この日の夕方、私・黒鉄山城は、姉様…黒鉄扶桑と、某ホテルの1階にある食堂で夕食を摂っていた。
当然この後、上のホテルで姉様と一泊することになっていた。
ホテルと言ったけれども、別に遠出をしたわけではない。
私たちの勤め先であり、家でもある海神警備・岩川台営業所から、電車で30分ほどの所にあるホテルだ。
勿論この時、ホテルに行く前には朝から県内の観光スポットを、姉様と一緒に回れるだけ回った。
最早言うまでもないことだろうけれど、観光スポット巡りなんて本当はどうでもいいことだった。
私にとって肝心なことは…そう!
少しでもいつもと違う一日を姉様と過ごし、少しでもいつもと違う夜を姉様と過ごすこと!
そして…いつもと違う私の!私の身の内でマグマのように煮え滾る欲望を!愛を!姉様の肉体に!受け容れてもらうこと!
そのために私は!この一ヶ月の間、摂生に努め、この日回るスポットを何度も何度も検討し厳選した!
…姉様は私の前で、穏やかに微笑みながら、デザートの杏仁豆腐を口にしていた。
ああ、なんて清楚で麗しい…。
…この後は、部屋に戻って、シャワーを浴びて…それからベッドで…この清楚な
ここまで理想的に、完璧に、全てのことは進んだ。
私の内なる欲望は、精気は、そして何よりも愛は!ますます煮え滾り、私の肉体を爆散させんとしていた!
ああ!挿入れるモノのない
我が身の悶えを姉様に悟られぬように、冷静さを装うために、私はコーヒーを口にした。
すると…。
「ハイハイ論破論破!ちょっとは自覚したらどう?自分の頭の悪さってヤツをさぁ?」
!?
声のした方を向くと、そこには三人の若い男女がいた。
声の主は、この三人のうちの誰かのようだった。
…な、何なの?他人を下げて自分を上げようとする、生の感情丸出しのセリフは?
私は…私は…利用するホテルも食堂も、何度も何度も検討し直してこの日を迎えたのよ?
検討に検討を重ねて、私はこのホテルを、この食堂を選んだのよ?
ここは私と姉様にとって、最高最良の場でなければならないのよ?
何なの?その、この場の完全性を瑕つけ毀す、下劣極まるセリフは!?
…はっ!姉様!姉様は!?
そこで私は姉様の方に向き直った。
…姉様は…明らかにお顔を曇らせていた…。
…………。
おのれえええええぇぇぇえええ!
よくも、よくも姉様のご気分をおぉぉぉぉお!
この場が海上であったならあぁぁぁあ!
貴様らなど木端微塵に粉砕し、骨の一片、髪の毛一筋に至るまで完全消滅させてくれたものをおおぉぉおお!
許さん!許さんぞおおおぉぉぉおおおぉ!
この怨みいぃぃぃ!
七生・末代まで祟ってくれようぞおおぉぉぉおお!
「山城?」
姉様の優しい声が、私を現実に引き戻した。
「山城…どうしたの?そんなに目を血走らせて?」
「ね…姉様…い、いえ、何でもありません。」
…姉様の声は、どこまでも優しかった。
…私が憤怒と憎悪に悶えていたこと、姉様に悟られはしなかっただろうか…。
三人の男女は、静かに食事と話を続けていた。
静かにはしていたけれど…三人は険悪な雰囲気を店中に撒き散らしていた。
何の話をしているのかはわからなかったけれど…お互いにマウントを取り合うためだけの、下らない言い合いだということだけはわかった。
此奴ら…店の雰囲気を悪くするだけでは飽き足らず、姉様のお気持ちをさらに沈めるつもりなのか…!
…いけない、ここで怒りを燃えあがらせては…。
また姉様に、無用の心配をさせてしまう…。
姉様…私が自分の気を紛らわせるために話しかけることを、お許しください。
「姉様…『論破』っていう言い方、時々耳にしますけど…これって何だか感じの悪い言い方ですよね。」
「そうね…確かに、あまり感じの良くない言葉だと私も思うけど…山城はこの言葉の、どんな所が嫌なのかしら?」
「『論破』っていうのは、人が言ったことを否定するってことでしょう?それだけで『論破』は失礼なことだって感じがするんです。」
「でも
「相手の言ったことを否定するのは失礼だ、と決めてかかってしまったら、対話も交渉も始められなくなってしまうのではないかしら。」
こう言って姉様は、私の浅慮を窘めてくれた。
「ただ私も、論破と誰かが言うのを聞く度に、気になることがあるの。」
「気になること…ですか?」
「この人は、本当に論破するべき相手を論破できているのかしら、と思ってしまうのよ。」
「本当に論破するべき相手?」
「…でも姉様、論破する時に論破するべき相手と言ったら…それは対話の相手か、交渉の相手しかいないんじゃありませんか?」
私が質問すると、姉様はコーヒーを一口してから話を続けた。
(
「SNSに投稿するためだけに料理や甘味を注文して、出された料理や甘味を殆ど食べないで店を出る人がいるそうだけど。」
?
何故急にそんな話を?
ちょっと戸惑いながら、私は姉様に応えた。
「私も聞いたことはあります。全く酷い人たちですよね。」
「でもこれって、本当に非難されなくてはならないことなのかしら。」
「どういうことですか?」
「自分に提供されたものをどう扱おうと、人から非難される筋合いはないのではないかしら?お金はちゃんと払っているのだから。」
「…お金を払ってるからって、何をしても良いということはないんじゃありませんか?」
「お金を払っていたとしても、提供された料理や甘味をインスタ映え?のためだけに利用することは許されない?」
「そうですよ。」
「それは何故かしら?」
「何故って…食べ物なんですよ?食べられなければ、無駄になってしまうじゃありませんか。」
「提供された料理や甘味は、食べ物であると同時に『美しいもの』でもあるわ。美しいものをSNSに掲載して、多くの人に観賞してもらえるなら、全く無駄になったとは言えないのではないかしら?」
「…でも、料理やスウィーツを作ってくれる人の気持ちを考えたら…食べずに店を出るなんて。」
「料理や甘味を作る人の気持ちを、美しいものを誰かに見せたいと願う人の気持ちに優先させなければならない理由は何?」
一体どうしたというのだろう?
この時姉様が展開した論は、全く姉様らしくない。
私は少し気持ちを曇らせながら、姉様に問うた。
「じゃあ姉様は、インスタ映えのためだけに料理を注文して、食べずに店を出ても良いとお考えなんですか?」
「いいえ、料理を注文しておきながら食べずに店を出るなんて…言葉は悪いけど『ちょっと頭オカシイんじゃないの』と思っているわ。」
!?
「え…?え…それじゃあ、今までのお話は一体…。」
「山城?あなたはこの対話で、自分が論破されていると思ったかもしれないけれど…。」
「…この対話は、実を言うと
「それでは姉様、論破と言う時、本当に論破するべき相手というのは…。」
「そう、それは自分自身というわけね。」
「論破するべき相手は自分自身…。」
「これだけ聞くと、何だか自分で自分を攻撃することを奨めているように聞こえてしまうのですが。」
「姉様はどうして、論破と言う時、自分自身を論破するべきだとお考えなのですか?」
「自分の考えを自分で論破する。」
「そしてその論破をさらに論破する。」
「そしてその論破をさらに…。」
「こうして自分の考えを自分で論破する、ということを繰り返したら、行き着く先には何があるかしら?」
「それは…どこかの時点で論破なんてしきれなくなるだろうから…あ。」
「そう、自分ではどうしても論破しきれない、否定しきれない考え、自分にとっての紛れもない『真理』に行き着くことになるわね。」
「そしてこうして自分で自分を論破することで、自分自身の生き方を確りと定めることもできるの。」
「料理を注文しておきながら食べずに店を出るなんて間違っている。」
「さっき私はこの考えを―――あなたに手伝ってもらいながら―――自分で論破したけれど。」
「その論破を、さらに論破することが出来れば。」
「料理を注文しておきながら食べずに店を出るなんて間違っている。」
「私はこの考えの正しさを信じて、この考えを自らの掟として、生きていけるようになる。」
「ところで、さっきの論破には少なくとも二箇所、隙があったわ。」
え?隙?…二箇所?
隙なんてあったかしら?
姉様は困惑する私を措いて話を続けた。
「自分自身を論破することは、自分自身を攻撃することじゃないの。」
「むしろ自分自身が生きるために、しておかなければならないことなのよ。」
「ソークラテースは、アテナイを歩き回って市民を論破して回っていたそうだけど。」
「同時にアテナイ市民に対して『善く生きる』ことを奨めていたとも聞くわ。」
「ソークラテースは、市民を論破することで『自分自身を論破』することを市民に教え、奨めて。」
「『自分自身を論破し続ける』ことによって、『善く生きる』ことを奨めていたのかもしれないわね。」
「論破するということは…
またコーヒーを一口して、姉様は続けた。
「でも今、よく言われている論破というのは。」
「やっぱり、他の誰かを論破することを指しているみたいね。」
「そして論破が強い人、能く人を論破出来る人は、英雄か何かのようにもて囃されている。」
「今、誰かを論破している人たちは。」
「ただ英雄になりたくて、人から賞賛されたくて他の誰かを論破しているだけなのではないかしら。」
「自分にとって確かな真理・真実に至ることよりも、ただ『勝利して誰かの上に立つ』ことだけを目指しているのではないかしら。」
「山城?あなたはさっき、論破というのは相手の言ったことを否定することだと言っていたけれど。」
「誰かを論破することには、確かにそういう一面もあるわ。」
「そして誰かの言ったことを否定するということは、誰かの生き方を否定するということにも繋がる。」
「これはとても危険なことだわ。」
「ソークラテースも結局、『生き方を否定された』人たちの怒りを買って命を落とすことになったのだから。」
「それに…論破することが、対話することが。」
「ただ『勝利して誰かの上に立つ』ために、誰かの生き方を否定することだということになってしまったら。」
「対話とか議論とかは、
「そしてそんな人たちが対話して、議論して出す結論は、どんな結論になってしまうのかしら。」
「そしてその議論が、例えば国会での議論だったら…。」
「ごめんなさい。つい、言いたい放題言ってしまったわね。」
「い、いえ!姉様の深いお考えに触れられて、私…もう、何と言ったら良いか…。」
「うふふ、大袈裟ねえ…おだてられても、何も出せないわよ?」
ここで姉様は、コーヒーを飲み干した。
「さあ、そろそろお部屋に行きましょうか…。」
「…山城?私ね…今、すごくドキドキしているの。」
「今夜は…素敵な夜になりそうね。」
姉様は、そう言って席を立った。
…ドキドキしている。
……ああ!姉様はわかっていてくれた!
姉様の言葉に、私も舞い上がってしまった。
姉様がされた深いお話も、意識の上から消え去ってしまった。
(申し訳ありません、姉様。)
席を立つ時にテーブルに脚を打つけ、支払いの時に小銭を取り落とした。
軽くなりすぎた足取りに何度か転びそうになりながら、私は姉様と部屋に向かった。
こうして私は、姉様との熱い一夜を迎えた…。
…もっとも……私の欲望を姉様に受け容れてもらったのではなくて、姉様の欲望を私が受け止めることになったのだけれど…。