happily   作:shellfish

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第3話

「じゃあね、士郎、明日迎えに来るから、無茶だけはするんじゃないわよ」

 

 そんな言葉を残して、遠坂達は帰っていった。

 遠ざかる彼女達を、その姿が見えなくなるまで見送る。

 既に外は薄暗い。太陽の残滓が僅かに西の空を照らすだけで、東の空は夜の世界にその領土を明け渡してしまっている。

 吹き荒ぶ風は、既に次の季節の威容を備えていて、尖った耳にはあまり優しくない。

 薄暗い、夕焼け。

 なんだか、胸が締め付けられるみたいだ。例えるなら、遊んでたみんなは親が迎えに着たのに、俺だけ一人、ぽつんと残されたときみたいな、やるせない気持ち。これでカレーの匂いでも漂ってきたら、思わず泣いてしまいそうだ。

 はあ、と、溜息が出る。

 これからどうなるんだろう、と、益体の無いことを考える。

 口ではああ言っていたものの、遠坂達はそれこそ必死で俺を元に戻す方法を探してくれるだろうし、万が一のときも優しく受け入れてくれるだろう。

 それでも、この冗談みたいな体が、もとのそれに戻る確立はどれくらいか。

 多分、五割は切っているだろう。何せ、俺の知る限り最も優れた魔術師が匙を投げたのだから。

 そしたら、俺は一生猫として生きていくしかないのか。

 猫耳と猫尻尾を生やした、電波系の女の子として後ろ指さされるしかないのか。

 ああ、切嗣。

 十年前貴方が救った子供は、こんなのになっちゃいました。

 考えが、どんどんマイナス方向に傾いていく。

 

 いかんいかん。

 

 頭を振る。

 人間、寒いときと腹が減っているときは碌なことを考えない。

 まずは食事だ。

 ここ二、三日、まともな物を食べていなかった。というか、心理的に受け付けなかったのだが。

 今は、少しお腹が減っている。これなら、普通のご飯でも食べられるかもしれない。

 そんなことをつらつらと考えていたら、ぽん、と両肩を叩かれた。

 優しい、小さな手。

 それでも、何故か不吉を感じる、小さな手。

 そして、くすくすと、蛙をロックオンした蛇の笑い声が。

 おそるおそる振り返ると、そこには満面の笑みのキャスターが、いた。

 

「ねぇえ、坊や。今日は宗一郎様は宿直で、一成君は親戚の用事で帰ってこないそうよ」

 

 えーっと、この人は何を言ってるんでしょうか?全くわかりません。

 

「つまり、今夜は私と貴方だけ」

 

 俺の理解力が足りないのでしょうか、それともこの人の言ってることがイッチャッてるんでしょうか?

 

「たぁっぷり楽しみましょうね、坊や?」

「とーさかー、かーむばーっく!」

 

 俺の叫びは、夕闇に空しく響いた。

 

 

「冗談に決まってるでしょ、失礼ね。あ、そこのみりんとって」

 

 ことことと、緩やかに沸騰する鍋。中には色取り取りの野菜とじゃがいも。

 

「あんたが言うと冗談に聞こえないんだよ…。これでいいか?」

 

 キャスターが、つやだし用のみりんを少しだけ入れて、落とし蓋をする。後はじっくり煮込むだけで肉じゃがは完成。

 

「あら、それなら本当に可愛がってあげようかしら。今の貴方なら、いつでも大歓迎よ?」

 

 焼き物の秋刀魚はいい感じの焦げ具合。そろそろ頃合かな?

 

「それはもっと勘弁してくれ…。だいたい、あんた葛木先生一筋じゃあなかったのかよ」

 

 うーん、もう一品欲しいかなぁ。確か冷蔵庫に牛肉が残ってたから、遠坂直伝の青椒牛肉絲でも作ろうか。でも、ピーマンが無かったか…。

 

「男性を愛したら浮気でしょうけど、女の子を頂くのは別よ。宗一郎様を愛するのは私の義務であり、それ以上に権利。貴方をいただくのは、そうね、ちょっとした暇つぶしかしら」

 

 んー、しゃきしゃき感のある野菜…。白菜を千切りにして入れてみようか。ちょっと水が出そうだけど、試してみてもいいかもしれない。

 

「暇つぶしで人の貞操を狙わんで下さい…」

 

 ごま油を鍋に敷く。独特の香ばしい香りがキッチン一杯に広がる。

 

「んー。いい香り。じゃあ、本気なら食べちゃってもいいの?」

 

 ぐるりとフライパンを回して、油を全体に馴染ませる。いつもなら片手で扱えるそれが、今は両手でないと持ち上がらない。

 

「はは、じゃあ俺の貞操は安心だな。だって、あんたが葛木先生に冷めるはずが無いし」

 

 十分に熱したフライパンに、牛肉を投入。じゅわ、っという音が耳に心地いい。

 

「…はぁ。からかいがいの無い坊やねえ。もう少し顔を赤くして慌てふためいてくれたら、もっと可愛いのに」

 

 手早く調味料を馴染ませて、白菜を投入。中華は火力と手際が命です。

 

「これでも男ですからね、あんたみたいに可愛くはなれません、よっ、と」

 

 出来上がった料理を、大皿に盛り付ける。まあ、大皿と言っても所詮は二人分、大した量ではないのだが。

 

「ほんと、可愛くない坊や。外見はそんなに愛らしいのにねえ」

 

 キャスターがコンロの火を止める。どうやら肉じゃがが完成したようだ。

 

「やめてくれ…。本気で凹むから…」

 

 香ばしい匂い。秋刀魚の塩焼きも完成したかな?

 

 それにしても、この体になってから五感の精度が段違いだ。それこそ、匂いと音で火の通り具合がわかってしまうほど。まあ、その点は便利と言えないこともない。

 

「さ、完成したぞ。冷めないうちに食っちまおう」

 

 

「「いただきます」」

 

 しっかりと手を合わせて、日々の恵みに感謝。

 天にまします我らが神様に感謝するわけではない。

 この食材を作るために汗水垂らして頑張ってくれた人達と、その食材それ自体の命に感謝するのだ。

 キャスターがそれをしたことは少し意外だったが、あの堅物の葛木先生と一緒に暮らしてるんだから当然と言えば当然か。

 

「さて、出来はどうかな、と」

 

 まずは味噌汁。

 しっかりとはらわたと頭を取った煮干で出汁をとり、ちょっと高級な味噌を合わせた逸品、さぞ美味しいに違いない…。

 

 ずずず…。

 

 …ん?

 

「…っっっちいいい!」

 

 舌が、舌が、やける、やける!

 

「馬鹿ねえ、ほら、お水」

「さ、さんきゅう、きゃすたー…」

 

 冷たい水で、舌を冷やす。

 じんじんとしたそれが、緩やかに冷えていく。

 おっかしいな、俺、熱いもの、駄目だったか?

 

「…今の貴方が何になってるか、よおく考えてから行動を決めること。間違っても玉ねぎとかチョコレートとか食べちゃ駄目よ。万が一ってこともあるんだから」

 

 そういえば、今の俺は『猫』だった。

 確か、猫とか犬とかには、人間が食べられるものでも与えちゃいけないものがいくつかあった。

 例えば、玉ねぎは壊血作用があるらしいし、チョコレートは中毒を起こすらしい。

 しかも、猫舌…。やっぱり不便だ。

 

「まあ、よっぽどのことが無い限り大丈夫だと思うけどね。貴方、元々が頑丈だし、その上、聖剣の鞘なんてものも埋め込まれてるし。でも、危険は避けるに如かずでしょ?」

 

 キャスターの言うとおりだ。

 せっかく遠坂達が元に戻る方法を見つけてくれても、それまでに俺が死んでちゃあ元も子も無い。それに、チョコレート中毒で死ぬなんていう、ひょっとしたら人類最初かもしれない死に方は遠慮したいところである。

 

「白菜って大丈夫かな…」

「食べてみればわかるんじゃないの?」

 

 彼女は、俺に見せびらかすように肉じゃがをぱくりと食べた。よく考えれば、肉じゃがには玉ねぎが入っている。あれは食べられない。

 もし、白菜で誤魔化した『なんちゃって青椒牛肉絲』を諦めると、食べられるのは秋刀魚の塩焼きだけ…。

 それはあまりに侘しいし、なんか猫っぽくていやだ。

 まあ、一口や二口食っただけで死ぬことは無いだろう。

 意を決して、ぱくりと一口。

 もぐもぐ。

 …んー、不味くはないんだけど、微妙な味。なんというか、薄いのだ。

 

「あー、やっぱり水が出ちゃったなあ。炒める前に、軽く塩を振っておくべきだったか?」

「でも、そうすると歯応えが死んじゃうわ。きっと、この組み合わせだとこれが限界ね」

 

 おっと。

 知らぬ間に、えらく料理に詳しくなってませんか、若奥様。

 そういえば、肉じゃがの出来栄えも、少なくとも見た目は合格点だし、ご飯も絶妙な感じで炊き上がっている。そもそも手先は器用だし、王女様なんだから味覚だって確かなのだろう。なら、短期間でこれだけ上達したのだって頷ける。

 

「ふう。ホントあんた、いい奥様になってるよなあ」

 

 ぽつりと出た呟きに、キャスターが真っ赤になる。

 

「あ、ああ、あなたに言われても嬉しくもなんともないわ!ええ、ちっとも嬉しくなんてありませんとも!」

 

 …耳が、ぴこぴこ揺れてる。

 ああ、きっと嬉しいんだろうなあ。

 っていうか、俺もああなってるのか?

 

「でも、葛木先生だって褒めてくれてるだろ?」

 

 自分の嫁さんがこれだけ短期間にこれだけ料理の腕を上げているのだ。感謝の言葉の一つも言わないなら、それは人間として間違えている。

 

「宗一郎様は何も仰ってくれないわ。でもね、最近はおかわりをして下さることが多くなって…」

 

 片頬に手を当てながら、心底幸せそうに顔を傾げるキャスター。

 熱くなった頬、蕩けた瞳は、この人が葛木を、どれほど愛しているかを示していて。

 正しく、見てるこっちが赤くなってしまうくらいのアツアツぶりである。

 

「ふうん、じゃあ先生も幸せ太りに気をつけないとな」

「…幸せ太りって何?」

「結婚して、奥さんの料理を食べ過ぎて太った人のことをそう言ってからかうの。まあ、独り者のやっかみみたいなもんだよ」

 

 もぐもぐと、脂の乗った秋刀魚を噛み締めながら、どうでもいい会話を交わす。

 流石に女の子の体、男のときほど食べることは出来ないらしい。途中から、食事と言うよりも、如何にキャスターをからかうか、に重きを置いてしまっている気がする。

 

「ああ、幸せ太りをさせてみたい…!でも、太った宗一郎様なんて…それはそれで素敵かも…!」

「おーい、キャスター、帰ってこーい」

 

 ぶつぶつと、赤くなったり赤くなったりを繰り返すキャス子さん。

 うん、これはこのまま放っておいても無害な危険物ですね。

 さっさと残りを片付けてしまいましょう。もぐもぐ。

 

 

 食事は終わり、食器の片付けも終わった。

 本来の予定であれば、この後は神代の大魔術師による各種精密検査が行われるはずだったのだが、今日は中止する、とのこと。

 何故、そうキャスターに問いただすと。

 

『貴方、体力がまだ回復してないでしょう?それじゃあ正確なデータが取れないから、今日はゆっくりしなさい』

 

 という、もっともな返答があった。

 一刻も早くもとの体に戻りたい身としては多少、いや、かなりやきもきはしてしまうが、一日の焦りが二日の退歩に繋がることもある。少なくとも、魔術の泰斗であるキャスターの言葉に逆らうのは愚かというものなのだろう。

 

 しかし、そうすると本格的にやることが無い。

 

 出来れば日課である魔術の訓練でもしたいところだが、魔術回路の調子がおかしい。なんというか、ぐるぐるしてもやもやな感じだ。全く意味が伝わらないと思うが、とにかく霞がかってよくわからない状態。こんな状態での魔術の修行は自殺行為だ、とキャスターに叱られてしまった。

 そうすると、どう考えてもやることが無い。

 普段からテレビを見る習慣なんてないし、本を読みたいとも思わない。キャスターに魔術の座学を申し込もうかとも思ったが、俺が目指しているのはあくまで魔術使いであり正義の味方。彼女の講義が役に立つとは思えないし、そんな中途半端な覚悟で講師を依頼するのは失礼に過ぎると言うものだろう。

 だから、本当にやることがないのだ。

 これでもか、そう考えてしまうくらいやることがないのだ。

 だから、うつ伏せに寝転がりながら、ぼーっ、としていても、それは仕方が無いことなのである。

 

「あ゛ー…、暇だー…」

 

 あごを、換えたばかりの新品の畳に乗せ、スケルトンの選手みたいにうつ伏せに寝転がる。万が一セイバーあたりに見つかれば即道場直行、地獄の乱取り三十本、そんな感じである。

 いくら勝手知ったるとはいえ、ここは他人の、しかも仏門の家。こんな無様な格好でくつろぐなど許されることではない。しかし、どうも押さえがきかずだらけてしまう。日向の縁側では丸まって眠りたくなるし、何もせずにごろごろしたくなること。体が変化して以来、そんなことが多くなった。

 

「うーん、なんか窮屈だな…、よし」

 

 意気込んでベルトを外し、ズボンとトランクスをずり下げ、尻尾を外に出す。

 それをぴょこぴょこ動かすと、妙に気持ちがいい。

 んー、しあわせだなー…。

 

 

 障子を開けて居間に入ると、ぴょこぴょこと、黒い蛇のようなものが、メトロノームみたいに揺れていた。

 視線をその根元に下げる。

 そこには、しどけなく寝転がった、猫が、いた。目尻は垂れ下がり、口元はにんまりと、本当に気持ちよさそう。

 

「あー、くつろいでるとこ悪いんだけど」

 

 めんどくさそうに目を開く、猫。

 

「おー、キャスター、どうしたー?」

「…お風呂が沸いたわ。よければどうぞ」

 

 そのとき、尻尾が、ぴたりと止まった。

 猫は、寝転がったまま、顔を横に背ける。

 

「…んー、せっかくだけど遠慮しとくよ。キャスターだけ入ってくれ」

 

 …声が、硬い。

 …額に、妙な汗が浮いていないか?

 …これは、ひょっとして…。

 

「坊や、昨日お風呂入った?」

「…もちろん」

 

 …あやしい。

 …そういえば、この部屋はなんだか猫臭い。

 

「…嘘なんて、魔術を使えばすぐにばれるんだけど。思いっきり恥ずかしい目にあってから本当のことを話すのと、今正直に話すの、どっちがいいかしら?」

「…入ってません、ごめんなさい」

 

 …なるほど、つまり―――。

 

「ひょっとして、水が怖い?」

 

 猫の、ぴんと立った耳が、黒い尻尾が、ぴくりと動いた。

 ああ、なんてわかりやすい。

 私は、自分の頬に、深い深い笑みが刻まれたのを、自覚した。

 

 みぎゃー。

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