”坂口安吾、スパイへの道”
坂口安吾は後にこう、述懐する。
“十五歳から十六歳、それは私が生きてきた中で最も地面に叩きつけられた一年でした”。
坂口安吾は異能力者である。物心つく前より彼は物品から記憶を抽出する異能を持っていた。更に坂口の家は政府高官を出す家ということもあってか、政府に勤める事が決まりきっていた。彼は別段、親への反抗もなく学業の成績も優秀なもの。
万事滞りなく、彼は真っ直ぐに成長していった。
そんな彼が十五歳の頃、両親がある人物と引き合わせたことにより、これまでの日々は一変した。
『初めまして。君が坂口安吾君ですね。吾輩は────』
忘れがたき記憶、吾輩という女性が使うには似合わぬ一人称で彼女は自己紹介を行った。
“姓ハ夏目、名ハ漱石。君ノ家庭教師ト成ル者デス”
両親が引き合わせた方は、華奢で華のような女性だった。咲き誇る、そういう形容が相応しい人物。口調は柔らかく、物腰は穏やか。齢は自分よりも上、二十代かそこらと当たりを付けたが、本人曰く五、六十代だと云ふ。
有り得ないと口にしたが、夏目先生はただ緩やかに事実であると断ずるのみであった。
後年、種田長官から断片的に話を聞くと、欧州のとある異能力者によって年齢を条件付きで固定されたのだとか。当時、欧州の規格外の異能力者や無法者、国際警察、新興国に先進国がそれぞれ、絶大なる超常的な力を持つ“本”を奪い合った極限領域の戦場、それは知る者たちの間において“血界戦線”と称される。しみじみ思うのだが、あの“猫の魔人”を相手にできるような怪物が存在するなどとてもじゃないが想像しようもない。
しかして事実は事実として変わりようがない。
話を戻そう……。
家庭教師となった彼女の教導は私の予想を大きく離れたものだった。まず、初日の出会ってすぐ、彼女は武術の鍛錬として自分との手合わせをする運びとなった。持っていた手杖「ステッキ」を壁に立てかけると、彼女は黙って手招きをしてくる。
ただ、手杖を離すにしても肩にかかった
杖よりも行動を制限するだろうに。
話を戻すが翻って、私は状況を掴めていない。
まず、女性の家庭教師というのが当時の常識からして奇妙なことだ。私は男尊女卑などでとやかく言うほど頭が固いわけでないにしろ、現社会において女性の社会参出における制限の存在を理解しているつもりだ。
夏目先生の容姿は迂闊に触れれば折れてしまうほどに脆そうな体と強固な意志を思わせる瞳。
端的に言うが、昔の腕に覚えのない私でも押さえ込めそうに思ってしまった。
手招きを受けて、私は仕方がないと袖をめくり準備を整える。
腕を後ろに回し羽交い締めにしようと小走りで接近。
やる気のない動作、反応動作の遅い体。おそらくあの頃であれば多少は武術に心得のある、いや客観的に見て一般人女性にも負けてしまうかもしれない軟弱な身体の学徒。返り討ちに遭うのは必定。伸ばした手は空を切り、僅かな浮遊感に見舞われる。直後、常日頃から慣れ親しんでいる大地と背中が衝突。衝撃でかけていた眼鏡が飛び、それを夏目先生があたかも当然のようにキャッチした。
まるで未来予知の異能でも使ったかのような手際の良さ。
しかし、それは有り得ない。
夏目先生の異能“吾輩は猫である”は、猫と会話する異能力なのだから。
複数の異能を同時に持つ能力者など、日本では確認されていない。
いや、欧州には複数の異能を持つ魔人がいると、ちらりと聞いたことあったが。
それはさておき。
大地に叩きつけられた後、夏目先生は考え込む素振りを見せる。あまりの惰弱さに憂いているのかもしれないが、政府の官僚を目指す身の上としては武術などを必要としていなかった。そのことを改めて夏目先生に直接、物言い結果として肉体を創るところから始めると言うことで話は纏まった。
夏目先生の教導は、現在の文化水準から考えて非常に効率の良い学びだった。それは合理的でもあり、感情面から来る勉学に不要な思考も考慮されつくした教育。たまに不意打ち気味に来る手合わせはいただけなかったが、それでも私は己の成長を実感していた。まぁ、変わらず私は地面に叩きつけられる結果に落ち着いただけだったが……。
その教導は爆弾や無線の扱い、数カ国の外来語、電信の盗聴技術、自動車を始め飛行機まで各種乗り物の運転方法、宗教学に医学薬学、国際政治に心理学と物理学などの一般教養から外れた奇怪な学科が多くを占めた。
更にはスリ、金庫破りの実技、変装術から女性の口説き方なる珍妙なモノまで。
そして、教育は当然のごとく異能の扱いにまで及んだ。
「記憶とは人間にとってどのようなものだと君は考えていますか?」
「記憶?生きる上で積み重なっていく記録の羅列でしかないのでは」
「雑味と一緒に興の削ぎ落とされた解答ですね。教育的にはそれでもいいですが」
「ですが?」
普段より教育では明確な解を提示する夏目先生が珍しいと眼鏡の位置を整え、続く言葉を静かに待つ。
「浪漫に欠け、つまりません」
「ろ、浪漫ですか?それは何と言いますか、私に浪漫を要求されても」
時たま、先生は感情論を先走らせることがある。効率的な教育と合理性を主にしているが、ふとした瞬間に感情を織り交ぜてくる。
「人として生きるのならば感情の枯れた生命活動はお止しなさい。無感動な人生は人を堕落させるばかりです。そんなところまで異能力名と同じように生活する必要はないでしょう。それに強い記憶は活力と土壇場の支えになるのですから」
「強い記憶…………記憶に強弱があると?」
「ありますとも。記憶は人間の生きた軌跡であり、無価値なものはないとはいえ、強い弱いが存在します。本来であれば、記憶を司る異能力者の君自身が気づくべき事なのですが。今はまぁ、漠然とそういうものであると捉えていなさい」
「記憶を司る……ですか。そこまで大袈裟に言われるような異能ではないのですが。調査、諜報では便利だとは思いますが、そこまでの代物ではないかと。戦闘に扱えるような大それた異能ではありませんよ」
「そうですね、確かに君の異能力の発動だけでは戦闘に意味を持ちません。なに、要は応用です」
そういって、夏目先生は腰に付けていた
「異能を以て、この物品から記憶を引き出しなさい」
「はい」
夏目先生の言葉を聞き即座に首肯してしまう辺り、大分躾が効いていると我ながらに思ってしまう。
“堕落論”、異能発動に伴い体の周囲に字の羅列と光が生じ、物品に溶け込んでいく。
「暗殺者……凄腕の剣士……銀狼、政府、あの夏目先生。この情報は私が知っていいものなのですか」
「まぁ、喋らぬ限り命の危険のない情報です。気にすることはないですね」
「いや、気にしますよ!?事前に危険な情報の抽出をする際には一言ください!」
「分かりました。それで、どうです?記憶を読み取ってみて」
「…………壮絶な記憶かと。使命感と責務に飲み込まれながら、血なまぐさい選択をし続けた人間の記憶です。数え切れないほどにこの刀は血を吸っている。正直、先ほど地面に叩きつけられて胃の中身を外に出していなかったら、刀が吐瀉物まみれになっていたでしょうね」
「おやおや、そこまで温室育ちのように鍛えたつもりはないのですけれど。ああ、それと他には?何か感じたことはありますか」
「いえ、これ以上は何もありませんよ」
「ふむ、なるほど。そうですか。安吾君、君は記憶を情報として解釈していますね」
「ええ、記憶は単なる情報であって、それ以上では」
それに異を唱えるように、夏目先生は私ですら認識していなかった異能力に関する情報を出してきた。
「そうではありません、記憶とは経験と人の生きた果てに手に入れるモノ。記憶は当然、同じ場所や環境にいても感じ、捉え方は十人十色。加えて記憶の分類は個人の知識的な記憶と体験の記憶で別の代物です」
「──体験と知識──」
「君の異能力は物品から記憶を手に入れるモノ。であるならば、経験という肉体に刻み込まれた記憶も抽出できるはず。またそれは知識も同様、超人的な頭脳の持ち主の物品を入手すれば思考形態も己の中に投影できるはず」
「そんな無茶な!無理です、そんな能力の使い方なんてしたことも!」
「君はそれができる生徒と思っていますので。……勇んで試しなさい」
そういって、先生は普段から持っている手杖の先を私に向ける。その持ち方は明確に暴力的な構え。そうだ、夏目先生はその持ち前の美貌に比する戦闘技術の持ち主。生身で戦闘特化の異能力者を打ち破ったと聞いた時は、人間を辞めてるのではと考えてしまったほど。
そんな人外の存在が誇る武術の威力、徒手格闘であれだけ地に転がされているのだ。武器まで持てば手に負えない。背中が急速に冷え込む、咄嗟に持ったままの刀を強く握りしめる。
「それは悪手です。死は最悪の選択であると以前いいました。足掻きなさい」
理不尽な、と思うより先に体は地と平行にすっ飛んでいる。
庭にある木にぶつかり、ようやく停止するが悠々と歩いてくる怪物はまだまだ終わらせてくれそうにない。
勝ち目などなく、生きるために打開策を打たねばならない。
かつて夏目先生が謳うように口走ったセリフが思い浮かぶ。
『想像力は武器です。それがない者から死んでいく。思考を回せ、意志を絶やすな。己の手のひらの中を見よ。その中には何が有って何が無い?』
「手の中には使い方も分からない刀が一振り。他は情報を抽出する異能だけ」
お膳立ては整っている。後はそれをするだけ。
とはいえ、記憶は情報だ。常日頃から認識しているものが幾ら土壇場とはいえ急には変わらない。しかし、これは明らかに無理がある。要するに達人の動作を見て、その通りに動けば強くなると言う暴論そのもの。
脳裏に浮かぶ無理だという声を察したか、夏目先生が手杖を首筋に当てた。
「記憶を見ただけで強くなるはずがないと────異能力という超常的な手札を持ちながら、常識的な感性ですね。安吾君、君に金言を与えましょう、この世に“有り得ないと言うことは有り得ない”。常識など踏破してこそ。……大体、君は異能で即座に情報を処理してしまうためか、段取りというものが欠如している」
私に欠けている、もの?
「記憶を情報としてしか見ていないのでは、一生その領域です。記憶は人生の積み重ね。人生の結晶、しからば経験記憶を構成するものを段階的に処理なさい。まず以て理念を鑑定し、芯である骨子を想定、技術を模倣し成長に至る経験に共感し蓄積された年月を再現するのです」
怒濤の勢いで語られた講義は、切羽詰まっているというのにするりと私の脳裏に焼き付いた。
そうだ、要は段取りさえ踏んでしまえば、経験記憶の抽出が可能と言うこと。
私は長らく付き合ってきた己の異能の可能性に夏目先生の導きで触れることが出来た。
今はまだ、指先が掠めた程度。掴むためには確固たる意志を。
息を整え、両手で刀を持つ。記憶の中にある無双の暗殺剣士、銀狼と恐れられた剣士の姿を私の精神に投写する。その武術を担うに我が肉体は些か以上に脆弱だろうが、それでも構わない。今はただ、為すべき事を為すのみ。
覚悟を決めてからは一瞬だ。
“堕落論”が鳴動する。魂に宿った異能が所有者の
理念鑑定“その理念は無辜の人々を守る盾に、誰かを助け、不義を貫く剣として”。
骨子想定“想定すべきは夜闇を舞台とする暗殺剣技”。
技術模倣“瞬間抜刀、剣術のみならず投剣、柔ら、徒手格闘までを模倣”。
経験共感“積み重ねた修羅のちまたは決して我欲によるものではない、共感完了”。
年月再現“血だまりを歩き続けた日々を越え、刀を手放す刻まで。再現終了”
首に当てられた手杖を軽く掌で触れ、なぞるように手をスライド。
そのまま、そこに掛けられた力を私の肉体に備わっている膝、肘を始めとした各部間接を用いて投げる。
夏目先生の体勢が崩れ、膝が地面に付いた。これまでの手合わせで砂埃すらつけられなかった、くるぶしまで伸びる長スカートが地に付いたせいか軽く砂が付いている。私自身、自分のやったことが信じられないが、雑念となる思考を置き去りにして刀を抜刀。
咄嗟に刀の鍔を抑えた夏目先生は日頃のように私の服の裾を掴んだが、崩されることなく足首からひねりを起こすことで裾を掴んだ彼女を投げ距離を取る。距離が開いた、夏目先生は手杖を抜刀術のような持ち方で構え、私はそれに応じるような抜刀の体勢を取った。
僅かな指先の動きを私の肉体が、私の肉体とは思えない反応速度で察知。
透明な鞘鳴り音、刀は瞬時に抜かれて────。
私はいつものごとく地面に突っ伏した。
これは翌日になって判明したことだが、引き出した経験に自分の肉体強度が追いつかなかったということらしい。あまりに真に迫ったことで発生した自爆という弊害。それを噛みしめながらも、私は己の異能の可能性というものの一端を掴み取った。
それから数ヶ月、あまりに濃密な日々を越えて、夏目先生は家庭教師を、ひいては勤めていた異能特務課をやめてしまった。それは同時に私の家庭教師を辞めてしまう事でもあった。
『全く……寂しくなります、ですが同時にホッとしていますよ。これで、鬼のごとき体術の訓練が無くなってくれるのですから』
憎まれ口を叩いてしまうが、これもただの官僚志望の人間に軍人顔負けの鍛錬を強制した夏目先生の教育方針に対する不満であり、私はむしろ話始めの一言が真実であった。それを見て先生は微笑ましいものを見るかのように口角を上げた。
『昔から再三と言っているでしょう。異能力という人知の及ばぬ才を振るう異能力者はそれを律するための己自身の強さが不可欠なのです。体術の基本、体の動かし方さえ知らぬ異能力者など未熟以下。貴方も異能力者の部下を率いる際にはそれを教えておくといいですよ』
相も変わらず、彼女は最初に会った時から変わっていない。その信念を内包した透き通る美しい瞳も……やたらと近接戦闘と体術至上主義な点も。
夏目先生を見送る時、あの人は普段通りの微笑みで私に助言を残した。相変わらず、何もかもお見通しだというように。
『死ぬな、殺すな、とらわれるな』
『…………いきなりどうしたんですか、夏目先生?』
『安吾君、吾輩は君を政府の単なる職員としてだけではなく、一流の諜報員となれる技術も叩き込みました。しかし、君は何事かにとらわれる傾向にある。吾輩との師弟関係にしても、政府に所属することに否やがないところも。何者にもとらわれぬ自己を獲得なさい。生真面目なのは君の美点ですが、諜報員としては欠点になり得る』
『甘さを消せ、ということですか』
『より簡易な方法を試しましょう』
そういって、夏目先生は私の目元から素早く眼鏡をスリ取った。
『眼鏡を付け外しすることで意識の切り替えを行ってみては?』
急に眼鏡を取られてピントが合わないため視線がブレる。けど、それより夏目先生の提案が毎度のごとく無茶で理不尽なものだっただけに苦笑してしまう。普通なら一笑に伏すような話も不思議と夏目先生が口にすると、そういうものかと思ってしまう。
『眼鏡を外し、髪型を変えているとき、己を“柳広司”と名乗ってみなさい。偽名すら扱い、あらゆる諜報組織の裏をかく凄腕の
『また、珍妙な
夏目先生は、私の問いに何も応えなかった。それは、もし応えてしまえば私が先生にとらわれると思ったためなのかもしれない、とふとしたときに思ってしまう。日本を遠く離れて欧州を動き回ると、十代の頃に私の人生を変えた日々が頭をよぎる。
そんな過去の回想を振り切り、私は今日も裏社会の泥濘に潜る。
窮地を切り抜け、情報を奪取し、事態の裏の裏まで想定して動き、国家の安寧を守る。
私の名は坂口安吾……いいや、あるときは柳広司、あるときは実井。
その実体こそは国家を守る異能特務課、
異能特務課には数多の偽名を用いて諜報活動を専門に動く諜報員がいるらしい。名は柳いや、波多野・福本・神永・田崎・甘利・実井・三好・小田切と様々な名を使い捨て、あらゆる非合法組織、機関に潜入する情報戦のプロフェッショナル。
風の噂に曰く、変幻自在の嘘の異能“ジョーカーゲーム”の使い手。
いいや、能力など欠片も持たぬ無能力者にして天才的な諜報戦の専門家。
個人ではなく、組織を現す隠語などの多数の推測。
これら、情報の真実を知るのは異能特務課の長である種田長官と異能特務課の裏側で暗躍する辻村女史のみである。
斯くして、坂口安吾は裏の世界に潜り続ける。恩師が授けた三つの掟を守りながら。