もしも県内一の底辺不良高校に入学してしまった「普通の少年」が宮本武蔵の『五輪書』を読んだら 作:新免ムニムニ斎
「……うわ、すげー。無双ゲーみたい」
ボロボロのありさまで寝転がった幸人の胸ぐらを掴み上げた。
「……馬鹿か、お前は」
その乱暴な行動とは裏腹に、孝治の表情は怒っていなかった。
静かな表情。しかしその半眼気味の醒めた瞳には、非難するような、困惑しているような感情が宿っていた。
「いきなりご挨拶だなぁ……」
「馬鹿だろうが。なんであんな煽るような事言った? あいつらレベルの脳味噌なら、あんな煽り方されたらキレて殴りかかることくらい、お前なら分かってたはずだ。それなのに……」
「
孝治は記憶の引き出しから、幸人の言葉の正体を見つけた。
「……五輪書の「火之巻」の一文か。それがどうした?」
「よく知ってるね。そうだよ、五輪書。……「敵を自分の兵隊のように操れ」っていう武蔵の言葉。君が言う通りの
孝治は目を見開く。
「俺のためにボコられた……そう言いてぇのか?」
「半分はね。残り半分は僕のためだよ。君が復活すれば、こいつらを
——馬鹿か。
孝治が抱いたのは、驚きでも感謝でもなく、苛立ちだった。
「
心に思ったことをそのまま吐き出した。
そうだ。その方が合理的だったはずだ。そうすれば、そもそもこんなふうにボコられずに済んだというのに。
対し、幸人は呆れたように笑った。
「だから言ってるだろ。今は
孝治は、歯が割れんばかりに切歯した。
「…………何が「良い大人」だ。馬鹿じゃねぇのか。この社会に、そんな上等な存在がどれだけいるってんだ。少なくとも俺の周りは、図体だけ立派なチンカスみてぇな大人ばかりだった」
いじめっ子の両親、自分の両親、いじめっ子に日和った馬鹿な女教師、自分の陰口を叩く老若男女の教師ども……
「良い大人」など、どこへ行けば会えるのか。
「でも、最低一人くらいはいたんじゃない? 素敵な人がさ」
「それは……」
脳裏に浮かんだのは、今なお敬愛してやまない、亡き祖父の顔だった。
孝治の今までの人生の中で、真に「大人」と呼べるのは、祖父だけだった。
祖父の存在は、この真っ暗な社会の中にある、たった一つの「道標」だった。
「それにさ、そういう大人がいないっていうならさ——
いきなり背後からバットで殴られたような、最大級の不意打ち的ショックを味わった。
そうだ。
自分が、ここまで「団子」を嫌うのは、どうしてだ?
しかし、孝治はいつの間にか、その「初心」を忘れかけていた。
「団子」どもを踏みにじり、見下す優越感と快感に酔いしれ、それによって忘却していた。
だが、自分はそんなチンケなことがしたかったわけではなかった。
——大好きな祖父にとっての、理想の人間になりたかったからだ。
祖父は、「団子」に怒りや軽蔑を持つことはあっても、それを踏みにじって楽しむことを良しとするチンケな人間だったのか?
断じて否だ。
(…………ごめん、おじいちゃん。俺、馬鹿だったよ)
今、自分は忘れかけていた「初心」を思い出した。
それを思い出させてくれた少年は、頬の腫れた顔に、諭すような微笑を浮かべた。
「それよりも……僕の話を聞くよりも、君にはまず、
「やらないと、いけないこと?」
「
幸人は、いまだに尻餅をついたまま呆然としている夏子を
言わんとしていることを理解した孝治は、幸人の胸ぐらから手を離して立ち上がった。
夏子へ歩み寄る。目線を下げるようにしゃがみ込み、
「……大丈夫か?」
「う……うん。だいじょうぶだよ」
「そうか。それと……」
孝治はそこで一度言葉を止めると、うっすら頬を赤くし、ソッポを向きながら告げた。
「…………
夏子は数秒目をぱちくりさせるが、すぐに笑顔満点になった。
「うんっ! わたし、おこってないよ?」
「……そうか」
孝治はいつもの醒めたような顔つきに戻るが、内心では安堵を抱いていた。
——そんな孝治の顔をニヤニヤしながら盗み見している幸人のことは、あとでシメると心に誓った。