みぎゃー。
「ご、後生だから、キャスター、頼む、見逃してくれ!」
「そう言って、一生お風呂に入らないつもり!?」
「あ、明日、明日はちゃんと入るから!」
「なら今日入っても同じことでしょう!」
「覚悟の問題だ!今日はまだ覚悟が出来てないんだ!」
「なら今すぐ覚悟を決めなさい!」
ずりずりと、板作りの廊下を引き摺られていく。
気分はドナドナ。後は美味しい肉屋さんへ、そんな感じで。
「キャスター、許してくれー!」
「駄目よ、曲がりなりに今の貴方は女の子なんだから、不潔なんて許しません!」
駄目だ、取り付く島も無い。
そりゃあ、俺だって分かってるさ。
一生風呂に入らない、そんなわけにはいかない事ぐらい。
それに、風呂は気持ちいいものだ。ちっとも危険なところじゃあない。
そんなこと、百も承知。
百も承知のうえで、やっぱり怖いものは怖いのである。
こればっかりはどうしようもない。
「だから、ゆーるーしーてー!」
「往生際が悪いわよ、坊や!」
彼女は聞き耳なっしんぐ。
ええい、こうなったら手段は選んでおれん!
ここは、この体になってから新たに得た武器の出番なり!
えい、と気合を入れると。
しゃきん、と伸びる猫爪。
かつんと、それを板の床に立てる!
すまん、一成!
あとでちゃんと謝るから!
これなら、キャスターの細腕では俺を動かすことはできないだろ…う…?
「おっおっおっおーっ!?」
がりがりと、床と爪が擦過音を奏でる。
それでも止まらない俺の体。
何故、キャスター如きにここまでの膂力が?
「その程度の抵抗で私の怒りを止められると思って?」
怒り?
俺、キャスターを怒らせることなんてしたか?
「貴方みたいな女の子が可愛らしくあるのは、権利じゃなくて義務よ!それを破った貴方を、私は許さない!」
訳のわからない、力任せの理屈。
方向違いの義憤に塗れたその声。
がっしりと捕まれた襟首に、恐ろしいほどの力を感じる。
しかも、それは魔力によって強化された不純な筋力ではない。
純粋な、物理的な力としての筋力のみ。
それは、彼女の力の限界値を超えている。
間違いない、キャスターは怒っている。
それも、俺の身が危険に晒されているほどの怒り。
聖杯戦争の折でも、これほど怒っているキャスターを見たことが無い。
あれ、おっかしいな。
キャスターのクラス別能力に、狂化スキルってありましたか?
「武士の情けよ、私は入らないであげる」
いつの間にか、洗面所の扉の前。
がらがらと、それが開かれる。
「ちゃんと百数えるまで入るのよ!」
「うわあい!」
ぽい、と放り投げられた。
反転する視界。
その中で、唯一の脱出口は、無慈悲に閉じられた。
くるり、と空中で一回転。
音も無く着地して、即座に扉に駆け寄る。
「出せ、頼むから出してくれぇ!」
「聞く耳持ちません!」
どんどんと、扉を叩く。
力いっぱい引いてみる。
それでも、扉は開きません。
つっかえ棒でも噛まされたかのように微動だにしない扉。
不味い、どうやらキャスターは本気だ。
「これ以上駄々を捏ねるなら、私も色々と考えさせてもらいますからね!」
それは、俺の治療を放棄する、そういう脅しか?
それを言われると、返す言葉が無い、というか困る。
医者と患者、どちらの立場が強いかは明白だ。
…仕方ない。
はぁ、と溜息を一つ。
とぼとぼと、脱衣カゴの前に立つ。
諦めの境地で、ゆっくりと服を脱ぐ。
上はパーカー、下はカーゴパンツという男と変わらない服装のため、着衣脱衣に苦労することは無い。
それらを脱ぐと、大き目の鏡に映った自分の裸が目に入った。
赤毛の中に、ぴんと立った冗談みたいなネコ耳。
ほとんど凹凸の無い、しかし不思議と丸みを帯びた体。
ぶかぶかのトランクス、そこから飛び出た黒い尻尾。
要するに、見るも奇妙な生き物が、そこにはいたのだ。
「はは、これ、誰?」
がっくりと項垂れる。膝を突かなかっただけでも褒めて欲しい。
あらためて、自分の身体をじっくりと眺める。
女になった自分の身体を見ても、不思議と恥ずかしいという感情は涌かない。もし、俺が男のときなら、如何に子供の裸とはいえそこは女性の裸、それなりに動揺もするのだろうが、それはない。
一応、しっくりきてはいるのだ。
自分の身体だという実感はある。だから、それを見ても恥かしいとか、そういうことはない。
それでも、納得が出来ない。
それは、理想と現実の解離に近いのかもしれない。
そして。
いや、それより何より。
「無いんだよなあ…」
最後の衣類を脱ぎさっても、そこには何も無い。男のときは当然あった、ソレがないのだ。
それを実感するたびに、俺は思うのだ。
ゴッド、俺、なんか悪いことしましたか、と。
そして、呟くのだ。
「うふふ、死にたい…」
と。
◇
『坊や、ちゃんと身体を洗ってから入るのよ』
ばしゃん、と響く水音。それは、風呂桶から零れ落ちた湯と床のタイルが奏でる音である。
キャスターの声が、微妙に薄く、そして遠くから聞こえる。
洗面所の扉と風呂場の扉、二枚の板越しでは彼女の綺麗な声も微妙に濁って聞こえるから、不思議と言えば不思議ではある。
「ああ、わかってるって」
風呂椅子に腰掛けつつ、空の風呂桶で再びお湯を掬う。
そして、もう一度それをぶちまける。
ばしゃん、と景気のいい音。
しかし、俺の身体は露ほども濡れていない。
『しっかり洗いなさいね』
「わかってるって、子供じゃないんだから」
そう、俺は子供でない。
ならば、知恵の一つも働くのだ。
風呂に入らないとキャスターは怖い。
でも、俺は水が怖い。
まさしく前門の虎、後門の狼な状況なのだが、そこらへんはいくらでも誤魔化しようがあるというもの。
水に入るのは流石に怖いが、濡れタオルで身体を拭うくらいなら問題ない。こうやって風呂に入ったふりをして、あとは適当に石鹸の香りを染み付けてさえおけば何とか誤魔化せるだろう。
だって、仕方ないのだ。
とにかく、怖いものは怖いのである。
よっぽど特殊な人間をおいておけば、例えば刃物は恐ろしいし、高いところに行けば足だって竦む。今の感覚はそれに近いと思う。理屈抜くで本能が感じる恐怖だ。今だって、隣に並々と湯の張った湯船があるだけで、尻尾と耳がぴりぴりするくらい緊張しているのだ。
『本当に身体洗ってる?さっきから水音が不自然なんだけど』
「…シッカリアラッテマスヨ?」
…なんて勘のいい。
流石は人智を超越した魔術師、伊達に耳がとがっているわけではない。
なるほど、とにかく水音を立てればいいというわけではないということか。
慎重に、そして繊細に。
なるべく自然な音を作らないと。
「そうそう、そういう音なら自然よね」
「だろ?こう、あまり音を派手にしないのがこつなんだ…よ…?」
あれ?
今、声が真後ろからしませんでしたか?
しかも、壁を挟んだ濁った声じゃなくて、すぐ傍で発せられた、綺麗な声。
…。
ゆっくりと、ゆっくりと、後ろを振り返る。
そこには―――。
「で、次はどうするのかしら、坊や?」
満面の笑みのキャスターが。
………。
………。
………。
「どうしたの?陸に揚げられた魚みたいに、口をぱくぱくさせちゃって」
おかしい。
気配は、しなかった。
扉の開いた気配も、人が中に入ってきた気配も。
そもそも、今の俺の聴覚ならば、キャスターが外で身じろぎしただけでも、その音をはっきりと聞き取ることができるのだ。
だから、おかしいのだ。
一体、どうして…。
「ここは、私の神殿よ。おおよそ不可能なことがないくらい、貴方だって知っているでしょう?」
神殿。
不可能が無い。
つまり―――。
「お前、空間転移かましやがったな!」
「ええ。可愛い小猫の悪戯現場を押さえるには、それくらいしないとね」
なんて無駄!
いわゆる魔術師は、魔術意外で解決できる問題には魔術を使わない。ご多聞に漏れず、このキャスターだってそうだ。なにせ、戸籍を取得するに当たって、反りの合わない遠坂に頭を下げ、多額の謝礼を渡したほど。彼女ほどの魔術師ならば、戸籍を用意するくらいいくらでもやりようはあったはずなのに、結局彼女は最後まで魔術を使おうとはしなかった。
そもそも魔術というものは隠匿されてこそその本領を発揮できるものであり、おいそれと人前で使うべきものではない。まして、空間転移なんていう魔法一歩手前の大魔術、浪費される魔力の量だって半端じゃない。
「なんて無駄!」
「ええ、貴方の言うとおりね」
彼女はやはり笑みを崩さない。
それは、仏との距離の近いこの家に相応しい、菩薩の笑み。
しかし、その裏に鬼子母神の微笑を感じる。いわゆるあれだ、人の子を攫って食っちまう、鬼だった頃のそれの微笑だ。
つまり。
きっと、キャスターは。
とーっても。
「…怒ってる?」
「あら、坊やは私が怒らないといけないようなことをしたの?」
…おかしいなあ。
人間、本気で怒るとこめかみに血管が浮くものなんだ、初めて知りました。
「で、坊やは一体何をしてるのかしら?」
いい加減、限界まで捻った首が、攣りそうです。
だから、これは怖くて震えてるんじゃないぞ。
そう、首が攣りそうだから、こんなに、まるで小動物みたいにがたがた震えているんだ。
「もう一度聞くわ。坊やは一体何をしてるのかしら?」
大迫力の小音声。
囁くようなそれに、無限の不吉を感じてしまう。
あわあわと、上手く声が出ない。
えっと、とか、その、とか、無様な音声のみ、辛うじて溢れてくる。
「これで、二回目の嘘よねえ。いくら仏みたいに優しい私だって、ちょーっと怒っても仕方ないわよねえ?」
「…仏さんは三回までは許してくれるぞ?それに、貴方、ちょっとじゃなくて、とっても怒っていませんか?」
「それは、坊やが私をとーっても怒らせるようなことをしたかどうか、その可愛らしい胸に直接聞いてみたほうが早いんじゃなくて?」
オーケー、把握した。
つまり、俺の命はふーぜんのともしび、と。
ぐっばい、現世。
こんにちは切嗣。
おれ、あんたの娘になっちまったけど、そこらへんは勘弁な?
「さて、覚悟はいいかしら?」
ぎみゃー。
◇
水蒸気で曇った小窓から、輪郭のぼやけた月が見える。
上弦の月。
月は魔術と縁が深く、女という性とも関わりが深い。
それに比べれば、太陽は文明的で、男性的だ。
有史以来、女性はいつだって男性の影に脅えていた。
地母神である蛇や蜘蛛は、男性神である鳥に喰い殺される定め。
ならば、月の女神の弓矢が、太陽神を討ち滅ぼすのはいつのことになるのだろう。
そんな、どうでもいい妄想が頭を過ぎる。
ふう、と、溜息。
じんわりと、疲れが解けていく感覚。
筋肉の深奥に残っていたしこりが、汗と一緒に流れ落ちていくかのようだ。
「あー、お風呂って、ほんと気持ちいいわ…」
もともと、乾燥した地域の出身である。貴重な資源である水を、文字通り湯水の如く使う贅沢は、王侯貴族の間でもそうそうできるものではなかったし、そもそもその必要が無かった。せいぜい泉で沐浴するくらいものだったか。
だから、この時代、この国に呼び出されて一番気に入っているのが、お風呂なのだ。こればっかりは、毎日入っても飽きることが無い。
「ねえ、坊やもそう思うでしょう?」
「………」
片手で軽くお湯を掬って、目の前にある細い肩にかけてやる。
すると、後頭部から覗く彼女の耳が、滑稽なほどびくびくと動いた。
「入っちゃえば別に怖いものでもないでしょうに」
「………」
反応が無い。
答を返す気もおきないくらい怒っているのか、そんな余裕すら無い、そういう状態なのか。まぁ、小刻みに小さな波紋を起こし続ける水面を見るに、有力なのは後者だろう。
彼女の小さな身体は、湯船に深く腰掛けた私の手足の中に、すっぽりと納まってしまっている。
真っ白で、華奢な背中。
そっと、彼女のうなじの辺りを撫でてやる。
冗談みたいに滑らかで張りのある肌。同性として、僅かな嫉妬を覚えてしまう。
「きゃすたぁ…」
泣きそうな、声。
事実、少し喉に詰まるような鼻声が混じっている。
恨み言だろうか。それでも、憎まれ口が叩けるほどの余裕が生まれたのであれば、それはそれで結構なことであるが。
「なあに、坊や?」
「たのむから、はなさないでくれぇ…」
がつん、と、鼻頭を殴られたような、衝撃。
涙に震えたその声は。
まるで、母親を求める幼児みたいな声で。
単純な、話だ。
…やられた。
完膚なきまでに、やられた。
あの傲慢ちきな金色に、感謝してやってもいい。
これは、奇跡だ。
肩越しに振り返ったそれ。
耳は、ぺたんと垂れ下がり。
ハの字型になった、少し太い眉と、薄く涙の浮いた瞳。
鼻は少し膨らんで。
唇はへの字型に、かたかたと震えている。
ようするに、とんでもなく愛らしい物体が、そこにはいたのだ。
あー、もー、我慢なんてできるか!
「坊や!」
力いっぱい、後ろから抱きつく!
なんていうか、いただきます!
天にまします我らが神よ、今日の恵みに感謝を!
御免なさい、セイバー!
貴方のマスターをご馳走様!
「おねがいだから、そのままぎゅってしててくれぇ…」
…気付けば、それはぼろぼろと、泣いていた。
鼻水を啜り、彼の年齢を考えれば、いっそ滑稽なほど、ぼろぼろと。
滴る涙が、水面に小さな小さな波紋を起こす。
それは、彼の震える肩が起こす波紋に飲み込まれ、儚く消えた。
「…本当に、怖かったんだ…」
ふう、と、再び溜息を吐き出す。
それは、欲望に流されそうになった自分に対する呆れであり、それ以上にこんなに捻じ曲がった現実をそれなりに居心地がいいと、受け入れてしまっている自分に対する感嘆の念だ。
先ほどまでの情欲は、熱湯に浮かべた氷みたいに、あっけなく消え去っていた。
ただ、胸の奥をとろとろと焼くような、鈍い暖かさだけが、残った。
そっと、彼の震える頭に手を乗せる。
「…ごめんなさいね。でも、このまま本当に、一生お風呂に入らないわけにもいかないでしょう?」
うー、うー、と、不器用に声を殺した、獣が唸るような泣き声。
しゃくりあげる声を必死に抑えたその声が、遠い昔に忘れた何かを思い出させてくれるようだ。
くしゃくしゃと、洗い立ての髪の毛を撫でてやる。
すると、ほんの少しだけ彼の中から力みが消えた。
「さっきの居間での様子なんかもそうだけど、貴方、明らかに精神が身体に引きずられてる。もし、魂までその身体に適合しちゃったら、どんな魔術でも貴方を元に戻せなくなるわ」
「わかってるよう…、でも、どうしようもないんだよう…」
ひっ、ひっ、と、堪えきれずにしゃくりあげ、それでもなんとか言葉を紡ぐ。
「もとのからだにもどりてえよう…」
愛おしい、と。
心の底から、そう思った。
「なら、無理にでも流れに逆らいなさい。でないと、本当に手遅れになる。もし、一人でお風呂に入れないなら、毎日でも来なさい。ちゃんと一緒に入ってあげるから」
ぐすんと盛大に鼻を啜り、躊躇いがちに頷いた彼。
私は、天井を見上げた。
そのとき、結露した水蒸気が、水滴となって私の額に降りかかってきた。
冷たい刺激。
頭を冷やせ、そういうことか。
なんというか、今の私にぴったりの天罰である。
◇
まあ、これ以上、恥を掻くことはないだろう。
泣き言を聞かれた。
ぐしゃぐしゃに泣いてる顔だって、見られた。
一糸纏わぬ裸だって見られた。
あまつさえ、圧迫の魔術をかけられた上で、仔に入り細に入るまで、身体中をぴかぴかに洗われたのだ。当然、あそこや、あんなところの奥の方まで。
この上、何を恥ずかしがることがあるだろうか。
「でも、これはないだろ、キャスター!」
先に風呂から上がった彼女。
涙を拭ってから脱衣所にあがると、そこにあったのは、いわゆる女性用のパンティと、ふりふりのネグリジェ。しかも、ご丁寧なことに、俺が穿けば尻尾がくるあたりに、綺麗な刺繍を施した小さな穴が、ぽっかりと開いているのだ。
「いつの間に作ったんだ…」
セイバーに着させる服を、わざわざ自分の手で縫い上げている彼女だ、裁縫は得意なのだろうが、いくらなんでも早業過ぎやしないか?
それに、ふりふりですけすけのネグリジェ。子供のくせに妙に色気のあるイリヤあたりが着ればこの上なく似合いそうな寝巻きではあるが、どう考えても俺には似合わない。
しかし、他に着るものは無い。ある程度予想はしていたことだが、元々俺が着ていた服一式は綺麗に姿を消している。犯人は捜すまでもない。だって、この家には俺以外、一人の人間(?)しかいないのだから。
「裸で歩いたら、間違いなく怒るだろうなぁ…」
それは予想、というよりも確定した事実である。
別の下着を要求しても、却下されるのは目に見えている。
「引きずられるな、そう言ったのはあいつじゃなかったか…?」
神様、俺は誰を信じればいいのでしょうか?
このままでは人間不信に陥りそうです。
一番信じることの出来ないのは、もちろん俺自身ですが。
「…仕方ないか」
別に、所詮は下着だ。
女物の下着をはいたところで、死ぬわけではない。もっとも、人間として大事な何かは砕け散るかもしれないが。
意を決して、ふりふりの可愛らしいパンティを穿き、ネグリジェを被る。
小さな穴に尻尾を通し、装着完了。 俺の寸法を測っていたみたいなフィット感、極上の着心地ではある。
文句は言うまい。きっと、キャスターだって俺のためにこれを用意してくれたのだから。
肩を落としながら、寝所まで歩く。
途中の廊下に、猫が爪を研いだような傷が、何箇所も残っていた。
行儀の悪い野良猫もいたものである、うん。決して、俺のせいではない。不可抗力、緊急避難なのだから、警察屋さんだって許してくれるはず。
頭の中の誰かさんに言い訳をしつつ、寝所の障子を開けた、その瞬間。
ぱしゃり、と。
鋭い光が俺の虹彩を焼いた。
思わず腕で光を遮る。
敵?
攻撃?
身構える。
瞳孔が収縮する。
筋肉が硬くなる。
牙が、剥き出しになる。
爪が、硬く、長くなる。
髪の毛が、尻尾が、耳が、逆立つ。
薄暗い室内、敵の姿を探す。
夜目は利く。
この身体になってから、それこそ昼間と夜の違いがない。
鋭い視界。
その中にいたのは。
「きゃー、やっぱり似合うわー!」
カメラを構え、くねくねと身を捩る、若奥様でした。
「うんうん、やっぱり可愛い女の子は、可愛い格好をしないと、罪よね!」
ぱしゃりぱしゃりと、シャッター音が響く。
その度に、彼女の嬌声が室内を満たすのだ。
しばらく目の前の光景が理解できなかったが、あまりの衝撃に成仏しつつあった魂が、ようやく帰ってきた。
「あのー、キャスターさん?一体何をしているのですか?」
「見てわからない?写真を撮ってるのよ」
何の衒いもなく、しれっとそう言い切った彼女。その間もシャッターは切られ続けている。
「いや、俺が聞きたいのはそういうことじゃなくて…」
なんで俺の写真なんて撮っているのか、そういうことなんですけど。
「仕方ないでしょ、セイバーに可愛い服を着せようとしても、脅えて逃げちゃうんだから」
それは、果たして俺を被写体にする理由となり得るのでしょうか?
「この世は全て等価交換でしょう?なら、貴方の治療の対価として、それなりの報酬があっても罰はあたらないと思わない?」
…そりゃあそうかもしれないけど…。
「あら、嫌そうね。嫌ならセイバーに代わって貰ってもいいのよ?まだ令呪、残ってるんでしょう?あの子、きっと嫌がるけど、嫌がる彼女を躾けるっていうのもそそるわね」
「…了解した、地獄に堕ちろ、メイガス」
彼女は、にたりと笑った。それは、巣に獲物がかかったときの女郎蜘蛛が浮かべる笑みだった。
ああ、どうやら逃げられない。
俺は、全てを諦めた。
願わくば、今日の悪夢が、本当に悪夢でありますように。
「契約完了ね。じゃあ、ちょっとポーズをとって頂戴?そう、もっとお尻を突き出して、にっこり笑って!」
◇
「あー、疲れたー」
今日は、色々あった。
色々ありすぎて、思い出したくないほどだ。そもそも、この身体になってから二日たつが、外に出たのは初めて。華奢な筋肉が、あの長い階段を昇ったことによる筋肉痛で、悲鳴をあげている。
筋力そのものは大幅に減少しているが、運動性能は落ちていない。むしろ、反射神経などを総合すれば向上しているとさえいえるのかもしれない。
魔力は?
わからない。明日になればキャスターの診断が下るので、そこらへんの細かいところもはっきりするだろう。
いずれにせよ、今日するべきことは残っていない。ならば、あとは眠るだけ。
「もう、寝ちゃった?」
隣の布団から、声がした。
今日、それこそ嫌というほど聞いた、キャスターの声だ。
「起きてるよー」
気のない返事を返す。
暗やみの中で、人が動く気配がする。
「寒くない?毛布でも用意しましょうか?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
布団は、最初から二組用意されていた。
てっきり、布団は一つに枕は二つ、そういう嫌がらせを予想していただけに、肩透かしを食らった気分だった。
「宗一郎様がいないのが悔やまれるわねえ…」
「どうして?」
虫の鳴き声も聞こえない、完全な静寂。その中で、くぐもった笑い声が響いた。
「ほら、この国でよく言うじゃない、親子三人で、川の字になって眠るって。一度やってみたかったのよね、あれ」
軽い言葉の中に、無限の羨望を感じたのは、俺が未熟過ぎる故だろうか。
彼女は、サーヴァントだ。
どれほど人間味に溢れようと、所詮この世においてはまれびとに過ぎない。
だから、どれほど希おうと、愛しい人との間に子を成すことは叶わない。それがどれほど悔しいことなのか、どれほど切ないことなのか、俺如きにはわからないし、わかってはならないのだろう。
「貴方、これからどうするの?」
「どうって言われても…」
そんなこと、わからない。いきなり女の身体になって、それでも将来の展望に変わりがないならば、それは余程の大人物か、それともただの馬鹿か、だ。
「わからないよ…。ただ、元の身体に戻るために、あらゆる努力はしようと思う」
「…そうね、私もできる限りのサポートはさせて貰うわ。でも、それでも元に戻らなかったら、どうするの?」
元に戻らない。
この冗談みたいな身体で、長い一生を生きていかなければならない。
そんなの―――。
「ごめんなさい、別に意地悪をしようという訳じゃないわ。ただ、万が一のとき、もし貴方がよければ、私と宗一郎様の養子にならない?」
はっ?
この人は、一体何を言っているのだろうか。
「この世界で生きていくなら、戸籍とか家族とか、そういう煩わしいものは切っても切れない。それは、この世界にいなかった私だからこそ一番強くわかってる。もし、貴方がその身体で生きていくなら、誰かが貴方の家族にならないといけないと思うの」
…それはそうかもしれないが。
確かに、この国で生きているということは、戸籍があって、住民票があって、免許証があって、健康保険証があるということだ。
それらがなければ、法の庇護も受けにくくなるし、まともな就職なんて絶対に出来ないし、結婚なんて夢のまた夢だろう。下手すれば、不法入国扱いを受けてしまうかもしれない。
「あの女性、フジムラっていったかしら。ずいぶん貴方と親しかったみたいだけど、幸か不幸かあの女は魔術のことを知らない。だから、今の貴方を本当の意味で理解することは出来ないでしょう?」
「…でも、だからってあんた達に甘えるわけにはいかない」
「私が望んでいるのよ。きっと、宗一郎様だって理解してくださるに違いないわ」
優しい声。
それだけで理解できてしまった。
きっと、この人は、本当に俺を心配してくれているのだ。
それこそ、本当の母親みたいに。
「…よくわからないよ。きっと、そのときにならないと答なんてでないと思う」
「…ええ、それが当然ね。考えておいてくれれば、それで十分よ。ただ、覚えておいて、私は絶対に迷惑になんて感じないから」
…思わず、涙が毀れた。
この身体になってから初めて流す、嬉し涙だった。
「…今日は遅いわ。もう寝ましょう」
「…そうだな。おやすみなさい、―――」
お母さん、と。
小さな小さな呟き声を、果たして彼女は聞いてくれただろうか。
俺は、そのまま、深い眠りの底に落ちていった。
夢を見る予感があった。
暖かい、夢を見る予感があった。
きっと、母親の夢だ。
そう、思った。