”黒き禍犬は猫となりけり”
僕が身に秘める最大の屈辱と敗北の記憶。
魔人、夏目漱石との邂逅と激突。
僕の人生を大きく変えたという点で、あの魔人は最大の厄縁だったと言う他ない。その厄縁に絡み取られ敗北の屈辱に甘んじた僕は憎悪の業火を絶やさず灯し続けている。
今もなお燃えさかる憎悪故に奴の放った一言一言、その全てが忘れられない。
「猫は素晴らしい。成れるものなら、成ってみたくはないですか?」
そう口ずさみ、あの怪物は朗らかに笑み零した。
あれは身も魂も凍らせる寒風が吹きすさぶ新月の晩のことだ。
生きる指針であり、師である太宰さんがポートマフィアを出奔してより二ヶ月後。僕はある存在を任務の合間を縫って探索していた。それは、ポートマフィアの幹部や日本政府までもその動向を注視する異能者。
欧州においても数名しか確認されない魔人と謳われる者。この日本という小国に二人とおらぬ特級の怪物。怪猫、化け猫の魔人、戦争を生き抜いた強者。魔都ヨコハマに棲まうといわれる魔人“夏目漱石”。
ヨコハマにおける最強の存在と風の噂を耳にした僕は、ポートマフィアとは別にその魔人を追うことにした。魔人とさえ呼ばれる強者を屠ればあの人も僕を認めてくれる。その一心で魔人の足跡を追いかけた。ポートマフィアの情報網も使わず、単独で動くことは相当の重労働、加えて非効率な点が目立つ杜撰な情報収集だったろう。
情報収集という専門性が高く、僕には不本意ながら適正のない作業は困難を極めた。
日々の任務とて決して片手間でこなせるモノではなく、幹部の方々より目を付けられることを防ぐため派手な行動は控えつつヨコハマの闇夜を駆ける。情報を買い、時には一般人の情報通や新聞記者に顔を隠して接触もした。チンピラやごろつきを脅し、悪徳に身を浸す官警とも関わった。
自分に向いていないことをするのはひたすらに苛立ちが募る。己が半身ともいえる銀にさえ黙っていたのだ。信頼のおける存在にすら、目的を隠匿することは精神的に大きな重しと成った。
だが、太宰さんがいなくなっている現況で何もしないという苦行よりも適正のない情報収集の方が幾分かマシだ。最強と嘯く魔人と一戦を交えるという目的に向かってひた走ることは精神の安定にも幾らか役立ったのかも知れない。
ようやく夏目漱石に関わりがあるという女、“鷺沢文香”。そいつに夏目漱石の居所を行くために待ち合わせたビルの屋上、あの女は出会った時から纏っている
「申し遅れ、そして欺いてしまいすみません。吾輩こそが君の探す異能者、夏目漱石です。以後、お見知りおきを」
「……なに?」
寝耳に水、晴天の霹靂か。呆けて脳裏に浮かぶのは疑問の濁流。しかし、そんなことはどうでも良かった。心にあったのは、今まで血眼で探し求めていた獲物が既に手の届く範囲にいたこと。自分の間抜け加減を笑い飛ばすように腹を抱えて笑う。
笑い終えた僕にあったのは純然たる殺意だけだった。衣服が刃に変じ、鷺沢、いいや夏目漱石を葬らんと奔る。
だが、戦闘はあっけなく決着した。それは戦闘と呼ぶに値せず、ただただ怪物が野良犬を嬲っただけの蹂躙である。外套の刃を徒手格闘で受け流され、純粋な体術で上に行かれた。
ヤツの牽制程度の掌底でも、胴体にもらったときは肋骨や背骨をまとめて粉微塵にされたかと錯覚したほどだ。
空間を喰らい敵をも食おうと迫る羅生門にヤツは縦に構えた左拳で対応。断絶された空間を無視するように拳がみぞおちに命中。
空間を喰い千切る異能によって生じた現象に徒手空拳で対応されたことに唖然としたことで思考に空白ができる。あれはなんだ、あれは異能か?それとも純粋な体術?バカな!?戦闘中には致命と言える思考によって出来た隙、右脇腹に拳が打ち込まれた。空間が断絶した状態で、絶対に届かないはずの攻撃が命中するという異常事態。
肉体を内部から溶かし崩すような痛み、肺に蓄えられていた酸素が全て吐き出される。だが、拳打の衝撃で大きく吹き飛ばされ距離が空いた。元より僕の異能は殴り合いの距離では真価を発揮しない。近距離戦もこなせないことはないが、やはり中距離の間合いが自身の独壇場。
自らが意図したことではないが、僕に有利な状況に持ち込めたと愚かな錯覚を起こす。
その錯覚を嘲笑するかのように魔人は“やたらと視線で追いにくい上に遅く感じる”不可思議な歩方で接近してきた。だが、懐に潜り込まれるより先に間合いを作るため羅生門の刃を網目状に広げる。当然のように避けられるが、刃で作られた網を狭め逃走経路を限定した。
逃げ場を限定したことで夏目漱石の行動に枷を嵌めたと次の行動を予測しながら、刃を研ぎ澄ましていく。
しかし、怪物は僕の想定した逃走経路に見向きもせず、ただ僕の正面、刃の網の中央部に突っ込んできた。
血迷ったか、そう思い浮かんだと同時、夏目漱石の姿が視界から一瞬消えた。咄嗟に羅生門の刃を身に纏う。刃の鎧、触れれば攻撃者を応報の刃で切り裂く攻防一対の鎧。夏目漱石の姿が視界の端に映る。人体から生み出されたとは思えないほどの急加速。
その加速の勢いを殺さず、ヤツは鋭く尖らせた右肘で既に攻撃を受けていた右脇腹に一撃。硬い物質の砕け、折れる破砕音。体がくの字に折れ曲がった。歯を食いしばり痛みに耐える。更に右肘撃ちを命中させた箇所を起点に夏目漱石は躍るかのように体を回転させ、獲物を喰らわんと奔る蛇蝎のごときしなりを見せる左足の蹴りが放たれた。
蹴りの打ち込まれた箇所については認識さえ出来なかった。
意識が途切れ地面に背中から倒れ込み、その衝撃と痛みで目を覚ます。
蹴撃の出力など人間のモノとは思えない。凄まじい空気の破裂音。もはや、重機のそれに等しい威力。生身とは信じられぬ衝撃。それだけが脳細胞に残された敗北の瞬間の光景。
崩れ落ち這いつくばった僕は首を右手で掴まれ押さえ込まれている。
積み上げた戦闘の経験値が桁外れだ。歯を噛みしめて足掻こうとするが異能を発動させる余力すら、指を動かすこともできぬ有様。これまでかと奴を見上げ、渾身の殺意を込めて睨み付ける。
「まったく、年若い青年がこうも夜遅くまで遊び歩くなど褒められたものではありませんよ」
「黙れ、知ったような口を……」
首を押さえつける魔人は、頸骨を折ることもなく僕を観察するように目を細め、あまつさえ笑みを浮かべていた。興味深そうに、まるで実験動物でも見るかのように次の動きを観察している。
全身の痛みを忘却させるほどの激情。
憤死しかねないほどの屈辱、脳髄を焦がす憤怒が僕を襲った。
「君のような半人前が夜遊びなぞ、百年早い。その鈍「なまくら」の魂を研ぎ直して出直しなさい」
「敗残者となった僕を生かし……見逃すと?ふざけるな!」
怒りが精魂尽きた心身へ活力をもたらし、“羅生門”の刃が吠える。
牙を剥く羅生門、それはあまねく全ての敵、有象無象を屠ってきた己の半身。
完璧な不意打ち、完璧な命を奪う感触。思わず浮かべた暗い笑み。
だが、驚くべき事に夏目漱石は死角より迫る羅生門の顎に目を向けることなく反応し捌いて見せた。
僕は己の想定の甘さを激怒と共に痛感する。
相手は素手で羅生門の牙を捌いたバケモノだ。たかが不意を突いた程度で、命を奪ったと錯覚するなど未熟の誹りも当然。だが、このまま敵の情けで生きるなど何もなせぬまま落命することと同義。
せめて殺意の視線を向けるも、弱者の視線など強者にとって無価値。
あの時、僕の行動の全てはまさしく無価値そのものだった。
奴はそのざまを見て、自分の左手を猫の手がごとく丸め僕の心臓の上に手を置いた。
「吾輩の情けで生きるなぞ、ごめん被ると?なるほど、面倒ですね。生かされるくらいなら殺せと喚く愚物でもなく、かといってここで吾輩に一泡吹かせるほどの実力もないとは。いやはや、年端もいかぬ青年の誇りは斟酌しがたい」
“それでは”と区切って奴は、僕の肉体に最悪の屈辱を刻み込んだ。
それは呪いだった、それは形を持った災厄だった、あれこそ魔人と恐れられる異能力者の異能だった。
変貌していく自身の体、今まで捉えていた五感が歪む。
視野が狭まり、腕、脚、体躯が縮んでいく。
「何を、なにをしたぁぁぁぁ!!鷺沢、いや夏目漱石ぃぃぃぃぃぃ!!!」
怒りの咆吼、それを何とも思わぬ顔つきで夏目漱石はふざけたセリフを口ずさんだ。
「ああ、まぁようするに君が夜遊びをできないようにしているだけです」
「ん、ぐう。に、あ、ゃが…………」
苦悶に喘ぐも、肉体の変貌は止まる気配を見せず、縮んだ体から黒い何か、毛髪のようなものが覆い隠すかのごとく生えてくる。頭部から何か、鈍痛が生じる。頭蓋骨の内部から何かが出てくるような感覚。
「門限は夜の七時まで。それまでは夜遊び、悪行、お好きなように。ただし、それ以降は人としての営みを禁じます。何、夜明けと共に戻るのでご安心なさい。さて、次に会うときはその錆び付いた
何を言っている、そう問いかけるより先に僕の意識は彼方へと消え、夏目漱石は去っていった。
この身に耐え難い呪いを刻みこんだ魔人、奴を追おうとするもそれはボス直々に禁じられてしまった。既に戒めを受けた身で挑んでも結果は変わらない、その事実を受け止めた上で僕は命令を受諾した。
必ずや報復と復讐を、と誓いを立て敗残の屈辱に甘んじた。
夏目漱石、忌まわしき化け猫め。
次に相まみえたときこそ純粋な殺意によって磨かれた刃を見るがいい。
必ず仕留めてみせる、僕を生かしたこと、その余裕を後悔させてやろう。
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少女は腰に付けた
髪を一纏めにくくり、口元を隠すようにマスクを付ける。これはある種の自己暗示の類いであり、実質的には何も性能面の変化はない。ただの長年の癖で、今もしなければ気が済まないといったものか。
しないと落ち着かないという点から言えば、精神統一の一環とも称せる。
最も、そんな真似をしても自分の実力に大きな変動があるわけではない。けど、異能者が多数住まう、この魔都ヨコハマでは自分の持てる力を最大限に持ちいらなければ生きていけない戦場。
気分、調子、時機が悪いといった言い訳は誰も聞いてくれない。
むしろ異能者ならざる身で異能者と渡り合うなら、あらゆる想定をしても不足なくらいだ。
ポートマフィアに兄さんと共に拾われて数年が経つ。兄さんはその持ち前の異能とポートマフィアを出奔した上司の薫陶のおかげか順調に組織内でも着々と力をつけていった。もし、過去に魔人と争い、猫の呪縛を受けなければより早く頭角を現したのではないかとも思っている。
いや、これは身内の欲目というものか。
兄さんの戦闘以外の能力は、お世辞にも高いと言えない。幹部ともなれば、戦闘以外にも部下の指揮や金銭、官警への手回しなど多くの雑事や大事に力を注がなくてはならない。それは現時点の兄さんには荷が重いだろう。
まして、兄さんは夕方“七時以降”は、まともに身動きがとれないのだ。
かつて、ヨコハマに住まう怪物より呪いの異能を受け、ポートマフィアでも問題となった一件。
兄さんはそれを恥であり、唾棄すべき過去と断じている。
これは秘密にしているのだが、私は兄さんが呪いを受けたことをそこまで悲観していない。
むしろ、“無理や無茶ができない点”や“手元に置いておけるという点”から便利とさえ思ってしまっている。もし聞かれでもすれば大層、機嫌を悪くするので本心を欠片も出さぬよう注意しているわけだが。
日が傾き始める頃合い、ポートマフィアを始め裏の稼業に身を置く者たちが本格的に動き始める時間帯。
それを見計らい、少女は動き出す。彼女の名は“銀”。
黒ずくめの装束を纏うポートマフィアの実働隊・黒蜥蜴が十人長の一人であり、知る者こそ少ないが芥川龍之介の実の兄妹である。
ポートマフィアの拠点である港の倉庫に脚を運ぶと、黒スーツを纏った男たちが忙しなく行ったり来たりをしている。銃の部品が入った木箱などを積み込んでおり、急ぎ運び出す必要でもあったのだろうか。
だが、こうして忙しそうな彼らを見ていると、例え悪行に走ったとしても生きていくのは難行だと思えて成らない。楽な人生なんて、この世界のどこにも存在しないのだ。金を使い切れぬほどに裕福でも、飢えて死ぬほど困窮していようと、十把一絡げな凡庸さを持つ者であろうと。
不幸の度合いこそ在れ、不平不満は湧いて出るものだ。
それは他ならぬ兄さんも同様に。
「芥川先輩、救急箱を持ってきました!湿布、絆創膏、包帯、消毒液です!どうぞ!」
「要らぬ……」
頬から血を出している兄さんと、その横で救急箱から色々と物を取り出し手渡そうとしている樋口さんが見える。
兄さんがかすり傷とは言え怪我を負った。つまり、それほどの実力ないし武装を有している敵の到来。なるほど急な荷物の運び出しはそれが理由かと得心がいった。そして、ここの荷物を運び出す人員とは別に幾つかのブービートラップを仕掛けている者を見るに、ここは直に戦場になる。
兄さんを迎えに来て本当に良かった。なにせ、七時以降の兄さんは戦闘能力ががくんと落ちるのだから。
樋口さんが兄さんに救急箱の中身を手渡そうとあまりに色んなものを取り出したせいで、両手がふさがり取りこぼしそうに……言う前に物を地面に落っことした。消毒液の入った容器が割れ、絆創膏は足下の水たまりに。その他のものも同じ運命を辿っている。
衛生面から見て、あれをそのまま使用するのは問題がありそうだ。
唯一、無事なのは包帯だが。どう見ても、顔のかすり傷に適した大きさの物ではなく、どちらかというと重傷者とかに緊急で巻くようなやたら幅広でおおげさな包帯だった。あれを顔へ巻こうものならきっと兄の顔をすっぽりと隠してしまう。
視野を好きこのんで狭めようとする者など、ポートマフィアはおろか一般人にも居まい。
足下の落としてしまった物を慌てて拾い集めている兄直轄の部下、そして私の上司である樋口さんを置いて兄は足早に倉庫の奥まった方に向かう。
「あっ!待ってください、芥川先輩。簡単な手当だけでも!化膿してしまったら大変なことに」
「要らん!!このようなかすり傷ごときに手当など。僕は擦過傷だろうが、骨折だろうが、四肢が千切れてようが明日には治る!!」
倉庫に反響する怒鳴り声。間近で聞いている樋口さん、それと無理に声を張り上げている兄が、心配になるほどの音量。事情を知らなければ単なる強がりとも思える発言。この言は事実でこそあるのだが、実態はそう便利な物でもないことを私と数名の幹部の方々は知っていた。
さて、一方で兄に叱られた樋口さんが半べそをかいている。
見れば見るほどに情けない格好である。
いや、しかしあれでも上司。上司なのだ。
問題のある上司など、この世に数多といるはず。
かつてポートマフィアより出奔し、兄を暴力とカリスマで教育したあの方も人格という点で問題があった。
うん、慣れてる。大丈夫、大丈夫。
……本当に大丈夫だろうか。
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そうこうしている内に、時計の針が七時を迎えようとしている。兄に定められた呪いの刻限、それがもうすぐ発動しようとしていた。所変わって倉庫の奥の方、人気の無くなったところに私と兄は向かい合って立っている。
芥川龍之介の日頃、纏っている殺伐とした空気は感じられない。
それどころか妹と向き合った彼の雰囲気はどこか申し訳なさそうな、肩身の狭そうな、居心地が悪いような。
端的に言うと、酷く困った表情をしていた。
「迷惑をかけるな……」
兄のふとした一言、おそらく思わずといった具合で意図せず口にしてしまった言葉だろう。
表情を見れば、それくらいは察することができる。
なにせ、兄妹だ。血の繋がりというものは強固でそしてお互いの深いところに根ざしている。
否と、首を横に振っている自分を不思議そうに見ている兄にありのままの思いを伝える。
「迷惑じゃないわ。元々、私の暗器を活かすのは夜の方が効果的。夜中に動くわけだから、こうして兄さんを迎えに来るのに支障は来さない。それに……」
一呼吸、置いて軽く微笑みながら本心を告げる。
「私たちは二人で家族。……家族に迷惑だとか迷惑じゃないなんて関係ないでしょう?お互いに助け合って今日も、そして明日も生きていけるの」
確かな家族としての情愛と共に語られる真実は、なんの飾り気もないむき出しの真実ゆえに凶つ意志を秘めた獣にもその意志と願いを届かせた。つられて笑う青年は、このときだけ凶相を薄れさせ年相応の青年としての顔を見せていた。
「分かった……では、朝まで頼んだ」
「ええ、安心して任せて。兄さん」
壁にかけてある時計の短針が七を指す。それと同時に兄さんの体に変化が起こる。まず、最初に生じる縮小、肉体を包むような発光と共にその変化は訪れる。小さく成り行く体、そして全身を覆う黒いもやが実態を持って彼を覆い隠す。瞳は今立っている此処からでは見えないが瞳孔は人体の物からネコ科の縦状の物に変わっていっているのだろう。
驚くべき現象、奇妙な光景、まるで化かされてでもいるかのような信じられぬ現実。
僅か数秒ののち、そこにいたのはポートマフィアにおいて恐れられる黒き異能力者ではなく、なんの変哲もない一匹の黒猫だった。初見はパニックを起こしそうな変化だったが、毎日見ていれば流石に慣れるというもの。
これこそ兄さんが魔人・夏目漱石より受けた“猫の呪い”である。
かの魔人が宿す異能“吾輩は猫である”。
兄さんはこの異能により夜の七時から朝の七時までを猫で過ごさなくてはならないという枷を嵌められてしまったのだ。特に、着る装束の面積によって異能の性能が上下する兄さんにはこの枷は致命的だった。
幸いなことに猫化している際は、自前の毛皮が衣服の代わりとして羅生門の展開に扱えるのだが、いかんせん絶対面積が小さすぎる。猫一匹の毛皮の面積と兄さんが普段から纏う外套の面積。
その面積差は大きなもので、猫化している際の戦闘能力は八割減と兄本人が評している。
呪いというだけあって。もたらされる不利益は枚挙に暇がない。
しかし、この呪いは思わぬ副産物を兄さんにもたらしていた。
いかに強力な異能を持つとは言え兄さんは、ごく稀に外部の武装集団や異能力者から痛手を被るときがあった。骨肉を削る日々、死線と修羅場を約束された任務。怪我をしない方がおかしい日常で、しかし魔人が与えた呪いはある副産物を兄に提供することとなる。
それは先に兄さんが口走った“翌日にはあらゆる損傷が治癒する”という物だ。
難しい理屈は私には預かり知れぬ事だが、どうも人間から猫へ成る際と、猫から元の人間に戻る際、兄さんが負った傷の全てが完全に治癒された状態となっているのだ。いわく、人間の状態と猫の状態には、生命としての連続性が働いていないらしく傷病の類が呪い「異能」の発動を起点とし復元されていることになっているそうだ。
何度、聞いても細かい事は兄さんと私自身が理解し切れていない。
要するに人の状態で負った怪我は猫になれば治り、猫の状態で負った怪我も人間に戻れば治るらしい。
不便なことに元々の持病は一切、治る気配がないことから兄さんの肺は悪いままだ。
まぁ、呪いなのだから利があるということだけでも儲けものだろう。
多くを望むのは贅沢だ。それにこの呪いのおかげで兄さんがどんな怪我を負っても七時まで生きてさえいれば完治することがわかっているため、今までよりも心配や不安が小さくなった。
不思議なことだが、私はこの猫の呪いに感謝さえしている。
兄さんが無事、明日を生きてくれる。そう確約してくれる呪い「祝福」なのだから。
足下の兄さんをそっと抱きかかえ私は倉庫を後にしようと出口へ向かう。
猫の兄さんを抱いて動くのは、不謹慎だがとても安心する。こう手元にいるということから絶対に無茶や危険なことをしない、できないという安心感、すごく落ち着き癒される。
ただ手元に抱えられている兄さん(猫)はいつも不機嫌で迂闊に撫でようものならボスや幹部の方々を除き、本気で爪を立てに行く。人間にもどってからも、しばらくは恨みに持つので撫でられないよう私が護衛をしなくてはいけないのだ。
主に事情を知らない人と兄さんのために!
“ニャ~”、物思いにふけり呆けていると足下にいた兄さんがこちらを向いて首を傾げ鳴いてくる。
どうやら、心配をかけたようだと思い頭を撫でつける。少し不満げに鳴き声を漏らすが、これくらいは役得というやつだ。兄さんにはどうか我慢してもらいたい。
黒猫を抱えた私を部下である者らは手を止め会釈をするが、手を挙げ気にする必要はないと無言で応じる。黒猫を抱いていることに疑問を持つ者はこの中に誰もいない。毎日、夕方から黒猫を抱いている上司を見かければ部下たちの対応も手慣れてくる。
そういう趣味か嗜好かと、察してもらえば詮索は避けられる。
何せ、ポートマフィアのトップに君臨するボスの趣味、嗜好からして迂闊に突っ込めないのだから。いや、下手に言及しようものなら、明日の朝には海底で魚のエサだ。上司の趣味をいちいち突っ込む部下も命がかかっていれば流石に見ないようにする。
“ニ~”、ぷにぷにした肉球を持つ前足、いや兄さんは人間なのだから手だった。
いや、手をザラザラとした舌で舐める姿は完全に毛繕いしてる猫にしか見えない。奇妙な話だが、完全に習性は猫そのもので本人も意識していないと猫同様の行動を取ってしまうそうだ。本人にこのことを指摘すると落ち込んでしまうのでそっと見なかったことにする。
黒スーツの強面たちが猫を見て顔を綻ばせているが、その正体が部下たちに恐れられる兄さんだと思うと真実は時に人を傷つけるのだなと、益体もないことを考えてしまう。実際、猫なで声で今の兄さんに話しかけてきたり、
流石に事情を知らない彼ら、彼女らに対し理不尽だと思ってしまうので、私が助け船を出して無事に事なきを得ている。ちなみにボスにこのことを報告したら、一日中爆笑して明くる日の会議中も思いだし笑いをしていたらしい。
ポートマフィアの
これは兄さんには言えそうにない事実だ。
下らないことと笑わないで頂きたい。兄さんにとっては一大事なのだ。
猫の呪いは兄さんの一日の行動を大きく制限している。魔人が言うに夜遊びが出来ないようにと言うことだが、単なる嫌がらせの可能性も無視できない。兄さんはどうにか夏目漱石と再戦を果たし解呪をさせようとしているが、ボスから直々に夏目漱石を追うことを禁じられているため、この状態で生活を続けているわけなのだ。
「お~い、銀。この書類なんだけどよ、っと。そういやもう七時だっけか?」
何らかの書類を掲げ、こちらにやってくる鼻先に絆創膏を貼った茶髪の青年、立原道造。彼は私が両腕で抱えている
肩で身を丸くする兄さんは喉をごろごろと鳴らす。この光景に立原は驚きもせず、“それなら”と書類を手渡す。
「毎度のことながら、厄介な呪いっすね。芥川さん。まぁ、気を付けてくださいよ。夜中の状態じゃ、うっかり正体がばれちまったら敵対組織が雁首揃えて暗殺に来ちまいますから」
「ありがとう、立原」
数少ない兄さんの夜七時からの獣化の事情を知る一人である立原は、黒猫にぺこりと会釈をすると書類の内容を話す。ようは今回、敵対組織が計画するポートマフィア襲撃計画の情報らしい。改めて目を通しておくよういわれた書類を持って倉庫を後にしようとすると、肩をがっくりと落としたスーツ姿の女性が目に入る。
先ほど兄さんに怒鳴られていた樋口さんである。先ほどの一喝が相当、応えたようだ。
あの調子でポートマフィアとしてやっていけるか?そう疑問視させる振る舞いだが、あれでも上司だ。そっと会釈をして横を抜けようとすると。樋口さんが立ち上がり、こちらに歩いてきた。
少し首を傾げて怪訝な顔つきをした樋口さんはおずおずと話しかけてきた。
「あの……銀?前々から思っていたのですが、どうして飼い猫を危険なポートマフィアの職場に連れてきてるんですか?」
心臓が嫌な跳ね方をする。質問の回答次第で、この後で樋口さんが兄さんの怒りを被ってしまうことを懸念したためだ。
「あの~銀?応えにくいようなら別に無理にとは」
黙り込んだ私を前にあたふたと手を振って樋口さんは笑って、話を変えようとする。
気まずい雰囲気になりかけたところでこの場を丸く収められる方が颯爽とやってきた。
「何事ですかな?」
この緊迫した状況を見かねた広津さんがさも、今ちょうど現れたかのように会話に入ってきてくれた。
「あ、いや大したことではないんですよ。ただ、時々、銀が猫を抱えているときがあるじゃないですか。いくら、猫ちゃんが可愛いとはいえ、危険な職場にまで連れてくるほどとは。何か、事情があるのかな~と思い、質問していたところでして」
樋口さんの口から“猫ちゃん”という単語が出てきたとき、肩の上で兄さんが
多分、樋口さんを怒るような言葉なのだろう。黒猫が樋口さんを睨み付けているのを見て、私と広津さんは冷や汗をかきながらもお互いに目配せをする。
“どうにか誤魔化して頂きたい”
“委細承知”
お互いに黒蜥蜴の任務によって磨き上げられた無言の意思疎通は、一切の誤りなく互いの考えていることを正確無比に伝達する。戦場で磨かれた技術の活用される
「そうだ!いま、近所でペットのお世話をしてくれるお店があるんですよ。ほら、これ!」
キラキラと目を輝かせ、樋口さんはペットを預かり世話するという内容が書かれたペットショップのチラシを見せてくる。
善意でやってくれたというのは分かる。しかし、間というか、状況が悪い。
行動の十割を善意で占めているのだが、結果として碌でもない方向に事態が転がってしまうのは流石に如何ともしがたい。案の定、腕の中の兄さんの怒りの声が漏れてしまっている。
“フシャャァァァ”
明日の樋口さんが心配になるが、私たちの心配を余所にチラシの店の情報を矢継ぎ早に教えてくれる。
「……樋口殿、この黒猫は銀の飼い猫などではありません。この猫は組織の情報の運び屋です。伝書鳩の様に訓練の施された動物で、上から秘匿性の高い情報はこうやって動物が誰の目にも止まらぬよう運んで来るのです」
「ええ!?それはすごいですね、まさか動物に情報を運ばせるなんて……でも、あれ?私のところには動物が情報を運んでくることなんて今まで一度もなかったような?」
「単に部署としての違いでは?樋口殿や芥川殿の所属する部隊と、我々、黒蜥蜴では情報伝達の手法も大なり小なり異なるのでしょう」
“はぁ~”などと感嘆の頷きを行っている樋口さんに、広津さんがでたらめを吹き込んでいるのを余所にそっと、気配を殺し音なく上司の前から姿を消す。すると腕の中で兄さんがぐったりと体重を預けてきた。
疲れたと、言外に示す無防備な姿は、自分に対する信頼を証明するようで、銀の足取りも軽くなる。今日の任務は既にあらかた済ませている。邪魔にならないよう結んでいた髪をほどき。仕事用の服装から普段着へ着替えた銀は猫になった兄を抱え、帰路につく。
抱えた兄である目つきに険を持つ黒猫に晩ご飯は何がいいかと聞く。“にゃ~”、
その時の彼女の表情は花開くような満面の幸福の笑みを浮かべていた。
花の咲くような笑顔を浮かべた彼女を偶然、在る事件の証拠集めのため用いていた街頭監視カメラで見た男が銀に惚れ込むわけだが、それはまた別の話である。