

 

 

絞り出すように、叫ぶように、言葉をぶつける。

心の奥底にしまい込んできた本心。

今、ここで伝えなきゃ、もう届かない気がして――。

 

 

「本当はわかっていたんです……日菜と向き合わなきゃいけないって、ずっと、ずっとわかってた!でも……怖かった……」

 

「日菜と比べられるのも、日菜が私を置いていくのも……!日菜に追いつけない私が!嫌だった……」

 

「……うん」

 

 

姉は優しく頷いて、黙って私の言葉を受け止めてくれる。

 

 

「向き合うことからずっと逃げて、日菜を遠ざけて……姉さんと比べて私の方が優秀だって勝手に安心して……」

 

「……うん」

 

「私に理解者はいないって決めつけて、逃げ続けてた……こんな私で、日菜と向き合えるのかな?」

 

「……向き合えるよ。ううん、一緒に向き合っていこ?きっと大丈夫。紗夜ちゃんは頑張り屋さんだし、日菜ちゃんは紗夜ちゃんのこと大好きだもん」

 

「それに……ごめんね。きっと、私も逃げてたんだと思う。紗夜ちゃんと日菜ちゃんから……だから、もう逃げない」

 

「紗夜ちゃんの頑張りはずっと知ってた……だから、お疲れさま。これからは三人で頑張っていこう。紗夜ちゃんが立ち止まっても、日菜ちゃんが先に行っても……私が繋いであげる。どんなに距離があっても……絶対に」

 

 

その言葉に、堰を切ったように嗚咽が溢れた。

 

 

「うぅ……あぁぁぁ……!!」

 

 

感情が、涙が、止まらなかった。

 

 

 

♪♬♫♫♬♪♬♫♫♬♪

 

 

 

「ほら、もう一人妹さんが居ただろ? 持って行ってやんな。珈琲は、次に来た時に出してやる」

 

「……何から何まで、本当にありがとうございます」

 

「気にすんな。早く帰ってやんな。もう、時間も遅いしな」

 

 

声を上げて泣いたのは、いつ以来だったろうか。

優しく抱き締めてくれた姉さんの胸の中で、わんわんと子どものように泣いた。

一しきり泣いたあと、ようやく落ち着いて来ると――マスターが奥から袋を提げて出てきた。

どうやら、日菜の分のカレーまで用意してくれていたらしい。

 

 

「ありがとうございます……今度は、三人で来ますね」

 

「そいつはいい。友達も連れて来な。俺の懐が温まるからよ」

 

「ふふっ、わかりました」

 

 

顎髭を撫でながらにやりと笑うマスターに、姉さんも嬉しそうに笑い返していた。

ふたりで改めて礼を言い、喫茶店のドアを開ける。

外に出ると――あれほど降っていた雨は、もう止んでいた。

差し出された手を、そっと握る。

そのぬくもりを確かめながら、見知らぬ帰り道を歩いていく。

 

 

――今度来る時は、この道をちゃんと覚えておこう。

 

 

 

♪♬♫♫♬♪♬♫♫♬♪

 

 

 

「ただいまー」

 

「た、ただいま……」

 

 

 

家に戻ってみると、灯りは点いていなかった。

玄関で顔を見合わせ、姉さんとふたり、慌てて鍵を開けて中に入る。

そっと明かりを点け、音を立てないように足音を潜めながら、日菜の部屋へと向かった。

……その途中で、かすかなすすり泣きが耳に届いた。

 

胸を締めつけられる、あの感覚――何度目かもわからない。

ふらつきそうになる身体を、優しい手が支えてくれる。

後ろを振り返ると、姉さんが小さく頷き、私の代わりにそっとドアをノックした。

 

 

「日菜ちゃん……? 起きてる?」

 

「日菜……」

 

 

中から、ベッドの中でもぞもぞと寝返りを打つ音が聞こえてくる。

ふたりで静かに待っていると、やがて鍵の開く音がして、ドアがゆっくりと開いた。

 

 

そこにいたのは、目元を真っ赤にして、涙に頬を濡らした日菜だった。

 

 

「日菜……!」

 

「お姉ちゃんに……おねーちゃん……?」

 

 

戸口に立つ私たちの姿に、驚いたような顔をする日菜。

その小さな身体を、ぎゅっと抱きしめると、日菜はびくりと震えた。

 

 

「ごめんなさい……! 貴女との約束を破って、ずっと傷つけて……! 本当に、ごめんなさい……!」

 

「私も、ごめんね……日菜ちゃん。何も、してあげられなくて……ずっと……」

 

「ううん……! お姉ちゃん達は、悪くないよ……! あたしが……あたしが悪い子だから……!

だから、お姉ちゃん達が帰ってこないんだって……そう思って……そう思ってて、うっ、うぅぅ……!」

 

 

声を詰まらせ、泣きじゃくる日菜の背を、私は優しく撫で続けた。

その私たちを、さらに包み込むように――姉さんの腕がふたりを抱きしめてくれる。

ぬくもりが、優しさが、重なっていく。

 

 

三人の心が、ようやくひとつの場所に戻ってきた。

 

 

「……分かってたんだ。あたし、ふつーじゃないって」

 

 

ぽつりと、日菜が言った。

その声はかすかに震えながらも、どこか吹っ切れたようで――けれど、痛みを伴っていた。

 

 

「みんなができないことが、あたしには簡単にできちゃって。でも、できない子の気持ちがわからなくて……どうして? 何でそんなに頑張ってもできないの?って、そう思っちゃって……」

 

 

視線は落ちたまま、言葉だけがこぼれていく。

 

 

「“周りの気持ちを考えなさい”って、よく言われたけど……気持ちなんて、わからなかった。

だから……おねーちゃんを傷つけた。いっぱい、いっぱい……」

 

 

堪えていたものが崩れるように、日菜の目からまた涙が溢れる。

 

 

「でもね、お姉ちゃん達のこと、大好きだったから……!どうにかして気を引きたくて、一生懸命で……でも、そばにいてくれたお姉ちゃんのことも、わかってあげられなくて……」

 

「……あたしは、人の気持ちを理解できない子なんだって、そう思ったら寂しくて……気付いたら、あたしの周りには何もないって、感じて……」

 

「……そんなことないわ」

 

 

そっと日菜の手を包み込みながら、紗夜が静かに言った。

 

 

「ずっと、日菜を避けてた私が……悪かったの。でも、日菜の周りには、ちゃんと私も、姉さんも居るよ。ずっと……これからも」

 

「それにね」

 

 

今度は夕凪が、微笑みながら言葉を繋げた。

 

 

「日菜ちゃんひとりだけが悪いって思い込んで、自分を責めるのは……私も、紗夜ちゃんも悲しいよ。全部を背負わせちゃうなんて、そんなの嫌。だから――一緒に、変わっていこう?」

 

 

初めて聞いた、日菜の本当の気持ち。

 

ああ……もっと早く、こうしていれば。

 

もっと早く、気付いてあげられていれば――。

 

 

 

そう思う。でも、後悔しても過去は変わらない。

 

だから、今この瞬間を、大切にしようと心に刻む。

 

 

 

もう二度と、あの約束を捨てたりしない。絶対に――。

 

 

 

♪♬♫♫♬♪♬♫♫♬♪

 

 

 

「ふふ……♪ 一緒に寝るの、久しぶりだね」

 

「えへへ~……うん!」

 

「え、えぇ……その……ちょっと恥ずかしい気も、するけど……」

 

 

 

私たちは今、姉さんのベッドに三人並んで眠ろうとしている。

 

小さい頃、日菜はよく姉さんの後を追いかけて一緒に寝ていたから――それに合わせて、両親が姉さんのベッドだけ少し大きめのものを買ってくれたのだ。

 

少し体を寄せ合わないといけないけれど、こうして三人で寝るには、十分な広さだった。

 

 

 

「……私が真ん中で、よかったの?」

 

「お姉ちゃんの抱き心地が一番いいから! おねーちゃんと相談したんだ~♪」

 

「それには、私も同感よ、日菜」

 

「……???」

 

 

 

るるるぅん♪と鼻歌交じりにご機嫌な日菜が、姉さんにぴとっと抱きつく。

 

何が――とは言わないけど、柔らかいから、だと思う。もちろん、甘えたい気持ちもあるんだろうけど。

 

 

 

「あの……姉さん。SPACEで弾いていた、あの曲……名前はあるんですか?」

 

「えっ!? お姉ちゃん、ギターも弾くの!?」

 

「ごめんね、日菜ちゃん。ギターじゃなくて……私、キーボードなんだ。えっと……まだ名前はつけてないんだけど……今なら、つけられるかも?」

 

「ぅー……そっかぁ……ん? それじゃ……」

 

「うん、今度一緒にセッションしようね♪ もちろん、紗夜ちゃんも!」

 

「お姉ちゃん大好きーっ!!」

 

 

ベッドの上ではしゃぐ日菜に、私は思わず苦笑いをこぼす。

……本当に、元気ね。こんな時間なのに。

 

でも、ほんの少しの勇気で、こんなにも変わるものなんだって――今、強く思う。

 

 

 

「紗夜ちゃん。……曲の名前、決めたよ」

 

 

そう言って、姉さんが私と日菜の手をぎゅっと握る。

 

 

「『一番の宝物』――だよ」

 

 

 

その言葉が胸の奥にじんわりと染みていく。

日菜も同じ気持ちなのだろう。にへらっと笑ったまま、姉さんに頬をこすりつけている。

 

そして、少し経つと、日菜の小さな寝息が部屋に満ちていた。

 

 

私は……色んなことがあったせいか、なかなか寝付けずにいた。

 

 

 

「紗夜ちゃん……まだ、起きてる?」

 

「姉さんも……ですか?」

 

「うん……あのね。ちょっと……お願いしてもいい?」

 

「……?」

 

 

 

急に改まって、どこか恥ずかしそうな姉さんの様子に首を傾げていると。

もじもじと目を逸らしながら、ゆっくりと――。

 

 

「もう一回……“お姉ちゃん”って、呼んでほしいな。……なんて」

 

「……お姉ちゃん」

 

「~~~~~~~~~~っっ!?」

 

 

耳元でそっと囁くようにそう呼ぶと、姉さんの体がびくりと震え、その頬がぐんぐん熱を帯びていくのが分かる。

 

……なんだか、ちょっと楽しくなってしまって。

思わずいたずら心がくすぐられて、勢いで言ってしまったけど――。

 

……やっぱり、私もとても、恥ずかしかった。

 

 

でも、それ以上に――幸せだった。

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