双黒、十五歳を征く 二
擂り鉢街の一角で轟音が響いた。あばら屋が数軒、将棋倒しに崩れていく。
地面が空に落ち、天からは建物が降ってくる。
瓦礫が凄まじい勢いで生産される戦場で、太宰はひたすら見に徹していた。
おそらく、自分の上司であるポートマフィア首領、森鴎外を除けば最高位の戦士たちの戦い。
「おらぁぁぁ!!」
「覇っ!!」
互いの懐に入りこみ、一歩も引かず攻撃を繰り返す。息吐くことすら困難なほどの速度で拳と蹴りがぶつかり合う。重力と斥力、互いに相似の異能と近似の武術。完全に拮抗していた戦闘は、千日手になりつつあった。
このままでは埒があかないといった状況で、それでも彼らは互いの戦力の把握をほぼ完了させていた。
「その斥力の異能、どうやら手の先からしか出せねぇみたいだな。だが、その威力と発動速度、まったく大した腕だよ、じいさん」
「こちらは戦闘を楽しむほどの若さはない。そして大した腕とはこちらの台詞だ。重力操作、欧州の異能力者で同じ異能を持つ者がいると聞いたことがあるが、実力で言えばそれに拮抗しているのではないかな」
軽口が交わされ、ようやく嵐のような戦闘が一時、停止する。
それは、これ以上の戦闘は自身の必殺の手札を開帳する羽目になるという確信によるもの。
「は、ますますわからねぇな。あんたが守るほどあの包帯もやしが役に立つと?」
「戦闘技能のみにしか目がいかないとは、青いものだ。あの方はポートマフィア首領の肝いり、戦闘力だけでは真の脅威というものは判断できんよ」
「へぇ、そのなまっちろいガキがねぇ」
「ガキなのはお互い様だろう。特に君は背丈だけ見れば僕より幼く見えるんだけど」
「んなっ!?テメェ、誰が幼いだぁ!」
太宰の方を振り返り、苛立たしげに応じる最中、広津は土埃で汚れた服装を静かに整え出す。
「僕から君へありがたい
「るっせぇ!おれぁ十五才だ。これからいくらでも伸びんだよ!」
「そうかい、では僕が予言しよう。僕も同じ十五でこれから成長するだろうが、君は大して伸びない、と」
「くそが、この爺さんの相手が終わったら、粉々にしてやる」
怒りを静かに込め、中也は相撲の四股のように片足を上げて地面を沈み込ませるように踏みつける。普通の四股踏みと違うのは、その破壊力。重力の増加で増した破壊力は、擂り鉢街そのものの地盤を僅かだが沈下させるほどの威力。
重力の強化で威力の増した四股踏みののち、彼は手を左右へ大きく広げた。
不知火型、真っ向からかかってこいと言う無言の意思表示。
「来いよ、組み打ちと行こうぜ」
「剛毅なことだ。なるほど、まさしく威風だけを見れば王と呼ばれるのも頷ける」
広津の呟きに太宰は己の記憶から擂り鉢街の勢力図の情報を思い出す。
「なるほど、未成年の略奪や抗争、人買いへの抵抗のため未成年の子供たちが集って造られた自衛組織、“羊”。その組織の基本戦略は専守防衛。犯罪、武装組織の入り乱れる擂り鉢街でそんな甘い戦略の組織に今や逆らう者はほとんどいない。羊の領土を侵した組織は、必ず激烈な逆襲を受ける。羊のリーダーであるたった一人の異能力者にね」
リーダーという言葉が出たところで中也の顔に苦い色が移るが太宰はそれを知った上で話を続ける。
「そうか、君が“羊の王”、重力使いの中原中也か」
羊の王、その言葉にうんざりしたような中也は臨戦態勢を解いて棒立ちで太宰の言に否を唱える。
「俺は王なんて柄じゃねぇんだよ」
どこか冷めて気落ちすらしたような立ち姿からは明らかに戦意が薄れ去っている。
その弛緩した状況を動かす形でポートマフィア側の闖入者たちが現れる。
「動くな!」
全方位からの敵意と怒声と共に数十に及ぶ銃口の照準が中原中也に向かった。
「へぇ、愉快なこった。てめぇ、そんな陰気な成りで大した人気者みたいじゃねぇか」
中也は自分に向けられた殺意と殺傷性を持つ武器を目の当たりにしても平静を保っている。むしろ、この状況を楽しんでいるかのようにさえ見受けられる。いや、この少年にすれば、この状況は危機にすら入らないのだろう。
それを誰より早く察してか、広津は静かに片手を上げ、部下たちに行動の停止を示唆する。
「下がれ、お前たち。この小僧に銃火器は通じん。何より、そこらは邪魔だ。巻き込まれたくなくば、死ぬ気で下がれ」
広津が脚を大地へ叩きつける。震脚、空気が弾けたように震動し、心臓と肌を奮わせる。
その脚捌きに合わせ、左拳を握り真正面へ向け縦拳で構える。もう片方の手は柔らかに開かれてこそいるが、両手のどちらにも色濃く纏わり付く死の気配。中也は口角を大きく上げて歓喜に震える。
ここまでの練り上げられた強さの持ち主とやり合うのは、晩香堂を出て以来だと。
まず先手として広津が中也の間合いへ踏み込んだ。
硬く握られた拳、中也は反射で防御に移るがその防御を抜け正確無比な拳が連続して刺さる。
攻撃の動作を中也は完璧に見抜いていた。しかし、見抜いてなお防御を抜け突き刺さる正確無比の攻撃。
まるで精緻な時計のようだ、と中也は臓腑を焼く痛みをかみ殺し理解に努めていた。
高い技術を以て構築された絶対に狂うことのない時計を思わせる広津の手腕。
歯車のごとき精密さで、攻撃という名の秒針が獲物を貫く。
完全に無くしたはずの隙を自らの動作で生み出し、時刻を示すかのように当然と人体の急所めがけて致命の一撃が飛んでくる。
「異能の相性はいいのに、このザマじゃ格好がつかねぇな」
「未だに君を仕留められていないのだ、それも皮肉にしか聞こえんよ」
そう言って広津は大きく右手を振りかぶる。あからさまな大振り、嫌な予感、まずいと本能のささやきの言うままに中也は大きく後退する。しかし、それは瞬時の判断としてはいささかに甘い行動だった。
広津の振りかぶった腕が、背筋のしなりと力みによって絶大な破壊力をため込む。
ぎりぎりと引き絞られた弓のような音を少し出したのち、広津の砕式が放たれた。
師匠である夏目漱石の施した凄まじい鍛錬により広津の習得した素流。
この武術について夏目漱石が零した成り立ち。
いわく、“この技はかつて鬼が使ったものだ”と彼女は呟いていた。
なるほど、この異様にして絶大な技を身につけ生み出した者はまさしく人ならざる鬼に違いないのだろう。だが、それを教える者も、教えられ身につけてしまった者も、それはもはや人に非ず鬼と呼べるのではないか。
「破壊殺、砕式・万葉閃柳」
ほんのわずかな苦笑と共に万物必砕の拳が中也のどてっ腹に吸い込まれた。
広津は違和感を感じさせる手応えに笑う。重力操作で防御が間に合ったか、おそらく衝撃は半分ほどが殺されたはずだ。これでは肉体を破裂させることも叶わず、せいぜいがあばら骨に罅を入れる程度だ。
いいや、あばら骨は犠牲にしたのか、あばらに罅を入れさせることで衝撃を最大限に殺し反撃に注力したようだ。重力の防護を為した中也は下半身の可動のみで広津の側頭部に蹴りを叩き込む。
不安定な姿勢、上半身は衝撃を減するがため重心操作に用いられなかったため、最大効率の破壊力ではなかったが、それでも視界の焦点がぶれてしまう。
仕方がないと、広津は拳の当たった状態のまま中也ごと拳を地面へ叩き落とす。
中也の噛み合わせた歯の軋む音が聞こえる。
それと同時に余波で周囲の人間が吹き飛ばされ、周囲を取り囲んでいたポートマフィアの包囲網と人員が半壊する。ざっと、立っている面子だけでも半分以下、巻き込まれただけだというのに凄まじい損耗に太宰は苦笑いを隠せない。
「まったく、広津さんってば少しは加減してくれないと困るよ」
そう独り言を口走った太宰少年は悠々と安全圏へ退避済みであり、しかもその退避先が広津と中也の戦闘を俯瞰できる高所であっただけに抜け目がないというか、人並み外れた戦況把握能力だ。
余波で吹き飛ばされたポートマフィアの構成員たちは全員が、“おお”と戦慄と感嘆の声をあげ浮き足立つ。何せ、悪名だかい羊の王を仕留めたように見えたのだから。
「はいはい、油断しない。まだ終わってないよ」
太宰の注意を聞いて、武器を構えている人員は広津の側頭部から流血が一筋、一本線を引いて垂れていることに遅れながらも気づいた。
「まさか、あんな破壊力の一撃をもらって、反撃するとはね。あんな破壊力を異能有りとは言え出せる広津さんもそうだけど、つくづくおっかないな」
中也にわずかでも隙があれば、ここで異能無効のため中也に接触しようと動いたろう。けれど、あの少年には寸分の油断もなく、のこのこと接触できる距離にまで行けば人質になって広津の枷になりかねない。
いいや、人質になるならまだましか。
あれの触れられる距離に入れば、背後だろうと正面だろうと反射の領域で話す間もなく一撃をもらうはずだ。
従って、広津の援護に当たる案は現状では存在しない。
広津と中也の拳を交える間合いは、常人では踏み込むこともできない
そして、その領域内で事態が推移する。
そう、広津が手札を切った以上、中也も己の技を開示する覚悟を整えた。
すなわち、中也が必殺と呼ぶに足る技巧の開放。
「天地万物に吸引の力有り、これなる作用を引辰、力を辰気と称す」
重力場が変動する。目に見えて、恐ろしく禍々しくとてつもないものが動き出す。
周囲で先ほど広津の攻撃の余波にさらされたポートマフィアの人員たちから血の気がひいた。それどころか、高みの見物をしていた太宰が立ち上がって退避経路を探し始める。そう、言語にはできないが生物の本能が明瞭に告げていた。
“あれはまずい”
例えるなら、大雨によって崩れだそうとしている崖の下にいるような気分だ。
確証があるわけではない、ただ場の雰囲気や視線に入る違和感が伝える。
ここで立ちすくんでいれば、死ぬぞという事実を。
しかし、中也の必殺の技はここで開放されることはなかった。
中也が腰を落として居合いのような構えを取ろうとした時、黒い焔が衝撃波を伴ってこの戦場をまるごと吹き飛ばしたのだ。
ちょうど、退避していたポートマフィアの人員たちが吹き飛ばされ、二人の異能力者が生産した瓦礫、地面、景色の全てをなぎ払い破壊していく。真っ黒な衝撃波が目に映る形持つ全てを蹂躙していった。
吹き飛ばされた太宰は空中で当然のごとく、飛び上がっていた広津さんに小脇に抱えられ回収されていく。
ゆっくりと地面に向かって落ちている間、太宰と広津、そしてこの場にいる全ての人間は確かに目視した。
虚像でも幻覚でも、なんらかのはったりでもない。
地獄で焼かれた死者の灰のような白髪、轟々と燃えさかる炎のような一対の双眸。
数多の死と暴力、悪徳と邪悪を刻んだ悪鬼の面相。
黒い炎の中でなお、悠然と佇むそれは魔よりも魔と呼ぶに相応しい。
獄炎を外套のように纏い、この世の摂理を踏みにじるように揺るがず存在している。
「先代だと……」
太宰の戦くように発せられた声をかき消すように、黒き炎は周囲を再び包みこみ太宰はそこで意識を落とした。
鈍痛が脳内を激しく揺さぶる。痛みでおちおち寝ても居られない。
太宰は嗅ぎ慣れた消毒液の匂いと痛みに煩わされて目を覚ました。
「ああ、太宰さん。目を覚まされましたか」
病床にて目を覚ました太宰は、傍の椅子でしゅるしゅるとリンゴを剥いている広津さんが視界に入ってきた。剥き終えて数等分に分けられたリンゴは、皿に盛りつけられている。
「広津さん、絶望的にリンゴ剥いてる姿が似合ってないね」
「まぁ、味が変わるわけでもありますまい。食欲がありましたら、どうぞ。そして、動けるようになりましたら、最上階へ。
「森さんのところへ?」
右腕がギブスで固定され使えなかったため、左の手でリンゴをひとつ口に放り嚥下して、黒のコートを羽織る。頭部には包帯が巻かれており治療は完了していたようだ。広津が咄嗟に回収したとはいえ、戦闘とあの荒覇吐の余波を被った結果が今の体に刻まれていた。
「状況は?」
先ほどまで病床に沈んでいたとは思えないほどの迅速な思考回復速度。
広津は素早く原状回復した上司の要求に即座に応じる。
「先代を目撃した構成員たちには情報封鎖を、もっとも目撃者が多いゆえ完璧な口止めは難しいでしょう。交戦中だった中原中也はこちらとの交渉を望んでおり情報交換のため、ボスの元へ向かいました」
中也の話題になった途端、嫌そうな顔で太宰は肩をすくめる。
「げっ、正気?あれ、その気になれば、この拠点を潰しかねないでしょ」
「でしょうな、しかし交渉と情報交換が終わるまではボスも中原中也も、互いに荒事に臨もうとはしないかと」
ここで自分の上司である森鴎外を一切、案じていないところが森鴎外の強さの証明でもあった。少なくとも、太宰にとって森鴎外は無謬の怪物だと信じていた。
そして、広津も森鴎外を心配することは無意味だと断じていた。自分よりも恐ろしい怪物にそのような心配が必要とは思えない。なぜなら、森鴎外は師である夏目漱石より、晩香堂史上、もっとも殺生に特化した怪人であると評されたのだ。
軽快な音を立て目的地である最上階で扉を開いたエレベーターから降り、太宰と広津の両名はポートマフィアの拠点中枢、最上階のボスの部屋の扉を開く。
「ああ、太宰君いらっしゃい。待ってたよ」
「なんだ、てめぇくたばってなかったのか」
「それはこちらの台詞だ、というかがっかりの度合いで言えば僕の方が落胆してる。なんで死んでないのさ」
「るせぇ、それに気落ちしてるのはこっちの方だ。てめぇなんで生きてやがる。とっととくたばりやがれ、鶏ガラ包帯小僧」
「あーあー、ほんと無駄に元気だね。僕なんか見たまんま大怪我でうんざりなんだけど、その活力はなに?成長期?それとも脳みそと身長に割り当てられる栄養が全部、その元気さに振られているわけ?」
広津が軽く咳払いをしてボスの前での言い争いを止めようとするが、二人の口げんかは止まりそうにない。広津はボスの方へ視線を向けるが、どうやら彼も愉快そうに笑うだけで止めようとする気配がない。
そもそも、言い争いをしている中也の姿は異常なものだった。
両手脚に手錠足かせ、腕の部分は強固な鉄塊のごとき拘束具で閉ざされ、他にも船舶の牽引用の鉄鎖やら大型建築工事用の
常理から乖離した異常なる物質の拘束。すなわち、これも異能の産物である。
この三次元空間上から逸脱した既存法則に縛られない不可思議な物質、亜空間より引き出された異常物質。
すなわち、亜空間拘束こそ中原中也を今以て最大限に縛り付けている最優の拘束であった。
「いや、ひさしぶりの同門との邂逅だから二人で話そうと思ったんだけど、すまないね。なにぶん、今の私はポートマフィアの首領をやっていて、そうそう二人だけで話すことも出来ないありさまなのさ」
机の向こうで笑みを浮かべる森鴎外、彼の一挙手一投足にこの場の全ての人間が注視する。それは彼が単純に偉いとか強いではない。彼がその気になれば、この場の全ての人間が殺されかねないという生物としての本能によるものだった。
拘束されている中也も、拘束を行っている異能力者・蘭堂も、今入ってきたばかりの広津、太宰の二人も目の前で笑う怪物に警戒を怠らずこの場に立っていた。
「はんっ、それも邪魔が入ってうやむやだ。格好がつかねぇ。もっとも、あんたが俺を呼んだのもそれが理由だろ?荒覇吐、あの黒炎の怪物が誰の思惑の者か」
「まぁ、我々の一番聞きたいことは同じだろう。っと、その前に蘭堂君、悪いが外してくれるかな?」
中也と太宰の言い争いと森鴎外の異様な圧に埋もれる形で佇んでいた長い黒髪の男が讒言を零す
「首領、それはお勧めできませぬ。この小僧、危険などという陳腐な言葉では形容できぬ魔物です」
「いやまぁ、異能無効化の太宰君が一応来てくれたし、なんなら私もいるし、他にも手は打ってあるとも。とりあえず下がりなさい。蘭堂君自身の体調が悪そうだし、何より“拘束が意味を為してない”からねぇ」
蘭堂が、首領の言葉の意味をかみ砕く前に、論より証拠とばかりに平然と、あっけなく中也が動いた。
「なんだ、三味線を弾いていたのはお互い様かよ」
軽い破砕音が鳴る。軽やかな音を立ててあっさりと亜空間の拘束である赤き立方体はガラスよりも脆いかのように割れて虚空に消え去った。それに伴い、通常の物理的な拘束であるワイヤー、拘束具に鎖も砕け、あとには鉄くずが転がるだけ。
あっさりと砕ける拘束、確かにこれでは中也を縛り付けるなど時間の無駄だろう、なにせその気になればいつでも破り去ることが出来ていたのだから。
その時の衝撃は、この場に居た誰よりも蘭堂がもっとも大きかったろう。
広津に太宰は既に予測できていたし、森鴎外に至ってはそれくらいはできると確信を持っていた。
だが、中也という規格外の怪物の実力を見ても居ない蘭堂にとって、それはありえない事象だった。なにせ、自身の異能は亜空間というこの世の道理を無視する異能、それを平然と障子紙のように破り去り、平然としているそれはありえざる事象だった。
物理法則を無視した異能に平然と対抗する異能力者。
蘭堂は口を呆然と開き、この事態の推移に愕然としつつも判別しようと努めていた。
もしや、この少年こそ自身が探し求めたものかと思考が飛びかけたところで、退出を促され蘭堂は記憶の中で沈んでいた何かを拾い上げる前に呆然と最上階を下っていくのであった。
退出を促したときの一瞥が言外に蘭堂に命じていた。
“下がれ”と。
思い出しかけたことも刹那に冷め消えた。
あの青ざめた瞳に見つめられてはいけない。
あの目は異能や超常、奇跡の埒外にある。
そう、死ンでしまう。ヲわってしまう、消エテしまう。
なぜなら、私は一度戦友と共に任務に挑んだ際に…………。
“否、思考を止めろ”。
そうだ、今は一度ポートマフィアの支部へ戻ろう。ここは寒い、寒すぎる。
どうしてこんなに寒いのだろう、凍えてしまいそうだ。
ああ、これではまるで私の中から命の火が消え去ってしまったようだ。
蘭堂の退出を確認し終えて、森鴎外はさてと一息を入れてから中也たちへ向き直る。
「まぁ、情報交換と銘打っても聞きたいことは一つだけなんだよね」
「お互い様ってやつだ。どちらも卒業しても先生の手から抜けきれねぇとはな」
白の
森鴎外と中原中也、そして会話に混ざってこそいないが扉の傍に控える広津にも事の仔細は把握できているようだった。二人の会話の全貌こそ理解していないとはいえ、明晰かつ神算鬼謀の太宰は断片を集め、おおよその推測を終えていた。
晩香堂の出身、そこで共通する畏れるべき者。
異能力者専門の教師、極東に存在する“猫の魔人”、夏目漱石。
この情報交換の最大の論点は其処だ。すなわち魔人が絡んでいるか居ないのか。
「では単刀直入に行こう。今回の荒覇吐の事案。夏目先生の仕込みで動いているのかね」
「ちげぇ、つうか荒覇吐は昔、俺が始末した課題だ。今更、本物の荒覇吐が出てくるこたぁ有り得ない。むしろ、あの荒覇吐は先代の格好をしていたぜ。なにか、あるとしたら手前の方なんじゃねぇのか」
奇妙なそれでいて事態の確信に迫った言葉に、太宰は眉を寄せて中也の言葉の続きを聞こうとするが、それより先に森医師の言葉が会話を継いだ。
「いや、いまさら老兵に出しゃばられて困っているのはこちらなんだよ……まぁ、お互い今回の事案は夏目先生が絡んでいないと分かっただけで大収穫という体で納めようじゃないか。それじゃあ情報交換も終わったことだし、ここは一つ交渉といこう」
にこやかに笑う森鴎外に中也の本能が速やかに嫌な予感を走らせる。
「中也君、我々マフィアの傘下へ入り
「くたばれ」
嵌められた、虎ばさみの真上まで誘導されてしまったと理解したときには中也の顔は、苦渋に満ちていた。
「おや、ここで殴りかかってこないのかな。夏目先生の話では、君はそういう血気盛んなところがあるって聞いたんだけど」
「抜かせ、あんたのことは先生から聞いてんだよ。おおよそ、殺害という分野に長じた魔人の領域に沈んでいる一人だって。あの先生がこう評したんだ。もし全人類を皆殺す時間を個人間で競ったなら、あんたが最短最高率でやらかすだろうってな」
「やらかすって……いやそんな無意味なことしないと、何度も言っているんだけどね」
話の焦点は其処ではない。普通、やるやらないではなく全人類殺害なんて、やれないと口に出すのが常識だろうが。それに先生から聞いている、こういう勝ち誇った台詞を吐くヤツは勝利の算段というものを完遂してから発言するということを。
「人質でも取ってんのか?」
「ああ、察しが良くて助かる。とはいえ、これは君が強硬手段に走り、頭に血が上った時落ち着かせる目的で行ったに過ぎない。さっきは傘下に入れと言ったが、別に強制はしない」
当たり前のように口にされた言葉で中也は自分の武力がこの状況の打破に一切、貢献しないことを把握する。
「先代は確かに病没した。それに間違いはない。だが、かの暴帝は確かに蘇ったようだ。ならば、その裏を確かめることは互いにメリットがあるだろう」
「ふかせ、あんたには色々と後ろ暗い噂が立ってんだ。先代を始末したのはあんたかもしれないなんてのがな。たかだか専属の医師に首領の座を譲るなんて、いくら死の際で呆けてようと先代がそんな遺言を残すかよ」
晩香堂の出身者という事実だけを拠り所とし、確信を込めて中也は問いただす。
「あんたが先代を始末したんだろ」
「ああ、私が先代を殺した」
太宰が制止する間もなく、広津という外野のいる状況で秘中の秘はあっさりと開示された。
太宰は広津の挙動を慎重に探った。ここで不審な真似をすれば、広津を殺さないといけない。だが、中也と白兵戦を演じる怪物を上回るにはどうやっても一手が足りない。
後ろに控えているという位置関係上、刹那に殺しきることが出来ない。
どうするかと思考を回し始めたところ、広津はため息をついて諸手を上げた。
「そんなこったろうと思っていました。兄弟子の暗躍ですからね、それくらいは有り得ると思っていましたよ」
これまでの落ち着き、折り目正しい言葉遣いをはぎ取り、広津は完全降伏を態度として出していた。
「いや、すまないね広津さん。成り行きみたいな形で共犯にしてしまって。ただまあ、これからもポートマフィアへの貢献を期待するなら、ここで真実を明かしておこうと思っていたんだ」
「不意打ちで明かされても広津さんが困るんじゃない?僕も驚いて、広津さんをどうしようかって考えちゃったし」
「少なくとも太宰さんや兄弟子、……いえ首領を敵に回そうなど考えもしません。まだ生きていたいもので」
晩香堂で近接戦闘において自分はヨコハマでも上位の戦闘者として通用する程度には鍛え上げられたと広津は自負している。しかし、それも目の前の殺戮に特化した兄弟子と謀略と暗躍の天才、太宰を相手にしては何の意味も為さないと理解していた。
「わたしは浮き足だった下級構成員の引き締めをしておきます。幹部の方々については情勢の見極めで動かないでしょう。ただ、あまり時間がかかればどうなるか。何は兎も角、急ぎ事件の解決を」
一礼をして広津はそっと部屋を退出する。
これ以上、関わるのは危険と判断したからか、彼はこれからの事件には首を突っ込まないだろう。
そうなると、これからは自分一人で事件を解決しないといけないのかと太宰は自分に降りかかる負担に頭痛を覚える。
しかし、彼の思わぬ協力者の出現が彼の予想を鮮やかに裏切った。
「中也君、今回の荒覇吐の事件。共同調査という形で協力を要請しよう。君と私たちの追う荒覇吐は同一のモノに間違いない。互いにバラバラで動くのは効率が悪いからね、一緒に解決に尽力する方が両方に利益をもたらすだろう?」
「断ろうとすりゃ、仲間の命を盾に取るんだろう?」
自分は会話をする前の段階で敗北していたことを知った中也は、疲れたような仕草で天を仰ぐ。
「くそったれ……」
森先生は椅子に座り、太宰へ言葉を投げた。
「と、こういうように。この中で一番、優れた暴力を持つのは中也君だ。しかし、マフィアにおいて暴力は選択肢の一つでしかないのだよ。それしか選べない者は弱者でしかない。では強者とは、勝者とは何か」
森先生は太宰と中也、二人の目を見て教えてきた。
「それは選べる者だ。数多くの選択肢を持ち、その中から選べるだけの富んだ者を指す。選択肢の貧しい者は生き様も死に方も選べない。強くありなさい、己の選択肢を他者に譲らないために。そして、自分の選択肢を用いて合理性を
この場合、反抗という不利益を人質という不条理で押しつぶすことだと森先生は言った。
「でもさ、なんでそんなことを僕に教えるの?」
「さて、それは君が考えてみるといい。」
森鴎外と太宰の会話へ突っかかるように中也は声を掛ける。
「選んだぜ、共同調査、乗ってやる。だが、まずはてめぇらの情報を出せよ。動き出すのはそれからだ」
中也は選択した。自分の現状ではこれが最善と反抗心を噛み砕き飲み下す。
剣呑な眼光は利用されるだけでは終わらないと視線が雄弁に語っていた。
「いいとも。それじゃあこれから、よろしく頼むよ。心強い協力者君?」