happily   作:shellfish

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第2話

 日々是平穏。

 晩秋の青空の下、縁側で冷めた緑茶を啜る。

 降り注ぐ陽光は相変わらず暖かだが、時折吹く風が次の季節の到来を感じさせる。人工的な冷暖房に頼らずに心地よい空気を楽しむ、こんな贅沢が味わえるのも今日が最後かもしれない、などと、いつか抱いた感想を、やはり今日も抱くのだ。

 

「ああ、いい天気だなあ」

 

 思わずそんな声が漏れ出してしまうくらい、本当にいい天気なのだ。

 思わず、尻尾と耳が、ぴょこぴょこ動き出してしまうくらい、いい天気なのだ。

 

「うふふ、死にたい…」

 

 

 ぴーひょろろー。

 

 ぴーひょろろー。 

 

 抜けるように青い空は、天の高さをあらためて教えてくれる。

 空に目をやれば、そこには、まるで泳ぐように青空を優雅に跳ぶとんび。くるくると、上昇気流に乗って舞い上がっていく。

 間延びした鳴き声は、この上なく長閑である。例えそれが己の縄張りを主張する、彼らにとっては必死の声だったとしても、人間にとっては気持ちを和ませる心地よい鳴き声でしかない。

 ほんの少し汗ばんだ額を拭って、急勾配の階段を登る。

 ここを毎日のように上り下りしてる葛木先生や柳洞君には、頭が下がる思いである。

 後ろと隣を見れば、やはり少し疲れた顔をしている者と、さも涼しげな顔をした者。疲れた顔をしているのは人間で、それ以外は人外だ。

 それでも、ここは意地の張りどころ。

 私は努めて優雅に、階段を登る。

 そして、やっと終着点が見えた時、声がした。

 

「ふむ、珍しい客人であるな」

 

 冗談みたいに長い階段、その終着点に聳える山門。

 そこに、やはりその男はいた。

 背中に届くほど長い、艶やかな髪。

 切れ長の、溜息が出るほど美しい瞳。

 口元には、穏やかな菩薩像のような微笑。

 青い陣羽織という時代錯誤な出で立ちが、この男には何より相応しい。

 

「こんにちは、アサシン。今日は貴方のマスターに用があってきたの。戦うつもりは無いから…って、そんなこと言うまでもないか」

 

 何故なら、彼の手はから。かの有名な『物干し竿』はどこにも見当たらない。

 彼は、愉快そうに声を上げて笑った。

 

「不貞な殺気を抱いた輩ならばこの参道の最初の一歩を踏んだ時点で把握できるうえ、そもそも邪な欲望を抱くものは近寄り難くなる仕組みらしい。いやはや、あの魔女めの結界は、中々どうして優れているよ」

 

 故に、仕事が無くて困る、と、やや不穏当なことを言った。

 そりゃあ、現代日本、しかも仏のおわす神聖な地である。昨今流行の武装強盗だって、流石にここは避けるだろうし、万が一とち狂ってここを狙った日には、翌日から日本の治安がほんの少しだけ改善するというもの。それはそれで結構なことである。

 

「しかし、それにしても賑やかな事だな。いや、これほど絢爛豪華な花々、枯れた目も潤おうというもの」

 

 少し、空気が変わった。

 声はにこやか、言も人を喰っているが、その眼光は鋭い。

 さもありなん、今、私達は二体のサーヴァントを引き連れている。たとい、今敵意が無かろうが、事態が急変すればそれは致命的な戦力だ。門番が警戒するのも当然といえば当然か。

 

「アサシン、私達はキャスターに頼りたいことがあってここに来ました。これでも騎士として生きた者、恥のなんたるかは心得ているつもりです。どうか、そこを通して欲しい」

 

 凛としたセイバーの言葉に、やはり彼は笑った。

 

「さて、今の貴殿と同じ台詞を吐いて、腹の中で醜く笑っていた者を幾人も知っているでな。セイバー、貴殿を侮辱するわけではないが、人にはそれぞれ立場というものもあるのでな、悪く思わんでくれ」

 

 ゆらり、とぶれた彼の手には、陽光を反射してなお輝く、長大な刃。濡れたように怪しく煌く日本刀。

 備中青江。

 それを彼が手にしたということは―――。

 

『アサシン!勝手は慎みなさいと何度言えば分かるのです!』

 

 声が、した。

 澄んだ、女性の声。

 最近は聞き慣れたといっていい声だが、時期が時期なら吐き気を催すものだっただろう。

 

『彼女達は私の客人です。速やかにそこをお通ししなさい』

「…と、いうことらしい。奉公人たる身の悲しさだな、主人の命には抗い難い」

 

 皮肉げに微笑った彼は、ちゃりん、と、鈴の鳴るような音をたてて刀を納めた。

 緊張していた空気が弛緩する。

 

「…悪い冗談はやめてください、アサシン。剣とは戯れに抜くものではないでしょう」

「さて、なんのことやら。女狐めの横槍が無ければ、再び貴殿と斬り合えたものを、勿体無いことよ」

「それは、またの機会に。それよりも、近いうちに酒宴でもいかがか。貴方がここから動けないというのであれば、ここで月を肴に、というのも悪くない」

 

 ああ、それはいい、と夢見るように目を細めて、侍は姿を消した。

 

 

 姿を消した私の傍を、色取り取りの花々が通り過ぎていく。

 肉をもった体であるならば一声かけぬのはかえって失礼というものだろうが、あいにく現世には相応しくないこの存在、さらには魔女如きに使役される身である。ここは黙って通すのが礼儀であろう。

 さて、流石は剣の英霊か。

 こちらにまるでやる気の無いことくらい、とっくにお見通しだったらしい。それでも彼女が剣を抜いてくれたならばそれなりには楽しめたものを、返す返す勿体無い。

 

 それにしても美しい。

 

 花町の太夫、その最も美しいところを見繕っても、あれほどの小町を揃えるには並々ならぬ労を要するであろうな。

 こないだの娘のように、野菊のような可憐さもいいが、満開の桜のような豪奢さもやはり捨て難い。

 ほんとう、返す返す勿体無いことだ。

 溜息と共に彼女達を見送る。

 そこで、微かな違和感を覚えた。

 

 何かが、足りない。

 

 はて、何であったか。

 気のせい、そう言われてみれば反駁のしようの無い、おぼろげなものであるのだが。

 何か、誰か、いるべきものがいないのだ。この一団の中に、本来存在すべき者がいないのだ。

 

 はてさて…。

 

 …おう、そういえば。

 

「セイバー」

 

 山門を通り過ぎ、玉砂利の上を歩いていた彼女が振り返る。

 

「…なんでしょう」

「お主のマスターはどうした。ほら、なんといったか、中々良い目をした小僧だ。あれとも一度手合わせを、そう思っていたのだがな」

 

 そうだ、そうだ。

 盆の時期や、夏祭り、はては月に一度の大掃除のときなど、事あるごとに顔を見せていたあの小僧がおらぬのだ。

 今日、何用でこれだけの大人数が訪ねてきたのかは、全く慮外であるが、この集団にあの小僧がおらぬのは奇妙である。

 両手に花、いや、花束を抱えて、その花共にやり込められるあ奴を眺めるのは中々に愉快であるのだがな。

 私の言葉に、しかし剣の英霊は項垂れた。

 何というか、声をかけるのが気の毒なほどに。

 

「…聞かないで下さい」

 

 常の彼女ならばありえぬほどに、とぼとぼと歩く。

 彼女に連なって歩く他の者の肩も、心なしかずっしりと重たい。

 彼女は振り返ることなく、そのまま寺に向けて歩いていった。やはりとぼとぼと、力無く。

 

「…はてさて、面妖な…ん?」

 

 そういえば、一つ、見慣れぬ影がなかったか?

 目も眩まんばかりに美しい花の一団、その殿。

 

 よたよたと、幼児のように頼りない足取りの、童が、確かにいた。

 

 深く目隠しするように頭巾を被っていたから分からなかったが、あの肩幅は女人のものだろう。

 上背は四尺ほどか。それだけみればあの巨人のマスターと等しいほどだが、作り物に特有の匂いがしなかった故、本人ではあるまい。

 匂い。

 そういえば、あの童、獣の臭いがしなかったか?それも、猫の臭いだ。

 

「ねこまた、か…?」

 

 それとも微妙に違う気がする。

 …よくわからん。

 いずれにせよ、この街ならば如何なる怪異が起きたとしても、不思議とは言うまい。

 まぁ、どちらでもよい。

 とにかく、私が望むことは唯一つだ。

 

「退屈を愛でるのも吝かではないが、願わくば、もう少し騒がしい日々が恋しいな」

 

 ひょっとしたらこの上なく贅沢な願いを込めて、空を眺める。

 ああ、いい青空だ。

 

 

「で、何の用かしら」

 

 柳洞寺、その居住用部分に相応しい純日本風の居間。一升瓶で作られた不可思議なボトルシップが飾られていたりするものの、ここはいわゆる居間である。最近畳を変えたのだろうか、どこか懐かしい草の匂いがする。

 

 私達は五人。

 私、遠坂凛。

 セイバー。

 私の妹、間桐桜に、その使い魔ライダー。

 あとは…お願いだから聞かないで。

 

 そして、ちゃぶ台の上に置かれたお茶は二つ。

 

 セイバーの前に置かれたものと、桜の前に置かれたもの。

 

 なんていうか、ここまで応対がはっきりしていると、逆に清清しい。

 

「別に我々は貴方にお茶を振舞っていただくために来たわけではありませんが、客には相応のもてなしというものが必要なのではないですか、キャスター?」

「客というのはね、主人が招いた者のことをいうのよ。私の客は桜さんとセイバーだけ。貴方のような大女、招いた覚えはありませんから、座布団を用意しただけでも歓待でしょう、ライダー?」

 

 にこやかな笑顔で火花を散らす二人。私の知らないところで因縁でもあるのだろうか。まあ、この二人は故郷も近いことだし、気に喰わないことの一つや二つあったのかもしれないが。

 

「キャスターさん、ライダー、今はこんなことをしてる場合じゃ…」

 

 桜が冷や汗を掻きながら仲裁に入る。

 

「そのとおりです。今はいがみ合っている場合ではない」

 

 目の前に置かれた、とらやの黒糖羊羹にも目をくれず、真剣な面持ちのセイバー。本当は私も文句の一つも言ってやろうと思ったのだが、この子がこんなに真剣だと、そんな余裕も無くなってしまう。

 

「桜の言うとおりね。今回は私達がお願いする側なんだから、ここは押さえて頂戴、ライダー」

「…桜と凛がそういうのでしたら…」

 

 しぶしぶと引き下がるライダー。

 そんな彼女と私を見て、神代の大魔術師が意外そうに言った。

 

「あら、お嬢ちゃん、貴方も大人になったのね。中々殊勝な心がけじゃない。どうしたの?改心して、私の弟子にでもなりたくなったのかしら?」

「それも魅力的だけどね、今日は別件。実は―――」

「まあお待ちなさいな。冗談はここまでにして、ちゃんと人数分のお茶を用意するから。話はそれからでも遅くないでしょう?」

 

 よっこいしょ、と彼女は腰を上げた。

 おばさん臭い、そんな言葉が思わず口を割りそうになったが、流石に自重する。あの馬鹿ではあるまいし、それくらいの状況認識はできるのだ。

 

「ところで―――」

 

 障子を開けて、いま正に廊下に出ようとしていた彼女が振り返った。

 その瞳には、さも不思議、といった色が濃い。

 ああ、貴方が何を言いたいか、痛いほどよくわかるわ。

 

「今日は、坊やはいないのかしら?それに、その子供、誰?」

 

 それの尻尾が、だぶだぶのカーゴパンツの下で、ピクリと震えた。

 はあ、と盛大な溜息がそこかしこで巻き起こった。もちろん、私の口からも。

 

「ええっとね、キャスター、とっても言い難いんだけど」

 

 私は、隣に座ったそれのフードを、ゆっくりと外す。

 ぴくり、と小さな肩が震えたが、流石に抵抗しても仕方ないと諦めたのだろうか、されるがままだった。

 

 魔女も顔負けの分厚いパーカーのフード、その下にあったのは。

 

 ぴん、と立った三角形の耳。でも今は、ふにゃりと力無い。

 

 ふさふさした、いかにも触り心地のよさそうな短い赤毛。

 

 くりくりした大きな瞳は、薄く涙で濡れて、赤く腫れぼったい。

 

 少し小振りで、形の整った鼻。

 

 ぎゅっと閉じられた唇は、小さく、可愛らしい。

 

「これ、士郎なの」

 

 遠雷が響いたような静寂。

 士郎とキャスターの耳だけが、ぴこぴこ動いていた。

 

 

「うん、ええっと、無理」

「無理って…」

「私じゃあ治せない、そういうこと」

 

 それがキャスターの結論だった。

 ああ、分かっていた。

 そんなことくらい、分かっていたさ。

 なんたって、自分の身体だもの。これでも解析に特化した魔術師、自分の身体の状態くらい、なんとなくわかってるさ。

 だからって、そこまでばっさりに言わなくてもいいんじゃないか?武士の情けって言葉もあるだろう?

 

「具体的に、今のシロウはどういう状態なのですか」

「うーん、詳しい説明は省くけど、変化の魔術とか、体細胞の再構築とか、そんな小手先の魔術じゃあないわね。もっと本質的なところで存在そのものが書き換えられてる」

 

 ぴしり、と。

 ああ、なにか、大事なものが砕け散った音が聞こえた気がしたなあ。

 

「あの傲慢ちきの持ってた薬を飲んだんでしょう?それも、何種類も。そんなの、解呪なんて出来るわけないじゃない」

 

 傲慢ちきとは、おそらくギルガメッシュのことだろうか。

 

「私の生きた時代よりも、更に二千年近く前の神話の遺物だからね、神秘の濃度が段違いなのよ。とても私の手出しできる領分じゃあないわ」

 

 つまり、それは俺の身体が二度と元に戻らないと―――。

 

「でも、キャスターさん。そういう御伽噺のクスリって、時間がたてばもとに戻るものなんじゃあないですか?ほら、シンデレラの魔法みたいに」

 

 そうだ!

 今、桜がいいこといった!

 確かにその通りだ!

 そういえば、たまに青年体のギルガメッシュ見かけるし!

 直す方法があるんだ!

 元に戻れるんだ!

 

「…普通はそうなんでしょうけどね。とんでもない効力の秘薬をちゃんぽんしちゃってるから、魔術回路が驚いてこんがらがってるのよ。しかも、坊やの中にある聖剣の鞘がそれを固定化しちゃってるから、解こうにも解けないの。多分、時間がたっても同じことね」

 

 …つまり、一生このまま過ごせと。

 …ネコ耳、ネコ尻尾の女の子のまま、一生を過ごせと。

 …神様は、そう仰っているのですね。

 …じいさん、俺、芯でもいいですか?

 

「ならば、貴方の宝具はいかがですか?如何なる魔術も無に帰す破戒の刃、その謳い文句に偽りが無いのならば、彼にかかった呪いを解呪するのも容易なのでは?」

 

 そうだ!

 今、セイバーがいいこといった!

 ここはあの不思議剣の出番だ!

 なんたって、俺とセイバーの硬い契約だって一発で消し去りやがった反則宝具だ!

 如何に最古の英雄王のお宝とはいえ、その威力の前には手も足も出まい!

 

「…確かに、ルールブレイカーを使えば解呪は可能でしょうけど…。これだけこんがらがった糸を一刀両断にするのよ?坊やの身体に何が起こるか、分かったもんじゃないわ。それに、神経と一体化した魔術回路がどんな拒否反応を起こすかも未知数だし…お勧めはできないわね」

 

 …つまり、やっぱり一生このまま過ごせと。

 …ネコ耳、ネコ尻尾の女の子のまま、やっぱり一生を過ごせと。

 …やっぱり神様は、そう仰っているのですね。

 …じいさん、やっぱり俺、芯でもいいですか? 

 

「…構わん」

 

 …そうさ、このまま、人に後ろ指差されて生きていくくらいなら…。

 

「私は一向に構わん!さあ、キャスター!ばっさりと一思いに!」

「何馬鹿なこと言ってんのよ」

 

 ぱこん、と頭を叩かれた。

 振り返ると、そこには。

 

「遠坂…」

「まだ元に戻す手段が無いって決まったわけじゃないでしょ?私だって桜だって、ううん、きっと貴方を知ってる人達、みんなが必死にその手段を探すわ。だから、それは最後の手段に置いときなさい。それとも、私達じゃあ不安かしら?」

「遠坂…!」

 

 そうだ。

 俺は、一人じゃあないんだ。

 聖杯戦争。

 一体、何度死に掛けたかわからない、過酷を極めた戦い。

 それは、結局、誰の願いも叶えなかった。

 でも、数多くの仲間を、友人を、俺に与えてくれた。

 みんな一癖も二癖もある奴らばかりだけど、いざというときはこの上なく頼りになる連中ばかり。

 そうだ、俺には皆がいる。

 自暴自棄になるなんて早すぎた。

 許してくれ、と…おさ…か、さん?

 

 あれ?

 

 その限りなく邪悪な笑みは、一体なんデスノ?

 

「それにね、今の貴方、とーってもかわいいの。ほんと、男に戻すのが勿体無いくらいに」

 

 にっこりとした笑みに、無限の不吉を感じる。

 

「ええ。今のシロウは大変愛らしい」

 

 手を組んで、夢見るようなセイバー。

 

「そうですね、食べちゃいたいくらい」

 

 いや、桜さん。貴方が言うと、本当の意味に戻っちゃうから。

 

「…うらやましい…」

 

 ライダーさん、ちっともうれしくありません。

 

 ああ、ようするに。

 あなた達は、楽しんでいる、と。

 そういうわけですか。

 そうですか。

 

「まあ、そういうことね。一朝一夕で元に戻るようなものじゃあないけど、別に一生そのままって決まったわけでもない。じっくり待つのも大切よ」

 

 優しい笑みのキャスター。

 実感としてはわからないのだが、母親というものは、ひょっとしたらこういう感じなのだろうか。

 

「とりあえず、今日はここに泊まっていきなさいな。いくつか検査もしたいしね。お嬢ちゃん達はどうするの?」

「んー、別にやることもないし、今日は帰るわ。セイバー、それでいいでしょう?」

「私がここにいても役に立つことはないでしょう。キャスター、シロウのことをよろしくお願いします」

「ずいぶん信頼されたものね」

「ええ。貴方は信頼を裏切らない、そうでしょう?」

 

 私は裏切りの魔女よ、といって、キャスターは微笑んだ。

 俺が初めて見るような、優しい笑みだった。

 

「と、いう訳よ。今日はここでゆっくりしていきなさい」

 

 

 秋の空は、意外なほどに早く暮れる。

 夕闇。

 まだ足元は見えるが、もう少し日が落ちていれば、階段を下りるのは少し危なくなるだろうか。

 

「先輩、大丈夫でしょうか…」

 

 心細そうな桜の声が、後ろから響く。

 かさり、と足元から枯葉を踏みつける音が鳴った。

 冬も、近い。

 

「なに、キャスターに士郎を預けるのが、そんなに心配?」

「いえ、そんな、違います!キャスターさんは優しいし、先輩に危害を加えるような人じゃあありません!…けど…」

 

 消え入るような声が、虫の鳴き声と混じる。

 この静かな合唱も、あと少しで聴けなくなると思うと、ほんのちょっぴり物悲しい。

 

「先輩、見たこと無いくらい動揺してました。だって、いきなり女の子になって…しかも、人間じゃないし…」

 

 …何気に酷い事言うわね、この子は…。この場に士郎がいなくて良かったわ、とどめになりかねない一言よ、今の。

 

「確かに、桜の言うとおり。でも、私達が動揺したって始まらないでしょう?今、私達がすべきなのはあいつを元に戻す方法を一刻も早く見つけること。とりあえず、私の家の書庫漁りからね。覚悟しなさい、徹夜になるわよ!」

「はい!」

 

 元気な桜の声。本当、桜は元気になった。この点だけは、あのくそったれな戦争に感謝してやってもいい。

 

「私達にも手伝わせてください、リン。古代の魔術の知識ならば、我々のほうが色濃く受け継いでいるはずだ」

「ええ、もちろん。もともと聖剣の鞘は貴方の持ち物だし、ライダーの魔術の知識だって必要になるかもしれない。頼りにしてるからね」

 

 衛宮邸の前につく頃には、日はすっかりと西の空に姿を隠していた。

 びょう、と吹く風は、身を切るよう、とまではいかないが、それなりに冷たい。

 

「じゃあね、セイバー。藤村先生にはうまいこと言っといて」

「今日はライダーも私も遠坂の家に行きますから、後のことはよろしくお願いします」

「了解しましたサクラ。何かわかったら知らせて下さい」

 

 じゃあ、と言って分かれようとする。

 っと、そのとき、ふとした疑問が涌き上がった。

 

「そういえば、セイバー。貴方、一度キャスターに捕まったことがあったわよね。そのとき、なんかされた?」

 

 本当に、ふとした疑問。

 何か虫の知らせがあったとか、そういう訳でもない。

 ただ、何となく聞いてみたくなった、それだけなのだ。

 

「…少なくとも、肉体的な拷問を受けたとか、そういうことはありませんし、扱いは紳士的なものでした。ただ…」

 

 どこか苦い顔のセイバー。

 …何か、いやな予感が、する。

 

「少女趣味の服を着せようとしたり、手付きが妙にいやらしかったり…。あの時代の女性には珍しいことではないのかもしれませんが、彼女は愛らしい同性に興味があったような…」

 

 愛らしい同性。

 …。

 今のあいつ、愛らしいわね…。

 

「…はは、まさか、ねえ」

「…え、ええ、キャスターさんに限って、そんなこと…」

「…今からでも、シロウの救出に向かうべきでしょうか?」

「…しかし、彼女の機嫌を損ねては、士郎を元に戻すのが著しく困難となるのでは?」

 

 …。

 

「ま、まあ、いくらキャスターでも、綻んでもいない蕾を無理矢理手折るようなことはしないでしょう」

 

 …きっと。

 …多分。

 …願わくば。

 

「…シロウ、どうか無事で…」

 

 そのとき、円蔵山の方から、少し強い風が吹いた。

 涼やかないい風だった。

 だから、気のせいだろう。

 みぎゃー、と、聞きなれた女の子の声がしたなんて、きっと気のせい。

 

 …セイバーの祈りは、神に届かなかったらしい。

 

 大丈夫、士郎。

 

 きっと、いつの日か、今日のことも笑って思い出せる日が来るから!

 

 野良犬に噛まれたとでも思って忘れなさい!

 

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