吾輩は元、男性である。名は忘れた、覚えられんほどにつまらん男だったのか、はたまた何らかの異能で記憶を消されているのか。有り得ない妄言と笑われそうな話だが正直、この世界であれば“あり得ないと言うことはあり得ない”。突拍子もない想像、いや想像を絶する事態すら容易に起こりえるのだから、自分の想像力に基づく馬鹿げた行為もまた実現の目があると言うこと。
超常の力、常ならざる異常を能力として持つ人間のいる此の世界において、自分が何らかの創作物ということは充分にあり得るのだから。
吾輩の言を聞き、諸兄らは首を傾げていることだと思われる。
なぜ、そんな
この妄言は今の吾輩の立つ大地において事実だからだ。宙空に
事実なのだ。それを踏まえて断じることとする。
この世界は文豪の名を持つ者が超常の異能を振るう世界。
名は文豪ストレイドッグス、かつての自分が覚えている物語。これはいわゆる前世というものなのか、それともこれは自分の空想なのか。もはや、この世界で女性として数年を適当に暮らした立場からすれば、どうでもよい。
以前の生と変わらん日本で以前とは違う女性と生まれ、吾輩は軽く絶望を味わった。
なんせ、この世界はヘタを打てば、拷問やら殺傷やらが巻き起こる奇想天外な世界だ。主人公からして虐待やら、四肢をもぎ取られるのが十八番な流れだし。触れただけで対象者を老衰させたり即死させたりと危険人物には枚挙がない。
いくら転生し死を経験した身とはいえ体の皮をひっくり返されるとか、口に空気圧縮機とか笑えない
そうなると、自分はどうすべきか。どう生きるべきか。
逃げる?いや、自分の役割は物語においても重要らしい。
しからば、物語に加わる?命がいくつあっても足りん。
吾輩が、取るべき選択は何か?
思いついた……吾輩の取るべき術は、強キャラムウブである。作中の肝心要のところで出たり、作中の人間に師匠面をしていたり、気がついたら核心の部分に足跡を残したりするのだ。ただ、はたして吾輩は仮面を被れるだろうか。
今の己の姿を姿見に映す。背骨に沿って流れる艶やかな髪、万年筆程度しか持てそうにない細腕、美貌とは斯くあらんというようなかんばせ、鈴の鳴るかのごとき可憐な声音。なるほど是は女性として、否人類としては最高域の美しさだろう。
ただ、時間の経過で吾輩の肉体は劣化する。これも長続きはしないと思うと惜しいとさえ感じる。そもそも、吾輩という人間が原作である横浜に創立される武装探偵社の時代まで生きていけるのだろうか。
物語の本筋では詳しく描写されていなかったため、本来の“吾輩”がどうかは知らないが現時点で己の裡に宿る異能も正直、使い勝手が悪く大したものではない。虎に変獣する異能と取り替えてもらいたいくらいである。
いや、不平不満を言いつのったところで意味はなし。
ありふれた凡夫であれば、容易に死に至る世界。平々凡々とは生きていけまい。
しからば、吾輩は本筋の“吾輩”に勝るとも劣らぬ傑物「怪物」に成り果てよう。
手始めに獲得すべきは、人の願いを現実に書き起こす“本”為り。
別に本でも、白紙の
あの本さえあれば、不老も不死も思いのまま。いや、不死は大抵、ろくな結果にならんと多くの書籍が物語っている。そこまで欲を張らず、不老程度で抑えておこう。これも十二分に強欲だが、今の吾輩は可憐な乙女の姿だ。
美容という可愛らしく世界に影響を与えない些細な願いであれば、許されよう。
まぁ、美貌は持ち前のものがあっても磨かなければ石くれだ。とりあえず化粧やら肌の手入れ、他には
後はそうだな、力を鍛えるか。頭脳は、本来の物語という反則の情報源があるのでどうにかなるだろう。しかし、戦うための剛力とは己の努力によってしか手に入るまい。多くの登場人物たちにでかい顔をするためには圧倒的な力が必要だ。
Q・強くなるためには何をする?
A・分からん。
とりあえず毎日、腕立て、上体起こし、スクワットそれぞれ百回とランニング十キロ
それと平行して女磨きか。面倒というほどでもなく、然りとて意味があるとも思えない行為。
まぁ、焼け石に水程度の努力でも意味を為すときは来るかもしれない。
やるだけやってみよう。
さて、ここまで退屈極まりない自分語りをしてしまって申し訳ない。
遅ればせながら自己紹介を。
吾輩の名は────夏目漱石である。
さて引き続き、吾輩の自分語りにもう少しだけ付き合っていただきたい。
上記の決意を胸に努力を始め、お役所勤めに励んだ吾輩は数年後、事細かな時系列は省くが白紙の頁を手にし不老を叶えた。欧州の怪物的な異能者とも渡り合い、国家を味方に付け、男尊女卑の蔓延る前時代的な社会を女性として勝ち抜いた産物だ。
もっとも、国には自分の欲と都合だけで、異能でさえ比較にならない超越的な
願わくば、それがばれないことを祈るばかりである。また継続している鍛錬のおかげか、今生において、暗殺者だろうと軍人だろうとマフィアだろうとこの身を傷つける者はいないほどに強くなった。
徒手格闘、武器戦闘術、この時代においてはまだ存在しない近代格闘の技、暗器などを要する暗殺術まで戦闘面は万事が万事、上達した。学術も現代の知識を持つおかげで数学、語学、司法学、機工科学、建築学、医学と多くの学問を修めたと言えるところまで来た。
後ろ暗い無法者の長たちや国のお偉い方にも顔が利くようになったし、数十年を生きたおかげで多少の腹芸は身についた。不老となったのが育ち盛り、伸び盛りの十代そこそこであったことが影響したのか身体的能力は未だ成長の一途にある。ただ、人間離れした強さと万人を惹き付ける美貌を手にしたのに、未だ浮いた話がないのは男性として生きた記憶がある所為だと考えよう。
国に仕えるのをやめ、自分は師匠ムウブを取り始めるため、ヨコハマに居を移した。
国の異能機関が形になり始めた頃に辞めてしまうことにしたので、大層引き留められたが、思わせぶりな
そうこうしてようやく幾人か、本筋の物語を彩る者たちとも邂逅を果たすことが出来た。それ以外にもこの世界におけるイレギュラァな人間とも出会う事が出来たのは僥倖というもの。鍛えるという名目上、ボコボコに打ちのめしたり、怪我を負わせることになってしまったが、これが良い影響を与えるやもしれんと吾輩は自分に言い聞かせて、多くの出会いを繰り返した。
横浜で過ごし、隠居をして数年。ようやく、吾輩は本来の物語が始まるであろう時に追いついた。古き友人から聞いた風の噂。いわく、都市部に出現するという虎の噂話。間違いなく、彼であろう。“月下獣”、男としての生よりも女として長く生きてきた自分が未だに覚えている存在。
生きるということに意味を求め、足掻き続ける
いや、彼は“迷い虎”か。
今の吾輩は教師を自称している。彼の人生を変えようなどとするつもりはないが脇役として程度なら教え導くのも悪くはないか。かつての教え子同様に見込みがあれば“頁”を渡してみるのも一興だろう。
欧州の
さてさて、もう一人の迷い犬も調子は如何だろうか。以前あった際に軽い嫌がらせをしてしまったが、彼ならその身に宿る黒き異能でなんとかなるだろう。今は飢えている虎を一刻も早く見つけなくては。
少し考え込んでいると、目の前に突如、襤褸を着た白髪の少年が手を広げ、立ちふさがってきたではないか。
両の手を広げ、通せんぼしようとしていても腹の虫の音が彼の行動限界を示していた。
わずかな驚き、そして待ち望んだ時に微笑みを浮かべる。
「ま、待ってくださ──じゃなかった。その、今すぐ食べ物を恵んでください!でないと財布とか身ぐるみとかを、えっとその…………お借りしますよ!!」
眼前に現れた少年は言いたいことを言い終わった時、大きな腹の虫の音を鳴らし腹に手を当て膝をつく。やたら、低姿勢な脅しである。くつくつと愉快げに吾輩は笑みを零し眼前の飢え死にしそうな少年に竹皮で包んでおいた握り飯と沢庵を渡してやった。
中身はないただの塩をまぶしただけの握り飯を見た途端、少年はそれをぺろりとたいらげた。綺麗に完食しても育ち盛りで飢え死にしそうだった少年の腹を満たすには足りないのか、物足りなさそうに彼は吾輩を見やっている。
吾輩はそっと、彼の名を尋ねた。既に彼が何者かは知っている。聞く必要など無いことだが、敢えて聞きたくなってしまった。少年はぽかんと口蓋を半開きにして、吾輩の言葉の意味を咀嚼する。ようやく、それが己の名を聞いているのだと理解した少年は自分の名前を這々の体で口に出した。
「中島、敦……です。そのありがとうございます。餓死寸前のところを助けていただいて」
さぁさぁ、そこのけそこのけ物語が始まるぞ。紳士淑女の皆々様方、吾輩という余分な演者がおれど、この物語に集いし役者は総じて至高なりや。ゆえに面白くなると思われる。存分にこの物語を楽しもうではないか。
種田山頭火は深々と息を吐き、自分に与えられたばかりの豪勢な拵えの席で姿勢を変えるなどして収まりのいいところを探してみるがどうにも違和感が先立ち落ち着かない。以前のクッションの薄っぺらいおんぼろ椅子が懐かしい。
暫し、悪あがきをしてみるが結局、落ち着けず諦めて席を立ち音無く退室する。
部屋を出ると自分の部下である者たちが席から立って頭を下げるがそういった対応に不慣れな自分はぎこちなく手を挙げ、その場を後にする。昇降機「エレベーター」で一階まで降り、自身ら内務省異能特務課に宛がわれたオフィスから出て、ある人物が出てくるのを待った。
待つ時間は幸いなことに瞬く間に過ぎ去り、待ち人は自分の前に現れた。
「おや、種田君。見送りですか、相も変わらず君は
「やかましいわ、ったく、自分で骨子作った組織を放っぽっていきおって。なんだって、似合わん長をやらんといかんのか。大体どうして、政府が夏目ちゃんを野に放つんだかがようわからん。どんなけったいな裏技使った?」
「吾輩が絡め手以外を使ったという発想をしない辺り、君は得難い友人ですね」
そっと笑みを浮かべた可憐としか形容できない少女の姿は、とうに枯れていたと思っていた自分の中に存在する若き日の情熱を思い出させた。しかし、自分は知っている。この自分よりも一回りも二回りも年若い見目の少女が実は自分と同い年だという事実に。
かつて、欧州の異能力者や軍、非合法組織、表も裏も入り乱れて起こった世界大戦。その中で当時、日本国内では単なる無頼の輩と認識されていた異能力者たちの力を結集し、護国の烈士とする組織を政府上層部に上申した女傑。
男社会である軍内部で、己の異能力と卓越した武術と戦術眼で昇りつめた日本の誇る魔人。
欧州で永き刻を生きる魔人によって、齢を重ねられなくなった女傑。
名を“夏目漱石”。女性らしからぬ武術の冴え、単純な戦闘能力だけでなく未来を見てきたかのような遠大な戦術に関する見識。自分と同じ齢に関わらず、十代そこそこの女性と少女の境にある華奢な美貌。
かつての大戦時、大規模な異能と武力が用いられた“血界戦線”と呼ばれる戦場、そこであり得ないと言われた三つの異能力を同時に操る欧州の超越者、悲劇王・シェイクスピア。かの超越者の手によって不老の
「なんだって、特務課を辞める気になったんや?」
「辞めるに値する理由、為すべき事を見つけたまでですよ──」
吾輩という厳めしい一人称、それに反して鈴の鳴るような愛らしき声で話す彼女は初めて会った時と何も変わらない。力強い煌めきを宿す黒き瞳は満点の星空の如し。艶やかな髪、豊かな母性の象徴である双丘、均整の整った肢体。
その全てが、何もかも変わっていない。
まるで自分が刻に取り残されたような感覚を感じるが、それを感じているのはむしろ彼女の方だろう。自分の刻は停止し、自分以外の人間が歳を取っていくのはどのような感覚なのか。全うに歳を取れる自分には分かりようもない。
長らく国のために東奔西走し、国内外を問わず様々な異能力犯罪、事件に関わった日々、命が幾つあっても足りない冒険と綱渡りの連続。一歩間違えば、国家間のパワーバランスにさえ影響する楽しいなどとは口が裂けても言えない苦難と窮地の毎日だったが不思議と退屈だけはしなかった。
そうして大戦の終わり間近、国家間の派手なぶつかり合いがなりを潜め小規模な局地戦が各地で勃発していた頃、各国の異能力者組織に対抗すべく政府、軍上層部との政治闘争の果てを越え特務課の設立に尽力した戦友。
“夏目漱石”。
“猫を呼び出し、猫と会話する”異能力の持ち主にして最強無双なる東方の魔人。
彼女に特別な感情がないと言えば嘘になる。かつては恋愛感情のようなものもあったかもしれない。若かりし頃だと顔を赤らめる程度の色気もあったが、数々の苦難を越えて自分たちの関係は奇怪なものとなった。
強いて形容するのなら、それはきっと戦友というべきか。
その戦友が長らく設立に力を入れていた組織を辞する理由。長きに渡って友誼を結んだ戦友が特務課を何故、離れるのか。気になってしまうというのは無理からぬ事だ。夏目漱石は少し考え込むように肩にかけた
「私は若人の進むべき道を指し示す先生になりたいのですよ」
「……先生なぁ。確かに向いているかもしれん。あの偏屈な坂口の坊主が懐いたんやから」
「彼は誠心には明確な形で応える子です。きちんと本音で向き合えば、腹を割ってくれるはずですよ」
「それができたら、苦労はないわ。男はな、そう簡単に本音と腹の底を見せられんわい」
「見栄と意地ですか、共感はし難いですが多少は理解を示していますよ」
「嘘付け、以前に政府お抱えの武闘派組織、その精鋭を十五人、軽い手合わせで纏めて蹴散らしおって。ちったぁ、男を立てるなりの可愛げを見せないと浮いた話の一つも出てこんぞ」
「それは困りましたね。こんな年寄りを相手にする物好きでも現れぬものでしょうか」
慣れたものだが、夏目ちゃんが自分の歳のことを言及すると違和感しか感じない。
そんな俺の内心など露知らず、彼女はぽつりと理由を話し出す。
「いずれ、この国にも嵐が訪れます。打つべき手は考えついていますが、少なくとも政府の立場からでは出来ないかと」
「だから野に下ると?まぁ、夏目ちゃんが言うなら、政府も静観を選びよるか。なんせ、君がいなければ欧州の異能者が鎬を削った大戦で、四枚の“白紙の頁”を手に入れることは叶わなかったからな」
「世界の大物らがこぞって手に入れようとした“本”。その断片とは言え“頁”を手に入れられたのは僥倖でした。ええ、国家を五つほど瓦解させた戦線で最後の最後に、四枚の“白紙の頁”を亜細亜の片隅の小国が獲得するとは如何な欧州の諜報機関も予想できなかったでしょうね」
「そうやな、まったくあの時は生きてる心地がしなかったわ」
両面、何一つ書かれていない“白紙の頁”それを四枚。この莫大なる功績を以て、我々は前代未聞の異能力者の取り締まりを行う異能力者の機関、異能特務課を設立することとなったのだ。
「“頁”は未だ白紙のままですか?」
「当然、何も書いてない。そりゃ確かに己の願いを、書き込んだ文章のままに叶える力は魅力的過ぎる。けど、“白紙の頁”には既に文章の書き込まれた“頁”とは違う活用法があるんやからな。安易に書き込めへんわ」
“白紙の頁”が持つ通常の“頁”のそれとは違う能力。その詳細を夏目ちゃんが語り出す。
「他の“頁”によって改変された現実への抵抗力……」
「“頁”の所有者のみが持つ現実改変の権利。それを使わぬまま取っておけば、他者が用いた“頁”の現実改変による影響を減じる絶対的な防衛手段と成る。政府に二枚、特務課で一枚、そして……」
「吾輩が一枚……」
「はっきり言って“白紙の頁”を持ったまま彷徨かれるのは危険だが、夏目ちゃんは言っても聞いてくれんか」
「さもありなん、言って聞くようなら吾輩らは異能特務課設立などという難事を遂行出来なかったはず」
「見てきたように言うなぁ」
「ええ、見てきましたから」
何を冗談を……と思うが、彼女の先見の確度は未来予知に匹敵する。
この光景をずっと前から予期していると言われてしまえば、黙って信じてしまうだろう。
「どこに行く?」
「ヨコハマ────確か、今はポートマフィアに軍警、非合法の組織が多数、
「寂しくなるなぁ」
「また、いずれ会いますよ。それでは、種田君。吾輩は行きますがあまり安酒を飲み過ぎぬよう注意なさい。辻村君は……まぁ吾輩がいなくとも問題ないですね。娘さんと仲良くするように、などというのはお節介ですか。はて、後は安吾少年に近接武術と異能を戦闘に応用するようにと伝えておいてください。生身の弱い異能力者など話になりませんので」
「へぇへぇ。しっかし、毎度毎度、君は近接戦闘を重視してるな。前々から思うが異能力者ならば、生身の強い弱いに大して意味ないやろ」
「異能力という世の理から離れた超常の力を用いるのです。それに見合う強靱な身体と精神を身につけておくのは、嗜みというもの。肉体が惰弱にして精神が薄弱な異能力者は大抵、自分の異能力に振り回されるか、気づくことさえない。大成する見込みは薄いですね」
聞き慣れた彼女の持論を聞き、どうも笑いが堪えきれない。
異能力者に徹底した肉体の鍛錬を薦めるのは彼女の癖だ。異能という人知の及ばぬ力を制するは日々の鍛錬のみにあるという夏目漱石の持論。将来的に特務課に入るであろう若冠、十五、六歳の坂口少年は彼女の持論のせいで連日、強制的に鍛えられ武術を叩き込まれた。
結局、坂口少年は肉体を鍛え上げることは一定の成果を上げたものの、結果として武術の才がないことが分かった。
それを見た夏目ちゃんは坂口少年に達人が所持していた刀の記憶を異能力で自己に投写させることを薦め、今では夏目ちゃんの持論の通り、強靱な肉体と卓越した戦闘力を持つ鋼の異能力者となっている。
数年もすれば、特務課でも指折りの
いささか気の早い話だが、その時が楽しみだ。
夏目ちゃんが辞めるという段になって、大層、懐いていた坂口少年を始め、異能特務課で古株の辻村女史、泉夫妻など多くの者が彼女を引き留めようとした。共に多くの戦域で背中を預けた同胞たち、それらに背を向けていくと決めたのならば、もはや自分には止めようもない。
「達者でな。風邪ひくなよ」
相も変わらず、上手いことの言えないこの口を縫い付けたくなる。しかし、夏目ちゃんは柔らかに微笑み、別れ際の挨拶として手を振って反転。そこにひときわ強い春風が桜吹雪と共に舞い、彼女は桜の花びらと共に遠ざかっていく。
歩き去る彼女の後ろ姿。
あの日、あの刹那の光景を己は生涯、忘れない。記憶よりも深層に位置する魂に刻み自分は部下が呼びに来るまで立ち尽くす。
例え、地獄に堕ちることになろうと。
地獄よりも過酷な世界に生きることになろうとも。
美しき桜の薫風を纏った姿を、何があっても忘れまい。
それほどに夢に向かって自分の力で歩き出す彼女は美しかったのだ。