もしも県内一の底辺不良高校に入学してしまった「普通の少年」が宮本武蔵の『五輪書』を読んだら   作:新免ムニムニ斎

17 / 43
唯一態度を変えない男の話。

 五輪書には「万里一空(ばんりいっくう)」という言葉がある。

 

 空之巻には、この「万里一空」のことだけが記されていた。

 

 「万里一空」とは、二天一流(にてんいちりゅう)修行者の、いや、武芸者全てが目指すべき境地のことである。

 

 兵法の知恵、兵法の道理、兵法の道……それら全てを修めた者は、兵法において「迷い」や「妄念」が無くなる。その心の境地を武蔵は「(くう)」と呼んだ。

 

 その「空」の心でもって、目の前の現象にあたる。

 

 迷いの無い「空」の心には、バイアスが無い。ゆえに目の前の出来事にも冷静に対応できる。

 

 ここで言う「バイアス」というのは、「好き嫌い」や「恐怖」のことだ。

 

 いつの時代もそうかもしれないけど、今の世の中は「バイアス」に支配されている。

 

 「好き嫌い」などのバイアスが心にあると、世界に対する認知も歪んでしまう。

 

 離婚する夫婦と一緒だ。

 たとえ最初は毎晩ハッスルするくらいの仲良しでも、年を重ねるにつれて減点方式で相手を見るようになってしまいがち。

 一つの欠点に「嫌い」と感じたら、それをキッカケに坂道を転がり落ちるようにしてその他の「嫌い」も見つけてしまう。

 旦那の粗探しばかりするようになった挙句に女との頻繁な通話履歴を見て浮気と邪推。その真偽に関係なく夫婦仲はさらに悪化し、互いの粗探しも加速し、やがて破局に至るのである。

 ……あれ? 僕こんな知識どこから仕入れてきたんだっけ?

 

 この「好き嫌い」は、「怖いか怖くないか」に言い換えることもできる。

 

 恐怖が介在する出来事で、最も代表的なのが「戦い」だ。

 

 相手の武器による被害を怖がれば、相手との距離感がうまく掴めなくなり、相手の動きを冷静に観察できなくなり、負けてしまう。すなわち「死」だ。

 

 ——だが「万里一空」は、それらを超越した境地だ。

 

 雑念の無い、どこまでも澄み渡った「空」の境地には、「好き」も「嫌い」も無い。

 目の前にはただ「現象」が広がっているのみ。

 「現象」は「現象」でしかない。

 ゆえに冷静に、的確に、正確に、緻密に、最善に、その「現象」に対応できる。

 

 たしかに、それができればすごい。

 

 でも、やはり「言うは易し」の境地なのだ。

 

 「万里一空」……そんな境地は、人生全てを賭けでもしないと辿り着けない境地かもしれない。

 

 それを桔梗さんにこぼしたら、

 

「道は近きにあり、しかるにこれを遠きに求む——孟子(もうし)の言葉よ。なんでもかんでも遠い事のようにありがたがらないで、まずはやってみなさいな」

 

 と言われた。

 

 確かに、食わず嫌いは良くない。

 

 まずはもうちょっと汲み取れるものはないか吟味してみよう。

 

 今までだって、五輪書の内容をそのまま用いるのではなく、()()()()してやってきたのだ。

 

 武蔵も「型にはまる」ことを嫌っていたので、まずはその精神性を真似するべきだ。

 

 僕は「空之巻」と、その注釈などを何度も読み込んだ。

 

 だがやはり、まだ五輪書と出会って一週間とちょっと程度の僕では、「空」の境地に必要な知恵も経験も足りない。

 

 やっぱり「万里一空」など、僕にとっては雲を摑むような話だ。

 

 けれど、一つだけ、真似ができそうなことが見つかった。

 

 「集中力」だ。

 

 周囲で起こる全ての「現象」を冷静にとらえ切ることは無理でも、せめて目の前にいる相手の動きに対しては冷静に対処できるようにしたい。

 

 それを可能にするのが「集中力」だと思った。

 

 相手の手足の動き、重心の配置、目線……そういった情報を冷静に見据え、そこから次の行動を予測する。それを可能にする「集中力」。

 

 腕力が人並み以下で、体重も軽く、手足のリーチも短い僕が、大柄で腕力がある敵を相手にするならば、そういった「鍛えて得られる能力」を身につけなければならないと思ったのだ。

 

 ……まあ、教えてくれたのは桔梗さんだけど。

 

 彼女からもらった『五輪書』にドッグイヤーがいっぱい付いてた通り、桔梗さんは五輪書をかなり読みこんだようだ。

 

 その上で、彼女が一番参考にした章というのが、やはりというべきか「火之巻」だった。

 

 「火之巻」は、戦いにおける場所取りや立ち回り方についてまとめた章だ。

 

 桔梗さんもやっぱり女性であるため、単純な腕力などではどうしても男に劣る(僕よりは強そうだけど)。なので技を鍛えるだけではなく、そういう戦術的なものも身につけなければ、大の男と対等にやり合えない。

 

 それを聞いて、僕はようやく桔梗さんに親近感のようなものを覚えたのだ。超絶美人さんの姿をした魔物みたいに思っていたから……これ言ったらあの強烈ビンタで殴られそうだなぁ。

 

 色々と語ってしまったが、結局何が言いたいかというと、性別的、体格的不利を背負った僕らみたいな奴は、それを補うためにいろいろ工夫したり、他の能力を磨いたりしないといけないのだ。

 

 僕が選んだのは「集中力」。

 

 ——そして水曜日の朝、僕はその「訓練」を行なっていた。

 

 鉄筋コンクリート造りのマンションの一室が、僕の住まいだ。……より正確には母さんと僕の住まい。母さんは基本的に海外で仕事をしている。なので普段は僕一人だ。

 

 その中の僕の部屋。必死に勉強していた名残として、部屋の端に学習ドリルや参考書がうず高く積まれている。しかしそれ以外は基本的に必要最低限のものしか置いていない、殺風景な部屋だ。窓が無いのも難点。

 

 その部屋には今、電気が点いていない。

 

 真っ暗。

 

 

 

 照らすのは——部屋の中央にぽつんと置かれた()()()()()()()()()のみ。

 

 

 

 僕はそれを、パジャマ姿のままじっと見つめていた。

 

 別に、怪談話をするわけではない。一人で怪談話とか寂しすぎる。

 

 僕は座ったまま、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 真っ暗で、風一つ吹かず、その火を揺らすのは僕の息遣いのみ。その息遣いも、離れた距離のせいでロウソクの火をかすかにしか揺らさない。

 

 そう。()()()()()動くのだ。

 

 風一つ吹かない室内。そこではロウソクの火は固体のように動かない。

 

 しかし息遣いによって()()()()揺れる。

 

 その「かすかな揺れ」の波の形状を、全集中力をもって視認する。

 

 これが修行だ。

 

 「ロウソク修行」だ。

 

 動きにとぼしいロウソクの火の「かすかな揺れ」を余さず見れるだけの眼力と集中力があれば、目の前の相手に起こる「ささいな変化」すらもキャッチすることができるようになるかもしれない——そう思いついて始めた修行だ。

 

 これだけは桔梗さんではなく、僕自身のアイデアだ。

 

 武術の心得も何も無い、僕が考えた修行なので、効果があるのかどうかは分からない。

 

 でも、とりあえずやってみる。

 

 どうせ一回十分の修行なのだ。それが無駄になったとしても、時間としては微々たるものだ。

 

 いや、たとえ効果が無かったとしても、無駄ではない。「その修行は効果がない」という発見が得られる。これも立派な「結果」だ。

 

 そう。()()()()()()()()()。やれば大なり小なり、必ず「結果」が生まれるのだ。

 

 スマホのアラームはまだ鳴らない。まだ十分経ってないのだ。

 

 鳴るまでの間、僕はロウソクの火を見続けるのに集中しようとしたが、

 

「ふぁ……えっきしっ!!」

 

 唐突に出たくしゃみで、部屋が真っ暗になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな早朝を迎え、登校してきた朝のヌマ高にて。

 

「いたっ」

 

 昇降口から入って廊下を歩いている途中、反対側から歩いてきた男子と肩がぶつかった。

 

「ってぇな! どこ見て歩いてんだ、気ぃつけろコ——」

 

 その男子は罵声を浴びせようと振り向いたが、僕の顔を見るやその怒りと罵声を引っ込めて、

 

「……わりぃ」

 

 と素直に謝って去っていった。

 

 争いにならずにホッとしたが、僕はそれと同時に呆れのようなものまで感じていた。

 

「……ねぇ、あまりにもゲンキンじゃない?」

 

 僕は隣にいるいっちゃんにそうこぼした。

 

「それがヌマ高生のスタンダードだ。気にすんなって。それで平和に過ごせるんならいいじゃんかよ」

 

 いっちゃんの言う通りだ。

 

 どんな形であれ、僕は平穏な学園生活を手に入れることができている。

 

 でも一方で、僕が享受している今の平和は、ひどく()()()()()()だ。

 

 「『雷夫(ライオット)』と月波幸人の深い関係」などというものは本来存在しない。それをさも存在していると見せつけることで、僕はヌマ高生を黙らせるだけの威光を得られている。

 

 それは言うなれば張り子の虎だ。見ているだけならおっかないが、ちょっと近づいてみればたちまちニセモノだとバレてしまいかねない。

 

 『雷夫(ライオット)』の影響力をちらつかせる手によって今のところは助かっているが、これもいつまでもつか分からない。

 

 やはり、気は抜けないし、五輪書も手放せない。

 

 いっちゃんと五階で別れた後、僕はB組の教室へと向かう。

 

 空きっぱなしになったドアから教室へ入ろうとした時、

 

「あいたっ」

 

 ちょうど同じタイミングで外へ出ようとした男子と、胸がぶつかった。

 

 しかし相手の男子は少しもよろけず、僕だけが後ろへよろけた。まるで銅像にぶつかった気分。

 

「あ……」

 

 その男子は、樺山孝治(かばやまこうじ)だった。

 

 半眼気味なその眼差しを見た瞬間、先週の瞬殺シーンが連想され、血の気が失せる。

 

「——どけ。邪魔だ、団子(だんご)

 

「あ、うん、ごめん……」

 

 思わず道を開ける僕。

 

 そこを通り、廊下の向こうへ去っていく後ろ姿を見て、僕はふと思った。

 

 ……彼だけは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。