名乗る人は、出てないですよ。
そんなこんなで、季節外れのエイプリルフールです。お楽しみください。
”嘘つき猫と迷い虎”
僕は今日、ここでのたれ死ぬ。そう確信した。
孤児院を追い出され、行く宛ても寄る辺もなく彷徨い続けて地面に這いつくばっている。
力が出ない、腕や足といった体の端から感覚が抜け落ちる。そのくせ、腹部を起点として飢餓感だけが痛みを伴って顔を出す。何もかもどうでも良くなり、過去の思い出したくない記憶がやたらと想起されていく。
逃げて、奔って怯えてきた。自分を孤児院から追い出した元凶にして、僕に襲い来る獣から必死で距離を取ってきた。
そうして行き着いた果てが飢餓と地面に這う末路を漂うことになるなんて。
ああ、もう頭が回らない。
──“一杯の茶漬け”──
梅干し、刻み海苔、あと夕餉の残りの鶏肉。
それに熱い白湯をかけ塩昆布と一緒にかきこむ。
旨かった、本当に思い出すだけでも美味しかったんだ。
夜の孤児院で人目を忍んで食べたあの茶漬け。
ああ、そろそろ……腹減って死ぬ。
中島敦、それが僕の名前です。
孤児院から追い出され、着の身着のまま流されて盗む度胸もないため、悪事を行うことも出来ないまま、飢える始末。
僕は何もしないまま、誰の目にも止まらず一生を終えるんだ。
死を受け入れようとして、脳裏に雷轟を想起させる罵倒が過ぎった。
“天下の何処にもお前の居場所はありはせん──、疾くこの世から消え失せるがいい”
孤児院を追い出されたときの院長の言葉が頭に響く。
“在る”価値がないと、要らないと言われた。
誰のためにもならないのが僕だと。それを事実にするのだけが
その言葉を否定しなくては、僕は死に浸ることも出来ない。
そうだ、誰かから奪うのだ。金、食料、あと寝床。
生きるためとはいえ、悪いことだというのは分かっている。
それでも、生きないことにはなんにもならない。
今から、最初に出会った人の身ぐるみを盗む!そして、いつか、盗んだ人へ謝りに赴き、盗んだものを返しにゆく。
だからせめて、今日この時だけは。
思い立ったと同時に後ろから足音が聞こえた。柔らかく軽やかな足音、健康的なそれを耳にして、僕は後ろを振り返り言葉を失った。
“綺麗だ”────。
そこにいたのは芸術、音楽とか素晴らしいものが、とんと判別つかない僕でもわかる“綺麗な人”だった。
夕日を僅かに反射する手入れされた長い黒髪、それを纏める白猫の髪飾り。髪飾り同様、何も書かれていない白紙の紙のようなまっさらで純白に輝く肌、僕を見つめる黒瞳は夜空いっぱいに星をちりばめたようにきらきらと光っていた。僅かに微笑む口元は、艶やかで生気に充ち満ちた桃色をしている。
風でたゆたう
思考が忘我に停止したが、すぐに空腹を覚えて我に返る。
僅かに逡巡、しかし屈強な男の人よりも強盗がし易いのは間違いない。でも、こんな虚弱そうな女性相手に、強盗なんて……。
いいや、死んでしまっては何にもならない。
僕は意を決して……。
「ま、待ってくださ──じゃなかった。その、今すぐ食べ物を恵んでください!でないと財布とか身ぐるみとかを、えっとその…………お借りしますよ!!」
なんて迫力と威圧に欠けた脅迫だろう。こんな脅迫、おまけに徒手空拳でやせっぽっちの僕を怖がる人なんて、何処にいるというのか……。
なんだろう、自分で言ってて泣けてきた。
嗚呼、お
へなへなと崩れ落ち、俯いて僕は自分のみじめさに項垂れる。死に瀕しての決心も、結局は晩節を汚すだけで終わるなんて、笑い話にもならない。
膝をつき、そのまま顔から地べたに倒れようとすると、そっと優しく目の前の女性が僕の肩に手を当て支えてくれた。どうして?そんな疑問の声を出そうとして、考えることをやめた。
なぜなら、目の前には脅迫をしたはずの女性が差し出す握り飯があったためだ。
もう、生存本能とかで身体が理性を忘れ、眼前の食料に飛びつく。美味い、旨い、ウマい!!付け合わせの沢庵とか、大分いい味を出してる。もう涙が出るくらい美味い!
涙がこぼれ、目頭が熱い。視界が涙でぼやけているが、それもかまうことなく生きるために、生かしてくれた人の恩情を無為にしないために懸命に食べることに没頭する。はじめて、生きていてよかった、そう思える涙を流した。
漬物、塩結びの塩分も、米の甘みも、全てをあっという間に堪能してしまう。
あっ、もう無くなってる……。
思わず、もうちょっとないかなぁ~、とおにぎりをくれた女性の顔色を伺ってみるが、ニコニコ微笑んでいるだけでどうやらおかわりはないらしい。
「……君のお名前は?」
軽やかで慈愛に溢れた、聞いてるだけで安心してしまう優しい声だった。これまでの人生で聞いたことのないほど温かな言葉。泣いてしまいそうだが、おにぎり食べて名前を聞かれたら泣きだすとか、ちょっと珍しい
いや、脅迫しといて、今更だと思うけど……。
「中島、敦……です。そのありがとうございます。餓死寸前のところを助けていただいて」
「いえいえ、君が餓死しなくて良かったです。……敦くんと呼んでも?」
「はいっ!もう好きなように、どんな名前でも呼んでください!」
あっ、もうダメだ、泣いてしまいそう。きっと泣いても目の前の彼女は許してくれそうな気がする。いや、そんな格好悪いところを見せるのは流石に……。力の入らない足に力を入れ、僕は立ち上がった。せめて、感謝を面と向かって伝えなくては。
「申し遅れましたね、吾輩は……そうですね、“鷺沢文香”と申します。敦くんも吾輩のことは“文香”と呼んでください」
「えっと。──はい、文香さん。?…………“吾輩”?」
「あっ、変な一人称ですみません。小説家のおじいさんの口調が映ってしまい、昔から、この調子で」
鷺沢文香、いや文香さんは上品な素振りで、恥じらい気味に口元を綻ばせた。
「いえいえ!変じゃないです!似合ってます!」
ん?この返しはむしろ、まずいのでは?
「おや、似合ってますか?」
「間違えました!似合ってませ……じゃなくて、その、え~と」
どういうのが、なんていうのが正解なんだろう?
慌ててしまう僕に、鷺沢さんはクスクスと笑って肩から手を離した。鷺沢さんの手の感触を少し名残惜しんでしまう自分のダメさ加減を叱咤し、あらたまって頭を下げる。
「文香さん、本当にありがとうございます。あのままだったら、きっと、腹の減りすぎで僕は……」
「そんなに、かしこまって頭を下げなくても大丈夫です」
彼女は優しく微笑んで髪を靡かせる。
文香さんは慈悲に溢れた表情のまま──。
「それでは、おにぎりの対価は如何しましょうか?」
おにぎりのお勘定を請求してきた。
力をいれていた足腰が急速に萎えていく。だが、なんとか足に力を入れて持ち直した。いや、財布事情的に見れば身代を持ち崩してるわけだが。
「……やっぱり、必要ですよね。あの僕、今、手持ちが無くて。請求されても無い袖は振れないというか、その………………」
「まさか、無償で吾輩が君を助けたと?それは、些かに都合が良すぎるとは思いませんか?」
た、確かに……。
あ~、浮かれていた自分を後ろから蹴り飛ばしたい。そうだ、考えてみれば当然。助けられて、何も返さずに一件落着なんて、バカな話はない。どんなことにも、見返りは必要だ。人を助けて、何も求めないお人好しなんているはずがないじゃないか。
「お金以外のもので!僕にあるものなら、なんでも差し上げまっ!?──ッムグ」
僕の口に、白魚のようなしなやかで、優しい指先が沿えられた。
「ダメですよ。“対価”を安く見積もっては」
中島敦は鷺沢文香の透き通る眼差しに圧倒された。瞳に宿るは清廉な美しさと強い感情だけが発する凄まじい熱量。思わず呼吸を忘れてしまうほど、敦は眼前に立つ女性の優しくも厳しい気遣いの心意に胸を奮わせた。
「対価は与えすぎても、奪い過ぎてもいけない。何故なら傷がついてしまうから」
「き、ず?」
「ええ、“現世の
僕には文香さんの言っている言葉の意味は半分も理解できなかった。それでも、文香さんの言葉に込められた意味と事象に、僕は不思議な力と願いを感じていた。それが何なのか、どうしても知りたいのだと、ちっぽけな
「…………文香さん。僕は、何を対価に支払えば」
おそるおそる、怖がりながらも僕は、自分が支払うべき、支払わなくてはならない対価について尋ねた。余人にしたら、たかがお握りだと嗤われるだろう。でも、僕にとっては、あのとき優しく、笑いながら差し出された握り飯が命を繋いでくれたんだ。
生きていい、そう言われた気が……確かにしたんだ
「敦くん、君が支払う対価は“人助け”。これから君は目の前で苦しみ、困難に打ちひしがれる人を助けなさい」
「誰かを、助ける…………?」
「今の君は苦しんでいる誰かを見れば、それを自身と重ねてしまうでしょう。ゆえに、君が君として生きていくために誰かを助けなさい。誰かのために命を使うのではなく、自分を救うために足掻き続けるのです」
そこで、鷺沢文香は居住まいを正し、中島敦という個人を真摯に見つめた。
その視線が持つ意味をなんとなしに理解し、同時にその重圧を総身に感じ取る。中島敦という一人を、鷺沢文香という一人が心の底から認めたという事実。すなわち、もう自らを軽んじて、憐れむという逃避が許されないのだ。
彼女の真意に、重く圧し掛かる誠実で真っすぐな信頼の意を前にして逃げ出したくなる。いや、いっそ逃げた方が楽に生きられるはず、なのに。動けないわけではなく、僕は……。
“一歩も動かないことを選んだ”。
「敦くん、いつか君が自分自身を助けられるといいですね?」
文香さんは僕に背を向けて歩いていく。反射的についていこうとして、彼女の言葉に足を止められた。
「誰かに自分を助けてもらい、そうして誰かを自分が助ける。そうして世界という
彼女の言葉は、あまりにも鮮烈に、凄絶に僕の胸を貫いた。
僕は、離れゆく文香さんの背中を呆然と見つめることしかできない。少し歩いたところで文香さんが立ち止まって、こちらに振り向いた。あの人は最後に、何処か泣きたくなるほど優し気な夕焼けの中で微笑んで──。
「敦くん、吾輩はヨコハマに居を構えております。いつの日か、君とヨコハマでまた出会えるのを待ち望んでいますよ──」
何時の日か、来たる再会の約定を言祝ぎ、文香さんは行ってしまった。
立ち去った文香さんの影が夕焼けに消えるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。今の僕は一文無しで、孤児院からは放逐の憂き目にあい、とどめに恐ろしい“虎”に付け狙われている。誰かを助けるよりも、自分の方が助けを必要とする苦境。
それでも飢餓にあえいで、ひざを折る以前と異なり、今の僕には胸の中で燃え盛る“言葉”があった。“自分を助けるために、誰かを助けなさい”。ふらついた体幹から不安定さは消え、足取りが確かなものとなる。
さぁ、これからどうしたものかな、と意気込み新たに一歩を踏み出して、身体がぴたりと静止する。
不意に、感じ取った気配。すわ、あの人食いの獣が来てるのかと気配のした方に目を向けると、なんとそこには、どんぶらこと川に流されている土座衛門の下半身の姿……。
脳裏で、先ほど微笑んでいた文香さんの姿が思い浮かぶ。
でも、けど……。
「──これは、さすがにノーカンに…………ええいっ!」
弱音を途中で噛み砕き、体は考えるより先に川に飛び込んでいた。
せっかく、補充した栄養と体力を総動員して、川に流され水浸しで重たくなった成人男性を引き上げる。ああ、お腹が減って、またもや餓死しそう……。
衣類が水を含んで、身体が重たくなり岸辺で這いつくばるように倒れこむ。ああ、でもこの人の救命措置とか何かしない、と。なんて、考えていると、川から引き上げた男の人はすぐさま身を起こして、きょろきょろと周囲を見回す。
川を流されていた男の人は僕に気づくと、助けられたことに対する感情の表れとして──。
「……助かったか。…………ちぇっ」
なんか……不服そうに、“ちぇっ”とか言い出したんですけど?あやうく、人助けに励もうとした決意が揺らぎかけるが、力いっぱい首を振って滅多なことは考えないよう努力する。
「君かい?わたしの入水を邪魔したのは?」
「へっ?いや、邪魔とかじゃなくて、僕はただ助けようと……入水?」
「うん、入水。知らないのかな、つまり自殺だよ?」
「はぁ……はっ?」
何と言ったらいいのか、二の句が継げず口ごもって眼前の男性に冷めた視線を向ける。
「まったく近頃の少年というやつは。せっかく、私が自殺しようとしていたのに、君が余計な真似をしたばっかりに失敗してしまった」
あれ、もしかして、これ僕、怒られている?説教に入った?
どうにも付き合いきれず、臥せっていた身を起こそうとして、力を入れると腹から空腹の音が鳴ってしまった。気まずくなって、視線を反らすと僕の向いた先に川から助けた男の人が陣取ってきた。
「……人に迷惑をかけない清くクリーンな自殺が私の信条だ。でも、私は君に迷惑をかけてしまった。そんなわけで何か、お詫びのひとつでもと思ったのだが…………空腹かい、少年?」
自殺していた人に助けられるのも可笑しな話だが、この申し出を断れるほど今の僕に余裕はなく、一も二もなく頷いてしまう。
「……その、恥ずかしながらお腹が空いてしまっていて……」
「そうか、私もだ。ちなみに財布も流されてしまった」
「…ん?あの、救助のお礼で何かごちそうでもしてくれる感じでは……」
「そうだね、君が良ければ、何かご馳走してくれると助かる」
「僕の方が助けてほしいくらいなんですが!?」
しまった、これ、迂闊に関わっていい人じゃない気がする!僕の戦慄をよそに、堤防の上の方から憤りを隠しもしない不機嫌な声が降ってくる。
「こんなところに居ったのか、唐変木!」
「やぁ、国木田君じゃないか。ご苦労様」
「苦労の出どころがいけしゃあしゃあと……お前はどれだけ俺の計画を乱せば気が済むのだ、この自殺
なんか、とてもお冠な眼鏡の人に目もくれず、入水挑戦者の彼はポンと手を叩く。
「良いことを思いついた。彼は私の同僚なのだ。彼におごってもらおう」
「……へ?」
「人の話を聞かず、勝手に話を妙な方向に進めるなっ!?」
「まぁまぁ、落ち着き給えよ。国木田君……そうだ、君、名前は?」
なんだろう、先ほども名前を尋ねられたけど、此処まで返答を返したくない自己紹介というか、第一印象の人も珍しい。ちょっとばかり悩みこんでしまうが、結局は空腹に耐えかねて口を割ってしまう。
「中島…………敦です、けど」
「ふむ、では付いてきたまえ、敦くん。何が食べたい?」
食べ物の話になって、僕は頭の中で二つの食べ物が思い浮かんだ。
「…………あの、その。…………茶漬けとおにぎりが食べたいです」
「…ぷっ、はっはっは!餓死寸前の少年にしては質素な所望だ!そんなにお米が好きなのかい?良いとも。国木田君にしこたま奢らせようじゃないか」
「俺の金で勝手に太っ腹になるな、聞いてるのか太宰!」
「“太宰”?」
「ああ、名乗り遅れたが私の名だよ。太宰……
こうして僕は太宰さんと数奇な出会いを果たし、ヨコハマにその名を轟かせる異能力者集団、“武装探偵社”へ関わっていく。
けれども今の僕には、この先待ち受ける苦難と試練の日々を知る由もなく、彼、太宰治という奇妙な人物を見上げることしかできなかったのである。
こうして、
次回は書けたら探偵社最高の探偵、江戸川乱歩を主題に書きたいですね。本作のキーワードである夏目、猫。あと江戸川乱歩の声優、神谷浩史。これらを纏めて、某せんせいをマスコットに登場させていきたい、という妄想が捗っています。